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White Winter,Valentine

作者: 藤沢春
掲載日:2026/02/04

 まるで儚さと美しさを纏ったような白い雪風が、階段を降りたばかりの僕の横顔を撫でていった。 僕は思わず目を瞑り、寒さに凍えた。


 まだ降り始めの、綿のようにフワリと舞う雪の中、上着を取りに帰ることもなく、僕は歩みを始めた。


 どこからか、コツコツと足音が雑踏の中に響き渡り、その音は僕へと近づいてきた。


「あ……あの」


 そんな声が聞こえて、周囲の注目が集まる中、僕は振り返った。


「これ、受け取ってください」



 ────────────────────



 都会じみたビルやデパートと、古い工場が入り混じる。 未来的なのか発展途上なのかよくわからないような駅前の、この美容室で僕が働くようになって、もう二回目の冬を迎えていた。


 二年目とはいっても、僕の後ろにはまだ後輩がいない。 オーナーで店長の美香さん。 その娘で副店長の香織さん。 香織さんの友人で美容学校時代からの同僚である結愛さん。 そして僕。


 四人で切り盛りしている美容室『マル・ダモーレ』は、駅から五分ほどの場所にある、家屋兼店舗の建物二階に入っている。大きなデパートのちょうど隣に位置し、路地にほんの少し入ったところだが、割と好条件なこともあって客入りは上々だ。


 毎日ひっきりなしに、お客様の予約と飛び込みが絶えない。


 僕のする仕事は、そのほとんどがシャンプーと雑用で、まだ大事な技術には入らせてもらえていない。カットの試験もパスしていないので、来る日も来る日もシャンプーとカラーリング、下準備の毎日だった。


 早く僕もお客様の担当につきたいと思い、営業終了後に駅前へ出てはカットモデルのハンティングをする。だが、なかなか応じてくれる人はいない。 こんな駆け出しに、大事な髪など触らせてはくれないのだ。


 華やかに見えるヘアーサロンの裏側は、実はこうした職人たちの修行の場でもあった。煌びやかな世界の裏側など、往々にしてドロドロとしたもので、光あるところには必ず影があるものだ。どの社会でも、だいたいそういうものなのかもしれない。


「おーい、ヒロトくーん。ちょっと裏の商材入れるの手伝って〜」

「はーい」


 副店長の香織さんに呼ばれ、僕は今やっている雑用を放り出してそちらに向かって駆け出す。 前下がりボブでまんまるの顔立ちが彼女のトレードマークで、そのひらりとした顎のラインの髪が、今は少し外に跳ねていた。


 女ばかりの職場の中に男一人。 これも表面だけ見れば、見る人が見れば羨ましがられるような環境なのかもしれない。


 だが、実際は正直きつかった。 単純に男と女というのは意見が合わないことが多い。 いや、もっと根が深いものなのかもしれない。


「この箱のパーマ液を、全部棚に移してね」

「わかりました」


 このように力仕事は大体僕任せになってしまうし、技術もまだ未熟で、代わりになる後輩もいない。 ただ、もし後輩ができたとしても、それがまた女の子だったら今の立場はあまり変わらないのかもしれない。


 ぜひとも、僕にできる初めての後輩は男の子であってほしい。 そう美香さんには何度もお願いをしている。


「そろそろバレンタインだね」


 香織さんがそんなことを言う。 みんなが営業後に和気藹々と語りだす、掃除中の団欒の時間でもあった。 この店でよかったなと思う一番の理由は、皆が仲良く、そしてさっぱりとした人たちだったことだ。


「うふふ、香織は誰かあげる人いるの?」


 香織さんの友人、結愛さんが問いかける。


「いないいない。今年はヒロトくんだけかな」


 香織さんはそう言って僕に視線を投げてくる。 こういったからかいの類は、スルーするに限る。


「ヒロトはお客様にもえらく人気があるからな」


 スラリとした体型に、アッシュグレイのショートカット。 マニッシュな印象の彼女に憧れる女性客のみならず、メンズの指名も多い店長の美香さんも加わって、バレンタイン談義に花を咲かす。


「ね。意外と好青年だもんね、ヒロトくん」


 結愛さんもその流れを否定せず、普段は口にしないようなことを言ってくる。


「ねぇ、ヒロトくん。前の彼女とは本当に何にもないの?」


 香織さんが今更そんな話を蒸し返すものだから、僕は少し体に力が入ってしまった。


「そんな前のことはもう忘れましたよ。やめてくださいよ、そういうの」


 昨今、そんなプライバシーに突っ込んでくるような話題を出すのは、風潮としてあまりよろしくない。このあたりにジェネレーションギャップを多少感じる。


 まったく、二十代後半だというのに、香織さんも結愛さんも彼氏の一人くらいいないものなのか。 そう心の中で毒づく僕でさえも、あまり良くないことなのかもしれないけれど。


