始まり(2)
残酷な表現あります。見なくても次の話しに支障はない、筈です。
久城 尚
いつもどおりに朝を迎えて、いつもどおり学校にきた。
いつもどおり講義を受けて、友達とお昼を食べて…いつもどおりサークルに顔をだした。
それが、非日常の始まり。
ああ、これは夢。
気づかぬうちに寝ていたのだ。どこからが夢だったのだろう。
お昼のあとに眠ったのか、それともまだ講義中か。朝を迎えてすらいないのかもしれない。
そう。
これは夢だ。
そうでなければならない。
尚は目の前に広がる赤い池を呆然と眺めた。
むせ返る鉄の臭い。
赤い池の中心にある、白いもの。
人の、手。
見覚えがある。その手の薬指にある、指輪も。
けれどその手の先に、あるはずの身体はなかった。
「……みぃ」
なんて、悪趣味な夢だろう。
友人の腕が、転がる夢なんて。
……それにしても、なんてリアルな――
「オマエ、ウマそうナ、ニオイスル、なァ…」
頬に温かい吐息を感じた。
眼球を素早く動かして、その正体を見る。
視認したと同時に、浮遊感に襲われた。
ついで訪れる、背中への衝撃。腹を殴られ、吹き飛ばされたのだと知るのに、わずかな時間を要した。
ソレは、尚の隣を指差した。
「サッキのは、マズかっタ。だかラ、おまえ、クう」
「っみぃ!」
ソレの指差した方を見ると、そこには血まみれの少女がいた。
右腕がない。
「みぃっ、みぃっ!」
必死にその名を呼ぶと、みぃはわずかに身じろぎをした。
幸いにも、生きている。
息があることに安堵の息を吐く。けれどすぐさま、表情がこわばる。
「オマえ、クわせロ」
ソレが、近づいてきたからだ。
一歩踏み出すだけで、空気が振動する。
両手を血に染め、口からも赤い滴を滴らせる。みぃの腕をちぎったもの。
二足歩行の、半人半獣。
ギリシア神話に出てくるような、
「……ミノタウロス…」
夢ではないのだ、と身体に走る痛みが教える。匂いが主張する。
現実と認識すると同時に心底、力が欲しいと思った。
自分も、隣で死にかけている親友も、守れる力が。
そして、世界は白に染まる。
九条 僚
退屈な一日だ、と思った。
昨日は夜にバイトがあった。だから、ものすごく眠かった。
先公の話を子守唄に昼寝をしようとした矢先、それは現れた。
校舎が大きく揺れた。
女子が耳障りな悲鳴を上げる。
黒板の上の、学級目標を掲げた額が落ちる。
教壇に立っていた先生の頭すれすれを落下していくのが見えた。
地震か、と思った。
けれどすぐに、違う、とわかった。
地響きがする。地響きと同時に、揺れる。
巨大な、重い何かが、動いているのだ。しかもどんどん、近づいてくる。
不意に暗くなった。
窓を見る。
現実感が一気に失せた。
夢だろ、コレ。
校舎の3階にいる俺と、ほぼ平行な角度で視線を合わせるソイツ。
でかい。
縦にも、横にも。
小さいときに読んだ本を思い出した。
見上げれば見上げるだけ大きくなる、妖怪。
「……見越し入道」
おもむろに、そいつは腕を振り上げた。
「廊下に!」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
椅子から立って、扉を目指す。
ものすごい音と、振動と、いろいろな物で、一瞬意識が飛んだ。
気付くと、目の前は瓦礫の山。
腕に痛みが走る。けれど幸いにも、かすり傷ですんだらしい。
この惨状を前に、それは奇跡だろう。
窓越しではない空が見えた。
俺がさっきまでいた場所はヤツの拳で抉られていた。
下のやつらは大丈夫だろうか。
俺の目の前では、徐々に、誰かの流した血が広がり始めていた。
瓦礫の山のあちこちから生える、手足、体の一部。
恐怖した。
ヤツはまた拳を振り上げた。
死にたくない、と思った。奪われたくない、と思った。
理由なく。意味もなく。
抗う力が欲しい、と願った。
拳が振り下ろされる。
世界が白に染まった。
九條 宰
今日は比較的楽な一日になるはずだった。
忙しさにかまけて手を着けていなかった雑務を片づけて、久々に定時に帰れるはずだったんだ。
異変に気づいたのは営業先の病院に足を踏み入れた瞬間。
目の前の状況が、一瞬理解できなかった。
床に、ソファに、受付に。
倒れ伏し、動かない人々。
医者を呼ぼう、と周囲を見回して、当の医者が倒れているのを見つける。
見知った姿だった。いつも来るたびに挨拶を交わしてくれる、初老の医者だ。
名前を呼んで駆け寄る。
そして言葉を失った。
初老の医者の耳から流れ出ている液体。その正体が何かなど、考えたくもなかった。
近くに倒れている看護婦を見る。やはり耳から脳漿らしきものが流れていた。
――耳鳴りがする。
高く鋭い音が鼓膜を刺激する。
何なんだ何なんだ何なんだ――っ
何が起こっている?
伝染病だろうか。
生存者は?
冷静な思考などできなかった。
死体を前に、疑問しか浮かばない。
身の安全すら、考えなかった。
目端に、動く影が見えた。
生存者だろうか?
深く考えもせず、その影を追って走る。
耳鳴りが酷い。頭が割れそうだ。
突き当りを曲がって、エレベーターの前に出る。
そこにそれはいた。
エレベーターのボタンを興味深そうに眺めている。
これが、さっき見た影の正体だろうか。だとしたらとんだ外れくじを引いてしまったのではないだろうか。
それがボタンを押したのだろう。
軽快な音とともに、エレベーターのドアが開く。
それは驚いて飛びずさり、後ろにいた俺に気づいた。
感情を移さないガラスのような瞳。けれど眉間は不愉快そうに顰められていて。
「……天使?」
そこには有翼の少女がいた。
だが、自らの呟きをすぐさま否定する。
翼をもつ少女のようなソレは、猛禽類の下半身を持っていた。
これが何者かは知らない。
ただひとつわかることは、恐らくこの半人半鳥の化け物が、事切れた人々を量産したのだろう、ということ。
根拠はなく、しかし確信として、そう思った。
化け物が口を開く。
今までにないほどの耳鳴り。
同時に頭が割れるように痛む。
更にひとつ、わかったことがある。
俺は今、生命の危機にさらされている。この化け物に殺されそうになっている。
冗談じゃない、と思った。
そして世界は白に呑まれた。
早く真面目から抜けたい!