No.03 心拍数
二〇〇八年の幕開けを、俺は職場で迎えていた。幾ら俺が年男だからって、何もネズミの如くちまちまと正月まで仕事に従事しなくても、と我ながら思うが、出世街道を外れてしまったのだから仕方が無い。
どうせ家で休暇をとったところで、娘息子はもう大学生に高校生、一家団欒など昭和の幻影だ。普段から存在の薄い親父が居たところで、揃って除夜の鐘を聞くでもあるまいし。
カミさんにだけは、毎年こんな形で申し訳ないと思う。俺がいないのに、俺の親に気を遣い、毎年車を出して混雑した道に文句を言われながらも初詣の足になってくれている。定年退職した年の正月には、必ず夫婦水入らずで旅行に行き、正月料理や親族の出迎えの苦労を考えずに正月を迎えさせてやりたい、と思っている。
おお、やっと夜勤の交代の時間が来た。奴に引継事項を伝えて、さっさと家路へ急ごう。もう四時か……カミさんももう家に帰っているだろう。実家へは寄らずに自宅に戻るとしよう。
何だ、カミさんはもう眠っている。子供たちもどうやら友達と初詣、と言ったところか。
折角家に帰ってもつまらんものだ。何の為にこんな想いをしてまで働いているのだろう、俺は。
本当に、日がな一日働くばかりで、ネズミにも劣る人生のような気がして来た……。
イカン。落ち込んで来た。さっさと寝る事にしよう、そうしよう。
丸々二日間寝ていないのだから、目覚める時にはもう二日になっていそうだな。今から見るのが初夢になるのだろうか。
む……っ?! 何だ、このぷにぷにとした手の感触はっ?!
のぁー! 何じゃこりゃ! 俺の手じゃない!!
いや、手だけでは無いぞ、俺はグレーのスウェットを着ていなかった筈だ。それも、毛!
と、とにかく洗面台へ……って、何だこの広大な空間は!
暗がりにぼんやりと映った自分の姿を見て、俺はある意味愕然と、しかし別の意味で安堵した。
俺が、ネズミになっている。これにはショックだったが、しかしこれは夢だ。そういう意味で、安心だ。
しかし、夢と認識しながら夢を見続けるなど初めてだ。どうせ覚めるのだから、今の内にミクロな世界を満喫でもしようか、と俺の少年心に火が付いた。
まずはドアを……開けられん!! 何と言う事だ! 折角の冒険が、自室のみで終了なのか?!
と思いきや、何だ、下の隙間から悠々と出られるではないか。
随分と廊下の端に埃が溜まっているなぁ。カミさんの奴、俺が年末年始が繁忙期と知っているから大掃除をさぼったな。夢から覚めたら、確認して少しばかり嫌味を言ってやろう。
……いやいや、正月早々それはまずいだろう。それに、親の面倒を見てくれた恩義もある。
そうだ、それよりも、息子と娘の部屋に行ってみよう。親に隠れて何をしているか解らんしな。
かまをかけて聞いてみる程度のお告げを夢が伝えてくれるかも知れん。
娘の部屋にコッソリ入ると……なんで猫がいるのだ――!!
俺は娘の部屋のドアの下から、急いで出ようとしたのだが、慌て過ぎて腹が使えてなかなか抜け出る事が出来ん。いだいっ! 猫の奴、いたぶるつもりだな。尻を爪で引っ掻きやがった。人間の姿の時でさえ結構な痛みがあるというのに、こんな姿だと刃物で切りつけられたかの様な激痛だ。痛みで俺は思わず身をよじった。――ドア、開いてるし! 何だよ、何もこんな狭い蝶番の傍から出なくても簡単に出られたんじゃないか!
猛ダッシュで逃げる俺の心拍数は、今まで感じた事もない程の速さで脈打っている。猫は俺を追い掛けては止まり、こちらが疲れて立ち止まると途端に追いかけてきやがる。嫌な奴め、きっと娘に似たに違いない。
目覚めたら、絶対に娘の部屋を確認してやる、と心の中で毒づきながら、俺は尚も走り逃げ、どうにかキッチンのシンクへ飛び込んだ。
此処なら、水の苦手な猫も追っては来るまい。
と、今度はゴキブリが……っ! このサイズで見ると、何てでかくて恐ろしい形相をしているんだ、こいつは。しかし、何故か美味そうに見える……いかん、体が勝手に……っ!
ガシュっ。……ブチッ。ガリっ。シャミ、グシュ……。
……食っちゃったよ……俺、食っちゃったよ……ゴ……おぇぇぇぇ~~~……っ!!
