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婚約破棄されたので、蜂も連れて出ていきます 〜蜂のいない果樹園に、実がなるとお思いで?〜

作者: 猫の飼い主
掲載日:2026/09/01

 王都のロートハルト侯爵邸。その大広間に満ちていたのは、蜜蝋の匂いでした。


 シャンデリアに灯された何百本もの蝋燭。そのすべてが、わたくしの領地から納めたものです。獣脂の蝋燭のように煤も臭いも出さず、ただ甘く、静かに燃える。王都の夜会で使われる蜜蝋は、九割がアルベリク子爵領産。つまり、この美しい光は、わたくしの蜂たちが作ったものでした。


 誰もそれを知らないまま、笑い、踊っている。


 わたくしはそれを、悪くないことだと思っておりました。


「セラフィーナ・アルベリク」


 名を呼ばれて振り返ると、婚約者である若きロートハルト侯爵、ユリウス様が立っておりました。その腕には、マリエル・ドラン男爵令嬢が寄り添っています。桃色のドレスの、可憐なお方。


「貴様との婚約を、破棄する」


 楽団の音が止まりました。人の輪が、波が引くように広がっていきます。


「理由を伺っても?」


「その手を見ろ」


 わたくしは自分の手を見ました。白絹の手袋の下には、いくつもの小さな腫れの痕があります。この一年で、刺された回数は十一。例年より多い。春の長雨で蜜源が減り、群れが気を立てていたせいです。


「侯爵家に嫁ぐ女が、虫に刺されて傷だらけとは。ドレスからは草の匂いがする。舞踏会の最中に巣箱の話をする。恥だとは思わんのか」


「わたし、蜂は怖くて……」マリエル様が、小鳥のような声で言いました。「ユリウス様、わたし、あのお庭を見ただけで足がすくんでしまうんです。白い箱が、ずらりと」


 ああ、と思いました。この方は、もうロートハルト領へ行かれたのですね。


「案ずるな」


 ユリウス様は、彼女の手を握りました。


「マリエル。あれは元より、この女が勝手に持ち込んだものだ。婚姻が成れば正式にロートハルトの管理下に入る手筈だったが、その必要もなくなった。──我が領の果樹園に据えられた箱は、すべて焼き払う」


 ざわめきが走りました。わたくしは、まばたきを一つしました。


「焼き払う、と」


「当然だ。侯爵家の名に虫の家業など要らん」


 ロートハルト領の果樹園には、四十二の巣箱が置いてあります。三年前、婚約が整った春に、わたくしが自分の群れを分けて運んだものでした。婚約者ですもの。賃料などいただくつもりもありませんでした。


 わたくしは、ひとつだけ伺うことにいたしました。この方は、三年間、一度もその果樹園に足を運ばなかった方です。ですからこれは、意地悪ではなく純粋な確認でした。


「ユリウス様。ロートハルト領の果樹は──どなたが実らせているとお思いですか」


 ユリウス様は、はっきりと笑いました。


「馬鹿を言うな。木が勝手に実るに決まっているだろう。神が恵み、土が育て、農民が摘む。それだけの話だ」


 ああ。


 わたくしは、そのとき初めて、胸のあたりが静かになるのを感じました。怒りでも悲しみでもありません。長く抱えていた荷物を、床に置いたときのあの感じです。


「かしこまりました」


 ドレスの裾をつまみ、深く礼をいたしました。


「婚約破棄、謹んでお受けいたします。つきましては、ひとつだけお願いがございます」


「なんだ、慰謝料か」


「いいえ。あの箱を、持ち帰る許可をいただきたいのです。焼いていただくには及びません」


 広間に、堪えきれない笑い声が広がりました。婚約を破棄された令嬢が、最後に願ったのが虫の箱。滑稽でございましょう。ユリウス様も肩を揺らして、手を振りました。


「持っていけ。一匹残らずだ。ロートハルトの地に、貴様の虫を一匹たりとも残すな」


「──承知いたしました」


 わたくしは顔を上げました。


「一匹残らず、でございますね」


 王都を発ったのは、その夜のうちでした。


 ロートハルト領までは、馬車で二日。到着したその日は何もせず、日が沈むのを待ちました。


 蜂を運ぶには、夜がいいのです。日が落ちて、働き蜂が最後の一匹まで巣に帰ってから、入口に風の通る網を張って荷車に載せる。昼に運べば、外に出ていた蜂が帰る場所を失って死んでしまいますし、入口を締め切れば、群れが自分の熱で蒸れてしまいますから。


