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「ちょっとだけ未来に行ってきてくれないか」
今にも死にそうな顔で、博士はそう私に言いました。そうです、まさしく意味もわからないことです。ああ、何だか私も何を考えているのかわからなくなってきました。今の今まで博士はいつも通り横になって液晶テレビに映る女優のほくろの数を数えるという愚行を行っていたのに、いきなりの未来超越してこいや宣言。命令と言った方がいいかもしれません。とにもかくにも博士は液晶テレビの電源をリモコンで消し、お昼に毎回食べることになっているカプセル状の薬をお水を媒介に二つ飲み込んだ後、「そろそろ限界かもしれないな」と私に向かって言ったのです。
「はい?」当然私は惚けた声を出します。「何を言ってるんですか、博士? とうとうぼけちゃいましたか」
「失礼な。誰がぼけるか誰が。これでもまだまだ現役だっての」
「では、何故私に未来へ行けなどと訳のわからないことを言うんですか?」
「わからないのか。政界や科学の世界を揺るがす一人の偉大な博士が、死ぬかもしれないと悟った。しかし死にたくない。まだ研究したいことが山ほどある。これらの状況が目の前に提示されているんだぞ」
「すいません、わかりません」
「考えたことをそのまま口にしてみろ。そうすれば自ずと答えは出てくる」
「はあ……」言われて私は考えますが、どうにもこうにも思い付きません。まず、博士が言った、政界や科学の世界を揺るがす博士という人が周りに居ません。それから、好きな女優のスリーサイズを目算で計算しつくす博士なら目の前に居ますが、研究したいことが山ほどある博士は周りには居ません。このような状態で一体全体どのようにして答えを出せと言うのでしょう。私には不可能なことです。しかし博士は考えたことをそのまま口にしてみろと言っています。些か上から目線でへどが出ますが、これも寝たきりの博士の為。未来に行く云々は置いておいて、博士の質問に答えるくらいなら私の人生のほんの少しをいけにえにする価値があるかもしれません。なので間違えることを覚悟し、潔く考えたままのことを言うことにしました。
「素人考えで恐縮なのですが、もしかして未来の治療法を持ち帰って病を治したい、とその博士は思っているのではないのでしょうか」
「おお、正解……ってその博士とはどういう意味だ。目の前にいる私だ。私がそう思っているんだ」
「調子こかないで下さいこの白髪野郎」
「え、は? 今なんて言った? 物凄く辛辣なこと言われた気がするんだが」
「辛辣なのは博士そのものです」全く、博士と喋っていると話が先に進みません。憤慨に思いながらも、私は博士に話し続けます。「とにかく、私を未来に行かせるなんてこと駄目に決まっています。いくら博士が未来にも過去にも行ける、猫型ロボットも青ざめる程の性能を誇るタイムマシーン開発者だとしても、それはいけません」
「あの猫型ロボットは最初から青ざめていたと思うのだが」
「最初は黄色ですよ。好きになったメスにケツふりまくった結果青くなったんです」
「その言い方は全国民からひんしゅくを買うから止めたまえ」
何でこんなこと言う娘になったんだろうなこの助手は、と溜息をつき、そして咳をはく博士。ゴホゴホゴッホと、有名画家の名前を言うかの勢いで咳を吐いています。急いで私が側に置いてあった水入りのコップを持っていこうとすると、「いや、いい。それよりもタオルを持ってきてくれ」と博士は口を右手でおさえながら言いました。博士の口からは赤い液体が出ていて、それによって私が洗った白いお布団や博士が着ている水玉模様のパジャマに赤い模様が。血。血です。博士の口、から、血、が。今までこんなことはありませんでした。思わず、「ひゃんっ」という声を出してしまう私。血は駄目なのです。深夜アニメに出てくる男性視聴者を狙い過ぎてる媚び媚び巨乳星人より駄目なのです。
「す、すまない。鼻血ではないからな。勘違いしないでくれ」慌てて持ってきたハンカチを手にとりながら、誰も責めていない部分を取り繕うとする博士。グーパンチ略してグーパンをしたいという欲求が生まれましたが、寸手の所で我慢した私。偉いです。博士より偉いです。拍手喝采をお願いします。
というような、冗談はさておき。
博士は、今までで一番危ない状態に居ます。危篤、とでもいうのでしょうか。今までにも、深夜にパソコンの液晶画面を見すぎたせいで鼻から血を出したり、目が充血していたりはしていましたが、まさか口から血をはくなんて。
