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もののけ草紙

里の蛍火 天の村雨

作者: 不二 香




「吉野、そいつは何だ」

「友達」

「死人が友達だって? お前、俺よりまっとうな友達が少ないのか」

「賭けてもいいけど、遠野とおのよりは多いと思う」

「…………」

 焼け付く真夏の太陽さえ後退る遠野の眼光。

 空気がちょうどよくひんやり冷えた。




続・もののけ草紙

里の蛍火ほたるび あま村雨むらさめ




「生き返るー」

 グラスについた水滴をものともせず、注がれた麦茶を一気飲み。

 吉野柾紀(まさき)(17)は大きく息をついた。

「熱中症で死ぬかと思った」

「こんなに近い距離で死ぬか」

 柾紀の家から自転車で数分のところに、近頃ではすっかり珍しくなったバカでかい純和風の屋敷が門を構えている。

 陽光を反射する白の土塀は延々と続き、一歩庭に入れば曲水・落水が清らな音を立てて木々の間を縫い、飛沫散る苔の上では緑の蛙が瞑想にふける。

 桔梗や蛍袋の間を蛍がちらちら舞う夜は、ススキの上の中秋の名月に匹敵すると言っても言いすぎではない。

 ……小さなアパート住まいの吉野家とは雲泥の差。

 通りかかる人みんなが感嘆の声を漏らすその屋敷こそ、この目の前のクールな友人、遠野晴海(はるみ)(17)の自宅だった。

 しかも、だ。そんな屋敷にも関わらず、家庭の事情とやらで、住んでいるのは遠野とばあさんだけだという。となれば、高校が夏休みに突入した今、友人として入り浸るのは当然だろう。

 猫の茜さんもココに置かせてもらっておけば昼の吉野家は無人、冷房代の節約にもなるわけだし……。

 ちなみに、遠野邸には冷房設備が存在しない。

 何しろここは、裏の竹林から表の庭へとよく風が通るのだ。屋根にかかるほどの木々が日差しを遮り、澄んだ風鈴の音は絶え間ない。


「──で」

 障子の竪框たてがまちに背を預けて麦茶を含み、遠野が剣呑な目を向けてきた。

「その坊主はどこで拾ってきたんだよ」

「路駐してあった車」

 柾紀は隣りにちょこんと座っている少年を見下ろした。年長さんか小学校にあがったばかり、それくらいの年の頃で、よれよれのTシャツに埃だらけの半ズボン。これだけ遠野に邪険にされてもひょうきんな笑顔を消さない子供。

 出された麦茶を実に美味しそうに飲んでいる。

「車の中で死んで、そのまま憑いた死霊か……?」

 遠野がひとりごちて風鈴の向こうの晴天を見上げた。

 そう、彼は柾紀と同じく“見える”類の人間だ。というよりも、自分が遠野と同じ仲間だと言った方がしっくりくる。なにしろこの家は──。

「憑くと容易には離れられないからな。それだけに執着して周りが見えなくなる。自分では止めたい、離れたいと思ったとしても、だ。……お前、何かその車に思い出でもあるのか?」

「閉じ込められちゃったんだって」

 一心不乱に麦茶を飲んでいる少年に代わり、柾紀が答えた。

「閉じ込められた?」

「俺、コンビニ行く途中でたまたま通りかかってさ、コイツが車の中で“出して出して”って言ってるわけ。こっち向いて叫んでたんじゃなくて、後ろのシートに寝たままさ、口だけ動いてたんだよ。出してってことは閉じ込められたってことだよな?」

「……暑かっただろ」

 遠野の問いに、少年はただうなずいた。

 それを横目に柾紀は続ける。

「初めは生きてる奴なのか死んじゃった奴なのか分からなかったんだけど、戻ってきた車の持ち主がコイツのこと完全無視してたから、あぁもう死んでるんだなって」

「車の持ち主?」

「そう、女の人。あれお母さん?」

 訊くと、再び少年がうなずく。

 住宅街の簡易郵便局から出てきた車の持ち主は、若い女性だった。連れていたのは少年よりも幼いだろう子供ひとり。

「コイツは死霊だって分かった時にはもう車発進してたけど、そのままにしといたらなんか可哀想だろ、だから車追いかけて、スーパーで買い物終わって出てくるの待って、車のドア開けたところに飛び込んでコイツの腕引っ掴んで逃げてきた」

