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爆発

「う‥ぐぅ‥」

 ‥何だ?

 今にも女とキスでもしそうだった男が、突然頭を押さえて呻きだした。女の腰に廻していた手で頭を挟む様に抱え、苦鳴を洩らし始める。

「ちょっとカズ君、どうしたの‥」

 動揺を露わに、女が男の顔を心配そうに覗きこむが、僕は内心ほくそ笑んでいた。ざまあみやがれ、きっと天罰が下ったんだ。こんな公衆の面前で見せびらかすようにいちゃつくから、僕の念が天に通じたに違いない。

「あっ‥くぅ‥!」

 何だ?

 今度は女まで頭を押さえて苦しみ始めた。ちょっと頭痛がする程度の痛がりようではなく、両手で抱える様に頭を押さえている。さすがにこれには異常を覚え、二人の方に注意を向けた。もちろん僕だけでなく周りの者達も二人の様子に気を取られているが、突然の事態に対処できるでもなく、心配そうな面持ちを向けるだけだった。

「おい、どうした、大丈夫か?」

 ついに見かねたように、さっきの眼鏡のサラリーマンが男の方に手を差し伸べるが、彼もまた何が起きてるのかわからず、どう対処すべきか迷っているようだった。

 何だ、こいつら。もしかしてヤクでもやっていたのか?などと本気で疑っていると、事態はますます悪化していった。

「あぁ‥ぐあぁっ!」

「うああぁ、割れるぅ!」

 眼鏡の手をはねのけるようにカップルの男が暴れ出し、女も耐えかねたように身をかがめる。騒ぎが広まり車両内がざわつきだし、こちらに目を向ける者が多くなってきた。事態はいよいよ異常をきたし、さっきまでいちゃついていたのが嘘のように、カップル達はお互いの身を案じる余裕すらなく苦しんでいる。

 彼等の苦しみ方は尋常ではない。何かとんでもないことが起こりそうな予感に、僕は得体の知れない胸騒ぎを覚えていた。ふとカップルの側にいたジーンズの女と目があった。女の目にも困惑と不安が浮かんでおり、これから起こる事に対する恐怖を感じ取っているようだった。

「うぐぉ‥ぐおおぉ‥ごっ!」

「があぁ‥ぐがあぁっ!」

 獣じみた呻きが周りの者達を凍りつかせた。近くにいた人はどの顔にも引きつったような恐怖がこびりついている。遠巻きに見ていた者達も後ずさりしており、声を立てる者はいなかった。僕はと言えば、愛らしい女の口から恐ろしい呻きがこぼれたことにショックを覚え、呻き続ける彼等から目が離せなくなっていた。

 そして僕は見た。俯いていた女が顔を上げた瞬間、それは血みどろの仮面と化しており、目、耳、鼻、口、あらゆる穴から血が垂れていた。陸に上がった魚のように彼女が口をパクパクすると、鮮血が口から迸り、ビチャリと床にこぼれ落ちた。

 男の方はもっと異常だった。僕の見ている前で、男の側頭部が不自然に膨れ上がったかと思うと、顔がひょっとこのようにふくれっ面になる。先程までのハンサムな容貌は微塵も感じさせず、むしろ正月の福笑いの様なおかしな顔になる。やがて眼球が出目金のように飛び出してきて、顔色は死にかけの紫色へと変わる。

 いよいよこの異常事態は、クライマックスに向けて加速度的に進んでいるようだった。空気まで凍りついたかのように静まり返った中、電車の走行音だけが夢幻の音楽のように響き、言葉を失ったかのように悶える彼等を、僕達観客が夢の中で見る映画のように見守っていた。

 これが悪夢の映画だとすると結末は予想通りに、しかし想像を絶する悲惨さをもって迎えた。限界まで膨れ上がった男の頭部が、風船が破裂したような音を立てて弾け飛んだかと思うと、同時に女の頭部がメリメリと音を立て、二つに割れて吹きとんだ。瞬く間に辺りは地獄絵図と化し、ようやく誰かが悲鳴を上げた。


 ばあぁんっ!と音を立てて、彼氏の頭が弾け飛んだ時、私は何が起きたかわからなかった。

 可愛らしい彼女の顔の上半分が吹き飛んだのも、なんだか質の悪いCGを見ているような感覚だった。

 でも、顔に熱湯をかけられたような感触が、私を我に返らせた。頬に手をやると温かい血がべったりと滴っており、何か白子の様なものがこびりついていた。それが飛び散った脳味噌の一部だとわかると、一気におぞましさが込み上げてきた。