 あの子たちは、巣の位置を空の光で覚えております。一度覚えた場所へ、まっすぐに帰る。


 けれど、覚えているのは場所であって、忠誠ではありません。箱ごと運んでしまえば、あの子たちは新しい土地の光を覚え直し、二度と前の場所へは帰らない。女王さえいれば、群れはどこへでもついてくるのです。


 四十二箱を積み終えたのは、夜明け前でした。


 荷車の上から、遠ざかる侯爵領の果樹園が見えました。月明かりの下、白い蕾が一面に膨らみ、早い枝では花がほころび始めております。今年も、見事に咲くでしょう。


 ただ、花は、それだけでは実になりません。


 誰も、そのことをご存じないようでした。


    ◇


 アルベリク子爵領は、王都から南へ馬車で五日。山あいの、小さな領地でございます。四十二箱に昼は幌で日を避けさせ、網越しに水を与えながらの道中でございました。


 父は、わたくしの顔を見て、それから荷車の巣箱を見て、ひとこと言いました。


「四十二箱、全部か」


「はい」


「よくやった」


 それだけでした。父は昔からそういう人です。婚約破棄のことは、その日ついに一度も口にしませんでした。ただ夕食のときに、「来年の分蜂は少し多めに取れ」とだけ。増やせという意味です。この家では、それが慰めの言葉でした。


 アルベリク家は三代続く養蜂の家でございます。先祖が書き始め、代々書き継いできた『蜜源暦』という帳面が納屋にあって、どの花がいつ咲き、どれだけ蜜を出すか、百年ぶんの記録が残っております。わたくしが十のときから読み込んだ、家の宝でした。


 貴族としては笑い話でしょう。剣も持たず、由緒ある系譜も語らず、代々の当主が花と虫の帳面をつけている。だからロートハルト侯爵家との婚約は、身に余る話だと皆が申しました。わたくし自身、そう思っておりました。


 思っていたのだと、今なら分かります。


 その男が訪ねてきたのは、雪の残る三月のことでした。


「アルベリク子爵。息子はおられるか」


「おりません。娘だけです」


「では娘御でもよい。『蜜源暦』を書いた家の者に会いたい」


 玄関で押し問答をしている声が聞こえて、わたくしは納屋から出ていきました。外套に雪を積もらせた、背の高い方が立っておりました。三十ほど。貴族にしては陽に灼けた顔で、手袋を外した指の関節が、荒れて太くなっております。土を触る人の手でした。


「レーヴェンハイム辺境伯、ヴァルターと申す」


 父が息を呑みました。北の国境を預かる家です。うちのような小領が口を利ける相手ではございません。


「単刀直入に申し上げる。我が領は、果樹が実らぬ」


「……花は、咲きますか」


 わたくしが問うと、辺境伯はこちらを向きました。


「咲く。見事に咲く。年々、木は増やしている。土も入れ替えた。水路も引いた。祈祷師も呼んだ。それでも実がつかん。十年だ。十年、原因が分からん」


「畑の周りに、林はございますか」


「あった。開墾で全部伐った。果樹を植えるためにな」


「それでございます」


 辺境伯の眉が上がりました。父が咳払いをして、わたくしを止めようとしましたが、わたくしは続けました。ここで止めては、この方の十年が無駄になりますもの。


「花は、自分では実になれません。花粉を雌しべまで運ぶものが要ります。風で運ばれる木もございますが、果樹の多くは虫が運びます。野の蜂は、林の朽木や土の斜面に巣を作ります。林を伐れば、虫が住む場所がなくなる。花はいくら咲かせても、運び手がいなければ、ただ散るだけです」