「それでさっきの“死ぬかと思った”なわけか」

「そう」

 炎天下、かっ飛ばす車を自転車で追跡するのは、体力があり余っているだけが取り得の高校生といえどツライものがある。まして変速機能が壊れているとなれば尚更。

「お前って、時々無謀で考えナシなことするよな。“なんか可哀想”でそこまでするか? フツー」

「そう?」

 首を傾げると、友人は諦めたように小さく肩をすくめた。

 そしてそれ以上続けず話を戻す。

「しかし──閉じ込められたってのはよくない。要するに殺人だろ、灼熱車中置き去り殺人事件、今流行の」

 遠野の“よくない”は、善悪の意味ではないことが多い。法律に触れるとか触れないとかではなく、良心があるかないかでもなく、彼が本能的に眉をしかめるもの──つまり忌み嫌うものが彼の“よくない”だ。

「閉じ込められて死んだのが元でその車に憑いてるなら、ソイツは怨霊だ、違うか?」

「違う」

「………違う?」

 柾紀へ寄越したはずの遠野の言葉が、横から否定される。

 少年だ。

 悪戯がバレた時のような笑みを斜め下に向けて、麦茶のグラスを握りしめて、彼は言い直してくる。

「僕は、閉じ込められたんじゃないよ」

「は?」

「閉じ込められたんじゃないんだってば!」

 話の分からない大人! そう言いたげな少年の語気。

「吉野」

 冷えた矛先がこちらに向く。冗談じゃない。

「ちょっと待っ、それはない、ない、だって出してって──!」

 慌てても、少年は頑なに首を振る。

「違う、遊んでて出られなくなっただけ」

「えぇー」

 そりゃないよ。

「……自業自得で死んだあげく、母親恋しさに車から離れられなくなって喚いてたのか? そうしたら都合よくオヒトヨシの吉野君が現れた」

 ミもフタもない遠野の要約だったが、少年はうなずく。だって暑くて喉が渇いて耐えられなかったのだ、と。

 そして彼は麦茶をきれいに飲み干した。

 見ている限り、5杯目。

「…………」

「…………」

 遠野がその様子を見ながら考え込んでいるのを見ながら、柾紀も考え込む。

 自分も友人もただの“見えるヒト”であって、拝み屋ではない。

 迷える魂は救いましょうなんて無責任なことは言えないし、遠野のことだから自業自得の面倒なんかみるか、という調子だろう。

 ……いや、“吉野がせっかく身体張って連れてきたのに、元いたところに戻して来いなんて言うのはいくら俺でも忍びない”とか思っているかもしれない。

「吉野」

「うん?」

「そいつ、元いた場所に戻して来い」

「はぁ!?」

 友達甲斐のない奴。

「当たり前に考えて、それしかないだろう?」

 こっちを見ずに彼は言った。

「見えることと干渉できることとは意味が違うんだよ。幽霊だろうがあやかしだろうが神だろうが、関わらないに越したことはない。見えるだけの人間は、奴等がそこにいることを認めるだけにしておかなきゃならない」

