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クソデカ日本、爆誕!!!  作者: シヴァいっぬ
中世
9/13

啓守王の誕生

 啓良王には妻妾の如き愛馬がいた。


 佐目毛の女馬、『妙法院(みょうほういん)勝呼(しょうこ)』号だ。


 啓良王は勝呼号を何よりも大事にした。

 例えば、王は、平地でこそ勝呼号に荷物を運ばせることもあったが、先ず滅多に物を持たせなかった。精々、勝呼号用の甲冑程度で、しかも山道を行く際には王が勝呼号を担ぎ上げた程だった。王はまた、自ら勝呼号の手入れ一切を行ったのだが、他の者が許可無く触れることを許さなかった。勝呼号自身も王以外が触れることを許さなかった。

 太政大臣として京に滞在するための屋敷や、北海道稚内市に建てられた北嶺王家、後皇族の宮殿となった隆脩第(りゅうじょうだい)は、何より勝呼号がストレスを感じないようにと造られていた。どの門や部屋も天井が高く、窓は多く、中庭は一つの牧場と云える程に広い。屋敷内には幾つも馬屋が設けられていた。


 王は、勝呼号の生前の姿を度々描いた。

 極めて精緻で写実的な絵であるため、そのような絵を描いたという事実(Real)こそ現実っぽさ(Reality)を失っていると評される程だ。絵の端には勝呼号を詠んだ短歌を、勝呼号の瞳には描いた日時と啓良王の名前を書いた。



 皇紀1992年の秋、啓良王は僉議が近付いていたので京屋敷にいた。


 その屋敷にて、勝呼号が病床に臥せった。


 王は勝呼号に闘病をさせてみるも、これ以上は苦痛でしかないと判断し、安楽死させることにした。

 夜更けに王は勝呼号を馬屋の外へ連れ出し、其處で執り行うことにした。勝呼号が建物の内よりも、空を天井に大地を床に見立て、花を詠じて月を()ることを好んだからだ。

 月が雲を羽織り、鳴く虫の音曲を奏でる深更(しんこう)、王は幾度と無く勝呼号の頰や目元を擦るように撫でたり、鼻に接吻(くちづけ)したりを繰り返した。王としては勝呼号を宥める目的で始めた愛撫だったが、結局は自身に殺処分を決断させ、納得させる迄の時間稼ぎだったと振り返っている。


 小雨が振り始めた頃、(やが)て王は決心した。

 勝呼号に口を開かせて、水に溶かした通仙散(つうせんさん)──即ち飲む全身麻酔薬──を飲ませた。それから勝呼号の首筋を撫でて撫でて、眠っても撫で続けた。

 雨が降り止んだ瞬間、その体に触れていた愛情深き手を、腰の小刀に伸ばした。王は刀をすらりと引き抜くと、一息に腹を切り裂いた。そして刀を投げ捨てると同時に、()いた腹に腕を素早く突き入れる。腕は横隔膜を破り、心臓に繫がる大動脈を指で千切った。


 眠り始めて数十秒、勝呼号は悶えることなく絶命した。

 大動脈から溢れるその尊い血は全て胸郭に溜まり、可惜(あたら)大地に零さずに済んだ。その血液が体温を保たせていたのだろう、間も無く日が昇ったが、勝呼号の体に付いた雨粒は蒸気に変わり、(あたか)も魂のように立ち昇って逝った。



 啓良王は、勝呼号を解体した。


 皮膚を()いで羽織にし、(たてがみ)や尾毛を抜いて兜に植え、血肉を飲食して自らの一部と化す。

 その骨を箔濃(はくだみ)にし、眼窩(がんか)には球形に削った水晶を埋め込んだ。この黄金の骨骼は、綿で覆われてから生前の馬着に包まれ、蒔絵(まきえ)の大きな箱に収められた。しかも、骨が欠けることのないよう、箱の底や隙間には目の細かな塩を敷き詰めて固定した。

 蒔絵の箱は、更に石棺に納められたが、やはりこの棺の中にも塩が隙間無く詰められた。王は、後に勝呼号の石棺を置くための古墳をも造らせるが、それ迄は隆脩第の自室に置いていた。



 勝呼の死が啓良王に与えた影響と衝撃は大きかった。



 ところで、そんな啓良王だが、宗教に対する政策は余り行っていなかった。


 王にとって天皇や臣民が何を信仰しようが問題でなく、それを他者や世間に押し付けたり、現実主義が前提の政治や軍事の世界に持ち込まなければ、如何でも良いと割り切っていた。


