かみひとえ
なぜかはわからない。
理由や原因がわかっているなら、どうにかそれを潰していた。
その始まりも、その深さも。
向けられている己でさえ知らないのだから、他人が理解できるとは思わない。
だからやはり、取るべき方法はひとつしかなかった。
他の誰も巻き込むことのないよう、全てを捨てること。
その結論に至るのが遅すぎたことは、一生逃れられない咎として背負うより他にない。
悪魔の抱く小さな愛しい子に手を伸ばすことさえできず、くちびるを噛み締めた。
異変は突然だった。
誰も何も知らないまま日常の延長線上で、その来訪者は現れた。
「誰か来る予定あったか?」
「ううん、特に約束ある人はいないけど」
幼い娘をあやしながら夫に向かって首を傾げる。だが、来客を告げるチャイムが鳴ったという事実が変わることはない。何かの勧誘だろうか。私に向かって手を伸ばす娘を見て、夫が腰を上げた。
「俺が出てくるよ」
「うん、ありがとう」
夫がリビングを出て玄関に向かうまで、そのわずかな時間に何があっただろう。否、何もなかった。ただ、私の中で虫の知らせとしか形容のできない危機感が唐突に、膨れ上がった。
怖い。ダメだ。いけない。避けなくては!
なぜそう感じたかは、わからない。でもあまりに激しくつきあげてくるその焦燥に、私は娘をカーペットの上に下ろして立ち上がった。夫の向かう先、ドアの外にいるのは危険な何か、だ。いつのまにか走っている、足が急いで絡まりそうになる。
「夢、乃?」
鍵を全て開けた夫がドアノブに手をかけてこちらを振り向いた。足音を気にかける余裕などなく、ドアノブにすがりつく。夫の手の重みで少し斜めに傾いていたそれを、強引に戻そうとして、ぐぐっとドアの向こうから反対の力を込められた。
がちゃがちゃ、がちゃっ。
必死の私の抵抗と、下ろされる重みが拮抗して激しく音を立てる。鍵に手を伸ばす余裕もない。だんだん腕に疲労が溜まっていく。
「おい、どうしたんだ。夢乃」
呆然としていた夫の声が聞こえて、ああでも返答なんてする余裕はない。振り払おうとした雑念が、肩におかれた温かい手のひらの感触で私の集中を乱した。たったその、一瞬のことだった。
まるで映画でも観ているような、スローモーション。ドアが強引に開けられ、向こう側から現れた男は私の手をドアノブからそっと離して目が合い微笑んだかと思うと、今度は目にも留まらぬ速さで夫を引きずり出してまたドアを閉めた。
あまりの出来事にぼんやりとしたのは数秒だった。夫がどうなったのか、ドアを開けるとそこには。
コンクリートの上に倒れている夫の後頭部が、血に染まっている。声を出すどころか、ひっ、と息を吸いかけて停止した。壊れたように日常風景と異なるものを映す視界に影が入りこむ。固まった私の手をドアノブから剥がし、するりと家の中へ侵入してきたその男こそが、夫を。
強制的にシャットダウンされた意識が回復した時にはもう、何もかも手遅れだった。
残されたたったひとつの、愛しい私のすべて。娘がその男の腕の中にいる。選択の権利も思考の権利も何も残されてはいない。ただただ、男の気が変わらぬよう服従し隷属するだけ。いいえ、何も命じられなくとも、少しでも気分を害さぬように心を殺しつづける。
何が悪くてどうしてこうなったのか。
どれだけ時を重ねても、見知らぬ男の気に触らぬよう浮かぶ雑念を押し殺して、今日も這い蹲る。これを生と呼べるのかわからないまま、その日が来るまで。
初投稿です。
何か不具合がありましたら、教えていただけると幸いです。
実は作者の悪夢を基にした話だったため、唐突でオチ無し意味無しです。