「じゃあ、お前がいつも学校で無遠慮に人捕まえて“墓参りに行け”だの“毎日水を供えろ”だの忠告して歩き回ってるのは何なんだよ」

 そんな行動のせいで、彼は多くの生徒からやんわり避けられている。

「それこそ単なる忠告さ。俺はそれ以上立ち入らない」

 理屈は筋が通っているけれど、どこか感情的な熱のある口調。

 ──人間であれ、妖であれ、一線より先に立ち入るのが怖い……そんな拒否。

「俺のことは助けてくれたのに」

 友達になったきっかけはそれだった。遠野が、祟り神から柾紀を助けてくれた。

「それは──由良ゆらがお前を気に入って世話焼いたから」

 語尾を淀ませ、彼の目が部屋の奥隅に向く。

 そこには、漆の文机に寄りかかり、事の成り行きを傍観しているもうひとりの住人がいた。

 悠然と、優雅に。

 高く結われた長い髪は黎明の金色、細く釣り上がった双眸は縁日の狐面に勝るとも劣らず。身を包むのは白のひとえで、黒地の絢爛な打ち掛けを──金箔で松やら鶴やら所狭しと描いたやつだ──無造作に羽織っている。

 もちろんこの御仁、遠野の祖母ではない。

 計6つの瞳が自分の方を向いているのに気が付いたのだろう、彼は藍の扇をぱちんと閉じた。

「心根優しき御子には助けを、そして情けを。それが我らさね」

 凛と華やかな声音が、離れに青嵐を誘い込む。

 さわさわと竹の林が揺れ、風鈴が踊り、水面がさざめき立つ。

「坊」

 ばしっと扇子の先が少年に向いた。

せつに嘘を付いても無駄え。拙は神ゆえ何でも知っておるぞ。あの女子おなごが坊の生みの親ではないことも、妹とは異母兄妹であることも」

「お前いつから神様になったんだよ」

 遠野が冷静なツッコミを入れると、

「似たようなものであろ」

 御仁は扇で顔の下半分を隠す。


 天狐てんこの由良──それが彼だ。

 藤の森(伏見稲荷)の傘下には入らず、何故かぷらぷらと遠野家に居候している妖。狐の序列なんてよく分からないが、とりあえず黄色や白の狐よりは遥かに大きな力を持っているらしい。


「だが、血のつながりのないわらわだからと言って母親が折檻で閉じ込めたわけでもない。坊自ら“くるま”に隠れ、出て行かなかっただけのことじゃ。自分で出られたのに出ようとせず、自ら死んだ。晴海、吉野坊、知っておるか? 自らをあやめた者は、死んでなおそれを繰り返すのじゃ。橋より落ちた者は何度でも落ち、首をくくった者は何度でもくくり、毒をあおった者は何度でもあおり続ける。黄泉国よもつくにへ導かれることなく、延々と」

「もう死んでいると知っていても?」

「知っていても」

「…………」

 怖い。

「終わりなく死に続けるのは難儀え。誰も助けに来ぬわけではないが、そうさね、結局は心根の在り様よな」

 由良がしゃべれば蝉も黙る。風鈴も黙る。

 天狐のゆったりとした調子はまるで、いつの時代か寝床で聞かされた昔話の語り口だ。魂の記憶に刻まれた、遥か遠く懐かしい音。

「坊がずっと“くるま”の中で日輪にでられていたのも、水を欲し続けたのも、坊が自分で自分を殺めたからよ」

 言い置いて、ふいに由良が目を細める。

「坊は、母に助けて欲しかったのよな」

「──」

 少年が、顔を上げた。

「探して見つけて助けて怒って、母が坊をほんの少しだけでも想っているという証が欲しかったのよな」

 口を結んだ少年の顔が強張こわばり、たちまち目が赤くなる。

「心の中で呼べど叫べど助けは来ず、気付けば死人。さぞかし驚いたであろ。そのうえ黄泉にも行けず“くるま”から出られず、熱さも渇きも癒えぬとあれば、誰が定めたことか……小さな御子には酷だったねぇ」

 必死の形相で虚空を睨みつけていた少年の目尻に、涙が滲む。

 柾紀も、息苦しかった。

 自分だったら耐えられない。炎天下の車中で延々と死に続けることなんて、想像もしたくない。

 否、怖くて想像なんてできない。

 炙られ焼かれて、助けを求めても聞いてもらえなくて、そこに母と妹が座っていたのに、笑っているのに、この少年はずっとずっと……。

「童は愛情の差にさといもの。分かりたくなくても分かってしまうものを、どうしろと言うのかねぇ。目を閉じるか? 耳を塞ぐか? 見ないふり聞かないふりでは身が持たぬというに」

