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クソデカ日本、爆誕!!!  作者: シヴァいっぬ
中世
7/13

啓良王の治世【2】

 (The )(Pacific)( Rim )(Empire)(The )八洲(Nipponese )地方(Birthplace)の中世史(啓良王の治世【2】)






 啓良王の治世【2】と【3】では、啓良王が太政大臣在任中に行った事柄を片端から記述する。






 啓良王は、相国府を開府する直前迄、自らの脚で全国各地を巡っていた。


 参議(さんぎ)即ち政権参加者は、嘉暦戦争で文勲武勲を挙げた者達の中から、適当な人物を簡抜(かんばつ)したいと考えていたのだ。

 ()うした地道な努力をしたことで、相国府の構成員は必要以上に集まったが、王は暫時、王が打ち出した新奇な諸制度での仕事の進め方を習得させることに意を用いた。それらが無事に運用されるようになる迄、厖大(ぼうだい)な時間を要すると考えていたのだ。又、王にとって他の構成員と云うのは、厳然たる事実として知識量及び政治力で劣ると判断した。


 従って、王だけが決定権限を持つ統裁合議制(とうさいごうぎせい)にする等権力の大半を集中させ、自らと参議らの権力関係を垂直の構造にした。意思決定が速く、構成員の我田引水を無視することができると云うのもあった。



 啓良王の相国府では、王独りが課題を提示し、参議にはしたい課題をさせた。


 複数人いれば班を作らせることもあった。それから参議には、如何なる活動を行って結論を出すか、その結論が出るのはいつ頃かなど、大まかなスケジュールを提出させて任せた。参議や参議らの部が情報資料を収集する際には魔縁群を使わせた。魔縁群が公的組織に所属できるよう実績で以て偏見から解放させること、また参議の動向を探らせることを目的とした。


 参議達が結論を発表する場を『僉議(せんぎ)』と云い、彼らが勘案してきたことを王が聞き、その後に幾つか質問をする。王は僉議を行う際には、関係しそうな者や関連知識を持っていそうな人材を日本中から広く集めた。知恵者と呼ばれる者であれば東の僧侶や西の商人に、北のアイヌや南方の外国人に迄頭を下げて招いた。

 この僉議には唯一の法度があり、それは、結論の陳述中は誰も口を挟まないことであった。

 但し、その結論陳述が明らかにおかしい時や、事実ではないことが紛れていた場合はその限りではない。啓良王は、



『益ある虚より害ある実ぞめでたき』

(利益になる噓よりも害を齎すことになる事実の方が有り難いものだ)



 として、正しい事実に立脚された異見であれば、横から割り込むのも歓迎した。

 参議の意見陳述後、啓良王は参議や外部から呼んだ知恵者に質問していく。その後、王は自らの中で組み立てた方針を陳述し、それに対する異見を募る。異見が無いようであれば、王が事前に用意した知恵者三名に存念を述べさせ、再び思案を重ねた後開陳して実行に移した。

 この僉議だが、誰もが観覧することができた。その代わり、彼ら彼女らにも法度が適用され、王の許可が下りていない時間は発言できず、仮に発言しようものなら追い出された。又、その性質上、王や参議を狙った暗殺未遂事件が何度か起きた。しかし、端的に云って王は地上最強であるから実行された暗殺は悉く失敗したし、王は不断(ふだん)から柔和な顔をしているので、暗殺者が絆されて自首することさえあった。その時には魔縁群に取り込んだ。

 暗殺を使嗾(しそう)した反王・反革命勢力は、(やが)てその死を神仏に縋る、即ち祈祷や呪殺をするようになっていったが、当然乍ら日本の神仏は人間に望まれた位では殺人をしないし、その程度で最強は死ななかった。王は、嫡男・啓守王(ひろもりおう)や更にその嫡男・啓雄王(ひろたけおう)に、『所詮神仏なんてものは政治家が人民を統制する手段風情でしかない』と教えたらしいが、この太太(ふてぶて)しさこそがきっと呪殺を鼻で(あしら)ったのだろう。


 因みに、この組織としては粗雑な構成、運営を行った点や、被差別民だからと侮辱する言説があれば、文字通り何時(いつ)でも何處(どこ)でも何人(なんぴと)であっても殺したこと等から、王は後に自らの相国府を『未成(みせい)』と評価した。




