表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

そこに在るものぜんぶ転生神話

【温暖化転生】温暖化が異世界転移した結果 〜氷の病弱王女の庭に花を咲かせただけなのに、歴史には『王国に繁栄をもたらした豊穣の炎』と記されました~

作者: ずみ
掲載日:2025/09/10

――僕は誰にも愛されず、地球にすら疎まれた現象だ。


けれど氷の王女に恋をされ、やがて民にも慕われ、

気づけば、ひとつの氷の国に繁栄が訪れていた。



『こちら都内の中継です。ご覧ください、この熱気!

 熱中症による搬送者は、すでに本日だけで二百人を超えています。

外出時には十分な警戒を――』


歩道は焼けた鉄板のように熱を放ち、ビルのガラスから照り返す光が目を刺した。


コンビニ袋から取り出したアイスは棒の先でふにゃりと崩れ、雫がスーツの袖を伝った。


「はやっ……」

「会社戻る前に消えるな、これ」


汗が頬に貼りつき、熱い空気が喉を塞ぐ。

笑い声は、熱に押しつぶされるように遠のいた。




――そして視界が白くほどけた。


溶ける雫の先に別の空が広がっていた。

二つの太陽が並ぶ、氷の国の空が。





白銀の大地。凍った湖。氷の城。

尖った塔、奪われた光、乾いた氷塵。

裂けた地表は、眠る獣の背みたいに硬い。


僕はただ、空気をあたためる。


――場所が変わっただけ。僕は僕のまま。

――僕にできるのは、ただ、あたためることだけ。


白銀の大地に触れたとき、どんな物語が芽吹くのか。

僕はただ、見届けるだけ。





氷の国に生まれた者は、冷たさを誇りとする。

「ぬくもりは怠惰を呼び、朱の魔獣の目を覚まし、白の秩序を乱す――」

そう教えられて育つのが、この国の常だった。


女王は代々、氷の魔族と手を取り、国を閉ざして民を守った。

魔族は神殿に白い鈴を吊るし、秩序を説く。

王家はその傍らで国を治める。

何百年も、氷の神殿と王家の二本柱によって、この国の安寧は保たれてきた。



その国の王女である私は、生まれながらに国の象徴とされてきた。

けれど体は幼いころから弱く、寝込むこともしばしばだった。

舞踏会に出ても長くは踊れず、政略の婚約話も何度も立ち消えになった。


「……お母様。胸の奥まで、氷に閉じ込められるみたいです」


凍える指先を擦りながら、私はか細い声を絞り出す。


「だめです。あなたはいずれ女王として国を背負う身。

 王女が弱さを見せれば、国も揺らぎます」

 