「おお、ごめんね。辛い過去を思い出させてしまって」


 香織さんは少しも悪びれる様子もなく、おどけてそんなことを言ってのけた。


「やめなよ、香織」


 珍しく結愛さんが香織さんを諌めた。


「ヒロトくんはまだ女のことなんかわかっちゃいないんだから」


 せっかくななめてくれるのかと思いきや、ますます僕の顔を顰めさせるような言葉を結愛さんは吐いた。


「二人とももうやめな。マジでヒロトくん辞めちまう」


 いや、こんなくらいで辞めませんけどね。美香さんがこの話題に終止符を打ったところで、「はーい」などと言って香織さんと結愛さんは真面目に掃除するべく持ち場へと戻っていった。


 こうした環境の美容室で男一人というのは、今後ますます僕の肩身を狭くさせていくのだろう。 ああ、早く切磋琢磨できる男の同僚がほしい。


 僕としては、早く先輩たちの技術を盗んで、たくさんのお客様から指名をいただき、このお店に貢献したい。 そんなことを思いながら、今日も夜遅くまでウィッグを使ってカットの練習に励む。


 この時間は好きだった。 集中することは苦ではないし、一人で技術に向き合うことは僕の性格的に非常に合っている。


 昔から友人や家族など周囲からは、ひたむきで真っ直ぐな性格だと言われていた。 一方で小中高の通信欄には『こだわりが強いきらいがある』などと書かれることが多かった。


 それも良い方向に受け取れることはある。 僕の場合は、あまりにブレずに物事を貫いてしまうということなのだろう。 確かに自覚はあって、今はまあまあ良い方向に仕事に活かせてはいるが、もちろん悪い部分も露見している。


 僕はこれまで生きてきて、自分で自分が嫌になる瞬間がある。 それは「決めつけ」だ。


 こうだと自分が思ったり、一度納得してしまったりしたら、他の意見など一切聞かなくなってしまう。 曲げないと言えば聞こえはいいが、後で間違っているとわかってもそれを認めなかったりもする。 ほとほと嫌になるが、こうした性根はもう治らないので、諦めてはいる。


 こうやってゴチャグチャと意味のわからないことや、誰が聞いても得にならないことをいつまでもグジグジ考え詰めたりするのは、もはや自分でも呆れ返るほどだった。


 だが、美容の技術にはこだわりが必要だ。 もう、むしろ良い方向に利用するしかない。


「ヒロトくん」


 そんなことを考えていたら、さっきからハサミが入るどころか、ブロッキングすら一つも解かれずにいる目の前のウィッグが、急に視界に飛び込んできた。 不意に後ろから声をかけられ、僕はその声の主を探した。


「ヒロトくん、大丈夫? ずっと固まってたよ?」


 結愛さんだった。 ニコニコと僕に微笑みかけ、いつもレッスンに付き合ってくれる、いい先輩だった。 香織さんとの行きすぎたイジりを除けば感じのいい人で、お客様への接客もすごく愛想がいい。


 技術も香織さんと同じく上手で、指名客も多い。 ゆるいパーマが彼女のロングヘアーによく似合っている。 今日の彼女は、薄いベージュの透き通ったグロスが、ぽってりとした唇を輝かせていた。


「あ、ごめんなさい。少し考え事をしていました」


 僕はすぐにウィッグに向き直り、ハサミとコームを構えてレッスンを再開した。


「うふふ、ヒロトくんでも集中できないくらい、すごいことを考えていたの?」

「いや、そんな大袈裟なことじゃないです。すみません、頑張ります」

「うん、頑張りましょう! あ、そこはその角度だとグラになっちゃうから、もうちょっと肘を上げて……」


 こうして結愛さんは、営業終了後の疲れた体で惜しみなく僕のカット練習に付き合ってくれている。 結愛さんも以前、誰かにそうしてもらったのだろうか。 親身で丁寧で、要領よく教えてくれるので、とてもわかりやすい。