 由良が柳眉をひそめてため息をついた。

「…………」

 遠野はじっと縁側の床板を見つめている。

 柾紀は誰かがしゃべり出すのを待った。これは、自分には重すぎる。


 父親の連れ子である少年と、自分で産んだ娘。母の関心が妹にばかり傾いていると感じた彼は、わざと危険に足を踏み入れて母の気を引こうとしたのだろう。

 いないことに気付いて欲しい、探して欲しい、見つけて欲しい、その一心で車に隠れた。

 だが母は来なかった。

 探さなかったのか、探したが彼を見つけられなかったのか、それは柾紀に分かることではない。

 けれど、母は迎えに来なかった。


 子供なら一度はやろうと思う親試し。

 彼らは加減も知らずに命を懸けてしまうのか、それとも幼いながら命を懸けようと決意していたのか──。

 後者なら、悲愴だ。


「坊、近こう」

 由良が、広げた扇で少年を呼んだ。

「近こう、近こう」

 泣きそうな顔のまま、呼ばれるまま、ぺたぺた彼が近付くと、狐はよいしょと己の胡坐あぐらに少年を抱きこんだ。

「“くるま”に戻せば同じ苦しみが続くだけよ。どれ、拙が迎えを呼んでやろう」

「できるの!?」

 裏返った柾紀の声に、

「簡単なことよ」

 ふふんと得意げな由良。こういう子供っぽいところは、いまいち威厳がない。

「晴海、庭から提灯花ちょうちんばなを掘ってきてくれるかえ。たくさん花がついている株がいいねぇ」

「……提灯花って?」

「蛍袋さね」

 あぁ、あの鐘の形をした紫色の、と遠野がつぶやいて、彼は庭に降りる。

「行くぞ、吉野」

 やっぱり?

「俺も行くの? お客様なのに?」

「は?」

「……行きます」




 夜の遠野邸は、時代錯誤だ。

 街に人工的な光が溢れる中、千年前、清少納言が「夏は、夜」と描いたそのままの光景が目の前に広がるのだ。


 濃紺の空には兎の遊ぶ月がかかり、ささやく木々は黒い影となり、岩の間を流れる水音に蛙の鳴き声が混じる。そして、草花の中を蛍が舞う。

 小さな灯火をともし、明滅しながら闇の中に恋を描く。


「あいつ、大丈夫かな」

 そんな風情を堪能しながら縁側に座ってスイカを頬張るのは、最高のゼイタクだ。

「大丈夫だろ」

 遠野は素っ気無い。それだけ言い捨て一番小さな一切れをつまむと、彼の背後で両手を出していた赤い着物の女子に手渡した。

 彼女は──座敷童は、顔を輝かせると足音もなく次の間へと走って行く。

「吉野坊は拙が信じられぬかえ?」

 一体どれだけ着物を持っているのか、由良は松葉色の浴衣姿だ。片手にスイカ、片手にメダカ模様の団扇うちわで、さらりと流し目を送ってくる。

 どこまで冗談で笑っているのか見当がつかなくて危険だ。

「とんでもございません」

 ぶんぶん首を振ると、由良が声を立てて笑った。

「まぁ、何も知らぬ吉野坊が心配になるのも無理はなかろう」


 花が3つ付いている蛍袋の株を植木鉢に植え替えた柾紀たちに、由良は時を置かず蛍を2匹捕まえて来いと言った。

 そして夕刻一番星が瞬くと、彼はふたつの花には蛍を1匹ずつ、もうひとつの花には少年の魂を入れ、門の外に放り出してきたのだ。

 由良のやることだからと何も言わなかったが、やはり置き去りは少々胸痛むものがある。


「提灯花にはな、蛍も入るが人魂ひとだまも入るのよ。山で遭難した者たちの魂は、よからぬ妖に喰われぬよう提灯花の中で蛍火のフリをする。山の神もそれを存じておるからの、夜になると山を歩きなさって、蛍火の入った提灯花をお集めになる」

