第参刻 〈あかい糸みつけた〉
男の顔は、ぎょっと目を見開いて硬直していた。
動揺からか血管は傍目にもわかるほど大きく脈を打っている。過剰に供給される血液により、顔が一回り大きくなっていた。このままでは破裂しそうだ。
「……どうして戻ってきた?」
姿や気配はなくとも、少女は黎を監視しているはずだ。次はないと宣言してから何分も経っていないのに、何を考えているのかわからなかった。
空気でいっぱいになった風船のような赤い顔を振って、男はのたうち回る。そのたびに起きる柔らかいものが打ち付けられる音は本能的な不快感を呼び覚ました。
これでは言葉が通じているのかすらわからない。
黎は額に手を当ててため息を吐いた。
「何がしたいんだ」
力なく零した言葉に答えるように、男はのたうつのをやめた。
苦しげな眼差しでじっと黎を見つめる。
「……う、ぁ……うぅ……」
意味をなさない声を漏らすと、男の苦悶の表情が悲しみをたたえた。口の端からは粘り気のある血が溢れ出ていた。
伝えたいことはあっても、伝える術がないということか。
コレと問答をして時間を無駄にするのは賢い選択肢とは呼べないだろう。
黎は見切りを付けて血管男がいる草むらを後にしようとした。
「……っ!」
歩き出した途端、何かに足を取られた。やっとのことで転ばないようバランスをとり立ち止まる。
行くな、とでもいうかのように血管男の胴体が足に絡みついていた。
「何だよ。死にたいのか?」
黎の棘がある言い方に、血管男は全身を震わせて拒絶の意思を示した。
足を絡めとられているため黎まで揺さぶられる形になったが、なるほど。これは使えるかも知れない。
「協力してくれるつもりか?」
こくり。
男が頷く。血管男は視線を先ほどの窓に向け、全身を使って顎でしゃくった。
「あそこから入れって?」
こくり。
また血管男が頷いた。
「無理だよ。僕はロープを持ってない」
仮に持っていたとして、相棒である鴉の式神はロープを結び付けられるほど器用でもないし、黎を担ぎ上げられるほど力もちでもない。
先ほど確認した通り、三階まで壁を伝って登るのは黎の力では不可能だった。
それを簡単に説明すると、自分がいるではないかとばかりに血管男が全身をくねらせた。
いくら頑丈な妖とはいっても黎の体重が掛かれば千切れてしまいそうな危うさがある。まして、何が仕掛けられていてもおかしくない空間である。
落下への不安も相まって、黎は辞退の意を示した。
しかし、それを是としない血管男は黎の体にくるくると巻き付いてきた。
伸縮性のある胴体らしき部分で黎の動きを封じると、引きずるように強引に移動を始める。黎は驚いて抵抗を試みたが締め付ける力が強まるばかりでなす術がなかった。
黎を校舎まで連行すると血管男は拘束を解いた。そこで待っていろと言わんばかりの視線を向け、身をよじりながら縦方向への移動を開始する。
どこにそんな力があるのか、血管男はいとも容易く校舎の壁面を這い上がっていった。
先ほども頭を突っ込んでいた三階の窓へ頭を滑り込ませると、うめき声をあげた。
自分の身体をロープ代わりに使って這い上がってこいということだろうか。筋トレをしていない黎の腕は女子よりも細く、自身の体重を支えうるだけの腕力はない。
かといって血管男に黎を引き上げるだけの力もないらしく苦悶の表情はさらに歪んで見えた。
「ぎっ」
突如、血管男が大声をあげた。
目で追うのも間に合わないほどのスピードで教室の奥へと引きずり込まれる。
森の中に残されていた血管男の胴体がスルスルと窓へ吸い込まれ、続いて舌打ちが聞こえた。
「これだかラ厄介だョ」
紛うことなき少女の声に、黎の表情も自然と固くなった。
次はないという警告を無視したのみならず、血管男は彼女に抗おうとしているのだ。その舞台となる教室へ近づくことができない黎は、物音から推し量るしかない。
妖同士の闘いという滅多にお目にかかれない場面に居合わせながら、手も足も出せない自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。
――いっそ、呪符が壊れてもいい。式神を飛ばしてしまおうか。
黎の心に迷いが生じた。
呪符を作るのは師匠なのだから、作り直しを申し出れば大目玉を喰らうことは必須だろう。しかし、師匠ですら目にしたことがあるかないかという貴重な光景。それだけのリスクを犯す価値はあるのではないか。
思考を逡巡させている間にも、血管男の体はみるみる教室に飲み込まれていく。細い糸のような体は確かに意思を持ったものとして動いており、全体を使って脈動していた。
「ぐ……、いい加減ニしないかッ!」
狐耳の少女の苦しげな声が聞こえ、窓際に赤黒い塊が覗いた。
グロテスクなそれは一瞬ごとに形を変えながら蠢いている。
塊を突き破るように、しなやかで色白の腕が飛び出した。少女の体に血管男が巻き付いて絞め殺そうとしているのだ。
視界を奪われた少女はもがくように手を動かし、ついに窓枠を掴んだ。
「けひ、けひひ……」
少女が気味の悪い嗤い声をあげる。
縦横無尽に動き回りながら繭のような形を形成し続ける血管男は、彼女に構う暇もなく必死の表情で残りの胴体を引き上げていた。
その時だ。少女の指先が動いたかと思うと、窓が閉ざされた。
「ぎっ……、ぎぃぃぃぃぃ!」
血管男の絶叫が黎を襲った。
反対の窓枠に勢いよくぶつかった反動で再び僅かな空間が生じるが、血管男を一瞬ひるませるには十分な反撃だった。
締め付けが弱まった隙を見逃さず今度は落ち着いた様子で窓を閉める。
施錠まできちんとなされたようで、血管男がどれだけ暴れ、もがこうと窓は彼を解放しなかった。