 玄関に、しばらく音がありませんでした。


「……虫が」


「はい」


「木ではなく、土でもなく、虫が」


「はい」


 辺境伯は、ゆっくりと片手で顔を覆いました。それから、笑ったようでございました。悔しさと、安堵と、それから十年ぶんの何かが混ざった、妙な笑い方でした。


「王都の学者を三人呼んだ。誰も虫の話はせなんだ」


「学者様は、蜜を採るために蜂を飼います。実を採るために飼う者はおりません。順序が逆でございますから」


「あなたは飼っておられるのか」


「うちは、蜜を採る家です。ですが、蜂を置いた年の畑がどうなったかは、百年ぶん帳面に残っております」


 その日、わたくしは辺境伯を納屋にお通ししました。本来なら、年頃の娘がすることではございません。父も渋い顔をしておりましたが、この方は帳面を見せた途端、外套も脱がずに床に座り込んで読み始めましたので、もう身分も何もございませんでした。


「これは、花の咲く順が書いてあるのか」


「はい。蜂は、蜜の切れる時期があると群れが弱ります。春の果樹が終わってから、夏の草花が咲くまでの間が、いちばん危のうございます。そこを埋める花を、あらかじめ植えておかねばなりません」


「……果樹を実らせるために、果樹以外の花を植えると」


「さようでございます」


 辺境伯は顔を上げました。


「逆だと思っておった。果樹の邪魔になる草は、全部抜けと命じてきた」


「では、それも一因かと」


 わたくしは、失礼だったかしらと思いました。けれどこの方は、腹を立てるどころか懐から手帳を出して、書き取り始めたのです。辺境伯が、子爵令嬢の言葉を。


「セラフィーナ殿。頼みがある」


「はい」


「我が領へ来ていただきたい。蜂を、連れて」


 父が立ち上がりかけました。わたくしは、手のひらを見ておりました。まだ腫れの痕が残っている、みっともない手です。


 ひと月前、この手は恥だと言われました。


「……わたくしの手は、傷だらけでございます」


「そうだろうな」


 辺境伯は、あっさりと頷きました。


「私の手も似たようなものだ。人に何かをさせる手より、自分で触る手のほうが荒れる。当たり前の話だ」


 わたくしは、返事をするのに少し時間がかかりました。


「──蜂は、夜に運びます」


「なんだと」


「日が落ちて、最後の一匹が巣に帰ってから運びませんと、外に出ていた子が帰る場所を失います。ですから、出立は夕刻でございます。それでよろしければ」


 辺境伯は、今度ははっきりと笑いました。


「もう連れて行く算段をしておるではないか」


 同じ頃。


 ロートハルト侯爵領では、果樹園に白い花が咲き揃っておりました。今年も見事な花でございます。領民たちは例年どおり、花が散るのを待っておりました。


 散ったあとに何が残るかを、まだ誰も知らないままに。


    ◇


 レーヴェンハイム領に入ったのは、四月の初めのことでした。


 北の土地です。風が冷たく、けれど空が広い。丘の斜面いっぱいに果樹が植えられて、その向こうに国境の山が白く連なっておりました。


 巣箱を据えたのは、果樹園の南東の縁。朝いちばんに日が当たり、風下にならない場所です。


「なぜここだ」


 辺境伯は、初日から作業についてまいりました。外套を脱ぎ、袖をまくって、巣箱の足場を自分で組んでおられます。辺境伯が。


「蜂は、朝の光で飛び始めます。日の当たりが遅いと、その分だけ働く時間が減ります。それと、あちらの窪地は霜が溜まりますので」


「霜の溜まる場所が分かるのか」


「草の枯れ方でございます。同じ草でも、霜の落ちる場所は先に色が変わります」


 辺境伯は、また手帳を出しました。この方は本当に、何でも書き留められます。


 それから、十日ほどかけて林を戻す算段をいたしました。伐り払われた斜面に、雑木を植える。すぐには育ちませんから、当座は朽木を運んで積み、土の斜面に穴を残しておく。野の蜂の住処です。