 早く一人前にならなければと思う理由の一つでもあった。 これほど教えてもらっておいて、何も成せなかったら申し訳ない。


 技術とは一歩ずつ身についていくものだとわかってはいるが、なんとももどかしいものだと思う。


 ────────────────────


 この日は朝から天気が怪しかった。 曇り空は地上近くまで押し寄せ、今にもこの乾いた大地に潤いをもたらしそうだった。


 しかし客入りは悪くなく、それどころか僕にとってはいつも以上に賑やかで、そして少し照れ臭く、またほんの少し頭の痛い営業中となった。


「今年すごいね」


 休憩中の香織さんがバックルームにいた。 僕がお客様からいただいた綺麗に包装されたものをロッカーへ仕舞いに入ったところで、声をかけられた。


「うふふ、これで何個目?」


 そこへ結愛さんも、バックルームのドアから顔を覗かせてくる。


「えっと……二十四個目……かな?」

「うわ、すっご」

「ハンパじゃないね」


 二人は目を丸くして驚く。 僕だって驚いている。 こんなにチョコレートをもらった経験なんて、これまで一度もなかった。


「ありがたいですけど……」

「お返しが大変だね〜」


 香織さんが少しニヤッとしながら、上目遣いで僕を見上げてきた。


「ですね。でも、すごく嬉しいですよ」

「うふふ、まだまだこれからもらうかもね」


 結愛さんがそんな恐ろしいことを平気な顔をして言う。 今はまだ午後三時半。 これから来店されるお客様の予約も、まだ数名ほど入っていた。


「おいお前ら、早くフロアに戻ってくれ」


 店長の美香さんから叱責を受ける。 僕と結愛さんはすぐに返事を返し、香織さんは休憩中に食べていた弁当の残りをかきこんでいた。


 ようやく『お渡し会』から解放され、この日の営業は無事に終了した。


 最後のご年配のご婦人は顔を真っ赤にしながら僕にチョコを渡すものだから、なんだか僕まで照れ臭くなり、女性陣三人はその光景を温かく見守っていた。




「結局いくつもらったのだ」


 店長の美香さんが、義理チョコを僕に渡しながら言ってくる。


「ありがとうございます。はい、たぶん三十五個です」

「もうびっくりっていう範疇を超えてるね。アイドルじゃん」


 香織さんも僕に義理チョコをくれた。 義理というか、なんの色気もない『徳用チョコバー』の三十本セットをそのまま渡してくるものだから、僕は思わず頭を垂れて笑ってしまった。


「ありがとうございます。僕も生まれて初めてというか、今までお母さん以外からあまりもらった記憶がないです」

「へぇ、意外だねぇ。美容学校時代もなかったの?」


 香織さんは僕に渡したはずの徳用チョコバーを勝手に開けて、サクサクと音を立てながら食べている。


「意外……かな。僕、そんなにモテたことないですよ」

「これからバケるかもねぇ」


 香織さんがまた少しニヤッとする。 なんだか含みのあるこの人の笑顔は、少し苦手だ。 綺麗な人にからかわれると、正直どうしていいかわからなくなる。


「さ、店を閉めるぞ。ヒロト、ゴミを捨ててきてくれ」

「はい」


 掃除も終わり、美香さんが皆に号令をかける。 今日の終礼の前に、僕はいつものゴミ出しを任された。


 店のウィンドウから外を眺めると、暗闇の中にビルのネオンが光を滲ませている。 その光に反射された、白く大きな綿のような雪が、今はやや斜めに降り落ちていた。


 ────────────────────


 僕は大きなゴミ袋を二つ両手に持ち、店の自動ドアを開けて階段を慎重に降りていく。 わかっていたことだが、階段にいるだけでもう指先が悴んでいた。 降りた頃にはすっかり身体は冷え切っており、思わず身を縮こまらせる。


 なぜ上着を着て出なかったのだろう。そんな後悔がよぎる。


 だが、この大きな袋を持ってまた階段を上がるのも嫌だし、かといって袋を置いてこの場を離れると一階の店舗に迷惑がかかる。僕はそのまま収集所へと向かう決意をした。


 雪はそれほど積もっていない。 このくらいなら急ぎ足で収集所へ行き、気をつけながら帰ってくればいい。 上着を店に取りに帰らず、覚悟を決めて街灯の光の下、少しかがみながら歩き出した。


