月の紳士
夜空を見上げた。それは深い紺色をした海のようだった。海底には輝く小石が散らばっている。薄く伸びた雲は水上に浮かぶ氷の様だ。時とともに海の中に溶けいくのだろう。今夜の満月はくっきりと浮き出ていて、迫るような立体感があった。海に浮かぶ丸い島のようだ。
輝く小石に手を伸ばした。空の奥、海の底へ目が向かう。吸い込むような深い青。染み込む冬の寒さ。輝く丸い島は僕の魂を引きずりあげ、そして輝く大地へと引きずり下ろした。途中漏れた白いと息は冬の冷気に氷結し、夜空に浮かぶ雲になった。
月だ。月上である。月の町は初めてだ。とても不思議である。なにしろ地面が全て光っている。島の上はレンガ造りの建物が並んでいる。月の住宅は地球とは逆で屋根が地面についていた。それ以外はあまり地球と変わらない。少し残念だ。
月人の紳士が散歩をしていた。月人は際立って変な格好をしていた。地面と平行、顔に垂直、奇怪な形のサングラスをかけている。シルクハットのつばは首についている。眉毛が目の下についている。それも全部地面の月の光のせいだろうか。
観光名所は無いか、僕は彼に尋ねた。彼は僕の身なりを見て大層驚いたものの、直ぐに打ち解けてくれた。彼は月の影という場所を紹介してくれた。そこまで案内までしてくれるようだ。感謝の意を伝えるために頭を下げる。そうすると光に目がくらんだ。紳士は「おお、これはこれは」とつぶやいた。これは彼の口癖のようだ。
紳士につれられてレンガ道を歩いていく。いくつか会話をした。とても興味深いものだった。
「地球人たちのまぶたの上にはまつ毛があるのか」
「ええ、あります」
「地球島の青いところはなんなのか」
「海です」
「ネジをくれないか」
「持っていません」
このような会話をしていると分かれ道にぶつかった。左手に進んでいくと急に道が途絶えた。薄暗い砂丘の様な一角が現れた。紳士は気にせず歩みを進めていく。土はさらさらとしていて靴の中に入った。進めば進むほど光は失われ、ついには真っ暗な空間になった。僕は焦って周りを見回した。すぐ横に紳士に気配を感じて声をかけた。
「これが月の影ですか」
「ええ、そうです」
「月の影はどうして暗いのですか」
「闇です」
「タバコをくれないか」
「持っていません」
月の影は退屈だった。これならば地球でも見られる。何も上映しない映画館みたいだ。月らしい所へ連れて行ってくれと僕は紳士に頼んだ。
「つろう」
「何をですか」
「魚です」
「いいですね」
二人で月の影に別れを告げ、道を戻っていると分かれ道にぶつかった。左手へ進んでいくと急に道が途絶えた。深い紺色の海岸が現れた。海は見れば見るほど色が沈んでいき、ついには真っ暗な水面に変わった。その海底にきらきらとした小石が光っていた。紳士は釣り具を持ってきていないことに気づいたらしい。彼は焦って周りを見回した。僕は彼に告げた。
「とろう」
「何がですか」
「星です」
「それはだめだ」
僕の提案を月の紳士は断固として受け入れなかった。釣り具を用意するから待てと言う。そこで僕は星をとるために月へやってきたことを思い出した。海に足を突っ込んで光る石を探した。
「地球人は馬鹿だ」
月人が言った。
僕の服はずぶずぶと濡れていった。ふと後ろを見ると、月の紳士はどこからか用意したつりざおで僕を釣ろうとしていた。
「月人は馬鹿だ」
地球人が言った。
僕は前に向き直り光る小石を探した。見つけたそれに手を伸ばした。海の奥、空の底へ目が向かう。染み込む深い青。吸い込むような冬の寒さ。青く丸い島は僕の魂を引きずりあげ、そして暗く沈んだ大地へと引きずり下ろした。途中漏れた白いと息は冬の冷気に氷結し、夜空に浮かぶ雲になった。
「地球人は馬鹿だ」
僕はそうつぶやいた。
その時、光る大地の上で、紳士は「月人は馬鹿だ」と声を発しただろうか。