婚約破棄されたので、蜂も連れて出ていきます 〜蜂のいない果樹園に、実がなるとお思いで?〜
王都のロートハルト侯爵邸。その大広間に満ちていたのは、蜜蝋の匂いでした。
シャンデリアに灯された何百本もの蝋燭。そのすべてが、わたくしの領地から納めたものです。獣脂の蝋燭のように煤も臭いも出さず、ただ甘く、静かに燃える。王都の夜会で使われる蜜蝋は、九割がアルベリク子爵領産。つまり、この美しい光は、わたくしの蜂たちが作ったものでした。
誰もそれを知らないまま、笑い、踊っている。
わたくしはそれを、悪くないことだと思っておりました。
「セラフィーナ・アルベリク」
名を呼ばれて振り返ると、婚約者である若きロートハルト侯爵、ユリウス様が立っておりました。その腕には、マリエル・ドラン男爵令嬢が寄り添っています。桃色のドレスの、可憐なお方。
「貴様との婚約を、破棄する」
楽団の音が止まりました。人の輪が、波が引くように広がっていきます。
「理由を伺っても?」
「その手を見ろ」
わたくしは自分の手を見ました。白絹の手袋の下には、いくつもの小さな腫れの痕があります。この一年で、刺された回数は十一。例年より多い。春の長雨で蜜源が減り、群れが気を立てていたせいです。
「侯爵家に嫁ぐ女が、虫に刺されて傷だらけとは。ドレスからは草の匂いがする。舞踏会の最中に巣箱の話をする。恥だとは思わんのか」
「わたし、蜂は怖くて……」マリエル様が、小鳥のような声で言いました。「ユリウス様、わたし、あのお庭を見ただけで足がすくんでしまうんです。白い箱が、ずらりと」
ああ、と思いました。この方は、もうロートハルト領へ行かれたのですね。
「案ずるな」
ユリウス様は、彼女の手を握りました。
「マリエル。あれは元より、この女が勝手に持ち込んだものだ。婚姻が成れば正式にロートハルトの管理下に入る手筈だったが、その必要もなくなった。──我が領の果樹園に据えられた箱は、すべて焼き払う」
ざわめきが走りました。わたくしは、まばたきを一つしました。
「焼き払う、と」
「当然だ。侯爵家の名に虫の家業など要らん」
ロートハルト領の果樹園には、四十二の巣箱が置いてあります。三年前、婚約が整った春に、わたくしが自分の群れを分けて運んだものでした。婚約者ですもの。賃料などいただくつもりもありませんでした。
わたくしは、ひとつだけ伺うことにいたしました。この方は、三年間、一度もその果樹園に足を運ばなかった方です。ですからこれは、意地悪ではなく純粋な確認でした。
「ユリウス様。ロートハルト領の果樹は──どなたが実らせているとお思いですか」
ユリウス様は、はっきりと笑いました。
「馬鹿を言うな。木が勝手に実るに決まっているだろう。神が恵み、土が育て、農民が摘む。それだけの話だ」
ああ。
わたくしは、そのとき初めて、胸のあたりが静かになるのを感じました。怒りでも悲しみでもありません。長く抱えていた荷物を、床に置いたときのあの感じです。
「かしこまりました」
ドレスの裾をつまみ、深く礼をいたしました。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。つきましては、ひとつだけお願いがございます」
「なんだ、慰謝料か」
「いいえ。あの箱を、持ち帰る許可をいただきたいのです。焼いていただくには及びません」
広間に、堪えきれない笑い声が広がりました。婚約を破棄された令嬢が、最後に願ったのが虫の箱。滑稽でございましょう。ユリウス様も肩を揺らして、手を振りました。
「持っていけ。一匹残らずだ。ロートハルトの地に、貴様の虫を一匹たりとも残すな」
「──承知いたしました」
わたくしは顔を上げました。
「一匹残らず、でございますね」
王都を発ったのは、その夜のうちでした。