 こんな雪の日でなくてもいつも軽く走り、顔も俯きがちになる。 そういった時ほど、他の感性は鋭敏になるものだった。


 入り口を出てから少ししたところで、靴音が早まるのが聞こえた。 誰かが同じように小走りになっている足音。似たような人がいるのだな、と思った。


 しかし、だんだんとその音は速まり、靴音が最大になったころ、雑踏の中から一つ抜けるような高い声と共に、その靴音は止まった。


「あ、あの!」


 その声が果たして誰に向けられたものなのか、僕は少しも考えなかった。 歩調を弱めたが、それでもまだ視線を向けることはしなかった。


「ごめんなさい、あの!」


 その声は街の喧騒や、電気店から流れる陽気なテーマソングすらも貫いて、僕の耳に響いた。


「美容室の方ですよね」


 その言葉を聞いて、僕はようやく振り返った。 この通りには『マル・ダモーレ』しか美容室がなく、そしてその店から出てきた僕を見ていたことは間違いないだろう。


 振り返った僕は周囲に目をやり、少し視線を下げた先に、その人はいた。 たまごのような顔立ちをした、どこか大人びた感じのする佇まいの女性だった。


「はい。僕ですか?」


 そんな回りくどいことを言う自分に、嫌気がさす。 その人は間違いなく僕の目を見ているのに、わざわざそんな確認をする。 普通ならうざったいだろうなとも思う。


「……そうです」


 他に誰がいると言うんですか、と僕なら言うかもしれない。 そんな意地悪とも取れる僕の返事に、その人は少し躊躇いながらも、斜めに視線をやり、俯きつつ薄い唇で返事をした。


 僕は相変わらず両手にゴミ袋を持っていて、人目のあるこの通りのど真ん中で男女が立ち止まっている光景は、相当に注目を集めてしまっている。


 しかし、そんな状況にあっても、彼女は周りのことなど見えていないようだった。 両手を前に出し、僕の顔の近くまでその手を伸ばしながら言った。


「あの、これ……受け取ってください!」


 白地に金の絵柄が装飾された、小さな手提げ袋を両手のひらの上に乗せ、体を九十度に曲げて差し出した。


 一瞬、時が止まったかのように思えた。


「えっと」


 どうにか振り絞って出した声に、彼女の身体が微かに震えた。 顔を下に向けた彼女の表情は、今、どんな感じなのだろうか。


「すみません、今、両手が塞がってて」

「え……? あ、ご、ごめんなさい! こんな時に私……」


 ようやく僕の状況に気づいた彼女は、顔を真っ赤に染めながら、困り顔で汗をかいていた。


「あ、いえいえ、こちらこそごめんなさい。先にゴミを出してきていいですか?」

「は……はい!」


 彼女は表情をコロコロと変えた。 メガネの奥に覗くまん丸の瞳は、キラキラとネオンを反射させていた。


「あの……よかったら一緒に歩きませんか?」


 わずかな距離だったが、ここで待たせるわけにはいかないと思った。 それに、話したいこともあると思い提案した。


「はい! ぜひ!」


 生まれ変わったかのような彼女の表情はとても明るく、そして雪風になびくセミロングの黒い艶やかな髪がよく似合っていた。


 少しの沈黙の後、数歩歩いたところでその静寂を彼女が破った。


「あのぅ……私が誰だかわかりますか?」


 正直、困った。なぜそんなクイズを出すのだろうか。


「わからないですよね! 印象うすいですかね……」

「あ、僕、お客様の名前と顔を覚えるのが苦手で……ごめんなさい」

「いえいえ! ごめんなさい、いきなり困りますよね!」


 なんでこんな質問をしちゃったんだろう、とでも言いたげな彼女は、また続けた。


「いつもマル・ダモーレさんに本を届けている本屋さんです」


 ああ、そういえばそうだった。こんな方を見たことが何度かある、と思い至る。


「ええ、確かに。今、思い出しました」

「よかった! えへへ、思い出してくれなかったらどうしようかと思っちゃった」


 彼女はまた僕に顔を向けて、ニコニコとした笑顔に変わった。 よく変わる表情に、思わず僕も顔を綻ばせた。 カバンを両手で前に持ち、僕の横を歩く彼女の横顔は、とても嬉そうだった。


「いつもありがとうございます」


 僕は彼女にそう言った。 いつも本を運んできてくれて、僕のことをきっと横目で追っていたのかと思うと、とてもいじらしく思えた。


 彼女はハッとして僕の方を向いた。 胸に手を当て、何かを言いたいかのような唇の動きに、僕は少し動揺した。


 彼女はまた前を向き、ほんの少し照れたように目を細めた。


「いえ……あなたのお顔を見れるのかと思って……いつもお店に向かうのが楽しみでした」


 その言葉を聞いて、僕は立ち止まった。彼女は僕をみてニコッと微笑んだ。雪があたりに舞い散り、まるで星のように彼女の周囲を照らした。


 そんな彼女の笑顔をみて僕は駆け出し、袋を置いて彼女のそばへと戻った。


「あの……! ありがとうございます! すごく嬉しいです!」


 人目もはばからず、僕はそんなことを言っていた。 きちんと彼女に向き合い、目をちゃんと合わせて、僕はできるだけ真剣に彼女の瞳の奥を覗き込んだ。


「あ……あは……そんなに思い詰めた顔をされたら、私……」


 僕は今、どんな顔をしているのだろう。 彼女はまた俯いて、顔を赤らめさせた。 でも、その表情はとても切なかった。 本当はこの人は、いつもはこんな寂しい表情なんかしないんだろうな、と僕は思った。