「これは、蜜にはならんのだろう」


「なりません。うちの蜂の蜜にも」


「では、なぜやる」


「野の蜂は、うちの蜂が飛ばない寒い朝でも飛びます。花の種類によっては、野の蜂のほうが上手に受粉させます。わたくしの蜂だけでは、足りません」


 辺境伯は、朽木を抱えたまま、しばらくこちらを見ておりました。


「あなたは、自分の蜂の手柄にはせんのだな」


「事実を申し上げただけでございます」


 五月。花が咲きました。


 わたくしは毎朝、日の出とともに果樹園へ出て、巣門の前に立っておりました。何をするでもございません。ただ、蜂が出ていくのを数えるのです。飛び出す勢い、脚につけて帰る花粉の色。それで群れの調子が分かります。


 黄色い花粉が帰ってくれば、果樹の花に行っている証拠。灰色が混じれば、どこかに別の花が咲いている。


「セラフィーナ殿。何を見ておられる」


「花粉の色でございます。今朝は黄色ばかりですので、皆きちんと果樹へ行っております」


「……色で分かるのか」


「はい。ですから、ひとつお願いがございます。あの丘の菜の花畑ですが、今年だけ、刈っていただけませんでしょうか」


「あれは飼葉にする畑だ。なぜだ」


「菜の花は蜜が多く、蜂には楽な花でございます。楽な花が近くにありますと、そちらばかりへ行って、果樹の花を訪ねません」


 辺境伯は、その日のうちに菜の花畑を刈らせました。反対する家令に、こう言ったそうでございます。


「十年、俺のやり方でやって実らなかった。今年はあの方のやり方でやる」


 六月。花が散りました。


 わたくしは怖くて、しばらく畑を見に行けませんでした。理屈は分かっております。帳面もございます。それでも、散った花の下に何もなかったらと思うと、足が動かないのです。


 行ったのは、三日目の朝でした。


 小さな、緑の粒が。


 枝という枝に、緑の粒がついておりました。ひとつやふたつではございません。数えるのも馬鹿らしいほど、びっしりと。


 その場に、しゃがみ込みました。婚約を破棄されたときにも泣かなかったのに、みっともないことでございます。


 少し離れたところで、辺境伯が立ち止まっているのが見えました。近づいてはこられません。ただ、そちらもしゃがみ込んで、片手で顔を覆っておられました。十年でございますもの。


 七月。夏の内検をいたしました。巣枠を一枚ずつ引き上げ、卵と蜜の入り具合を確かめる作業です。群れがいちばん気の立つ時期で、手袋の上からでも刺されます。


 朝から三度刺されて腫れたわたくしの手から、辺境伯は黙って巣枠を受け取られました。


 蜂が一匹、その手袋と袖の隙間へ入り込みます。


「動かないでくださいませ」


「分かった」


 針が刺さっても、この方は巣枠を揺らしませんでした。枠を静かに箱へ戻し、袖をまくって、赤く腫れ始めた手首を眺めておられます。


「腫れます」


「だろうな」


 辺境伯は、その手首をこちらへ向けました。


「これで、あなたと揃いだ」


 わたくしは、何と申し上げていいか分かりませんでした。ですから、次の巣枠を引き上げました。


 その年の秋、レーヴェンハイム領は、これまでの三倍の果実を収穫いたしました。


 北の果実は果肉が締まり、甘みが強うございます。ただ、これまで数が採れませんでしたので、市場ではほとんど知られておりませんでした。それが一気に王都まで出回りました。