ロートハルト領までは、馬車で二日。到着したその日は何もせず、日が沈むのを待ちました。
蜂を運ぶには、夜がいいのです。日が落ちて、働き蜂が最後の一匹まで巣に帰ってから、入口に風の通る網を張って荷車に載せる。昼に運べば、外に出ていた蜂が帰る場所を失って死んでしまいますし、入口を締め切れば、群れが自分の熱で蒸れてしまいますから。
あの子たちは、巣の位置を空の光で覚えております。一度覚えた場所へ、まっすぐに帰る。
けれど、覚えているのは場所であって、忠誠ではありません。箱ごと運んでしまえば、あの子たちは新しい土地の光を覚え直し、二度と前の場所へは帰らない。女王さえいれば、群れはどこへでもついてくるのです。
四十二箱を積み終えたのは、夜明け前でした。
荷車の上から、遠ざかる侯爵領の果樹園が見えました。月明かりの下、白い蕾が一面に膨らみ、早い枝では花がほころび始めております。今年も、見事に咲くでしょう。
ただ、花は、それだけでは実になりません。
誰も、そのことをご存じないようでした。
◇
アルベリク子爵領は、王都から南へ馬車で五日。山あいの、小さな領地でございます。四十二箱に昼は幌で日を避けさせ、網越しに水を与えながらの道中でございました。
父は、わたくしの顔を見て、それから荷車の巣箱を見て、ひとこと言いました。
「四十二箱、全部か」
「はい」
「よくやった」
それだけでした。父は昔からそういう人です。婚約破棄のことは、その日ついに一度も口にしませんでした。ただ夕食のときに、「来年の分蜂は少し多めに取れ」とだけ。増やせという意味です。この家では、それが慰めの言葉でした。
アルベリク家は三代続く養蜂の家でございます。先祖が書き始め、代々書き継いできた『蜜源暦』という帳面が納屋にあって、どの花がいつ咲き、どれだけ蜜を出すか、百年ぶんの記録が残っております。わたくしが十のときから読み込んだ、家の宝でした。
貴族としては笑い話でしょう。剣も持たず、由緒ある系譜も語らず、代々の当主が花と虫の帳面をつけている。だからロートハルト侯爵家との婚約は、身に余る話だと皆が申しました。わたくし自身、そう思っておりました。
思っていたのだと、今なら分かります。
その男が訪ねてきたのは、雪の残る三月のことでした。
「アルベリク子爵。息子はおられるか」
「おりません。娘だけです」
「では娘御でもよい。『蜜源暦』を書いた家の者に会いたい」
玄関で押し問答をしている声が聞こえて、わたくしは納屋から出ていきました。外套に雪を積もらせた、背の高い方が立っておりました。三十ほど。貴族にしては陽に灼けた顔で、手袋を外した指の関節が、荒れて太くなっております。土を触る人の手でした。
「レーヴェンハイム辺境伯、ヴァルターと申す」
父が息を呑みました。北の国境を預かる家です。うちのような小領が口を利ける相手ではございません。
「単刀直入に申し上げる。我が領は、果樹が実らぬ」
「……花は、咲きますか」
わたくしが問うと、辺境伯はこちらを向きました。
「咲く。見事に咲く。年々、木は増やしている。土も入れ替えた。水路も引いた。祈祷師も呼んだ。それでも実がつかん。十年だ。十年、原因が分からん」
「畑の周りに、林はございますか」
「あった。開墾で全部伐った。果樹を植えるためにな」
「それでございます」
辺境伯の眉が上がりました。父が咳払いをして、わたくしを止めようとしましたが、わたくしは続けました。ここで止めては、この方の十年が無駄になりますもの。
「花は、自分では実になれません。花粉を雌しべまで運ぶものが要ります。風で運ばれる木もございますが、果樹の多くは虫が運びます。野の蜂は、林の朽木や土の斜面に巣を作ります。林を伐れば、虫が住む場所がなくなる。花はいくら咲かせても、運び手がいなければ、ただ散るだけです」
玄関に、しばらく音がありませんでした。