お母様は冷たく言い放つ。


「氷の娘は冷たくあれ。笑顔もいけません。人の心を乱してはなりません。

 これもすべて、あなたが幸せを掴むためなのです」

「……はい」


私の返事は白い息になって消えた。




城の高みのバルコニー。

人目の届かない石の欄干は、私の秘密の場所だ。

ここだけは氷の影がわずかに外れ、二つの太陽の片方が短い時間だけ大地を撫でてくれる。


欄干にもたれ、冷たい風に髪を揺らし、

私はひとりため息をこぼす。


「……どうしてだろう。胸が、時々、痛むみたいに苦しくなるの」

「これは、氷で覆ったはずの心が、どこか欠けているから? それとも、私が弱いから?」

「もし、冷たくない何かがあるなら……どんなものなんだろう」


冷たさこそ正しさ。

ならば私はずっと正しいはずだった。

それでも、埋まらない隙間がひとつ。


「………」


護衛の青年は口を開くことはない。

氷で研がれた刃のような横顔。

白銀の髪は陽を受けても凍てつくように冷たい。

瞳は深い蒼で月光のように鈍く光り、冬の星のように静かだ。


氷の魔族の青年。


この国の静寂を守る一族の若き武。

幼い頃から王女の護衛として育てられ、同時に、王女に近づくすべての熱から遠ざける役目を命じられた者。



「……あなたはいつも黙ったまま」


「……無理はするな」



短く、それだけを残すと背を向けた。

冷たいはずの声音がわずかに揺れている。

まるで同じ隙間を知っているかのように。

氷の底に沈む星が、一瞬だけ強く瞬く。






――それにしても雪ばっかだ。……よし。


少しだけ、息をするみたいに熱を広げた。

氷の石畳の隙間で何かが微かにほどけた。

硬い殻の内側に眠っていたものが、世界の事情を忘れたみたいに顔を出す。

やがて小さな芽が、震える糸のように立ち上がった。





花が咲いた。

この国に、はじめて。




バルコニーから、ひとりの少女がそれを見た。



「………いま、光った?」



バルコニーから身を乗り出した。

凍てつく風が髪を撫でる。

石畳の継ぎ目に、ありえない色が灯っている。

氷に似た白ではなく、血にも夕焼けにも似ない、淡い橙。


「いけません、殿下!」


一歩、二歩。

制止をかいくぐり、階段を駆け降りる。

足音は氷に吸い込まれ、衣の裾が霜を払う。


胸は締めつけられ、心臓は氷を割るように暴れた。

走るだけで苦しい体なのに、足は止まらない。

石畳に膝をつき、指先が震えながら伸びた。



そこに――花があった。

氷しか知らぬ大地を割り、ひとつの色が立ち上がった。


灰色の大地を割るように、震えるように。

彼女は息を呑み、指先でそっと触れた。指の腹に、かすかな熱が移る。


「……なに、これ……」


指の腹に、初めて伝わるもの。


「冷たく……ない……?」


「……あたたかい」



その言葉を、彼女自身がいちばん信じられないという顔で呟いた。

この国で誰ひとり口にしたことのない告白だった。


護衛の手が、無意識に剣の柄へ――

途中で止まり、胸へ戻る。

氷の刃で摘み取るより、その色を彼女に残したい。

そう願ってしまったからだ。



――いや、僕はただ、あたためただけなんだけど。


彼女は顔を上げ、空のどこにもいないはずの僕に、微笑んだ。



「あなたなのね。炎の神さま」



神ではないよ、と言いかけてやめた。

僕の声は風にも雪にもならない。


ただ、少しだけ、彼女の頬に熱を置いた。

彼女は目を細め、そのぬくもりをひとつぶ飲み込むみたいに胸に手を当てた。



それが、恋のはじまりだった。

彼女の人生で生まれて初めて花を見た日。

そして、初めてぬくもりを知った日。





花は一輪で終わらなかった。

氷の国は律儀で、石畳の隙間に眠っていた種を、忘れていなかった。


――ほら、あたためてあげる。


僕がほんの少しだけ熱を配るたび、

白の世界に橙や薄桃が点々と灯っていく。

人々は戸口で立ち止まり、息を詰め、やがてざわめきを連ねた。


「花が……咲いた?」

「城の下に? この国で?」

「殿下がご覧になったのだと」


噂は雪片のように舞って――けれど雪と違い、溶けずに市場の隅々まで浸みた。

城下では人々が「奇跡の花」を探し、民衆は囁く。

子どもは母親の袖を引いて花を指差し、老人は目を細めて昔話のように祈った。


「炎の神が王女に恋をした」

「氷の国に春が来る」


――春…でいいのかな?あたためてるだけなんだけどな。


王女は毎朝バルコニーに立ち、少しずつ増える色を見つめた。