 ただ、宗教が相国府の下にあると云う関係は作りたかった。

 もっと云うと、国家及び相国府、諸法、天皇家、臣民の順に秩序化し、その臣民も下痢の時以外には神仏の加護を願わないで済む世の中にしたかった。王が打ち出した国家を富ませる諸政策は、それ故のもの、と云う面もある。


 それに、王は僧侶時代から、寺社が人口に対して多いと感じていた。

 太政大臣になってからは、例えば、同じ宗派の小さな寺複数をひとつの大きな官寺として纏め、(あぶ)れた僧を公務員として雇う等、少しずつ整理していった。

 又、その溢れ僧にも手を差し伸べることで、宗教は相国府よりも格下との風潮を作ろうとした。

 因みに嫡男・啓守王も宗教政策を引き続き行ったが、啓守王の場合はもっと露骨な、粛清と云う形式で実行した。



 公武は啓良王の恐ろしさと財力、絶大的な大衆人気をよく知っていたので、内心不満に思っていても口吻を洩らすことはなかった。畏れてさえいた。


 しかし多くの寺社は然うではなかった。


 寺社には自らは嘉暦戦争で活躍したという意識、王も天台座主を経験したり修験者の知己を多く持っていたりと、寺社とは太い繫がりがあるという思い込み、更には王と雖も寺社に手を出さない筈だという一種の信仰めいた考えがあった。


 当の王は、(そも)戦争で活躍した寺社関係者は、第一に魔縁群の修験者や出奔した僧侶崩れ、次いで比叡山延暦寺位だと考えていた。

 然ういった思考から、寺社に対して勢威を弱めるよう中央政府から2つの命令を出した。僧兵の廃止や、「血穢」思想の絶滅であった。前者は戦力を軍と警察に限定する為、後者は人口増加の障害になると考えたからだ。これらの命令に従わない勢力として或る寺社があったのだが、これを殺戮し破却した。



 この時期こそ正に、勝呼号を殺して心を病んでいた時期だった。


 政治姿勢に変化が現れた。

 王は国書の「闘戦経(とうせんきょう)」を好んでいたが、この頃から漢籍の「尉繚子(うつりょうし)」を参考にするようになった。尉繚子は厳罰主義とでも云うべき兵法書で、皮肉にもこれが日本人の教化や皇御國(すめらみくにの)萬民法(ばんみんのほう)の高い完成度に繫がった。



 さて、その寺社の長共は、勝呼号の死を啓良王による急進的(Radical)な政治が原因の仏罰、或いは神譴だと云った。


 それを側近から聞いた啓良王は激高した。

 一糸纏わぬ姿で勝呼号の長女・春呼(はるこ)号に跨ると、残り二頭の妹馬も走らせ、春呼号が疲れると次女の幸呼(さちこ)号、幸呼号が疲れると末妹の隆呼(たかこ)号に乗り換え、単身寺社に乗り込んだ。

 尚、勝呼号の3頭いる牝駒は何れも母によく似ていたが、王は勝呼号程には愛せないでいた。それでも、生涯を通して王を支えた八衢天狗(やちまたてんぐ)──丁度『八岐(やぎ)啓太郎(けいたろう)逸栄(はやひで)』と名を改めた頃──の次の次位には愛情を持っていたらしいので、相当のものだったのだろう。翻って勝呼号は、子どもを可愛がることはなかった。美貌の才媛は社会学的母親として子を産み育てて老いていくのではなく、生物学的母親として馬を産み、権門の女性として他者を乳父乳母として育てさせたかったのかもしれない。


 王は、到着するや否や、内部にいた者を全て殺害した。

 眼球を親指で脳に押し込み、脳を掻き混ぜて殺していった。その後は全ての首を()()ると、寺社にあった車に積んで王の京屋敷迄持って帰り、壁に埋め込んだ。この首は、(Kyoto)(Pref.)亀岡(Kameoka)(City)にある北嶺(ほくれい)相国(しょうこく)寝殿(しんでん)博物館(はくぶつかん)で今でも保管されている。白骨化したそれの模造品であるが、当時としてはぶよぶよとした蛸の頭──厳密には胴体に当たる部分──を切断したようだったので、『建武の蛸千切り』と呼ばれるようになった。