「ゴホッ」「ひゃー、博士っ」
タオルでおさえている筈の口からはまだまだ血が出ています。よだれが押し出される勢いです。いえ、今の博士にとっては血がよだれなのでしょう。農家の方々が精魂込めて作ってくださったお米に含まれる成分を、血で分解する人間、それが博士なのです。まさしくニュー博士。略してニュ博士です。
「大丈夫ですか、ニュ博士っ」
「ニュ博士とは何だニュ博士とは」寧ろ君が大丈夫かと困惑しながら、私に真剣な表情を向けます。「昔患った不治の病。若い頃はなんともなかったのだが、どうやらここにきて本格化してきたらしい。二十年後とか三十年後とか、そこらへんの未来に行ってくれ。そうすれば私の命は助かる筈だから」
「博士。それはいけないことではないのですか」そう言いながら真剣な表情をする私。「未来に行くということは則ちこれから起こるかもしれない事象を先回りして知ることだ、と博士がノーベル賞を受賞した時博士自身が言っていたではないですか」
輝かしいスポットライトの光りに照らされながら笑う博士の姿を思い浮かべながら、私は博士に問い質しました。今思い出すとあの時の博士は滑稽な姿をしていたように思えます。皺くちゃな顔に白髪に黒いタキシードという不具合な程不釣り合いなあの姿。私はその博士の姿が哀れに思えて泣いたのです。決して、長年研究してきたことが世の皆様方に認められて嬉しいからではありません。私しか知らない博士の凄い所を、世の皆様方も知ってしまったことに対して泣いた訳ではないのです。
「いや、それとこれとは別だ」すると博士は、これまた真剣な表情で私の目を見ます。ですがその顔は、何かに対して言い訳をしようとしている風でもありました。「……いや、違うな。確かに君の言う通りだ。反論が思い付かない。私は私の私利私欲の為だけに君を未来に行かせようとしている。言い訳のしようもない。だが、まだなんだ、私にはまだ研究したいことが山ほどある! ドラゴンとやらに会ってみたい、この世の何処かにあるといわれる『ヒーローがいるのに平和な街』とやらにも行ってみたい、瞬間移動もしたい、タケコプターもつくりたい、昔出会った美人なお姉さんと再会したい!」
「最後の欲求に対して私は拒否権を行使したいと思います」
「君は何様だ、君は」とにかく、と一息つくと、博士はパジャマの左胸ポケットから銀色の鍵を取り出し私の前に差し出しました。「私は本気だ。私は私の為、君を使い未来の情報を得ようと思う。マスコミが騒ぐだろうな。私の好感度はがくんと下がるだろう。だがそんなことは知ったことではない! やーいやーい悔しいならお前らもタイムマシン造ってみろー! という訳で、さあ助手よ! バックトゥザフューチャーだ! 行ってこい!」
「嫌です」
「ここまで引っ張ってもまだ君は拒否権を行使するのか!」
何故君はそこまで未来に行きたがらないんだ、と怒った様に叫ぶ博士。まあ怖い。これこそ世の奥様方がいうドメスティックバイオレンスとやらでしょう。何も悪いことを言ってない私に対し、罵声を吐き捨てる博士。最悪です。逮捕ものです。何故博士はそこまで未来に行きたいのでしょうか、と考えたところで、ああそうか博士は生き永らえる為に未来へ行こうとしているんだ、と思い出した私。わかります。博士も博士なりに真剣なのはわかります。ですが、やはり自分の未来の為だけに私を未来に行かせるのはどうなんだろう、と私は思うのです。私のような平々凡々な女が未来に行ったとして、そこで必ず治療法を手に入れることが出来るかどうかもわかりません。それどころか、何か手違いをおかして現代の世界をぐちゃぐちゃにしてしまう可能性もあるのです。大事なところでドジをする女、それこそ私なのです。フジコちゃんもビックリな程です。ほらルパぁン、と誘惑している最中に銭形警部が来る状況を作り出す程のドジっぷりを発揮するのが私なのです。「だから駄目です、博士。私が未来に行ったら、またつまらぬ物を斬ってしまったと言いながらゴエモンがこんにゃくを斬ってしまいます」
「何の話だそれは! 一体全体、君は私に何を言いたいんだ」
「私はドジっ娘だということを言いたいのです」
「どれほどのドジをおかせば侍にこんにゃくを斬らせることが出来るのだ! ええい、もういい! ドジっ娘アピールなど勝手にやっていろ。とにかく、今すぐ未来に行ってこい」
これは命令だ、助手よ。
