対決
◆
イーストパークホテルは緑地公園の一角に建つ、この町でも有数の高級ホテルだ。ライトアップされた白亜のビルは壮麗な佇まいを見せ、夜の闇の中にそびえ立っている。タクシーから降り立った僕は、上流階級のステイタスとも言えるその建物を見上げ、ひっそりと笑みをこぼす。今宵ここは、歴史に名を残す墓標となるだろう。
エントランスを抜け、オレンジ色の温かな光で満たされたホテルに入ると、まばらな客の姿が目についた。正面の大階段を観光客とおぼしき外国人の一団が上がって行き、ロビーでは背広を着た男達がソファに座って何事かを話しこんでいる。ちょうどチェックインを終えたばかりの老夫婦が、荷物を預かったポーターに案内されエレベーターへ向かうのとすれ違い、フロントに赴いた僕を四十がらみの紳士然とした男と、髪を短く揃えた生真面目そうな二十代の女が、輝くような愛想笑いを浮かべて出迎えた。
「いらっしゃいませ、お客様。チェック・イ‥」
「ここのレストランに」
紳士面のありきたりな応対を皆まで聞かず、いきなり用件を切り出した。さすがは高級ホテルのフロントマン。客の横柄な態度にも愛想笑いを崩さないが、目は口ほどに物を言う。笑いの消えた目を見ながら、僕は話を続けた。
「清水優奈と言う女が来てるはずだ。確認を取ってくれ」
「誠に申し訳ありません、お客様。当ホテルではプライバシーをお守りするため、ご予約状況等をお教えすることは一切できない決まりとなってございます。ご了承くださいませ」
口調こそ丁寧なものの、そこには拒否の意がきっぱり現れており、フロントの男は頑として譲らぬ態度で、冷ややかな目を向けてくる。
そうだ、これが世間の僕に対する反応だ。誰もが僕を憎み、蔑み、拒絶の意を露わにする。だが、それも今日でおしまいだ。ここへは、全てを終わりにするために来たんだ。
「ふんっ、使えねえフロントだなぁ。お前のような奴は首がなくなって当然だ」
はたしてフロントの男は、僕の言葉をどう受け止めたのか。彼はホテルマンとしては一流なのかもしれないが、生存のための本能を持ち合わせているかという点では猫にも劣るようだ。
作り笑いを浮かべていた男が、突然頭を押さえて苦しみ出すのを見るのは愉快だった。異変に気付いた隣の女が、心配そうに声をかけるが、男の苦しみ方は次第にボルテージを上げて行った。
爆発しろ!男の頭を見据えながら、僕は心の中で強く念じていた。苦痛に呻き、大声を上げ、いよいよ男の苦しみ方は尋常じゃないものになってきた。焦りを募らせ大声を上げるフロントの女と、異常を聞きつけた周りの客達が見守る中、ついに限界が訪れた。
バアアァン!
血と脳漿を勢いよく飛び散らせ、男の頭は炸裂するや、フロントの壁に赤い薔薇の華を描いた。鮮血はすぐ隣にいた女の顔を直撃し、声もなく固まった女は、そのままドミノ倒しの牌のように間後ろに倒れ込んだ。血飛沫はカウンターを越えて僕の顔やスーツにもかかり、その生々しい臭いと血の熱さに、気分が昂ぶるのを覚えた。
階段から降りかかっていた外国人の悲鳴と、ロビーにいた背広達の野太い叫びが、下手くそなハーモニーとなって広いホールに響き渡った。背広姿のうち、二人は恐怖の悲鳴を上げながら一目散にエントランスへ向かい、一人は呆けたような表情でへたりこんでいる。外国人共は尻に火でもついたような慌てぶりで、上階へ向けて引き返そうとするも、押し合いとなって何人かが倒れ込んでしまう。
はははっ、次は誰にしようか。いずれ警察が駆けつけるだろうが、それでも最上階のレストランへ行って彼女を殺すには十分な時間がある。もう一人二人血祭りに上げてから上に向かうとするか。
ひきつる様な悲鳴が僕の注意を引いた。見れば、先程の老夫婦が絨毯に這いつくばって、海で泳ぐかのようにもがいている。二つのスーツケースが寂しげに置き去りにされている所を見ると、ポーターはとっくに逃げたようだ。まったくこのホテルのサービスはどうなってるんだ。
近づくと、爺さんの方が鬼でも見たかのような悲鳴を上げて後ずさろうとするが、背中が壁に当たっているのに気付いてないらしく、ひっくり返った亀のように手足をばたつかせている。股間の辺りが濡れているのは、失禁したからだろう。情けないジジイだ。しかし薄情なのは婆さんの方で、たまぎるような悲鳴を上げたかと思うといきなり立ち上がり、一体どこにそんな元気があったのか、エントランスめがけて駆けだした。もっとも長年の連れ合いを置いて逃げた報いか、中程までも行かぬうちに派手にすっ転んで、膝を抱えて呻いてしまう。