 尚も啓良王の怒りは深かったようで、上下関係無く同時代人全員にその寺社の名前、存在を記録から一切抹消するよう強く求めた。具体的には葬儀を行う事、墓を建てる事、記録に名を残す事のないよう要求した。その為に寺社の正しい名は現代には伝わっていない。場所としては現在の大和県(Nara Pref.)六御県市(Nara City)に在ったと考えられている。

 その根拠としては、この時期にこの地が、王に依って六御県(むつのみあがた)即ち天皇家直轄領とされたからである。



 啓良王は建武の蛸千切り後、従わない者達に対して初手で殺害せんとするようになった。

 尤もそれは、最側近たる八岐啓太郎平逸栄に窘められたので、説得に努めるようになったが、王の殺意自体は一挙手一投足や文字に滲み出た。例えば斯ういうことがあった。王は或る時、対馬の地頭代・宗経成に対して手紙を送った。経成に対しては労り、元寇の折に活躍した先祖を改めて国家として慰霊させてほしいとの内容だった。啓良王はもう一通手紙を送っており、その内容を書き写した看板を対馬各地に立てるよう求めた。以下はその手紙である。



『異賊襲来にて対馬の衆庶(しゅうしょ)を助くに時を移せる事、鎌倉に代わり太政大臣啓良が謝を申し伝ふ。これよりは皇御軍(すめらみくさ)を置きて、天皇(すめろき)人民(おおみたから)(おほ)(じょう)(ちぎ)る。()ても八幡(ばはん)、大日本の許し無く()(くに)を押し掛く事聞く。(やが)上県(かみあがた)に軍が()()く。軍に乃公在る故、外つ国を(あだ)さんとする者は伝えよ。申し伝える事無しに寇せば雪隠(せっちん)()(かく)れど、高麗(こま)の穴に潜めど、必ず誅戮す。乃公に蒙古程の慈悲無けれども御仏の如きを見せんと(つと)む事、開闢(かいびゃく)以来(このかた)肩並ぶるは無し。対馬の衆民なれども、寇す許し持たぬ咎人をもて隠すは誅戮す。これ読む汝もまた大日本に仇するならば、汝の名は万代(よろづよ)に消ゆ。皮を(よろひ)に肉を(ましら)の餌食に、(あぶら)を薪となす。その(ほのお)で骨を()きて乃公が(くら)()くさん。斯くの如き無からん事期するが、乃公は汝らの(するど)きをよく知る。その日を楽しびに待つ』

(元寇の時には対馬の民を救うのに時間を要した事、鎌倉軍事政権に代わり大日本國中央政府首班・太政大臣啓良王が謹んで御詫び申し上げる。これからは大日本国として軍を駐屯させ、民を守る事を誓う。さて海賊についてだが、私掠船でないのに高麗や唐土を襲っているとの報せが届いている。直に(=この手紙が対馬に届いておよそ一ヶ月後に)上県郡の港に駐屯軍が到着する。俺様がこの軍を率いるので、外国から掠奪する許可であれば、この機会に俺様に申請せよ。政府としてこれを認め、許可を与える用意をしている。申し出ない場合には、便所の裏であろうが高麗の洞窟であろうが、草の根を分けて見つけ出して殺す。俺様は蒙古程甘くはないが、寛大さを見せる努力については古今無比であると自負している。また対馬の民であっても、申し出ない賊を蔵匿した場合には殺す。これを読んでいるお前が日本に害を為すというのなら、お前は真の名を永劫喪失する。皮を我らの武具、肉を対馬の猿の餌、脂を火熾しと為す。その炎で骨を炭にして俺様が食らい尽くしてやる。このような事のないようにしたいものだが、俺様は対馬の民の賢明さを確信している。一ヶ月後を楽しみにしている)


 王を恐れた八幡は、王が来島した際に全員で従った。


 尤も、啓良王は生来の気質から匪賊全般と相性が良かった。

 そしてそのことが相国府、軍、海賊、対馬が良好な関係を構築し、これが日本人の南方進出に役立った。



 啓良王との関係が良かった者達は、変わり果てた王を哀れんだ。


 後醍醐や光厳らの天皇経験者や皇族、中央政府で王を支えていた公武、魔縁群筆頭にして最側近の八岐逸栄、王と関わりのあった民衆等は概ね『見ている方が自殺したくなる程の痛ましき姿だった』と云った旨を残している。