 彼女は改めて、白く美しく丁寧に包まれた小さな手提げ袋を僕に差し出した。 僕は両手をズボンの横でゴシゴシと拭い、その小さな包みを感謝の言葉と共に受け取った。


「あの……お名前を聞いてもいいですか?」


 彼女は、かすかに凍えるような声で僕に問いかけた。


「はい。西澤(にしざわ)大翔(ひろと)です。あなたのお名前は」

「……鎌倉(かまくら)(あおい)です」


 いつのまにか、僕たち二人は雪の帽子を被り、見つめ合って佇んでいた。 その時間はとても温かく、少し窮屈で、そしてこの雪のように溶けていってしまいそうな脆さがあった。


 この日の出来事は僕にとって、忘れられないものとなった。


 ────────────────────


 店の入り口の階段まで戻った僕は、頭や肩に乗った雪を払い落とし、凍える身体で階段を登った。 自動ドアはすでにスイッチが切られ、重くなったドアを手で開いた。


 ふわっとした暖かさが身を包み、身体の細胞が動き出すように、視界も溶け出した。


「おつかれさま」


 美香さんがレジ締めをしている最中で、後ろを向きながら僕に労いをかけてきた。 バックルームでガタガタと音がしたが、それよりも僕は髪を拭きたかったので、シャンプー台のタオルを取りに行こうとした。


 そのとき、結愛さんがバックルームから投げ出されるように飛び出してきて、僕に向かった。


「はいこれ!あげる!」


 結愛さんの表情はとても火照っていて、どこか焦燥感が入り混じった顔だった。 そのあまりに唐突で上擦った声は、僕の心を掻き乱すには十分だった。


「ありがとう……ございます」


 僕はそれ以上の声は出せずに、その場に立ち尽くした。


「えっ」


 結愛さんの視線は僕の顔から、下に移り、僕が大事そうに握る小さな手提げ袋へと変わった。


「どうしたの、それ」


 結愛さんは振り絞るような声で僕に問いかけた。 急変した結愛さんの顔は、まるで全ての血液が顔から奪い去られていったようだった。


「あ、えっと、さっき頂いたんです」

「バレンタイン?」

「そうだと思います」


 僕の返事はとても冷たかったと思う。誰に対しても、誠実ではないと思った。 結愛さんは僕に既製品のチョコレートの包みを渡し、そのままバックルームへと引き返した。


「私たち、今日はもう上がるね」


 バックルームから香織さんと結愛さんが揃ってそう言って出てきた。 二人とも上着は脇に抱え、バッグのハンドルは片方しか持たれずぶらりとぶら下がっていた。 そうして二人は自動ドアを押し開けて、階段をどかどかと降りていく音が聞こえた。


 残された僕はその場で呆然とただ佇み、美香さんが打つタイピングと電卓の音だけが、がらんとした店の中にこだましていた。


「今日は早めに店を閉めようか」


 美香さんの言葉と共に、僕はバックルームで帰り支度をして、チョコレートが大量に入った紙袋を両手で持った。 美香さんの後に続いて店を出て、鍵を閉めた。


「ヒロト」


 美香さんが僕の背中に声をかける。


「はい」

「その方は、いつから下で待っていたのか」

「わかりませんが、僕が店から降りる前にはいたと思います」

「そうか」


 美香さんはそれ以上は何も言わず、「お疲れ様」とだけ言って傘を広げて街のネオンへと消えていった。


 ────────────────────


 僕は部屋の中で、頂いたものを整理していた。 正直ここまであると、香織さんの言うとおりお返しが大変で、申し訳ないけれどそのモノを見てお返しも考えなければならなかった。 こだわりな性格がこんなところでも発揮されていた。


 そして、あえてというか、当然というか、落ち着いてその中身を見たかったので、最後にとっておいた。 それはやはり、鎌倉さんから頂いたこの綺麗な袋だった。


 僕は椅子に座り、机の上にそれを置いて、慎重にその袋の口を開いた。 どこかの店舗のテープではないようで、これはきっと雑貨店などで売っているファンシーグッズのシールのようだった。 丁寧にそれを剥がし、ようやく開くと、カサカサとした細いわらのような敷物の上に、その木箱は座っていた。


 そっと木箱を取り出し、机の上に置いた。 とても綺麗で、いい匂いのする箱だった。 リボンにくるまれていて、そのリボンのトップにもシールが貼られていた。 幾重にも装飾が施されていて、僕は思わず心臓がキュッとなるのを感じた。