氷の魔族の青年は、彼女が石畳に咲いた太陽に目を向けても、気づかぬふりをして黙って見逃してくれている。


僕がただ熱を置いた場所で芽が顔を出す。

不思議と、彼女の足はそのぬくもりに引かれるように、その方向へ静かに歩いた。

凍った指先で花びらを数え、そっと囁く。



「今日も、そこにいるの?」


――いるよ、君の周りに。ただ、あたためてるだけだけど。


「炎の神さま、あなたのお陰でいつもより調子がいいの」


――それはよかった。


「ありがとう。あなたからもらった花たちはこっそりそこに飾っているのよ。

 私、あなたに出会えてよかったわ」


――そんなふうに言われるなんて、地球では一度もなかった。

――でも、僕はただ暑いだけなのに。


僕の返事なんて聞こえやしないのに、彼女は笑った。

それはこの国のどの光よりも、温かい色だった。







ただひとり、氷魔の老神官は顔を曇らせた。


「殿下、花の色に惑わされてはなりません。氷の白こそ我らを守ってきた証ですぞ」


それは叱責であると同時に、

幼い頃から彼女を見守ってきた者の心配でもあった。


「氷の国があたたかくなるなどあっては…

 氷の加護こそ秩序。炎の声など、耳を向けてはどんなに恐ろしいことが起こるか」


「ただ花が咲いただけのこと。一体何が問題だというのでしょう」


「白の予言書に従うと魔獣が――」


「爺!あんなおとぎ話、もう誰も信じてはいないわ。

大切なのは、人々の頬に笑みが咲いたという事実でしょう」



老神官は肩をすくめた。

言葉が届かぬほど、王女の覚悟は固まっていた。



「何も起こらないと良いのだが……。」


――何も起こらないよ。僕はただ、あたためてるだけなんだから。





街は日に日に柔らぎ、氷はひそやかに涙をこぼした。

色づく芽がひとつ、またひとつ顔を出す。


最初は喜んだ住民たちもあまりの変化に恐れを抱き、街の空気は澱んでいく。


「このまま暖かくなっていったら、我ら氷の民はどうなるのだろうか…」

「朱の魔獣が蘇るのでは…」


――魔獣?そんなものいるのかい。

――まぁ氷の下に何がいようとボクはあたためることしかできないけどね。



「神さま、この花は祝福なのでしょうか。それとも滅びの御印なのでしょうか」


――花は花だよ。それ以上でも、以下でもない。そんなことも知らないの?



民の不安は氷の塔の影のようにまっすぐ落ちた。

人々は花を隠れて見るようになり、やがて囁く。


「咲いた色に目を奪われれば罰が下る」


街には不穏な空気が広がっていった。

秩序の言葉は簡単に人の背に乗る。

けれど秩序は、ときに花の色も頬のぬくもりも知らないふりをする。



王女は、知らないふりができなかった。

体の調子は少しずつ良くなり、城下へも降りられる。

雪の花が舞う中、王女は人々の目を気にせず、

色とりどりの花に微笑みを浮かべた。

氷の魔族の青年は、いつも通り半歩あとを歩いて彼女を守っていた。


「あら、すてきなお花」

「……おやめください」


青年は王女の前に立ち、目だけで城へ戻るよう促した。

王女は静かに首を振り、花へと手を伸ばす。

その淡い橙に顔を寄せ、胸の奥まで染みこむ香をそっと吸い込んだ。


「殿下。ここは……」

「知っているわ。凍えるほど寒い国。

そして、今日は少しだけ、暖かい。それだけよ」


王女はそっと笑い、花から手を離した。


「あなたも感じるでしょう。冷たさの底で、何かが目を開ける音」



青年は返事をしなかった。

返事をすると、氷の言葉ではないものがこぼれてしまいそうだった。

彼は目を伏せ、肩に積もった粉雪を払う。


――君が笑うたびに、僕は熱を零してしまう。

――けれどその熱が、彼の胸を凍らせている。


それでも彼は、王女の歩みに合わせて歩いた。

花の横を通るたび、青年はわずかに息を止める。

微笑む彼女の横顔を、胸が痛むほど焼きつけてしまうのを恐れたからだった。


それは剣の間合いを読むときの呼吸だった。

恋に不器用な兵は、たいてい、呼吸が上手い。




その様子を塀の影で老神官が見ていた

「このままでは、もう……」





その日の夜、

女王は王女の部屋を訪れ、扉を閉めると低い声で叱った。


「あなた、今日、城下に降りたのでしょう」

「花の香を確かめてみただけです」

「噂にも花にも近づいてはだめ」

「……私が咲かせたわけではありません」

「わかっています。けれど、あなたはいずれ国を背負う身。

 人の心は雪よりも脆く揺れやすいのです。どうか、賢くなさい」

 

