【小説】先輩とぼく
風をうけたカーテンが柔らかく膨らんで、黒板の上部にあるスピーカーからチャイムが流れる。
きょうの日はさようなら、だ。
教師がまだ何かを喋っている途中だったが生徒たちはわざとらしく音を立てながら帰りの支度をしている。
教室があっという間に騒音で満たされていく。
ふたたび風が吹いて、浮き足だった教室の騒音をそっとかき混ぜる。
ぼくはスマホの画面を出して先輩からのメッセージを読むと、ゆっくり立ち上がって部室に向かった。
帰宅部はどうせみんなでゲーセンか雀荘にでも行くんだろうし、運動部のやつらは学食で腹を満たすんだろう。
ぼくはと言うと、先輩に呼び出されて昼飯も喰わずに部室に向かうところだ。
上履きを押し込んで履き替える。
なんとなく振り向くと、老朽化のいちじるしい校舎が久しぶりにその体躯を生徒たちで満たして、堂々としているように感じた。
体育館と自転車置き場の間を進んだところにある倉庫、その二階にある一番奥の部室がぼくたちの場所だ。
拳闘部などと厳めしい名前だが結局は単なるボクシング部で、ぼくと先輩以外は幽霊部員と言う有様なのが現状である。
学校からするとあってもなくても良いクラブだ。
だから都合が良い。
階段を上がって廊下を進み、拳闘部と書かれたドアを開けた。
薄暗い部室の真ん中にあるボクシングリングの上で、サンドバッグに腰かけた人影が見えた。
「よっ、来たね」
先輩は軽く手を挙げるとすぐに視線を文庫本に落とした。
「ちょっと待っていてくれ、いま良いところなんだ」
鋭い目つきとは裏腹に、口もとは優しげに上がっていた。
「構いませんよ、いつもの事ですから」
ぼくはとりあえず鞄を床に置いた。
伸びきったロープのかかっている小さなリングの中でサンドバッグに腰かけている先輩は私服だった。
サンドバッグを吊るすべき場所には先輩が着て来た薄い夏物のジャケット吊されている。
自分の部屋でもあんな風に吊るしているんだろうか。
先輩をちらりと見やったが、相変わらず小説に夢中だった。どんな本を読んでいるのだろう。
壁についている換気扇の紐を引くと、埃だらけの換気扇が苦しそうな音を立てて回りだした。
倉庫独特の匂いが微かに動いた気がする。
学ランの内ポケットからセブンスターズを取り出して100円ライターで火をつけると、その音を聞いた先輩は本から顔を上げず
「そんな無粋なものはやめてマッチにしたまえと言っているだろう」
と言った。
先輩の方を見ると、顔は上げていないが、片手で本を抑えてもう片方の手は二本の指を立ててぼくに煙草を要求していた。
ぼくは黙ってセブンスターズを先輩の指に挟み、ライターで火を点けてやった。
うん、ありがとうと呟くように言う先輩は相変わらずこちらを見なかった。
「まったく、ガスの無粋な火で吸うなんてな」
「髪型変えたんすか」
「うん」
「夏前は束ねてましたよね」
「うん」
「その前は黒髪でしたし」
「うん」
「コンタクトやめて眼鏡にする人も珍しいですよね」
「丸眼鏡とチェーンが欲しくなってね」
「両耳ピアスだらけなのに引っかかりません?」
「大丈夫だ。いまのところ」
「将来的にはダメそうっすね。舌ピとかやんないんすか」
「痛いからヤダ」
「耳はいいのに……?眉とかは?」
「眉はいいけど、化粧しずらそうだからな」
先輩はパタンと音をてて本を閉じると、ぼくに顔を向けて豪快に煙を吐いた。
「ダメだね、良いところだと言ったのに邪魔ばかりして」
「ひとの煙草吸っておいてなんですか」
「それもそうか、まぁ仕方ない」
先輩はそう言って笑うと、足元に置いてあった缶コーヒーのひとつをぼくに向けた。
「飲むだろ」
はい、と言って受け取った缶コーヒーは汗をかいてぬるくなっていた。
先輩もひとくち飲んで
「まずい、麦茶みたいな味がするな」
と呟いた。
「でも香料ばっかのやつよりマシですよね」
「当たり前の事を言うな」
「そんで、まぁ聞くのも馬鹿馬鹿しいんですけど何すかその恰好」
「今日は8月32日だからな。夏休みはまだ終わっていない」
先輩はとびきりの作り笑顔でぼくを見つめた。
ダメージ加工された白いシャツの下からはレースのついた黒いキャミソールが見えていた。
日焼け止めが大変そうだな。
部屋で自分の腕や首に日焼け止めを塗る先輩を想像すると可笑しくなってきた。
「そう思うんならそうなんでしょ、先輩の中では。出席たりすんですか?」
「まぁ聞きたまえよ。今日は始業式だし明日くらいまではサボたってどうにかなる。どうせ休み明けの授業なんて何も進まない。
と言う事はだ。今月はそのまま土日に繋がっていく訳だし、理論上8月は35日まであるんだよ」
「な、なんだってー」
「AAが見えそうなくらい棒読みだな」
先輩が吸い殻を空き缶に押し込んだ。
ぼくも同じタイミングで吸い殻を空き缶にねじ込む。
「そんでアレすか、8月35日の次はいきなり9月5日になんすね」
「まぁそうなる」
先輩は厭そうな顔で短くなった髪をくしゃくしゃと掻いた。
「だから始業式にも出ず、私服で学校にきて部室で遊んでいると」
「その通りだ」
「そんで、なんすか」
「いや、特に用は無い」
「は?」
「煙草を切らしてね。この格好でいま出ると見つかるだろう。それなら君を呼んだ方が早いと思って」
「そういう事すか」
先輩はにやりと笑って前髪をかき上げると「何か期待してたか?」と言った。