 リボンをシュルシュルと外し、箱の蓋を開けた。 その中には、これもどこかの店で売っているチョコレートとは思えないような、言ってしまえばあまり格好のついていない形のチョコレートが収められていた。


 それはとても綺麗で、あたたかみがあって、作った人の気持ちがわかるような心のこもった形だと思った。 これほどまでに感情を揺さぶられる体験は、生まれて初めてだった。 これは食べられない、そう思ったりもした。


 僕は箱の中をよく見た。それから手提げ袋の中も。 この木箱とわらの敷物以外は入っていなかった。名前すらどこにも書かれていなかった。


 僕は椅子の背もたれにのしかかり、部屋の天井を眺めた。


「これは、どういうことなんだろう」


 そういった感想以外はあまり浮かばなかった。 今までバレンタインというのは、まあ『そういうモノ』なのだと思っていた。 でもこれでは正直わかりかねるというか、どうしたらいいかわからなかった。


 唯一ある情報は、本屋さんということだけ。名前すら偽名の可能性もある。 でも自分の記憶が確かなら、あの人は本屋さんの店員さんで間違いはない。 僕ができるのはそこへ行くことだけだった。


 本屋さんだし、押しかけるという感じではないはず。 少なくとも不審者扱いはされないだろう。 でも、なんだかそこへ本を買いに行くのは、照れくさいというか、気恥ずかしいというか、気まずいというか。


 またごちゃごちゃと面倒臭く考える癖を嫌になりつつ、僕はその木箱の蓋を閉めて、母に呼ばれて夕食へと向かった。


 ────────────────────


 翌日の朝礼では美香さんから、いつもの流れで今日の目標や予約状況からみた注意点などの話があり、いたっていつも通りの内容だった。


「今日も一日よろしくお願いします」


 皆で号令をかけて元気よくスタートする。本当にいつも通りだった。 営業中、僕は時々上の空で、幾度となく美香さんに怒られる場面があった。 何をやっていても頭に浮かぶのは昨日のことで、またもらったプレゼントの中身のことだった。


 一応その場その場で怒られるたびに身を引き締めるが、やはりどうにも頭から離れない。


「ヒロトくん」


 香織さんから声をかけられた。


「はい、すみません」

「なにに謝ってるのかしらないけどさ」


 香織さんはやや膨れた頬に、手を腰に当てて僕に対峙した。


「いい加減ふわふわするのやめてくれないかな。お客様にも私たちにも迷惑だよ」


 もっともな話だ。僕に今できる仕事はまだデザインに関わることではなかったが、あまりに無責任な立ち居振る舞いに僕自身も気付いてはいた。


「はい、ごめんなさい。ちゃんとします」

「まあ……それだけじゃないんだけどさ」

「はい?」

「なんでもない。はい、次のお客様をお通しして」


 そう言って香織さんは担当のお客様のもとへ戻り、笑顔に切り替えて接客をしていた。 結愛さんもニコニコと楽しげに接客し、美香さんも相変わらず目を輝かせたお客様と楽しく話をしながらカットしていた。 僕だけこんな気もそぞろで、なんだか情けない感じがした。


 僕は両手で頬を叩き、次のお客様のシャンプーへと案内を始めた。


 ────────────────────


 それから数日、いつもは帰り道にある、きっと鎌倉さんがいるだろう本屋さんの近くは寄れずにいたし、何を考えていいかもわからずに考え込んでいた。


 数日経った休みの日、もうそろそろホワイトデーも近付く頃の日に、駅前のデパートへと向かった。 何を返せばいいのか、とりあえず義理で頂いたお客様や従業員のみんなへのお返しを買おうと、ホワイトデーコーナーへと向かった。


 鎌倉さん以外全部合わせて三十八個。かける約千円。 これはきつい。内容を精査しておいてよかった。 値踏みするのはよくないと思いつつ、三倍返しなど到底できないから、そこそこのものはそこそこのもので返そうと思い、三十八個買った。


「すごいですね。今年一番ですよ」


 大量に買う品をレジで精算するときに、受付の女性店員にそう言われた。 しまった、いっぺんに買うんじゃなかった。 前後に並んでいたお客さんからも注目を集め、しかも受付でそう言われたものだから、その周囲は僕への視線で溢れかえっていた。


 まるでガラガラと回すくじ引きで特等をひき、カランカランと鐘を鳴らされたかのように、わざわざ僕に視線が集まるように、その騒ぎがまたさざなみのように広がっていき、しまいには拍手までする者があらわれた。 さすがに店員さんから謝罪があり、僕は顔を伏せながらその場を立ち去った。