 僉議は年に6回催されたのだが、その間、啓良王は王で殖産興業に取り組んでいた。


 王は元々、鎌倉軍事政権との戦争で各地を巡った時から、風土に適した産品を作るよう勧業したり人材を探したりしていた。

 鎌倉時代、僧侶には独自に渡海する者もおり、彼らが外国の先進技術を日本に導入することがあった。その為、営農から道路の整備、産業の振興に携わってきた歴史がある。そこに『元・天台座主』がやってくれば、農民達は、その内心は兎も角として指導を受けて実践した。


 王は国家──この場合は相国府だが──その運営に当たり、何につけてもその財政基盤に農林水産業を求めた。

 それ故、これらの産業に従事する者には種子や労役用の牛馬、自ら開発した各種器械を貸与するなど種々様々な支援をした。又、それを条件に、従事者を大日本農業協同組合や大日本水産業協同組合、大日本林業協同組合のような組合に取り込むことで中央に依る統制を進め、支配率を高めていった。




 啓良王の政権は約30年続き、その間に様々な物事を進展させた。


 さて、王がそのように長きに亘って最高指導者として君臨することができた理由だが、敵を斃す以上に味方を増やすことに腐心していたこと、これが(しばしば)挙げられる。


 先ず、先述の殖産興業にも関連するが、巧みに短期で成果が出る政策や改革と、中長期で成果が現れるそれを組み合わせて行ったからだ。

 王は、その該博な知識で土地土地(とちどち)を富ませた。これに依って王に古くからの賛同していた者は()うでない勢力よりも実入りが増え、領内経済は活性化し、社会基盤も整備されていった。そしてその善政は、領民の尊敬の念や忠誠を領主でなく王に向けさせ、王に逆らえなくさせていった。要するに、王の味方にならなければ生き残れない状況にしたのだ。

 尚、王は各地の実情に合った農業の指導等をする可く、大八洲地方で過ごした時の過半は、村から村へと移動し続ける渡り鳥状態であった。後に将軍府が設置されると、更に各府の王の相談に乗るなど仕事が数倍増した。王には細かく、そしてせっかちな性質があったので、その忙しさは楽しくもあったそうだが。


 又、王は政敵に対してさえ誠実な振る舞いを見せていた。

 当時としては急進的な政策を多数行った訳であるから、当然反発もあった。()ういう時には一番反対の強いところで公聴会を催し、時には暗殺を正面から打ち破り乍ら、懇切丁寧に説明し続けて信頼を得たのだ。王は、誠実でなければ、即ち噓を云うとその内容や辻褄合わせなどで疲れるし、何より信頼関係が生まれないと考えていた。更に、私情を挟まず、異端の意見を聞いて検証した事実に基づき判断するという姿勢を崩さなかったことも、信頼を得るのに役立った。


 王の政権が長きに亘って持続した要因は他にも在ると考えられるが、これらのことが特に寄与したと考えられている。


 但し王は、本音の部分では、恐怖で屈従させることや鼻薬を嗅がせるなどして手下にする方が楽だと確信していた。

 王は時に、敢えて短絡的な政敵を煽って爆発させ、王を呪殺する可く祈祷させたり、御所巻きを行わせたりすることもあった。王は寧ろ呪殺し、又これを正面から撃破して、誘爆して蜂起した者達も纏めて粛清した。表向きは公職追放だが、実際のところ、男性であれば完全去勢された上で北海道の社会基盤を整備する強制労働に、女性であれば異民族に嫁がせることで、異民族を何某系日本人として取り込む等に用いられた。建武時代は目に見えた国難もなく、世は泰平を迎えて安定し始めた時期だったので、世人は王に依る粛清を痛快な見物として見ていた。

 又王は、反省した振りをして相国辞任を表明した。そしてその一方、裏では各種情報媒体(Media)を用いて民衆に辞任撤回デモを起こさせた。しかし王の予想以上に異見(Street )運動( protest)が加熱し、民衆に依る監獄襲撃等が多発した程で、焦った朝廷は王の太政大臣としての任期を少し、また少しと延長させた。