「……虫が」
「はい」
「木ではなく、土でもなく、虫が」
「はい」
辺境伯は、ゆっくりと片手で顔を覆いました。それから、笑ったようでございました。悔しさと、安堵と、それから十年ぶんの何かが混ざった、妙な笑い方でした。
「王都の学者を三人呼んだ。誰も虫の話はせなんだ」
「学者様は、蜜を採るために蜂を飼います。実を採るために飼う者はおりません。順序が逆でございますから」
「あなたは飼っておられるのか」
「うちは、蜜を採る家です。ですが、蜂を置いた年の畑がどうなったかは、百年ぶん帳面に残っております」
その日、わたくしは辺境伯を納屋にお通ししました。本来なら、年頃の娘がすることではございません。父も渋い顔をしておりましたが、この方は帳面を見せた途端、外套も脱がずに床に座り込んで読み始めましたので、もう身分も何もございませんでした。
「これは、花の咲く順が書いてあるのか」
「はい。蜂は、蜜の切れる時期があると群れが弱ります。春の果樹が終わってから、夏の草花が咲くまでの間が、いちばん危のうございます。そこを埋める花を、あらかじめ植えておかねばなりません」
「……果樹を実らせるために、果樹以外の花を植えると」
「さようでございます」
辺境伯は顔を上げました。
「逆だと思っておった。果樹の邪魔になる草は、全部抜けと命じてきた」
「では、それも一因かと」
わたくしは、失礼だったかしらと思いました。けれどこの方は、腹を立てるどころか懐から手帳を出して、書き取り始めたのです。辺境伯が、子爵令嬢の言葉を。
「セラフィーナ殿。頼みがある」
「はい」
「我が領へ来ていただきたい。蜂を、連れて」
父が立ち上がりかけました。わたくしは、手のひらを見ておりました。まだ腫れの痕が残っている、みっともない手です。
ひと月前、この手は恥だと言われました。
「……わたくしの手は、傷だらけでございます」
「そうだろうな」
辺境伯は、あっさりと頷きました。
「私の手も似たようなものだ。人に何かをさせる手より、自分で触る手のほうが荒れる。当たり前の話だ」
わたくしは、返事をするのに少し時間がかかりました。
「──蜂は、夜に運びます」
「なんだと」
「日が落ちて、最後の一匹が巣に帰ってから運びませんと、外に出ていた子が帰る場所を失います。ですから、出立は夕刻でございます。それでよろしければ」
辺境伯は、今度ははっきりと笑いました。
「もう連れて行く算段をしておるではないか」
同じ頃。
ロートハルト侯爵領では、果樹園に白い花が咲き揃っておりました。今年も見事な花でございます。領民たちは例年どおり、花が散るのを待っておりました。
散ったあとに何が残るかを、まだ誰も知らないままに。
◇
レーヴェンハイム領に入ったのは、四月の初めのことでした。
北の土地です。風が冷たく、けれど空が広い。丘の斜面いっぱいに果樹が植えられて、その向こうに国境の山が白く連なっておりました。
巣箱を据えたのは、果樹園の南東の縁。朝いちばんに日が当たり、風下にならない場所です。
「なぜここだ」
辺境伯は、初日から作業についてまいりました。外套を脱ぎ、袖をまくって、巣箱の足場を自分で組んでおられます。辺境伯が。
「蜂は、朝の光で飛び始めます。日の当たりが遅いと、その分だけ働く時間が減ります。それと、あちらの窪地は霜が溜まりますので」
「霜の溜まる場所が分かるのか」
「草の枯れ方でございます。同じ草でも、霜の落ちる場所は先に色が変わります」
辺境伯は、また手帳を出しました。この方は本当に、何でも書き留められます。
それから、十日ほどかけて林を戻す算段をいたしました。伐り払われた斜面に、雑木を植える。すぐには育ちませんから、当座は朽木を運んで積み、土の斜面に穴を残しておく。野の蜂の住処です。
「これは、蜜にはならんのだろう」
