第拾刻 〈おじさんとパフェ〉
いつも通りに残業をこなした俊彦は、間もなく日付が変わらんとする街の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
帰宅前の一服と、灰皿の備え付けられた公園に立ち寄る。この一連の流れまでが習慣として生活に染み込んでいた。
ベンチに腰かけ、鞄の中から眼鏡ケースを取り出した。仕事用の度がきつい眼鏡から、プライベート用のスタイリッシュなものへとかけ替える。
そのまま流れるように煙草をケースから出し、ポケットのライターを探った。ライターと共に出てきた携帯電話は、着信を知らせる緑色のライトを明滅させていた。
咥えた煙草に火をつけ、深く煙を吸い込みながら携帯電話を開く。ニコチンが体内に補充され、張り詰めていた緊張が緩んだ。
珍しいメールの送り主に、緩みかけていた表情が引き締まる。
「黎くん……?」
俊彦から連絡を入れることはあっても、向うから連絡がきたことなどなかった。それどころか、メールを送って返事がこないこともざらだ。
『面倒なことに首を突っ込んだっぽい。師匠には式神を送りました』
文面にあったのは、たったそれだけだった。
息子ほど歳の離れた少年だ。言葉足らずなのも仕方ないだろう。脈絡のない文章に辟易しながら、一人の人物に電話を掛けた。
「もしもし?」
『どうしたの? 俊彦おじさん』
三コールほどで愛理の暢気な声が応答した。
「寝るところでしたか?」
『まさか。受験生はまだまだ勉強中ですよーっ』
「それは……、邪魔してすみません」
『いいのいいの。おじさんとのお喋りは息抜きにちょうどいいから』
あっけらかんと言い放った彼女に、思わず苦笑を漏らした。灰皿のふちに煙草を当てて長くなった灰を落とすと、煙を大きく吸い込んだ。
「黎くんから連絡が入ってませんか?」
『あー、きてたよ』
「どういう内容でしょう」
『たしか、面倒事に巻き込まれたーとかそういう感じ』
かなり大雑把な説明は、同じ文面が送られたのだと考えれば納得できる。
短くなった煙草の火をもみ消すと、鞄を手に立ちあがった。
「息抜きに、ファミレスでパフェでもいかがですか?」
おかわり! と満面の笑みでウエイトレスを呼ばれ、さすがの俊彦も顔が引きつるのを感じた。
「愛理さん、夜中にその量を食べるのは……」
三つ目のパフェにスプーンを突きさした彼女をそっと咎めるが、幸せそうな笑顔を見せられては無理に止めることもできなかった。
「いいのいいの。糖分は脳の栄養なんだよ? それに――」
女の子の九割は甘いものでできているから、とのたまって、生クリームを口いっぱいに頬張る。
体重計に乗った時に悲鳴を上げずに済むようにと気遣っての忠告だった。ところが、脳が糖分でできている愛理には無体なことだったようだ。
「本題に移ってもいいですかね?」
「どうぞー」
真剣なまなざしをパフェに向けたまま、愛理がうながす。見かねた俊彦は、ウエハースを抜き取って口の中へ放り込んだ。溶けたアイスクリームが染み込んで、本来のサクサクとした食感はほとんど失われていた。
懐かしい風味を感じながら咀嚼すると、恨めしげな視線が突き刺さった。
「なんですか、僕が払うんだから一口くらい貰ってもいいでしょう」
愛理の視線をぴしゃりと撥ね退けると、黎からのメールに話題を戻す。
「黎は師匠から押し付けられた雑用に行ったんでしょ? 心配することじゃないと思うけど」
「雑用ですか?」
「うん。……もしかして俊彦おじさん聞いてないの?」
眉尻を下げた俊彦は、小さく首をかしげた。年頃の愛理がすれば可愛らしく見えるその仕草も、四十路を目前に控えた男がすると違和感を生んだ。
ずり落ちかけた眼鏡を押し上げて、愛理に説明を求める。
「公園で女性の惨殺体が発見されたとニュースになっていましたね。アレのことですか?」
「ううん。あれは歯が立たなかったの。だから、師匠が時間見つけて行くってさ。黎が任されたのは、その近くにいる弱いやつだよ」
パフェの盛られていたグラスを傾け、底に残っていたアイスとシリアルが混ざったものをかき込む。幸せそうに最後のひと口を噛みしめる彼女を前にして、俊彦はため息をついた。
一思いに飲み込んだせいで、愛理の細い喉をシリアルが下っていく様子がありありと見てとれる。その動きを俊彦の視線がなぞった。
「父さんには年を考えるようにお願いしないといけませんね」
「無理じゃない? 跡継ぎになるような能力のある人もいないしさ」
喉から下に目を向けかけて慌てて視線を彷徨わせた所へ、言葉による攻撃が襲った。泳いでいた瞳が、光を失う。
たしかに、俊彦の父は愛理や黎が師と仰ぐ人物だ。彼の家では代々力が受け継がれてきた。ところが、その力は年々薄れてきているらしい。
高祖父の代には今の倍以上の術を使いこなし、全国各地から協力の依頼が届いていたそうだ。だが、現当主である父もその力には遠く及ばない。
かなり前の代の先祖であるから、一部は脚色や伝説も混ざっていることだろう。それでも、俊彦自身の能力が父の半分に満たないことは事実だった。
長男であり、兄弟の中で一番能力を受け継いでいるのが俊彦だった。にもかかわらずこの有様なのだから、老齢の父が第一線を退けないのも仕方ない。
負い目に感じていることを指摘され、俊彦は目を伏せた。
「……ちょ、ちょっと、あんまり間に受けないでくれる?」
慌てて顔色を窺った愛理は、ポンと手を打った。
「そうだ、俊彦おじさんがあの女の子を倒しちゃえばいいんだよ!」
「黎くんだって敵わなかったんですよ?」
自分よりも才能を持ち、次期師範になるのではと噂される少年の姿を思い描いた。
彼の全身に痛々しい傷を負わせた相手に、自分如きが適うはずがない。
首を横に振り、不可能の意思を示した。
「そりゃ、おじさん一人じゃ無理だよ」
真顔のまま愛理が返す。「気遣い」という言葉を知らないような態度に、思わず苦笑いが漏れた。
「でもね」
口を開こうとした俊彦を制して、愛理が自論を展開する。
「一人では敵わなくても、皆で行けばなんとかなるかも」
「……ほう」
彼女にしては至極まともな意見だ。
門下生として父の道場に通うものは数多くいる。その中で、戦闘が行えるレベルの者は両手で足りるほどだろう。けれど、作戦次第では十分に勝機はあると思われた。
「その策、いただきましょうか」
「もちろん」
頑張って、とエールを送りながら、愛理はメニューに手を伸ばした。
何かの間違いだろうと目を丸くする俊彦をよそに、ウエイトレスに特大サイズの抹茶パフェをオーダーする。
「アイディア料。頭使ったらおなか空いちゃって」
デザートは別腹、などと言ったりするが、別腹に限度はないのだろうか。
四つ目のパフェをあっという間に平らげてしまった少女を前に、俊彦は戦慄した。