 一度家に帰ってお返しを部屋に置き、またデパートへと向かった。 何気なく立ち寄った、一階の宝飾売り場で僕は立ち止まった。


 そこには綺麗に飾られたアクセサリーが陳列されていて、思わず僕は目を引かれた。 普段僕はあまりアクセサリーはつけないし、シャンプーばかりする仕事なので、指輪はつけられなかった。 ましてや女性もののアクセサリーの売り場など見たこともなかった。 しかし、そこにはなんとなく惹かれるものがあったのだ。


「こんにちは、なにかお探しですか?」


 アクセサリー売り場の店員さんが僕に話しかけてきた。この時ばかりは、そのお姉さんに話し返した。


「はい、プレゼントのお返しを探してるんです」

「そうですか。バレンタインの?」


 にこやかにそう言ってくれたお姉さんは、手を前であわせ、踵を浮かせた。


「素敵ですね」

「そうですかね……あはは」


 僕は照れ臭かった。この人はそういった手合いはよく見てるだろうに、女性としてはなにかシンパシーを感じるものなのだろうか。


「どういったものがお好みか、わかりますか?」


 僕は、この人に相談しようと決めた。


「あの、実は知らない方なんです」

「まあ……それは、ちょっと聞いてもいいことかな?」

「はい、ぜひ」


 僕はありのままを話した。 相手の素性を知らないこと、名前もさだかではないこと。 その時得た情報として、本屋さんの店員で、おそらく少し年上、服装や髪型、メガネっこなど、いろいろと話した。


「ふむふむ、では、ペンダントなどはどうでしょう?」


 お姉さんは売り場にある、あまり気取らない値段の一角へと案内してくれた。 先ほどまで見たものよりは輝かしさもあまりないけれど、その年頃の女性がつけるにはちょうどいい感じがした。


「これなんかはどうかな?」


 細いチェーンの先についたペンダントトップは、イルカのモチーフだった。 曲線がとても美しく、子供っぽさもなく、かといって変に格式高くもない。本当にセンスのいい選び方だと思った。


「かわいいですね」

「そうでしょう?ピッタリだと思うな」


 お姉さんも少し浮ついた声で僕に勧めてくる。 よくこんな情報が少ないのに、これほど的確な選択ができるものだと、心底感心した。


「ありがとうございます。これにします」

「こちらこそありがとうございます。ではお包みしますね」


 音符が聞こえてきそうなくらいお姉さんの声は弾んでいた。 代金を支払い、プレゼントカードと共に商品を受け取り、僕は慎重に持って帰宅した。 仕事から帰ってきた母に、明日からおむすびを作ってもらうようにお願いをした。




 毎日のレッスンは変わらず結愛さんと一緒に行っていた。 結愛さんはいつもと同じく優しく教えてくれた。香織さんも美香さんの指導で、一緒にアップの練習などをやっていた。 そろそろ卒業式のシーズンもあり、皆、慌ただしい営業後を過ごしていた。


 相変わらず僕は本屋さんの前を通るのは避けていた。 鎌倉さんがどう過ごしているかなんて考えもしていなかった。


 そうして三月もだんだんと暖かくなり始め、ホワイトデーの日を迎えた。


 ────────────────────


 僕はその日いらしたお客様や、従業員の三人にはお返しの品を渡した。 義理チョコのお返しなどは本当に淡々と行われるというか、逆にいうとあまり何かをこめてしまうとよくないなと思い、淡々としたものだった。


 その日のレッスンは休んで、僕はすぐに帰宅した。 改めてお返しのペンダントが入った手提げ袋をさらに紙に包んでバッグに入れた。 自転車にのり、すぐに本屋さんへと向かった。


 あの日以来、初めて訪れる本屋さんだった。 以前は何も考えずに通っていた場所が、今はRPGに出てくる強めのキャラクターが居座る城にでも乗り込むような心持ちだった。


 しかし、彼女はいなかった。 外から見ただけだったが、明らかにいないことは間違いなかった。 十数分ほど店の前に佇んでみたが、店員さんが入れ替わる様子もなく、ただ見知らぬ店員さんの姿しかなかった。


 なにも下調べをしなかった僕が悪い。 なぜこの日までなにもアクションを起こさなかったのかと少し悔やんだ。 今更そんなことを考えながら、僕は自転車を押して歩いていた。


 翌日、この日も営業後に本屋さんにいってみた。 少し外出することだけ結愛さんに伝えて、店を出て自転車を走らせた。


 本屋さんの明かりが見えたとき、「お願い、いてくれ」と願いをかけて自転車を押しながら走った。 外からみて、やはり鎌倉さんはいなかった。 居ても立ってもいられなくなった僕は、本屋さんに立ち入り、中を確認した。 やはり鎌倉さんはいなかった。