「なりません。うちの蜂の蜜にも」
「では、なぜやる」
「野の蜂は、うちの蜂が飛ばない寒い朝でも飛びます。花の種類によっては、野の蜂のほうが上手に受粉させます。わたくしの蜂だけでは、足りません」
辺境伯は、朽木を抱えたまま、しばらくこちらを見ておりました。
「あなたは、自分の蜂の手柄にはせんのだな」
「事実を申し上げただけでございます」
五月。花が咲きました。
わたくしは毎朝、日の出とともに果樹園へ出て、巣門の前に立っておりました。何をするでもございません。ただ、蜂が出ていくのを数えるのです。飛び出す勢い、脚につけて帰る花粉の色。それで群れの調子が分かります。
黄色い花粉が帰ってくれば、果樹の花に行っている証拠。灰色が混じれば、どこかに別の花が咲いている。
「セラフィーナ殿。何を見ておられる」
「花粉の色でございます。今朝は黄色ばかりですので、皆きちんと果樹へ行っております」
「……色で分かるのか」
「はい。ですから、ひとつお願いがございます。あの丘の菜の花畑ですが、今年だけ、刈っていただけませんでしょうか」
「あれは飼葉にする畑だ。なぜだ」
「菜の花は蜜が多く、蜂には楽な花でございます。楽な花が近くにありますと、そちらばかりへ行って、果樹の花を訪ねません」
辺境伯は、その日のうちに菜の花畑を刈らせました。反対する家令に、こう言ったそうでございます。
「十年、俺のやり方でやって実らなかった。今年はあの方のやり方でやる」
六月。花が散りました。
わたくしは怖くて、しばらく畑を見に行けませんでした。理屈は分かっております。帳面もございます。それでも、散った花の下に何もなかったらと思うと、足が動かないのです。
行ったのは、三日目の朝でした。
小さな、緑の粒が。
枝という枝に、緑の粒がついておりました。ひとつやふたつではございません。数えるのも馬鹿らしいほど、びっしりと。
その場に、しゃがみ込みました。婚約を破棄されたときにも泣かなかったのに、みっともないことでございます。
少し離れたところで、辺境伯が立ち止まっているのが見えました。近づいてはこられません。ただ、そちらもしゃがみ込んで、片手で顔を覆っておられました。十年でございますもの。
七月。夏の内検をいたしました。巣枠を一枚ずつ引き上げ、卵と蜜の入り具合を確かめる作業です。群れがいちばん気の立つ時期で、手袋の上からでも刺されます。
朝から三度刺されて腫れたわたくしの手から、辺境伯は黙って巣枠を受け取られました。
蜂が一匹、その手袋と袖の隙間へ入り込みます。
「動かないでくださいませ」
「分かった」
針が刺さっても、この方は巣枠を揺らしませんでした。枠を静かに箱へ戻し、袖をまくって、赤く腫れ始めた手首を眺めておられます。
「腫れます」
「だろうな」
辺境伯は、その手首をこちらへ向けました。
「これで、あなたと揃いだ」
わたくしは、何と申し上げていいか分かりませんでした。ですから、次の巣枠を引き上げました。
その年の秋、レーヴェンハイム領は、これまでの三倍の果実を収穫いたしました。
北の果実は果肉が締まり、甘みが強うございます。ただ、これまで数が採れませんでしたので、市場ではほとんど知られておりませんでした。それが一気に王都まで出回りました。
蜜も採れました。果樹の蜜は淡く、香りが清らかで、王都の蜜商が値をつけて買っていきます。
辺境伯は、収穫の帳簿を持ってわたくしのところへ来られました。
「これは、あなたの取り分だ」
「多すぎます」
「少ないくらいだ。──セラフィーナ殿。ひとつ聞きたい」
「はい」
「なぜ、王都であなたを手放した者がいる」
わたくしは、答えられませんでした。
その頃。
ロートハルト侯爵領の果樹園では、秋になっても、枝にまばらな実しかついておりませんでした。