 その結果、士族以上の身分の者は、王に対して不満を持っても口吻を洩らすことさえなくなり、軈て黙して従うようになった。(そも)、不満以上に恐怖していた。王に(のろ)いが効かないどころか、寧ろ王には呪いを使って人を殺す能力があるのだ。物理的な攻撃でも同様である。しかも、国家全体が豊かになっていったので、民の信望は王、そしてその王が尊崇する天皇に向くようになり、最早叛逆することができる雰囲気でなくなった。そして、これはこれで良いと感じる者も増えていった。

 一方で王は、良いと感じない者達のために、海外進出を囁いた。


 尚、啓良王は、(のろ)いについてその効能などを()う考えていた。

 即ち、呪うという行為で心中の(わだかま)りや緊張から解放されたいのだと。要するに精神的な排泄(Catharsis)である。当然だが呪いと云うのは、呪う対象自らが呪われたことを知らなければ意味が無い。それ故に当時の呪いは、相手の家の下に紙や藁で作った人形を置くなどし、呪っていると報知した。

 因みに、チベット密教では、僧侶同士の勢力争いで互いにかなりの部分を公開して呪い合うのだが、それは隠れてやっても功績にならないからだ。

 王も同様に、天下に広く『これより何某らを呪殺する』と宣言し、呪い始めた。王を呪殺しようとした者達は、領民からの視線が冷たくなったり、部下からも避けられたり等して、精神的に疲憊(ひはい)し心身を病み、先に音を上げた。王の元に謝罪に現れたら、実行役については『今後は国家の安寧秩序のために働くように』と云って許し、依頼者については強制労働する奴隷に貶めた。

 このように王は呪いを用いたが、王は呪いを全部気のせいだと云って笑い話にした。

 王は、自らの呪いの効果について、相手を緊張させて心身をおかしくするよう仕向けただけだと述べた。即ち、勝手に相手が怯えただけであると。又当時は、水害や疫病というのは、この世を恨んで死んだ怨霊がかける呪いと考えられていたが、王はそれぞれが発生する原因や過程を説明した。このことは、旧来の陋習(ろうしゅう)から確からしい事実を求める精神的な脱皮、日本に於ける啓蒙主義の先駆けとなった。



 啓良王は、政治に対しては摯実(しじつ)な態度で取り組んだ。


 それは(ひとえ)に政権の性格は草創段階で決定するとの信念を持っていたからだった。

 其處で、後世に四権を担う者達が良政を行うよう、能う限り高潔に振る舞うことにしたのだ。結果として王は、その治世で賄賂()使わなかった。ただ、王の云うこと為すこと全てに反対する者も当然おり、()ういった政敵は骨抜きにしてから暗殺する等、粛清を極めて静かに緩やかに、それでいて徹底して行ったのだ。緩やかに行ったのは、政敵が死んで最も得する存在でなくなれば、王は疑わしく思われてもそれ以上に運があると畏れられるだけだと考えたからで、実際に然うなった。又同時代人の平均寿命の短さと対する王の健康長寿、他にも大小の差はあれ戦乱に関わった為に死に対する反応が鈍麻(どんま)していたので、政敵の『病死』はそれ程不審に思われなかった。


 王は民衆の支持を重要視しており、その支持を得る可く様々な情報媒体を活用した。

 謂わば日本最初の大衆扇動型政治家であった。出版社や新聞社を設立し、前者では娯楽やわかりやすくした日本神話や仏教説話を、後者では各地の出来事と共に感染症対策や調理法等を掲載していた。そしてそれが有益であると民衆に感じさせた後、教化を始めていった。啓良王はわかりやすい御伽噺を執筆し、さらりと自らを相国として引き立てた後醍醐並びに光厳に感謝を述べ、又「聖主」として民衆が尊崇したくなるよう誘導した。そして啓良王に相国を続ける事を認めた天皇にも感謝し、「英主」として尊崇するよう思考を誘導した。経済支援という外面だけでなく、内心でも天皇家を尊重しているように見せたことは、如何なる反対勢力にも結集するに足る思想的根拠を与えない為であった。そしてその天皇達を皇族が、皇族を華族が、華族を士族が、士族を平民が支えているとして、王は度々上下一切に対して日々の労苦を労り、謝辞を和歌で記した。


 他にも、寛容や気前の良さこそが美徳であると考え、北嶺王家の財産を、魔縁群と尊栄村民を、友好的な異民族、正室及び側室の順に渡していって、その残った分を貧窮する平民に与えた。