 僕は、カウンターにいる店員さんに聞くことにした。


「あの、すみません」

「はい?あ、いらっしゃいませ」


 二人の店員さんは、僕の顔をみて一瞬表情を変化させた。


「鎌倉さんっていう店員さんはいらっしゃいませんか?」

「えっと……ああ……」


 店員さん二人は顔を合わせて、何かを確認するように頷いたように見えた。


「な 鎌倉さんは昼間に入っているんですよ」


 その応対してくれた店員さんは、ちょっとだけ顔を曇らせるようにそう言った。


「そうでしたか。わかりました、ありがとうございます」


 そう言って僕は本屋さんを出た。 いないものはしょうがない、諦めて昼間に来るしかないと思い、今度の休みの時にまた来ようと思って自転車の鍵を外した。


 ——この時点で、僕は何かを考えるべきだったのかもしれない。


 ────────────────────


 休みの日に、僕は本屋さんの開店から一時間ほど経った頃、歩いて商店街に向かった。 気持ちが高まる中、ようやく鎌倉さんに会えると思うと、心臓の鼓動が速くなっていった。


 どう渡そうか、どう話しかけようかなど、考えをまとめていた。 既に僕の「気持ち」自体は固まっていて、会えなかった日を重ねるほど膨れ上がっていた。


 そんなことを思いながら本屋さんの前まできたが、鎌倉さんの姿はなかった。 中に入って隅々まで探したが、やはりいなかった。


「なんでなんだろう」


 自然と口から言葉が出ていた。寂しさや、焦り。 頭の中は沸騰しそうだった。僕はそのまま本屋さんの中へと向かっていった。


 店員さん二人は僕に気付いたようで、ほんの少しの震えを纏っているように見えた。


「あの……」


 僕の声も震えていた。なぜこんな、何の言葉を発すればいいのかわからない状況にならなければいけないんだと思った。深く息を吸って、なんとか振り絞って二人に向かった。


「あの、鎌倉さんは今日もいらしていないんですか?」


 二人はもう気付いているのだろう。僕がなぜ鎌倉さんに会いにきているのかを。 三回目の来訪に、女性特有の感性で読み取っていたのかもしれない。見る人が見れば、それはまあお察しということだとは思う。


「えっと……」


 女性店員の一人が、もう一人と顔を見合わせ、やはり以前と同じように顔を曇らせた。 僕の目を見て、そしてまた視線を外しながら、明らかに困った様子の表情だった。



 あれ?



 僕は瞬時に沸き起こった心の奥底からの警報を察知した。 これはよくない。なんだかはわからないけど、これはよくない。



「えっと……本当に言おうか二人で悩んだんですけど……」



 あれ? ちょっと待ってくれ



「ごめんね……」



 嫌だ やめてくれ 聞きたくない



「彼女は」





仲村(なかむら)さんは、結婚しているんですよ」





 その瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。





 どうやって家に帰ってきたかは覚えていなかった。 気付いたら僕は自分の部屋で体を丸めていた。 僕の中にある全ての感情は変わってしまっていた。涙すら出ていなかった。


 もうなにも考えたくない。思い出したくない。 でも非情にも今までのことが全てフラッシュバックとなって脳裏を襲ってきた。



 あんなにも真剣に気持ちを伝えてくれた彼女の表情を思い出す。




 「あなたのお顔を見れるのかと思って いつもお店に向かうのが楽しみでした」




 なぜ僕にそんな想いを伝えようと思ったんだろう。 あのとき、もし僕が外に出ていなかったら。彼女はどうしていたのだろう。もし僕があの時振り向いていなかったら、彼女はどうしていたのだろう。


 なぜ彼女は姿を消してしまったのか。


 僕のせいだ。他の店員さんに気取られるようなことをするからだ。 僕にバレンタインを渡したことがバレて、なじられたんだ。 あんな変なことをしなければよかったんだ。


 彼女の今の名前は鎌倉さんじゃなかった。旧姓で僕に名前を伝えていたんだ。 そこに彼女の覚悟はあった?憧れる人にチョコレートを渡した、ただそれだけなのか?それにしてはあまりに残酷ではないか。あんなにも強い想いがこもったものを作れるものなのか?あんなにも幾重に美しく飾られた贈り物ができるものなのか?



 消え去りたい。 このまま消えていなくなってしまいたい。



 後悔と

 恥ずかしさと

 悲しさと 

 やりきれなさと


 それらとともに



 僕の純愛は終わりを告げた。




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