 蜜も採れました。果樹の蜜は淡く、香りが清らかで、王都の蜜商が値をつけて買っていきます。


 辺境伯は、収穫の帳簿を持ってわたくしのところへ来られました。


「これは、あなたの取り分だ」


「多すぎます」


「少ないくらいだ。──セラフィーナ殿。ひとつ聞きたい」


「はい」


「なぜ、王都であなたを手放した者がいる」


 わたくしは、答えられませんでした。


 その頃。


 ロートハルト侯爵領の果樹園では、秋になっても、枝にまばらな実しかついておりませんでした。


 春には、あれほど見事に咲いたのです。領民たちは花の下で祭りをして、豊作を祝いました。それから花が散って、緑の粒を待って、待って──ついたのは、例年の一割にも届かぬ数でした。市場へ出せる果実は、ほとんどございません。


 畑の一角には、焼かれた巣箱の跡が黒く残っておりました。ユリウス様の命令どおり、わたくしが運び出せなかった古い空箱を、領民たちが律儀に燃やしたのです。


 屋敷の方々は、誰もそれを原因だとは思いませんでした。


 空の箱を燃やしただけですもの。


    ◇


 最初の冬、わたくしは一群を死なせました。


 南の帳面にはない、北の湿った雪を読み違えたのです。藁の巻き方が南のままで、湿気が箱にこもり、群れが冷えました。春を待たずに、箱の底に小さな骸が溜まっておりました。


 空になった巣箱の前で、辺境伯は慰めを仰いませんでした。


 ただ、「次の冬は、何を変える」と手帳を開かれました。


 藁を厚くし、屋根の下に小さな通気口を残し、箱を地面から浮かせること。わたくしがそう申し上げると、この方はそれを書き留められました。一群を死なせた、という一行も、一緒に。


 ロートハルト侯爵領が動き始めたのは、年が明けてからでございました。


 果実が採れなければ、翌年の種苗も農民への支払いも回りません。侯爵家は王都の商会から金を借り、翌年の収穫を担保に入れました。


 原因を探す会議が幾度も開かれたそうです。土が痩せた。水が悪い。祈祷が足りぬ。果樹園頭だけが、巣箱を戻してほしいと訴えました。けれどユリウス様は、「虫飼いに吹き込まれたか」と退けられたそうです。


 その一方で、王都から視察に来た農務官が「花に虫がおらぬ。よそでは巣箱を置いておりますな」と言うと、その日のうちに南の商人へ蜂を手配なさいました。八十箱。うちが置いていた数の、倍近くでございます。同じ言葉でも、誰が言うかで聞こえ方が違う。そういう方でした。


 南の商人は、良い蜂を売りました。ただ、南の蜂でした。


 北のロートハルト領は、南より春が二週間遅い。運ばれてきた群れはすでに活動を始めておりましたのに、着いた土地にはまだ果樹の花がない。飢えた蜂は、蜜のある花なら何でも訪ねます。


 春先、他に何も咲かぬ時期に、丘一面を紫に染める花がございます。羊が食べると腹を下すので、あの領地では「羊除け」と呼ばれておりました。人が採らぬ花ですから、誰も気に留めません。


 蜂は、その蜜を集めました。人の毒になる蜜を、蜂が避けるとは限りません。


 やがて果樹の花が咲き、その年は実がなりました。八十箱もございましたから。蜜も採れました。初めて自領で採れた蜜を、ユリウス様は最上等の壺に詰めさせ、王家への献上品となさいました。