 他にも、同時代人が残した書なんかには、『それ迄笑顔を絶やさなかった仏のような顔の王が、(さなが)ら幼少期から毒を飲んできた毒味役のように厳酷の気味ある顔になった』と記されている。

 何れも王を励まそうとして様々なことをし、それに王は空元気を振り絞って対応した。万能の天才たる王は演技力にも秀でていたので、傷が癒えていないと察知できた者の数は少なかった。


 それに、健在を装わねばならない事情もあった。


 正室を得たのだ。


 光厳天皇は王を励ますために、そして天皇としての判断、即ち病んで尚も抜きん出て優秀な王と強い縁を結んでおきたいとの思いから、王と持明院統は祝子内親王とのお見合いを提案した。

 祝子内親王は花園天皇と葉室頼子の皇女で、王より12歳も若かった。それでも王はこれを謹んで受け入れた。大体、家格からして、そして光厳にはこれからも国家運営を手伝ってもらいたかったので断れなかった。

 王は、内親王が嫌がらないのであれば、是非とも結婚して()()()()()()と下手に出た。

 王にとって、内親王が相手と云うのは実は嬉しくもあった。2人は歳の離れた親友とでも云うべき間柄で、それこそ尊栄時代からずっと仲が良かった。和歌を好む()()同士、互いに添削することもあった。気が合うのは確かであるからだ。内親王側も、王が相手であるなら喜んで、と云うことで、皇紀1992年の末、王と祝子内親王は結婚した。


 抉れた皮膚は終生跡を残したものの、王は少しずつ元気を取り戻していった。


 但しその風貌は、恭しくも苦み走る、色男と云うには何處か危険な感じがする顔付きになっていた。それは、王が新年を迎える毎に取っていた顔の型からも伝わってくる。



 啓良王と祝子王妃は、結婚後数年は性行為をしなかった。


 その理由は、2人の体格差や王妃が骨骼(こっかく)(てき)に完成していないことだった。

 王の肉体は27歳迄成長し続けたのだが、結果として身長は8尺(=約242.424センチメートル)を優に、体重は58貫(=約217.5キログラム)を纔かに超えていたと云う。王の死後は、宛ら『妙法院勝呼』号のように箔濃(はくだみ)にされたのだが、その骨骼を計測したところ、何と250センチメートルを超えていた。

 それは兎も角、歴史的にも稀な大男にして力の具現である王と、つい最近迄出家していた数え17歳の姫君が、一体如何にして子を生せると云うのか。


 王妃は先ず、世間と北嶺王家に慣れるところから始まった。

 幸い、王の妻妾達は殆ど平民で、権力闘争に興味を持たなかったし持てないでいた。後宮の()()()()闘争なんかは無縁で、寧ろ後醍醐天皇の男子と花園天皇の女子、謂わば神の子同士の夫婦を間近に見て、当世風に表現するところの『限界』になっている『強火』の『カプ厨』的『信者』しかいなかった。彼女達に依って世間の常識や婦女子の智慧を教えられる、然ういった時間が必要だった。

 王妃は王妃で、和歌の幅が広がるとして楽しんだようだった。


 又王は、結婚初年度の時点では未だ元気な振りを徹底するのに苦労していたらしい。

 年が明けて皇紀1993年から1年と半年程度、国防を名目にモンゴルやマンジュや高麗なんかに行った。その後は、知っての通りダイヴィエットにも赴いたが、同国から帰国した頃、王妃は骨骼的にも問題無い程度に成長した。

 その時になって、王は初めて王妃の手に、肌に触れたのだが、体を流れる温かな血に生命の神秘を感じ──、『妙法院勝呼』号の死に際しても流れなかった涙を流した。

 人間は大抵の物事について、普通、練習を繰り返して上手くなる。その反対の物事、要するにすればする程に下手になるのが泣くことであるが、王妃曰く、王が余りに美しく上手く涙を流したので、目の前の大男の孤独や悲哀を感じたとのことだった。


 王妃は、この憐れな男を守りたいと、強く然う思った。






 翌年、祝子王妃は男子を産む。


 啓良王と王妃は、顔をくちゃくちゃにして互いを、そして男子を言祝(ことほ)いだ。



 彼こそ、後の啓守王(ひろもりおう)である。

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