春には、あれほど見事に咲いたのです。領民たちは花の下で祭りをして、豊作を祝いました。それから花が散って、緑の粒を待って、待って──ついたのは、例年の一割にも届かぬ数でした。市場へ出せる果実は、ほとんどございません。
畑の一角には、焼かれた巣箱の跡が黒く残っておりました。ユリウス様の命令どおり、わたくしが運び出せなかった古い空箱を、領民たちが律儀に燃やしたのです。
屋敷の方々は、誰もそれを原因だとは思いませんでした。
空の箱を燃やしただけですもの。
◇
最初の冬、わたくしは一群を死なせました。
南の帳面にはない、北の湿った雪を読み違えたのです。藁の巻き方が南のままで、湿気が箱にこもり、群れが冷えました。春を待たずに、箱の底に小さな骸が溜まっておりました。
空になった巣箱の前で、辺境伯は慰めを仰いませんでした。
ただ、「次の冬は、何を変える」と手帳を開かれました。
藁を厚くし、屋根の下に小さな通気口を残し、箱を地面から浮かせること。わたくしがそう申し上げると、この方はそれを書き留められました。一群を死なせた、という一行も、一緒に。
ロートハルト侯爵領が動き始めたのは、年が明けてからでございました。
果実が採れなければ、翌年の種苗も農民への支払いも回りません。侯爵家は王都の商会から金を借り、翌年の収穫を担保に入れました。
原因を探す会議が幾度も開かれたそうです。土が痩せた。水が悪い。祈祷が足りぬ。果樹園頭だけが、巣箱を戻してほしいと訴えました。けれどユリウス様は、「虫飼いに吹き込まれたか」と退けられたそうです。
その一方で、王都から視察に来た農務官が「花に虫がおらぬ。よそでは巣箱を置いておりますな」と言うと、その日のうちに南の商人へ蜂を手配なさいました。八十箱。うちが置いていた数の、倍近くでございます。同じ言葉でも、誰が言うかで聞こえ方が違う。そういう方でした。
南の商人は、良い蜂を売りました。ただ、南の蜂でした。
北のロートハルト領は、南より春が二週間遅い。運ばれてきた群れはすでに活動を始めておりましたのに、着いた土地にはまだ果樹の花がない。飢えた蜂は、蜜のある花なら何でも訪ねます。
春先、他に何も咲かぬ時期に、丘一面を紫に染める花がございます。羊が食べると腹を下すので、あの領地では「羊除け」と呼ばれておりました。人が採らぬ花ですから、誰も気に留めません。
蜂は、その蜜を集めました。人の毒になる蜜を、蜂が避けるとは限りません。
やがて果樹の花が咲き、その年は実がなりました。八十箱もございましたから。蜜も採れました。初めて自領で採れた蜜を、ユリウス様は最上等の壺に詰めさせ、王家への献上品となさいました。
その壺には、春先の「羊除け」の蜜と、果樹の蜜とが混ざっておりました。
時期ごとに分けて採る。それが養蜂の基本です。うちでは春一番の蜜は必ず別にし、人の口には入れません。何が混じっているか分かりませんから。
けれどそれは、家の帳面に書いてあることでした。
王家の秋の宴で、十九名が倒れました。嘔吐と痺れ、動悸。死者は出ておりませんが、そのうちのお一人が王太后様でした。
毒殺の疑いで厨房の者が全員捕らえられ、献上品が洗い出され、毒はロートハルト侯爵領産と記された蜜の壺から出ました。ユリウス様は王城に召し出されました。
わたくしがこれを知ったのは、王都の蜜商からの手紙でございます。事件のあと、王家からすべての蜜商に問い合わせが回ったのだそうです。
──王家は、蜜に毒が混じる仕組みを知る者を探しております。あなた様の家の帳面に、その記述はございませんか。
辺境伯にお見せしますと、しばらく黙っておられました。
「行かねばならんか」
「参ります。放っておけば、厨房の方々が処刑されます」
「あなたを捨てた男の領地の話だぞ」
「厨房の方々は、わたくしを捨てておりません」
