第弐刻 〈あめだまひとつ〉
月の光を受けて、くっきりと赤い色が浮かび上がっていた。
紐と呼ぶにはやや細い、毛糸ほどの太さの糸だ。しかし、毛糸のように繊維が毛羽立っている様子はなく、つやつやとしている。
指先に触れた柔らかな感触と確かな温もりに手を撥ね退けた。柔らかい幼虫に触れてしまった時のような、むっちりとした湿り気のある感覚が手に残る。
糸のようなモノの方も驚いたようで、じたばたと身じろぎをして黎から離れていった。
ぶよぶよとしたそれは、ミミズのように地を這っている。一方は校舎へ、もう一方は空間が歪んだ並木道の奥へと続いているようだ。
今までその存在に気付かなかったことに我ながら驚きを覚えた。
――この糸を辿れば、あの並木の先も捜索できるかも知れない。
そんな考えが頭をよぎり、恐る恐る糸のような生物を手のひらに乗せた。これをつたって行けば、どんなに歪んだ空間でも戻ってこられるはずだ。
確信を得た黎の手の中で、直径〇・五ミリほどの糸は脈動していた。
軽く握った手から逃れようと暴れている。強く脈打つたびに、糸の内側を何かが流れ、循環していた。
――これは糸でもなければ、生物ですらない。血管だ。
気付いた瞬間に全身が総毛立った。とくん、とくんと規則的に流れる血液の終着点はどこなのだろう。
これは自分を迷わせるために少女が作り出した罠だろうか。
疑心暗鬼になりながら、血管を両手で持った。そして、引っ張ったり捩じったりして強度を確かめる。そのたびに、血管は抵抗するように手の中で暴れた。
拍動や血流の温もりが感じられるにもかかわらず、どう扱おうと傷一つつかない。生き物の血管にはあるまじき頑丈さを持ち合わせているようだった。
気味が悪いことには変わりないが、簡単に出血して辺りを血の海にする危険はなさそうだ。
確認を終えて黎は改めて躊躇した。
この血管の辿り着くところには、さぞかし巨大な化け物が待ち受けていることだろう。しかも、その化け物は末端と思われる血管すら傷つけることが能わないのだ。
戦って敵う相手ではないだろう。
並木の奥からは、生暖かい風が吹き付けてきた。姿の見えない巨大な化け物が息を吹き付けてきているような錯覚に陥る。
――向こうに行くのは危険だ。もし、校舎側の血管まで並木の奥へ来てしまったら……。
気が付いてぞっとした。
そうとなれば、目的地は絞られてくる。
校舎の方へと向き直ると、そこに少女がいた。
「けひ、見つかッたかイ?」
意地悪く笑うと、ピンと立った耳が震えた。その瞳は黎の手に握られた血管に釘付けになっていた。
これが正解か? と少女の動向に目が釘付けになった。
ギリ、と歯が鳴り、眼光が赤く変化する。憎しみに溢れた表情は、美しい素顔に似合わぬものだった。
怒りを纏ったまま黎の間近まで歩み寄る。
そして、黎の手から血管を奪い取ると容赦なく地面に叩きつけた。
衝撃は震えとなり、目で追うよりも早く並木の奥へと伝播していった。
「まったク、出てくるナと言っただろうガ」
少女の剣幕に圧されたのか、血管はビクリと跳ね上がった。そして、意思のある生物のように蛇行しながら並木の奥に吸い込まれていく。
長い血管の端は、校舎の三階にある窓から飛び出してきた。触手のように先端が丸くなり、そこだけ一回り太くなっているようだ。
ものの数秒で引き上げてきた血管の端を、黎は凝視し続けた。
そして、すれ違う一瞬、触手のような血管と目が合った。一回り大きな部位には、苦悶の表情を浮かべる男の顔があったのだ。
「――っ!?」
驚きで言葉も出ない黎を横目に少女は握りこぶし大の男の顔を蹴り上げた。スカートがめくれ上がり、色の白い太ももが露わになる。
「ゴフッ……」
男の顔は血反吐の塊を吐き出すと、並木の奥へと消えていった。
あからさまに苛立ちの色を浮かべた少女に、黎は訝しげな視線を向ける。
「次はなイからナ!」
草むらに向けて宣言すると、怯えたように木の葉が揺れる音がした。
「……あれは」
「オ前には関係ないモノだヨ」
苦々しく答えて唇を噛んだ。そして、男が吐き出した血反吐に手を伸ばすと、何かを拾い上げる。
赤黒い血は糸を引き、少女の指を汚した。
「興ざめダ。仕切り直しと行こウじゃないカ」
血に塗れた丸いものを親指と人差し指で摘まみ口へ運んだ。祖の流れで親指を唇になすりつけるようにして指についた血を舐めとる。
丸い何かを口の中で転がしたかと思えば、淫靡な音を立てて舐って顔をしかめながら嚥下した。
彼女の細い喉を飴玉大の膨らみが降りていく。その様子を、黎は不思議な気持ちで見つめていた。
それに引きかえ、彼女の方は満足したように喉を鳴らして微笑んだ。
「遊ぼウ。宝探しだヨ。探してゴ覧、人体模型。何かガ足りなイ、何かが足りナい」
歌うように告げると、その場で一回転した。制服のスカートが広がり、柔らかそうな毛で覆われた太い尻尾が現れる。
少女は体を摺り寄せると、尻尾を黎の足に巻き付けた。
「わかったなラ、何とか言っタらどうなんだイ」
「一つ聞きたい」
黎が切り返すと、少女は一瞬大きく目を開けた。前髪を掻き上げると、上目遣いで黎の言葉を待つ。
「その『宝』とやらはどこにある? 校舎の中か外か。中にあるなら、なぜ入れない? それとも、今お前が食ったものがそうなのか?」
「『一つ』と言ったのはオ前だネ。つまり、おれは一ツにだケ答えればイいわけダ」
にやりと笑うと、巻き付けていた尻尾を解いた。
「気付かないだけデ、入口はあル」
黎が瞬きをする間に少女の姿は消えていた。
大きな満月が傾き始める。辺りが薄暗くなったような気がした。
「さァ、早く探すんダ。刻限はアの月が沈ムまでだヨ」
脅迫じみた声に背中を押され、足を動かした。
彼女は入口がどこかにあると言った。証拠に、あの触手のような血管は三階の窓から出入りをしていた。
とはいえ、黎は窓枠のわずかな凹凸を使って壁を上ることが出来るほど身体能力が高くない。
――あの血管さえ残っていれば、ロープの代わりにして登ることもできたかもしれないのに……。
彼女の行動を恨みながら、最後にもう一度だけ草むらに視線を向けた。
そこには、性懲りもせず触手を伸ばしてきた男の顔があった。