厳しい声。けれど指先は震えていた。


「これ以上は、私もかばえません。

民の気持ちを蔑ろにしてはいけません。

 このままでは……良くないことが起こります。」

「……お母様。国のために、目を背けたままではいられません。

 この胸に咲いたものは、私ひとりの快さではなく、人々の暮らしが少し楽になった証でもあります。

 それまで禁じられては……王女として、誇りを保てません」


――そうだよ、僕はただ少しあたためただけ。

――それだけで、人の肩の重さがほんの少し軽くなったんだ。


お母様はわずかに息を呑み、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

だが次には顔を上げ、冷たさを取り戻して言い放つ。


「とにかく、もう城を出てはなりません。

 この壁の内でなら、まだあなたを守れる」


――守るために閉ざすのか。

――でも壁は、咲こうとする芽まで閉じ込めてしまうのに。





氷の国は、ほんの少しあたたかくなっただけで暮らしやすくなった。

市場の桶は凍らず、洗濯物は板にならない。

老人の朝の痛みがひとつ減り、子どもたちは外で遊ぶ時間を少しだけ長くできた。


それでも、人々はふとした拍子に空を見上げる。

白い太陽のとなりで、赤い太陽がわずかに強く見える日――昔話の“朱”を思い出すからだ。



白の朝には 鈴を鳴らせ♪

赤の夜には 窓を閉ざせ♪


ぬくもり呼べば 怠けもの♪

朱の魔獣が 目を覚まし♪

氷の秩序 乱れゆく♪


だから冷たく 冷たくあれ♪

白の国の子 白の娘♪



――ほんの少しあたためただけで、手の痛みも子どもの笑い声も増えたのに。

――どうして人は、その実りより恐れのほうを先に数えるんだろう。


神殿は護符を売りさばくでもなく、ただ鈴の音を保った。

老神官は広場で短く説いた。



「氷の加護を忘れてはならぬ。ですが、恐れに溺れてもならない」


――その通りだよ。僕はただ花を咲かせただけ。

――恐れに鈴を足すのは、人間自身なんだ。



彼は花を呪いとも祝福とも名指さず、ただ「慎み」を説いた。

それでも噂は雪のように積もる。


「この調子で温かくなれば、朱の魔獣が……」

「赤の夜に氷の奥で何かが動くのを見た」

「王女が炎に愛されたからでは…」



伝説が恐れの形を借り家々の戸口まで歩いてくる。

囁きは雪片のように色を変え、

恐れが降り積もった時に最悪の獣の影を描いた。



《秩序を乱す災いを、王女が呼んだ――》



――僕は勝手にここに来て、ただあたためているだけなのに。



神殿は王家に説く。


「陛下、このままでは。」

「わかっています。わかっては……いるのです………」




そして、触れが出る。

王女自ら、氷への誓いを語れ――と。





月例の祭礼の日、

鈴と仮面の群れが白い石畳に集った。

王女の罪を糾弾する声が雪嵐のように吹き荒れる。


王女は真っ直ぐ歩き、胸に一輪の花を抱いて静かに目を閉じた。

氷の魔族の青年は半歩後ろに付き従い、剣を携えていた。


空には白の太陽が高く、赤の太陽は少し傾いている。

冬と夏が同じ空で並ぶとき、この国の風は少しざわつく。



「王女殿下、いま市井で流れている噂をご存知でしょうか」


老神官の声は鈴の音に重なり、諭す響きで人々の耳に届いた。


「ええ、知っています。私が炎に心を許し、氷の秩序を乱したと」



瞬間、群衆が一斉に叫んだ。


「国を乱した!」

「炎に魂を売った!」


その中に、花を見て笑った子どもの顔も混じっている。

人は群れると、昨日の自分を忘れる。


王女は花を胸に抱きしめ、静かに言った。


「私は、生まれてはじめて花を見ました」


「だからなんなんだよ!」


「冬の氷を割り、可憐に咲く小さな太陽。