辺境伯はそれ以上何も仰らず、翌朝、ご自分の馬車と護衛を四人つけてくださいました。
「一つだけ言っておく。王都で何を言われようと、あなたには帰る場所がある。うちの果樹園は、あなたがおらねば実らん」
王城で、わたくしは家の帳面を開きました。四十年ほど前、祖父の父が書き残した頁でございます。
──春一番の蜜、村の者三名が痺れた。羊除けの花と思われる。以後、四月の蜜は分けて採るべし。
ただそれだけの、二行です。
文官の方々が、それを取り囲むようにして読まれました。誰も、何も仰いませんでした。厨房の方々は、その日のうちに解き放たれたそうです。
王城を出るとき、廊下の先にユリウス様が立っておられました。一年半あまりぶりでございます。ずいぶん痩せておられました。
礼をして、そのまま通り過ぎました。呼び止める声がしましたが、聞かなかったことにいたしました。
話すことが、何もございませんもの。
どうすればよかったのかと問われても、答えは一つです。
四月の蜜を、分けて採ればよかったのです。
それだけの話でございました。
◇
ユリウス様がレーヴェンハイム領へ来られたのは、雪の降り始めた頃でございました。
ちょうど、越冬の支度をしている最中でございます。巣箱に藁を厚く巻き、屋根の下に通気口を残し、箱を地面から浮かせて、巣門を狭める。去年の冬に一群を死なせて、覚えたことでございます。冬に群れを死なせれば、春の受粉はございません。一年でいちばん、気の抜けない作業です。
わたくしは藁を抱えたまま、その方を見上げました。
外套は上等でしたが、袖口が擦り切れておりました。売れるものから売られたのでございましょう。
「セラフィーナ」
「ロートハルト様。ご用件を伺います」
様、と付けたのは、もう他人だからでございます。ユリウス様は、そこで少し息を詰められました。
「……戻ってきてくれ」
「ご用件を伺います」
「毒殺の嫌疑は晴れた。だが、献上の責任については、まだ沙汰が下りていない。今年の果実の売上は補償で消えた。八十箱も、南の商人に売り戻した。来年の収穫が立たねば、商会への返済が滞る。滞れば、領地を手放すことになる」
「はい」
「頼む。蜂を、戻してくれ」
雪が、巣箱の屋根に薄く積もっておりました。
「マリエル様は、いかがなさいました」
「……実家へ帰った」
「そうでございますか」
藁を巻く手は、止めませんでした。ここで止めると、指がかじかんで結び目が緩みますもの。
「ロートハルト様。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「あの畑の、焼けた箱の跡はまだございますか」
ユリウス様は、答えられませんでした。
「わたくしは四十二箱、すべて持ち出しました。焼かれたのは、中身のない空箱でございます。あれを燃やしたところで、一匹も死んではおりません」
「……では、なぜ」
「なぜ実らなかったか、でございますか」
顔を上げました。
「わたくしが箱を持ち出したからでございます。焼いたからではなく、持ち出したからです。あの日、あなた様が『一匹残らず持っていけ』と仰いましたので、そのとおりにいたしました」
ユリウス様の顔から、色が引いていくのが分かりました。
この方は、この一年あまり、ずっと「誰かが自分を陥れた」とお考えだったのでございましょう。土か、水か、天候か、政敵か。そのどれでもなく、ご自分がその場の思いつきで口にした一言だったと、今、初めて理解なさったのです。
「知っていて、黙って出ていったのか」
「はい」
「なぜ言わなかった」
「申し上げました」
その方の目を見て、申し上げました。
「あの晩、わたくしは伺いました。ロートハルト領の果樹は、どなたが実らせているとお思いですか、と」
「──」
「あなた様は、木が勝手に実るとお答えになりました。ですから、それ以上申し上げることはございませんでした。答えを差し上げても、聞く方がいらっしゃいませんもの」