「神様が集める前に妖が集めたりしないのかよ」

 実に遠野らしい台詞だ。性格の斜め加減がよく表れている。

「人魂を喰らう類の輩は、提灯花に触れられぬのよ。彷徨さまよっている魂を喰らってもとがめは受けぬが、提灯花に手を出すことは許されぬ。高天原たかまがはらにおわす方々の計らいであろ」

「……山の神様、こんな平地まで降りてきてくれると思う?」

「降りてこなんだら、拙がしばきに乗り込んでやるわ」

 だったら由良が彼を神様のところへ連れて行けばいいじゃない……そうも思うが黙っておく。妖の世界にも色々な線引きがあるのだ。

 ここまでは助太刀、ここから先はご自分で。

 過干渉は災いのもと。

「そういえば明日の夜は御山みやま神社で夏祭りがあるって。由良、行くか?」

 遠野が回覧板を読みながら言った。

「家の衆も、日輪の出しゃばり加減に腐ってきておるようじゃしのう、行くか」

 由良の視線を追いかけると、部屋の中では妖どもがきゃいきゃいと勝手にスイカ割り大会を始めていた。丸のままひとつ、台所から失敬してきたのだろう。

 けたたましい小鬼に、三味やら琴やらかきならす九十九神つくものかみたち、豆狸たちは喝采をおくり、愛らしい鈴彦姫が目隠しをしてスイカを狙っている。

 そう、この家は化け物屋敷だ。毎夜、百鬼夜行がお楽しみいただけます。

「遠野……」

「何だよ」

「その回覧板、早く次の家に回した方がいいよ」

「…………」



◆  ◇  ◆




「神と人とが共に食べ共に飲み共に笑うのが祭りじゃ。どこに神がおわすか分からぬゆえ、くれぐれも軽はずみなことはしてくれるなえ?」

「それはお前に言いたいよ」

 矢羽模様の浴衣で遠野。すでに頭には狐面。

 一方本物の狐は藍地に菖蒲しょうぶの派手な浴衣に袖を通し、すでに片手にたこ焼き。人間に混じるため、髪は黒くなっている。

 それにしたって──

「普通さぁ、物買うのって、拝殿で挨拶してからじゃない?」

 神社はちょっとした山の中にある。

 拝殿へと続く階段を指差し半眼で言うと、二人して明後日の方向へ目を逸らしやがった。

「ちょっと、化け物屋敷の主としてそこんとこどうなのさ」

 ちなみに柾紀は生成きなり格子の浴衣で、遠野家から借りたものだ。

 高校生がばっちりキメて、しかし男三人とは悲しい限り。

「細かいことは気にするな、見よ、楽しげな諸人もろびとを」

 人ごみの中で、迷惑千番、遠野が仰々しく両手を広げる。

「あのねぇ……えー」

 友人の向上につられて縁日の賑わいを眺め渡し、柾紀はげんなりした。

 向こうで金魚すくいをしている若者ふたりには白い尻尾が生えているし、たぬき耳の美しい浴衣美人が持っている風船は、どう見ても一反木綿いったんもめん状の何かが丸まったものだ。