しかし、と俺は気を取り直す。改めて、ネズミの俊敏さを実感する。あんなに簡単にゴキを捕まえられるとは……いかん、考えるのは止めよう。また気持ちが悪くなって来た。
それに、何だか体がだるい……。とにかく寝室へ戻って寝よう。
きっと、目が覚めれば元の姿に戻っている筈だ。
よろよろとしながらも、どうにか猫の目を盗んで俺は自室へ戻り、間違って夢の中でカミさんに見つかって駆除されない様、屋根裏へと逃げ込んで眠る事にした。
で、何で戻ってないのだ! まさかこれは夢じゃないんじゃ……。
爪の尖った己のネズミ化した手で毛むくじゃらの顔をつねってみる。
おお、痛くない、よかった。まだこれは夢の続きなのだ。ひとまず安心したものの、初夢がこれ、というのは何とも情け無い。確か、逃げ回る夢は何かに追い立てられている心理的なストレスの表れだと聞いた事がある。
今日のところは、現実世界でのストレスを夢に持ち込まない様、大人しく屋根裏で過ごす事に決めた。
しかし、なかなか夢が覚めない。来る日も来る日もネズミのまま。
一体、俺はいつ夢から覚めることが出来るのだろう? 夢である事は確かなのだ。
特に腹が減るでもなく、特に排泄欲もなく、元気な時は屋根裏から這い出て冒険を楽しみ、漏れなく猫や烏から逃げ惑うオチを付け、そんな毎日が、ダイニングにカミさんがチェックしているカレンダーで見る限り、かれこれもう二年も続いてしまった。
流石に、そろそろ夢から覚めたいぞ、俺は……。
「あなた……あなた?」
慣れ親しんだ、でも少し懐かしく感じるのは長い夢の所為だろう。カミさんが俺を起こす声が聞こえる。あぁ、やっと夢から覚める事が出来るのだ。ネズミとして迎えた朝に、カミさんの声は今まで一度としてなかったのだから、これは確かな現実なのだろう。
目を開けると、どこかで見覚えがあるものの、見知らぬばばあが俺を覗き込んでいる。
『誰だ、アンタ、人の家に勝手に上がりこんで、しかも此処は寝室だぞ』
といった筈なのに……何故声が出ていないのだ?
声の主は、そのばばあだった。
「あなた! あなた起きて、あなた!! 真由美ー! 真由美、来て! おじいちゃんが!」
誰がじいさんだ、くそ……いや待て、今、真由美、と娘の名を呼んでいたぞ?
何かがおかしい……とにかく身体を起こさなくては。
うわぁっ!どういう事だ?! 俺の体から俺が離れていく?! ばあさんの腕をすり抜けて、俺はそのまま勢いづいて、天井の際まで吹っ飛んでしまった。
眼下にある筈の俺の肉体をみると……見るも無残にしわがれ干からびたミイラの様な、細い体の俺らしき老人の姿があった。
一体、俺が寝ている間に何があったのだ?
『真由美』と呼ばれた女性もまた、随分と大人びた……というよりおばさんになった、見間違う筈も無いわが娘が慣れた調子で寝室へと入って来た。
そこにまとわりつく子供達は恐らく娘の子達だろう、よく似た顔をしていた。
「おじいちゃん、とうとうそういう時が来たのね。 ドクターを呼ぶわね」
淡々としている娘の口調が、どうにも俺は切なかった。俺は一体どの位眠っていたというのだろう……。夢の中でさえ、まだ二年程度しか経っていないというのに。
ふと、年末に顧客に書いたダイレクトメールの文面を思い出した。
――来年は子年。
ネズミとは、とても心拍数の早い動物で、彼等の寿命は三~五年であるといわれており、どんな動物も一生涯に脈打つ心拍数が同じ事を考えると、一分に五〇〇回は打つと言われています。ネズミの一年は、人間の十五年に匹敵する、という訳です。皆さんの得られるお金も、この心拍数と同様、ある程度決まっております。ネズミの様にただ使い果たして短い寿命とさせてしまうよりも、人間の様にゆったりと――
あのじいさんは、俺だ……。そして、あの皺だらけで苦労が全面に現れたばあさんは、俺の愛すべきカミさんだ……。
これは、『ネズミにも劣る人生』と嘆いた罰なのか?!
カミさんに何ひとつ苦労に報いる事もしてやれないまま、三十年も俺は眠り続けていたというのか? その間、好き放題に冒険したり、カミさんのヘソクリのありかを探ったり、子供たちのあら捜しばかりをしたり、そんなつまらない事に時間を使ってしまっていたのか?!
神様! 本当にいるのなら、どうか俺の声を聞いてくれ!
今すぐ、元の俺に戻してくれ! どうかカミさんに、これまでの献身の礼をさせてくれ!
まだ、俺はアイツに何もしてやれてない!
もう二度と自分の境遇を嘆いたりしないから、どうかもう一度俺の身体に俺の魂を戻してくれ!
すると、突然俺の体がずしりと重くなった。ぐいぐいと何かに引き寄せられる。
感覚的に、俺の肉体が俺を呼んでいるのが解った。
神様! ありがとう! こんな罰当たりな俺に最後のチャンスをくれるなんて、やっぱアンタは神様だよ!
嬉しさのあまり、俺は自分で何を言っているのか支離滅裂で解らずに、ただ、もうすぐ会える家族の驚く顔を想像してワクワクした。
「!」
肉体の重みを感じた俺が最初に見たのは、暗闇だった。遠くで読経の声がする。
顔に何かがチクチクと刺さる……手で触れると、それが献花の葉だと解った。
「ま……まずい……」
次第に熱気を感じて来る。
待て! 俺はまだ生きている! 気づいてくれ! こんなのは、嫌だ! こんな事ならネズミのままでよかった!!
“もう二度と自分の境遇を嘆かない、と言わなかったかい? ケケケ……”
轟音と灼熱の中で、そんな甲高い声を聞いた気がするが、それが誰なのか、とか、そういうのはもうどうでもよかった。
今はそれどころじゃない、俺は今、生きながらにして荼毘に付されようとしているのだ!
「おじいちゃん?」
真由美の上の子が、火葬場の方を見つめてそう言った。
真由美は我が子の視線まで目線を下ろし
「そうよ、おじいちゃん、今、お空に昇って行ってるところなのよ」
と相槌を打った。
「ううん、あの、穴の中からね、おじいちゃんの声が聞こえたの」
真由美はまさか、と、上の子の不謹慎な言葉を叱った。
子は、母親にこれ以上叱られるのが怖くて黙ってしまった。
そうして、彼は天へ召されて行った――。