決めた、次はあのババアにしよう。這いつくばって逃げようとする背中に近づき、再び意識を集中した。さぁ、てめえも汚え血の華を咲かせな!蛙の様な苦鳴を上げてババアが苦しみ出すのを見ていると、殺戮の興奮が歪んだ快楽を呼び覚まし、僕を狂気へと駆り立てて行く。戦場で残虐な行為を平気でする兵士がいるが、今ならその心境がよくわかる。血、死体、恐怖。ボタンを押せば簡単に人が死ぬテレビゲームのような状況で、まともな精神でいられるはずがない。
婆さんの頭が膨らんで、いよいよ爆発が間近に迫る。生への執着にあがく姿は、ロウソクの最後の灯火が如し。虫けらを見下ろすような気分で血の華が開くのを待っていると、背徳の笑いが込み上げてきた。高揚した僕はその時、誰かがホテルに入ってこようとするのに気がつかなかった。
◇
タクシーが走り去ると、泣きたくなるような気分が込み上げて来て、心の穴を一層広げる。
イーストパークホテルは、私にとって思い出の場所。就職が決まった時、両親がここのレストランでお祝いしてくれたのだ。あの時はこれからの未来を思い、不安と期待に胸をときめかせていたのに、まさか人生を終える相談をするため、再び訪れるとは思いもしなかったわ。
そんな沈んだ気持ちなど吹き飛ばすかのように、災厄は走ってやってきた。身なりのいい男が二人、絶叫を上げながらホテルから飛び出してくるのを見るや、私の中の失意は脅威に代わった。何かあったんだ。普段なら恐れをなして逃げ出すような状況も、今は違う焦りとなってのしかかってくる。ホテルの中にはお父さんがいる。その思いが、私をホテルの中へと駆り立てた。
高級感溢れるホテルの内観は、以前訪れた時と変わっていなかった。暖色系の明かりが大理石調のフロアを照らし、高い天井がホールをより広く見せている。いつかお金が貯まったら買いたいと思っていたマホガニーの調度や、艶やかなフラワーアレンジメント。そんな素敵な雰囲気を台無しにしているのが、床でのたうっているお婆さんと、それを見下ろす太った男。何が起きているのかわからないまま、その異様な光景に見入っていると、私の前で悪夢が再現された。
電車の中でカップルの頭が突然爆発したように、苦しんでいたおばあさんの頭が弾ける様に飛び散った。血の詰まった風船が割れる様に、紅い飛沫が四方八方に飛び散り、乾いた音を立てて頭蓋の破片や歯が石の床に散らばる。どこかこういうことが起きる予感があったものの、私はまだ信じられない気持ちでいっぱいだった。だって、私は何も言ってない。誰にも爆発しろなんて言ってないのに、どうして爆死する人がいるの?
首がなくなっても、海老のように身をくねらせていた身体がぴたりと動きを止め、どくどくと溢れる血溜まりが血の海を作っていく。虚ろな気分で顔を上げると、太った男と目が合った。どこかで見覚えのある姿だった。そうだ、あの電車の中にいたサラリーマンだ。そう認識するや私は全てを理解した。これをやったのは私じゃない。人を爆発させれるのは私だけじゃなかったんだ。この人がお婆さんを殺したんだ。しかし、それはこの上なくまずい状況であることを表していた。男の顔にへばりついた笑いのような表情を認め、戦慄が背筋を走り抜けた。
◆
その女がいつ現れたのかわからず、僕は一瞬うろたえた。ベージュのスーツの神経質そうな女に見覚えなどなかったが、ごく最近どこかで会ったような気がする。そう、あの怯えたような目をどこかで見た気がするんだ。
だが、逡巡はすぐに去った。これはまさに飛んで火に入る夏の虫ではないか。ちょうどいい、三人目はこいつにしよう。よく見れば目鼻立ちの整ったなかなかの美人だ。さぞや綺麗に弾け飛ぶことだろう。
僕は女の顔に意識を集中しながら、頭の中で強く念じた。
爆発しろ!
◇
「うああぁっ!」
不意に頭の中に異物をねじ込まれたような感覚に、私は強く呻いた。まったく今まで感じたことのない痛みに、頭が割れんばかりだった。何かわからないけど、ぼんのくぼの内側辺りに卵か何かが入りこんだようで、それが風船のように大きく膨らんでいくのが分かる。
本能が危険信号を発していた。これをなんとかしないと死んでしまう。だが、頭の中に手が届くはずもなく、ただ痛みに耐えることしかできなかった。パニックを起こしかけた私の前で、あの男がにやついていた。そうだ、これはあいつがやってるんだ、あいつをなんとかしなければ。
震える指を持ち上げ、私は男を指さして必死で叫んだ。
「ば、爆発しろぉ~!」
◆
「ぐおおぅ!」
突如頭にめり込むような痛みを感じ、堪らず僕は呻いてしまった。何だこれは、何が起きたんだ?