 焼きそばを焼く手つきに見入っているおじさんの手元には柏の団扇、足元は一本歯の高下駄。子供の射的を見ているおじさんも同じ。

 人の足でごったがえす参道を駆け抜けて行くのは小さな小さな侍で、頭上を仰げば闇夜を照らす祭り提灯ちょうちんの所々、ぎょろっと目をき舌を出す。

 人の数もなるほど多いが、人でない者の数もまた多い。

「祭りには異形が混じる。連れて行かれぬよう、気ぃつけや」

 由良がくすくす笑う。

「物騒な……」

 危険な輩はいないかと、身構えて人の群れをチェックする。身体に力を入れていないと、押し流されてしまいそうになる。

 ふんばりながら慧眼を光らせていると……、

「──あ」

 その姿を見つけて、柾紀は遠野の肩をつついた。

「遠野、あれ」

「ん? お」

 行く人帰る人、ごった返す参道の中、そこだけ切り取られたかの如く鮮明に、あの少年の立ち姿が目に映る。

 明るい若草色の浴衣に深緑の帯を締めた彼は、じっと誰かを見つめていた。

 風船釣りのプールの前でだだをこねる少女と、渋っている母親、それくらいいいじゃないかと少女を援護する父親。

 どこにでもある風景だ。

 どこにでもある。見飽きた風景。

「……あれがアイツの家族か」

「そうみたいだね」

 かつての家族を見つめる少年の目は、羨ましそうでもあり、寂しそうでもあり、しかし温かそうでもあった。

 しかしどれが本当なのかは分からない。

 柾紀は彼ではないし、彼の家庭の事情を知らない。彼が何を思っていて、何を思うべきなのかなんて分からない。

 もしかしたら全部はずれかもしれないし、全部正解かもしれない。

 遠野と二人でしんみり眺めていると、刹那、

退きや!」

 由良の叱責と同時にぐいと襟首を引っ張られる。

「山神のお通りぞ」

 天狐の低い囁きに見回すと、下の方からひとりの男がこちらに登って来るのが目に映った。男が一歩を足を踏み出すごとに人波は割れ、彼の前が開かれる。

 ……あれが山神。

 もっと隆々した人を想像してた──そう由良に言おうとして、声が詰まる。

 眼だ。

 視線が合ったら最後魅入られて逃れられないだろう、とび色の双眸。

 情は深く、怒りは厳しく。

 恵を与え、嵐を遣わす。

 育て、破壊し、再生させる。

 その眼は、人間の持てる広さではなかった。

 震えがくる、神威。

大山祗神おおやまつみのかみ。大和の霊峰神々のいただきにおわす方よ」

 そういうわりに、ひとえに袴という飾り気のない格好だから、あまりの高貴さにみんなが道を開けているというわけでもなさそうだ。というか、そもそもどれだけの人間に彼が見えているんだろう。

 きっと、みんな、無意識のおそれで道を開けているに違いない。

 そこのけそこのけ大神が通る。

「坊があんな御方に拾われていたとは、さすがの拙も思い及ばなんだ」

 棒立ちの三人を通り過ぎ、少年の傍まで歩み寄った男は、一言二言口を開いた。

 聞いた少年は破顔し、手を叩く。

 そして男は石畳に片膝をつくと、少年を肩車した。

「なぁ、神様って膝つくのか?」

「さぁ」

 遠野が知らないなら、自分が知っているわけがない。

 吉野は生返事をしながら、階段を昇ってゆく大山祗神の背を見つめ続けた。

 なんだかとてもホッとするのだ。山の民が森の匂いを感じ、海の民が潮騒を聴く、そういう安堵感に似ている。連綿と続いた魂の歴史をどこまでもさかのぼって行けば、この記憶を刻んだ人に会えるのかもしれない。

 その人がいて、ここに自分がいる。その人がこの世にいた頃から大神は山に座していて、今、己の前にもその背がある。

 なんて不思議なことだろう。

 ──と、見つめ続けていたら、突然彼が半身振り返った。

 そして、静かに笑う。

 衣擦れの音に横を見れば、由良が似たような笑みで小さく会釈を返していた。

「雨が降るえ」

 大神から目を離し、そう言って星降る天を見上げる天狐。

 その背後で混じりあう神楽の音色に花火の音、ざわめく人の声と、焼きとうもろこしにタレが塗られる音、拝殿から響く鈴の音。

 甘く、香ばしく、鼻腔をくすぐる匂いが夜店を包む。

“行くよ”