 その壺には、春先の「羊除け」の蜜と、果樹の蜜とが混ざっておりました。


 時期ごとに分けて採る。それが養蜂の基本です。うちでは春一番の蜜は必ず別にし、人の口には入れません。何が混じっているか分かりませんから。


 けれどそれは、家の帳面に書いてあることでした。


 王家の秋の宴で、十九名が倒れました。嘔吐と痺れ、動悸。死者は出ておりませんが、そのうちのお一人が王太后様でした。


 毒殺の疑いで厨房の者が全員捕らえられ、献上品が洗い出され、毒はロートハルト侯爵領産と記された蜜の壺から出ました。ユリウス様は王城に召し出されました。


 わたくしがこれを知ったのは、王都の蜜商からの手紙でございます。事件のあと、王家からすべての蜜商に問い合わせが回ったのだそうです。


 ──王家は、蜜に毒が混じる仕組みを知る者を探しております。あなた様の家の帳面に、その記述はございませんか。


 辺境伯にお見せしますと、しばらく黙っておられました。


「行かねばならんか」


「参ります。放っておけば、厨房の方々が処刑されます」


「あなたを捨てた男の領地の話だぞ」


「厨房の方々は、わたくしを捨てておりません」


 辺境伯はそれ以上何も仰らず、翌朝、ご自分の馬車と護衛を四人つけてくださいました。


「一つだけ言っておく。王都で何を言われようと、あなたには帰る場所がある。うちの果樹園は、あなたがおらねば実らん」


 王城で、わたくしは家の帳面を開きました。四十年ほど前、祖父の父が書き残した頁でございます。


 ──春一番の蜜、村の者三名が痺れた。羊除けの花と思われる。以後、四月の蜜は分けて採るべし。


 ただそれだけの、二行です。


 文官の方々が、それを取り囲むようにして読まれました。誰も、何も仰いませんでした。厨房の方々は、その日のうちに解き放たれたそうです。


 王城を出るとき、廊下の先にユリウス様が立っておられました。一年半あまりぶりでございます。ずいぶん痩せておられました。


 礼をして、そのまま通り過ぎました。呼び止める声がしましたが、聞かなかったことにいたしました。


 話すことが、何もございませんもの。


 どうすればよかったのかと問われても、答えは一つです。


 四月の蜜を、分けて採ればよかったのです。


 それだけの話でございました。


    ◇


 ユリウス様がレーヴェンハイム領へ来られたのは、雪の降り始めた頃でございました。


 ちょうど、越冬の支度をしている最中でございます。巣箱に藁を厚く巻き、屋根の下に通気口を残し、箱を地面から浮かせて、巣門を狭める。去年の冬に一群を死なせて、覚えたことでございます。冬に群れを死なせれば、春の受粉はございません。一年でいちばん、気の抜けない作業です。


 わたくしは藁を抱えたまま、その方を見上げました。


 外套は上等でしたが、袖口が擦り切れておりました。売れるものから売られたのでございましょう。


「セラフィーナ」


「ロートハルト様。ご用件を伺います」


 様、と付けたのは、もう他人だからでございます。ユリウス様は、そこで少し息を詰められました。


「……戻ってきてくれ」


「ご用件を伺います」


「毒殺の嫌疑は晴れた。だが、献上の責任については、まだ沙汰が下りていない。今年の果実の売上は補償で消えた。八十箱も、南の商人に売り戻した。来年の収穫が立たねば、商会への返済が滞る。滞れば、領地を手放すことになる」


「はい」


「頼む。蜂を、戻してくれ」


 雪が、巣箱の屋根に薄く積もっておりました。


「マリエル様は、いかがなさいました」


「……実家へ帰った」


「そうでございますか」


 藁を巻く手は、止めませんでした。ここで止めると、指がかじかんで結び目が緩みますもの。


「ロートハルト様。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「なんだ」


「あの畑の、焼けた箱の跡はまだございますか」


 ユリウス様は、答えられませんでした。


「わたくしは四十二箱、すべて持ち出しました。焼かれたのは、中身のない空箱でございます。あれを燃やしたところで、一匹も死んではおりません」


「……では、なぜ」


「なぜ実らなかったか、でございますか」


 顔を上げました。


「わたくしが箱を持ち出したからでございます。焼いたからではなく、持ち出したからです。あの日、あなた様が『一匹残らず持っていけ』と仰いましたので、そのとおりにいたしました」


 ユリウス様の顔から、色が引いていくのが分かりました。


 この方は、この一年あまり、ずっと「誰かが自分を陥れた」とお考えだったのでございましょう。土か、水か、天候か、政敵か。そのどれでもなく、ご自分がその場の思いつきで口にした一言だったと、今、初めて理解なさったのです。