 耳元で誰かが悲鳴を上げた。それに呼応するかのように、あちこちで悲鳴の連鎖が続き、魔魅に魅入られていたかのように立ちつくしていた人々がパニックを起こし始めた。しかし私は立ちくらみのような眩暈を覚え、地面がぐらぐら揺れるのに耐えられず、その場にへたりこんでしまった。

 おかげで私は二人の死を、間近で見ることとなってしまった。完全に首から上がなくなっている彼氏の身体は、仰向けに倒れ、首から勢いよく血が溢れ続けていた。よくドラマなんかで血溜まりが広がっていくシーンがあるが、あんなのが嘘っぱちであることが今わかった。彼氏は間違いなく死んでいるが、心臓はまだ動いていたのかもしれない。もうなくなっているにもかかわらず、心臓が頭部に血液を送るべく、首からぶしゅっ、ぶしゅっと血を吐きだし、血の海を広げていく。理性を狂わせるかのような鮮血の臭いが漂い、生理の時など比ではない、あまりの濃密さに吐き気を覚える。

 彼女の身体は、生前自らが吐きだした血溜まりの中へうつ伏せに倒れていた。顎から上の部分がなくなっており、誰も見たことがない様な人体の切断面を私の前にさらしている。胃の中のものが逆流したのか、喉の奥から不気味な白くて細いものと、血と胃液にまみれた緑色の何かが溢れていた。夕食はパスタとサラダだったのかしら、なんて恐ろしいことを頭のどこかが考えており、むしろそれは滑稽ですらあった。彼氏ほどの勢いはないが、彼女の首からも止まることなく血が溢れ続け、彼氏の血と混じり合って私の方へ向かってくる。

 声にならない悲鳴を上げて私は後ずさった。夢中で後ずさって壁にぶつかったが、それすら気付かず手足を動かし続けた。何かが手に触れ、その感触の悪さに思わず目をやると、そこに失われた彼女の一部があった。顎から上の彼女の頭はさらに二つに割れて逆向きに転がっており、さながら毛の生えたお椀のように電車の振動に合わせ揺れていた。血と脳漿のこびりついた頭蓋の内側が覗き、造り物の様な真っ白な皮膚には鼻が残っていた。今し方幸せそうに笑っていた彼女のあまりに無残な姿に、私は気が狂う一歩手前の心境で、笑いが込み上げてくるのを覚えた。人間極限状態に陥ると笑うと言うのが今理解できたが、ちっとも嬉しい発見ではなかった。

 死んだはずの彼氏の手足がビクンと跳ねあがり、私は恐怖に目を見開いた。また誰かが耳元で悲鳴を上げた。もしや下手なゾンビ映画みたいに、死体が起き上がるんじゃないかと、正気とは思えない考えが頭をよぎるが、彼氏の身体はそれきり何の反応も見せず、首から零れる血が明らかに勢いを失って行った。

 せめて気でも失えたら良かったのに、あいにく私はそうならなかった。それが何か悪いことでもあるかのように、死んだ彼女は私の最後の理性を奪うかのような仕打ちをした。ガクンと電車が揺れたかと思うと、彼女の顔から何かが転がり出て、それはまっすぐ手元に転がって来た。死者の瞳は何も映していない。それなのに、彼女の眼窩からこぼれ落ちた眼球は、責める様に私を見上げていた。

 私はもう何も考えられなくなり、夢中で手を振った。彼女の瞳はそのままパニックを起こした人波の方へ転がって行き、誰かの靴に踏み潰され見えなくなった。

 その時、忘れていたかのように乗降者口が開いた。嘘のように長く感じた地獄の時間が終わり、ようやく電車が駅に到着したのだ。弾かれたように私は地獄からの逃亡を図り、血塗れの私を見てぎょっとする群衆をかき分けに改札へと向かった。

 せっかく地獄から逃れたと言うのに、またさっきと同じ声の女性が耳元で悲鳴を上げた。でも、遅れて乗客達が電車から雪崩出てくるのを見てようやく気付いた。

 悲鳴の主は私だった。

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