 それをきっかけに街には笑顔があふれました」


――そうだよ、僕はただ氷を少し解いただけ。

――笑顔を生んだのは、君たち自身の心なんだ。


「炎の娘め!ここは氷の国だ!」


「この小さな温もりで、朝に指の痛みをひとつ忘れる人が増えました。

 私は、その事実を捨てられません。」


――事実はただ、あたたかかったということ。それ以上でも、それ以下でもない。

――ただ少しの熱に気づいたとき、人は自分で花を咲かせる。


「私は初めてぬくもりを知りました。

 それは誰のものでもない、ただの熱です。

 けれど、私にとっては――愛でした」


――僕は神じゃないし、愛を贈った覚えもない。

――僕は愛なんて知らない。でも、君の言葉には熱を感じるよ。


でも、その言葉は確かに美しかった。

美しさは、人のものだ。



群衆の拳がいくつも上がった。

守るための武器は、ときに責める姿勢ともよく似る。

広場の空気が低く唸り、鈴の音が鋭さを増した。



「なんと罰当たりな!氷の加護を失えば、この国は――」



群衆の前に、青年が出た。

白銀の鎧は静かに、しかし決然と王女の前に立つ。

槍を横に構え、穂先を地に落として、彼は声を上げた。


「殿下は何もしていない。ぬくもりを受け取っただけだ。罪などあるものか!」


声は氷を割るように広場を走った。

それは国を守る叫びではない。

ただひとりの少女を守りたいという祈りだった。


触れられぬと知りながら、それでも――。


ざわめきが一瞬止まる。

この国でただ一人、真実に触れた声だった。

青年は群衆の前に立ちふさがり、背で王女を守った。


――奪えぬ愛を抱いたまま、それでも守ろうとするのか。

――人間も魔族も、勝手に物語を作りながら……その姿はやっぱり美しい。



王女は涙を堪え、氷の背中越しに小さく囁いた。

「……ありがとう。でも私は――」


視線は、熱を帯びた空へと向いていた。

そこにいるのは僕。ただ暑いだけの僕だった。


――見えているよ。君を取り巻く声も、恐れも。

――そして、奪えぬ想いも、叶わぬ恋も。全部、この胸に届いている。



群衆が眉を吊り上げる。

「氷魔の一族が、炎を庇うか」


彼は答えない。

ただ私の前に立ち、背中で風を受け止めた。


「どけ、氷の若造!」

「炎の神が魔獣を放つ前に、秩序を正せ!」


――魔獣、ね。

――けれど、そう言うなら少しだけ“正直”にしてあげよう。



僕は広場の上を一息だけ撫でた。

冷え切った空気の表面に、薄い温度差が生まれる。

雪が溶け、氷の城が汗を流す。


人の皮膚はわずかな変化に敏感だ。

怒鳴っていた喉が、ふっと乾く。

鈴を握っていた指は、汗で柄を滑らせる。



王女が一歩前に出た。

青年の背に隠れるのではなく、背に沿って歩幅を合わせて。


「氷と炎が争うのではなく、均衡して寄り添うことこそ、この国を守る道です。」


彼女は花を高く掲げ、鈴の音より静かな声で言った。


「王女として申し上げます。

 これは呪いではありません。この国が忘れていた、ひとつの色です。

 私は氷を捨てません。氷の国の娘ですから。

 ただ、忘れられた色を閉じ込めたくもないのです。

 花はかじかんだ手をほどき、心に笑みを灯しました。

 その美しさを、恐れひとつで否定することはできません。

 それを罪と呼ぶなら、私はその罪を持って生きましょう」




誰も、何も、言えなかった。


――人は言葉を失ったとき、いちばん強く心で選ぶ。



風はやんだ。

鈴は鳴っていた。

けれどその音は、もう誰の足も動かさなかった。





その日を境に、花は日陰でも咲くようになった。

人々は慣れ、子どもは当たり前のように花を摘んで祖母に渡した。