それは見えない巨大な手に、頭を鷲掴みにされているような感覚だった。容赦ない怪力は僕の頭を押しつぶそうとするかのように、恐ろしい力で締め付けてくる。息がつまり、女への集中力が途切れた。途端、頭を締め付ける力が増した気がした。
本当に何が起きてるんだ、もしやこれは力を多用した副作用か?
‥いや、違う。この女だ。今こいつは爆発しろと叫んだ。この痛みの原因はこいつだ。
「ばくは‥つ‥、うあぁ、び、びゃくひゃつしりょ~」
女がまた叫ぶと、壊滅的な力に押し潰され、頭蓋のきしむ音が聞こえた。
‥死ぬ!
現実的な恐怖が僕の心を奮い立たせた。駄目だ、駄目だ駄目だ、死ぬのは駄目だ!
「くおおぉ、ば、爆発しろぉっ!」
生命の危険に、僕は途切れそうになる意識を必死でつなぎ止め、女の頭を吹き飛ばそうと念じた。強く、強く!
◇
「ぎゃう‥ぁあああがあっ!」
どんどん膨らむ頭の中の風船が、脳を圧迫して私を狂気の縁へと追いやっていく。もはやものを考えることなどできなくなっていた。目の前が真っ赤に染まり何も見えず、血が脳まで届かないせいで意識は闇の中へ落ちて行く。
ただ、生き抜く本能だけが私を突き動かしていた。男のいた方に身体を向け、口が酸素を求めるように開いた。
「ばべら‥、ひゃ‥くはう‥、ひゃくは‥」
言語野にも影響を受けてか、言葉は意味をなしていなかったが、言霊の発動には意思のみが関与しているのか。私の中の負の力が影響を及ぼしていることだけは感じ取れた。だがそれと同じくらい、今や致命的なまでに膨らんだ風船が、間もなく破裂することを本能は察していた。
◆
「‥‥‥が‥ぺ‥‥、ぎゃば‥、がぶぅ‥」
灼熱に燃える脳髄が、僕から言葉を奪っていた。今や頭を締め付ける力は明確な意図をもっていた。見えない巨人の手は、上顎と下顎に手をかけ、僕の頭部を二つに引きはがしにかかっていた。圧力に耐えかねて、頭の中で何かが潰れるような音がした。途端息ができなくなる、口腔と鼻腔から血が溢れだしたこともわからなかった。目が破裂しそうだった。耳も聞こえなくなっていた。ただ、生への執着だけが僕を突き動かしていた。
潰されそうになる頭の中で、僕は必死で念じていた。爆発しろ、爆発しろと‥
◇
頭の後ろが大きく膨らんだ時、私はもう生きる屍だった。死が黒い影となって、私の炎を吹き消そうとするのが感じ取れた。見えない力に圧迫されて、脳はもう役に立たなくなっていたのに、それでも人生の思い出が心に去来するのが感じられた。小さかった私を優しく見つめてくれる両親の顔が堪らなく愛しかった。人生の最後に、どれだけ家族を愛していたのかを伝えられないのが悲しかった。その純粋な思いが、父を守るための最後の力となってくれた。負の力でも何でもいい、あの男を止めて!
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不意に頭の圧迫が緩んだような気がした。自分の自我だけが、どこか白い世界に飛び立ったような感覚だった。そこはどこまでも続く無限の世界で、そこにいる僕は限りなく自由で、そして限りなく孤独だった。
ある意味ここは地獄であるとも、天国であるとも言えよう。ただ、見栄とコンプレックスに彩られた自分の人生はようやく終わったんだ。それは嬉しいことにも悲しいことにも感じられた。
再び苦痛が戻ってきた。意識が飛んでいたのはほんの数瞬の事で、現世の地獄は続いていた。だが、僕は全てを受け入れる気になっていた。
「がぎゃはぁっ!ぐばああぁっ!」
限界を迎えた僕の身体が、最後の悲鳴を上げる。顎がメリメリと裂けて悲鳴も出なくなると、いよいよ肉体の終焉を感じられた。
‥もう、いいや。
もはや手遅れであるとは知りつつも、それまで必死で爆発しろと念じていた邪念を打ち消し、最後に残った魂が、今までろくに口にした事のない言葉を残した。
ありがとう‥
◇◆
ばああぁんっ!
乾いた破裂音と共に、女の頭が弾け飛んだ。直立した身体から噴水のように血が噴き出し、ベージュのスーツを鮮血に染めて行く。
ブシュー‥
盛大に血飛沫を撒き散らし、男の頭が二つに裂けた。上顎から上の部分はフロントのデスクにぶつかると、カンと音を立てて床に転がった。それは一部始終を見ていた爺さんの足もとに転がって行き、慌てて蹴飛ばされ、血の尾を引きながらソファの足もとへ滑って行った。
奇跡的に立っていた女の身体がゴトンと倒れ、血溜まりに沈むや、辺りは嘘のような静寂に包まれた。もう、口を開くものは誰もいなかった。