「知っていて、黙って出ていったのか」


「はい」


「なぜ言わなかった」


「申し上げました」


 その方の目を見て、申し上げました。


「あの晩、わたくしは伺いました。ロートハルト領の果樹は、どなたが実らせているとお思いですか、と」


「──」


「あなた様は、木が勝手に実るとお答えになりました。ですから、それ以上申し上げることはございませんでした。答えを差し上げても、聞く方がいらっしゃいませんもの」


 雪が少し強くなりました。巣門を確かめ、藁の隙間を指で押さえます。


「蜂は、箱ごと運べば、新しい土地の光を覚え直します。ですから、戻すことはできます」


「ならば──」


「けれど、戻りません。戻らないのは、わたくしのほうでございます」


 雪の積もる巣箱の列を、見渡しました。四十二箱が、いまは百二十箱になっております。冬に死なせた一群のぶんも、春に取り返しました。


「この子たちは、いまはこの土地の果樹と、この土地の人を養っております。あなた様が要らぬと仰ったものを、要ると仰ってくださった方から取り上げるつもりはございません」


「望む条件は、すべて呑む」


「条件の話ではございません」


「……そうか」


「はい」


「そうか」


 ユリウス様は、もう一度そう仰いました。


 少しだけ、迷いました。この方はもう終わりです。それでも、雪の中を五日かけて来た人でございますから。


「ロートハルト様。ひとつだけ、差し上げられるものがございます」


 懐から、紙を出しました。ええ、あらかじめ用意しておりました。いずれこの方が来るかもしれないと、王都からの帰り道に思いましたので。


「四月の蜜は、必ず分けて採ってくださいませ。羊除けの花は、抜いても翌年また生えますので、抜くのではなく、その時期に別の花を用意してください。それと、南の蜂を北へ入れる際は、必ず砂糖水を与えて、花が咲くまで飢えさせないこと」


「これは」


「うちの帳面から、必要なところだけ写しました。これがあれば、次に蜂を迎えられたとき、同じ過ちは繰り返さずに済みます」


 ユリウス様は、その紙を両手で受け取られました。手が震えておりました。


「なぜ、こんなものを」


「あなた様のためではございません」


 静かに、申し上げました。


「ロートハルト領には、二千人の領民がおられます。あの方々は、わたくしに何もしておりません」


 ユリウス様は、深く頭を下げられました。貴族が、他家の令嬢に。


 礼は、返しませんでした。返すべき礼が、もうございませんでしたので。


 その方が雪の中を帰っていかれるのを、最後まで見送ることはいたしませんでした。巣門の藁が、まだ半分残っておりましたもの。


 辺境伯がいらしたのは、日が暮れる頃でございます。


 厩の陰に立っておられたのを、わたくしは最初から存じておりました。


「聞いておられましたね」


「聞いていた」


「盗み聞きでございます」


「そうだ。詫びる気はない」


 辺境伯は、雪を払って隣に立たれました。それから、しばらく黙って巣箱を見ておられました。


「セラフィーナ殿。俺は、あなたに何をやれるか考えていた」


「充分いただいております」


「金はやれる。地位もやれる。だが、そんなものはあの男でもやれた」


 辺境伯は、こちらを向かれました。


「俺があなたにやれるものは、ひとつしかない。俺の土地の全部だ。花の順も、林も、丘の草も、あなたに預ける。菜の花を刈れと言われれば刈る。ただし、理由は聞く。分からなければ、分かるまで教わる。そのうえで、最後はあなたの言うとおりにする」


 雪が、この方の肩に積もっておりました。


「……それは、求婚でございますか」


「そのつもりで五日考えた。もっと上手い言い方があるかと思ったが、なかった」


 わたくしは、笑ってしまいました。あの夜以来、初めてでございました。


「わたくしの手は、傷だらけでございます」


「知っている」


「これからも、増えます」


「増やせばいい」


 藁の残りを置いて、その手を取りました。荒れて、太くなった、土を触る人の手でございます。


 春になれば、また花が咲きます。


 花は、それだけでは実になりません。


 運ぶものが要ります。運ぶものを、育てる者が要ります。そして──


 それを見ていてくれる人が、要るのでございます。


〈了〉


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