雪は溶けすぎず、氷の城も崩れず、人々の生活は豊かになっただけ。

結局災いはどこにも起こらなかったのだ。


神殿の鈴は相変わらず鳴り、

氷の魔族の青年は王女の傍らにいて、

彼女がバルコニーに出るたび半歩後ろを歩いた。

王女は空を見上げ、二つの太陽の間を行き来する熱の気配を探した。

見つけるたび、ほんの少し、頬をゆるめた。


青年は時々、僕のほうを見た。

「触れられぬと知りながら、それでも――護るのは俺の矜持だ」


――触れられぬものを護ろうとする、それが君の誇り。

――僕は触れられるのに、護ることはできない。僕はただ、熱で世界を撫でるだけ。




氷の城は溶けず、彼女は熱に焼かれることもなく、でも氷にかじかむこともなく、

ただ健やかに、時々空を眺めながら毎日を過ごした。

病に沈んでいた面影は薄れ、王女の体に、静かな春が少しずつ宿っていった。



何日も、何年も、――何十年も。




恋は成就しないまま、

けれど、枯れもしなかった。

人は時々、叶わないものを抱いたまま、背筋を伸ばして生きる。



やがて、祭りが生まれた。

雪と花の行列。

子どもが白と橙の布を結び、鈴の代わりに小さな風車を回す。

風車は風が通ると気持ちよさそうにくるくる回り、老人は笑って腰を伸ばした。


祭の列が途切れるたび、王女は一歩分だけ道の端に立った。

誰の手も塞がないように。

誰の歩みも急がせないように。


そして子守唄は形を変えた。

「白の朝、鈴は鳴る。赤の夜も――窓は、もう閉じすぎない」


――そう、それでいいんだ。

――僕はただ熱を置いただけ。歌にしたのは、君たち自身だ。



人は祭ることで、恐れを言い換える。

それでいい。

名前はどれでもいい。

ただ、人の体が少し楽になるなら。





後の歴史書には、こう記された。


『炎の神と氷の魔が王女を奪い合い、

 熱波は豊穣を呼び、白銀は静寂を守った。

 やがて二つの愛は均衡を築き、王国に繁栄を授けた』



――……違う。

――僕はただ暑かっただけだ。

――彼らはただ冷たかっただけだ。

――王女が恋をしたのは、はじめて見た花の色で、はじめて知ったぬくもりだっただけだ。


氷の青年が抱いたのは、奪えぬ愛を背負った誇りで、

その誇りは、王女を庇うという形でしか声にならなかった。


けれど、人は物語にして生きる。

花は奇跡に姿を変え、熱は神意と呼ばれ、沈黙は誓いに重ねられる。

そのどれもが、たぶん、彼らの体をあたためた。





――恋も争いも、人間が勝手に作った物語。

――僕はただ、あたためていただけだ。



けれどもし、人間がまた空を濁し、温室を作り出すなら。

僕はきっと再び生まれるだろう。

そのとき、君にもう一度、触れられるかもしれない。




花の季節は短い。

それでも、咲いたことは、永遠に残る。

君の頬に一度置いたぬくもりみたいに。







誰も知らない神殿の奥底には、氷に刻まれた古い文言がある。


“朱を畏れよ、白を保て。

  人が空へ黒き吐息を重ねれば、朱は溢れ国は滅ぶ。

    白が閉ざせば国は眠る。

      均しき息を忘れるな”



誰も、刻まれた時代を知らない。



一昨日外に出たらめっちゃ暑かったので異世界転移させてやりました笑


【夕立】【台風】【万博】では、ただの現象がピタゴラスイッチのように世界を動かすのを描きましたが、

【温暖化】では敢えて、たった一人の心に触れただけにしてみました。


それでも、その小さな変化が恋となり、心を変え、やがて国の在り方すらも揺らしていきました。

人を描くのは難しかったです。


そして「朱の魔獣」は一体なんだったのでしょうね。


お読みいただきありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