最期にそう言って、博士は死にました。目を閉じて、ぱたりと倒れるその死に際はなんとも呆気なく、私の頬に涙が流れることは一切合切ありませんでした。畜生。私のドジっ娘アピールを無下に扱いやがって。怒りが私の頭を蹂躙します。へっ、清々したぜ。口に出かけた言葉を胸の内に押さえ込む私。ふう、危うく私のキャラを壊すところでした。読者の皆様、私はエンジェルです。ドジっ娘ナースならぬドジっ娘エンジェルです。あなた方の未来をエスコートする万能エンジェル。花咲か天使並の活躍を見せてあげましょう。なのでどうかお見知りおきを。
「博士」エンジェルな私がエンジェルっぽく微笑み、博士の耳の中に囁きます。「どうか地獄で私の帰りを待っていて下さい」
「地獄行き決定かね私は!」
「あれ、生きてた」
「死なぬよ、まだ死なぬよ死なないよ!」
ただ単に睡魔に襲われただけだと言い張る迷惑な白髪博士の耳にかじりつき、「あんまり思わせぶりなことをしないでください。泣いちゃいますから私」とカミカミしながら博士にご忠告。それに対し、「泣くどころか地獄に落とそうとしたじゃないか君は」と青ざめた顔を更に青ざめて呟く博士。ツイートなう状態です。博士、機嫌損なう。私、博士への尊敬損なう。
「何はともあれ」 博士に別れを告げ、暗い研究室を歩き出す私。博士の命令は絶対なのです。ぶつくさ私が言った所で、博士の意見を覆すことが出来るなど有り得ないのです。ああ悲しきなか私の無力。エンジェルが白髪に負ける瞬間です。虚しいかなエンジェルの力。
ああそういえば。今更ながらですいませんが、この研究室は地下にあるのです。うっすらと青いコンクリートで囲まれた研究室。窓もなければ風も通りません。匂うのは薬品の香りばかり。暗い研究室を照らす蛍光灯も壊れかけ。博士はわかっているのでしょうか。もう、博士には研究費が殆ど残っていないということを。思えば博士がタイムマシンを造りだしてから十年が経ちました。そのすぐ後に、博士は病により倒れました。以後、博士は研究をせずに、女優の顔のほくろばかり観ていました。研究対象が科学からほくろに代わった博士のあの姿は、かの有名な真っ白になったボクサーと少しだけ似ていました。ほんの、ほんの少しだけですが。
そうこう思い悩んでいる内にタイムマシンへと辿り着いた私。研究室の隅の方にあるタイムマシンは、以前見た時よりも埃が被っていました。それもその筈。私はタイムマシンというのがあまり好きではないのです。これが博士の知名度を高め、博士宛ての女性のラブレターを遠方からかき集めたと思うと、とてもとても平常心を保ってはいられません。若い女性からのラブレターを読み、ニコニコ微笑む博士を鈍器で殴ったのはまた別な話です。ニコニコ動画でも観ていればいいのです、あんな博士は。ユーチューブは観させません。
タイムマシンはドアの向こうにあります。木製の長方形のドアに、ドアノブ。まさしく青色タヌキロボットが住む家の扉にそっくりです。博士が何を思ってこのデザインにしたのかは見当も尽きませんが、私はドアノブに鍵を差し込み中に入りました。扉を開いた先にある公衆電話ボックス並の小さな部屋の中には何もありません。手をのばせば簡単に届く低い天井に設置された、重々しい機械だけを除けば。
タイムマシーン。
博士の唯一の発明品です。マシンなのかマシーンなのか、今更ながらよくわかりませんが。私は罪な女。古来より培った言語すら捩曲げてしまうのです。卑弥呼もビックリ、樋口一葉もビックリです。思わずにやけ顔になった私ですが、この顔のままバックトゥザフューチャーはまずいので、気を引き締めてタイムマシンに行き先を入力します。
「二十年後、未来、っと」呟きながら私はタイムマシーンに入力をし、決定ボタンを押しました。え? そんな軽々しい描写ではタイムマシンがどんな外見をしているかわからない? すいませんが、それは神のみぞしるということでお願いします。タイムマシーンなんてどんな形してるかわかったもんじゃねーんだよ、という作者の心中をお察しください。書けるかそんなの。思い描けるかそんなの。描写力がないんだ描写力が。悲しい。
「同じように、『今までの情景描写もわかりにくい』という指摘もお控え願います」
エレベーターガール並の笑顔の仮面を纏い、誰彼問わず言う私。この笑顔を見れば、寛大なる読者様方ならきっと寛容に私ならびに作者を許してくれると思います。辛口感想板が怖い。ここらで一杯、お茶が怖い。
私がくだらないことを考えている内に、頭上のタイムマシーンから電気が流れ出てきました。バリバリビリビリと、まるで私を虎視眈々と狙っているかの様です。次第にその音も発電の量も大きくなっていき、部屋を包み込みました。視界が真っ白になります。ピリピリとした感覚が私の体を通り、とうとう私の意識はそこで一瞬途切れました。