 それらの合間を縫って風のように聞こえた声。

 その途端、あちらこちらから色取り取りの浴衣を着せられた子供たちが飛び出してきて、神だというその男にまとわりついた。

 袴の裾を掴むもの、腕にしがみつくもの、自分も肩車とねだるもの。

 そして彼らは大騒ぎしながら玉垣たまがきめぐる境内へと姿を消して行く。


 今この祭りの場所に、生きている人間はどれほどいるのだろう。妖はどれほどで、もうこの世の住人でない者はどれだけいるのだろう。

 肩がぶつかったその相手、生者だとは限らない。

 焼き鳥をぱたぱた団扇であおる見知らぬ親父、人間だとは限らない。

 祭りとは、そういうものだ。


「ほら」

 やおら、由良の嬉しそうな声が聞こえた。

 周りでは悲鳴が上がる。

 ──夕立だ。

 雲間が光り大きな雨粒がひとつふたつ屋台の屋根を叩いたと思ったら、あっという間に参道は雨靄あまもやに煙った。

 人々は押し合いへしあい雨垂れ激しい店の中へ逃げ込んで、Tシャツを絞り、ハンカチでぬぐい、不安げに天をうかがう。

 辺りを激しい雨音だけが支配する。

「大神が村雨むらさめをお呼びくださったのだねぇ」

 由良は細い目を精一杯開いて、テントの端から落ちる雨粒を扇に拾い、器用に転がす。

「心を白にしてこの雨に打たれるがよろし。大神直々にご用意されたみそぎの雨ぞ。己が悔やむ罪、咎、過ち、すべて水に流しや」

 言うとパチンと扇を閉じ、彼はゆっくりと参道の真ん中に歩いて行った。

 そして扇をしゃくに見立て、山に拝す。

 

「掛けまくもかしこき伊邪那岐大神いさなぎのおおかみ、筑紫の日向ひむか橘小戸たちばなのおど阿波岐原あわぎはら御禊祓みそぎはらえたまいし時に生りませる祓度はらえどの大神等、諸々の禍事罪穢まがごとつみけがれ有らんをば、はらえ給い清め給えともうす事を聞こしせとかしこみ恐み白す」


 伸びのある調べが雨を突き抜け、人に混じった遠野家の妖どもも、由良に習って身を正す。


「行くか?」

 遠野の視線は参道の終点に。

「行く」

『賽銭は100円まで!』

 叫び二人は避難していたリンゴ飴の屋台を飛び出し、由良の脇を抜け、誰もいなくなった参道を走った。

 泥がはね、雨が口に入り、濡れた浴衣が重くなる。

 終いには息の仕方が分からなくなってくる。

 この浴衣、借り物なんだけど、まぁいいか。

 柾紀が隣りの遠野をちらりと盗み見れば、いつものクールビューティはどこへやら。前髪はわかめのように額にはりつき、雨を目に入れるまいと極限のしかめ面。

 柾紀は思わず足を止めて噴き出した。

「何笑ってんだよ」

 気付いた遠野が石段の途中で憮然とまわれ右。

「だって、変な顔。ひぃ~、笑いすぎて腹が痛い」

「指を差すな! お前だって同じ顔だろうが!」

「俺の方が、ギャップ、少ないから、苦しい、息継ぎが出来ない」

「いっそ窒息しろ」

「ひどい」


 二人の無謀な高校生が雨をものともせず通り過ぎると、ひとりふたりと雨宿りを止め、がらんとしていた参道に人が戻り始めた。

 どうせパーッと騒ぐ祭りなのだ。すでに雷鳴は聞こえないし、雨に打たれるくらいが何だろう。

 そういうことになったのかもしれない。

 再び神楽の巫女は剣を取り、笛の音高く八百万やおよろずの神に拍子を促す。

 綿菓子製造機には砂糖粒が投げ込まれ、ダーツの矢が飛ぶたび子供の歓声が上がる。


 びしょ濡れで賑わう人々に混じり、あの家族も雨に打たれていた。

 ぱしぱしと水風船をつきながら家路に着く、少女と両親。


 やがて少女は浴衣姿の妖(由良)とすれ違い、彼女は母親のTシャツを引っ張り耳打ちする。

“あの人ねぇ、金色の尻尾があったの”






校正時BGM 林明日香「小さきもの」

2006年

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