雪が少し強くなりました。巣門を確かめ、藁の隙間を指で押さえます。
「蜂は、箱ごと運べば、新しい土地の光を覚え直します。ですから、戻すことはできます」
「ならば──」
「けれど、戻りません。戻らないのは、わたくしのほうでございます」
雪の積もる巣箱の列を、見渡しました。四十二箱が、いまは百二十箱になっております。冬に死なせた一群のぶんも、春に取り返しました。
「この子たちは、いまはこの土地の果樹と、この土地の人を養っております。あなた様が要らぬと仰ったものを、要ると仰ってくださった方から取り上げるつもりはございません」
「望む条件は、すべて呑む」
「条件の話ではございません」
「……そうか」
「はい」
「そうか」
ユリウス様は、もう一度そう仰いました。
少しだけ、迷いました。この方はもう終わりです。それでも、雪の中を五日かけて来た人でございますから。
「ロートハルト様。ひとつだけ、差し上げられるものがございます」
懐から、紙を出しました。ええ、あらかじめ用意しておりました。いずれこの方が来るかもしれないと、王都からの帰り道に思いましたので。
「四月の蜜は、必ず分けて採ってくださいませ。羊除けの花は、抜いても翌年また生えますので、抜くのではなく、その時期に別の花を用意してください。それと、南の蜂を北へ入れる際は、必ず砂糖水を与えて、花が咲くまで飢えさせないこと」
「これは」
「うちの帳面から、必要なところだけ写しました。これがあれば、次に蜂を迎えられたとき、同じ過ちは繰り返さずに済みます」
ユリウス様は、その紙を両手で受け取られました。手が震えておりました。
「なぜ、こんなものを」
「あなた様のためではございません」
静かに、申し上げました。
「ロートハルト領には、二千人の領民がおられます。あの方々は、わたくしに何もしておりません」
ユリウス様は、深く頭を下げられました。貴族が、他家の令嬢に。
礼は、返しませんでした。返すべき礼が、もうございませんでしたので。
その方が雪の中を帰っていかれるのを、最後まで見送ることはいたしませんでした。巣門の藁が、まだ半分残っておりましたもの。
辺境伯がいらしたのは、日が暮れる頃でございます。
厩の陰に立っておられたのを、わたくしは最初から存じておりました。
「聞いておられましたね」
「聞いていた」
「盗み聞きでございます」
「そうだ。詫びる気はない」
辺境伯は、雪を払って隣に立たれました。それから、しばらく黙って巣箱を見ておられました。
「セラフィーナ殿。俺は、あなたに何をやれるか考えていた」
「充分いただいております」
「金はやれる。地位もやれる。だが、そんなものはあの男でもやれた」
辺境伯は、こちらを向かれました。
「俺があなたにやれるものは、ひとつしかない。俺の土地の全部だ。花の順も、林も、丘の草も、あなたに預ける。菜の花を刈れと言われれば刈る。ただし、理由は聞く。分からなければ、分かるまで教わる。そのうえで、最後はあなたの言うとおりにする」
雪が、この方の肩に積もっておりました。
「……それは、求婚でございますか」
「そのつもりで五日考えた。もっと上手い言い方があるかと思ったが、なかった」
わたくしは、笑ってしまいました。あの夜以来、初めてでございました。
「わたくしの手は、傷だらけでございます」
「知っている」
「これからも、増えます」
「増やせばいい」
藁の残りを置いて、その手を取りました。荒れて、太くなった、土を触る人の手でございます。
春になれば、また花が咲きます。
花は、それだけでは実になりません。
運ぶものが要ります。運ぶものを、育てる者が要ります。そして──
それを見ていてくれる人が、要るのでございます。
〈了〉