再び目を開けると、私は相も変わらず公衆電話ボックスのような大きさの部屋に立っていました。電気が流れた筈なのに、着ている白衣は全く焼け焦げていませんし、私の体はどこも傷ついていません。寧ろ肩こりが治りました。これこそが科学の力、というべきなのでしょうか。恐るべき、です。貼るはサロンパス、というあの有名なCMも不要と化します。凄いです、タイムマシーン。凄いです、博士。
肩こりが治ったことは嬉しいのですが、しかしここが本当に未来なのかどうかがわかりません。見渡すとドアノブが見付かりました。けれどもこれが未来のものなのか、見当が尽きません。残念ながら扉を開けて、その先にある光景を目にしないことには未来に来たかどうか理解出来ないようです。手間隙かかります。だから博士は駄目なのです。肩こりを治すくらいにしか役立ちません。
憤慨に思いつつも、私はドアノブに手をかけました。この扉の先にはどんな光景が広がっているのでしょう。髪型を馬鹿にされると怒るクレイジーダイアモンドな男性と、だが断ると一回だけ言っていた漫画家さんが戦っているのでしょうか。三人のハンター志望者に向けて、お祖母さんがドキドキ二択クーイズ、と大声で言っているのでしょうか。正直、楽しみです。ワクワクドキドキです。略してワクドキです。若者言葉を容赦なく扱う妙齢のエンジェル、それが私です。
「えいっ」そうこう思い描き、やがて覚悟を決めると、私はドアノブを回して扉を開けました。「え?」
そこには。
ゴミというゴミが、散開していました。
サッカーが出来そうなくらいの大きさの研究室に、ありとあらゆるゴミが広がっているのです。冷蔵庫や本棚といった大型のゴミから、林檎の芯やボールペンといった小型のゴミまで、それぞれビニール袋にも入ってない剥き出しの状態で無造作に放置されています。歩けるスペースが少ししかありません。幸運にもタイムマシンの扉の近くにはゴミがあまり無かった為簡単に扉は開きましたが、それでま数歩先にはゴミがあります。生ゴミ不燃ゴミ粗大ゴミ。ゴミが。大量のゴミが、研究室を占領しているのです。
「そん、な」呆気にとられながら私は呟きます。「これが、未来なんですか。私と博士の、未来なんですか?」
私はタイムマシーンが嫌いでした。タイムマシーンのせいで遠方より博士へのラブレターが届き、そのラブレターを読んで横になりながら博士がにやにやしている姿を目撃してしまったからです。博士は好きです。ラブではなくライクの意味で。しかし博士の造ったタイムマシンは嫌いです。だから、私は今まで未来に来たことがありませんでした。
なので、こんな情景を見ることになるとは想定外だったのです。「嘘、ですよね」
誰に言うでもなく問う私。ここは二十年後の未来。確証に至る証拠はありませんが、少なくともこの研究室の中央のベッドの上で横たわる博士が居ない時点で、ここは現代ではありません。つまりは未来。二十年後の未来なのです。
「…………」扉を閉め、沈黙の状態のまま私は歩きます。生ゴミやら不燃ゴミやらの感触が足を伝いますが、関係ありません。ツン、と鼻をつく臭い匂いがしますが関係ありません。額からはいつの間にか汗が流れていました。私は、歩いているより他にすることが見付かりませんでした。そうでもしていないと、今にも叫び出してしまいそうだったからです。
輝かしい未来が待っている。
そんなのは、私の妄想であり、虚構でした。フィクションでした。実在の人物団体とは一切関係がありませんでした。「私の目の前には、ゴミしか広がっていません。輝かしい未来などないのです。博士を治す治療法など、ありはしないのです」
「そ、そんな悲しいことを言わないでください」
声が。
男の子の、声変わりをする前の男の子の声が聞こえてきました。「お姉さんは誰ですか。僕の秘密の場所に、どうやって入って来たんですか。そこらへんも含めて、お姉さんが絶望する理由を教えて下さい」
「貴方に話しても何の解決にもならないと思います。私の悩みは、それ程までに深いことなのです」
「確かに、僕は何の解決策も持っていないかもしれません」ボサボサの髪を持つ小さな男の子は、ゴミの上に立ちながら、笑顔でこう言いました。「でも、僕に話すことによってお姉さんの心が少しだけでも楽になるのなら、話す価値はあるんじゃないですか?」
男の子は、一点の曇りもない笑顔で私に言いました。思いがけない絶望にうちひしがれていた私は、男の子の言葉に思わず涙を流していたのです。