 その結果として素朴な信仰が集まり、死後、王は神に成った。






 啓良王は『疫神(やくじん)(ばら)い』と称して、衛生環境の改善を図った。


 呼吸保護面(Mask)の装着や石鹸を用いた手洗いを普及した。

 這般(しゃはん)は気候や面積から穀類が余り収穫できない奥羽や沖縄県で作らせ、それを日本中に売って米やその他食料に変えさせた。


 他にも牛痘に依る天然痘対策を実施するなどした。

 魔縁群や尊栄村民にも天然痘対策を行っており、それは天然痘に感染した者の瘡蓋(かさぶた)を粉末状にし、それを鼻腔から吸引させるというものだったが、吸引しても稀に天然痘を患う者がおり、即ち完全な対策方法ではなかった。

 しかし疫神祓いでは、天然痘に感染した者の水疱瘡(みずぼうそう)(うみ)を採取し、体を一部切開し内部に挿入させるという現代でも通用する確実性の高い方法であった。天然痘それ自体だけでなく、それ原因による後天的な失明が大いに減ったので、王と王の尊崇する天皇への神格化が加速した。


 王は、その時代を考慮すれば極めて先進的な感染症対策を考案し、実行させた。

 王は、医療者と病院を守る策を立て、医療崩壊に備えようとした。病院内を『清浄域』と『不浄域』に峻別(しゅんべつ)させたり、最初に診察する医療者こそ防護するべしと考え、防護服や呼吸保護面(こきゅうほごめん)の着用を義務付けたりした。後者について、これらに代表される医療資源を適切に配分するべく、製造会社を設立し工場を全国各地に建設した程である。

 当然ではあるが、これへの違背は即ち死刑であった。


 医療者への要求の一方、王は太政大臣から臣民への生活面で或ることを要請した。

 それは即ち、平時から体や衣服を清潔に保つこと、掃除をすること、天気晴朗の時には窓を開けて換気をすることだった。王は設立した出版社を通じて、終生清潔にすることや健康管理及び維持の重要性を啓蒙した。

 清潔さを保つ、そのための掃除道具や洗剤の開発及び大量生産にも王は精力的に取り組んだ。汚れたから掃除するのではなく汚れないように掃除をしなければ、普段から清潔にしなければ、この時代の人間は長く生き残れなかったからだ。

 ところで、仏教的な表現では、人体と云うのは404もの病気の容器らしい。王は、実際のところ病の数はそれよりも遥かに多く、その全ての病での『絶対解決策』を発見する迄、要するに治療法の確立やワクチンの開発などが現れる迄の期間、臣民の衛生防護力を高めておくことで、感染速度を緩慢なものとする遅滞作戦を取るしかないと確信していたのだ。

 それ故の、清潔さと健康の啓蒙だった。


 王はその他、伝染病予防法や開港検疫法を公布、施行した。

 当初、前者では生きた動植物や皮革の輸入を原則禁止とし、病気に感染したと思しき動植物があれば焼却処分することを、後者では港にて厳格に入船を改め、船中に病人がいれば完治したと医療者に依る確認が為される迄上陸が許されないと云うものであった。


 ()てて(くわ)えて、感染症の流行拠点になるのは人が密集し移動するところであると考え、緊急事態に於いては移動を完全に遮断すること、これへの理解を存命中臣民に求め続けた。

 これが実際に行われたのは、王の死後暫くしてから梅毒や黒死病(Pest)等が現・大八洲地方に流入した時で、更にその効果が調査、確認されたのはその100年の後であった。

 そして、その先見の明も人民の王と天皇への崇敬を篤くしたのだが、そのようなことが以後度々起こったので、天皇制や王制が揺るぐことなく続いているとする説がある。


 黒死病に関連して、王は黒死病に効果がある抗生物質の、現代で云うストレプトマイシンを作った。

 これは結核にもハンセン病にも効果があり、歴史的に長らく命を救い続けた。他にも信濃県の或る土壌から結核治療薬を作ったり、米に付着した(かび)から高脂血症薬を作ったり、新たな医薬品を多数開発した。

 尤も、王としては、未だ荒々しい日本人に美食を与えて牙を抜くべく、食品の開発に取り組んでいた積もりらしい。



 ところで、啓良王の戦争に対する欲は、鎌倉軍事政権の討滅では満たされなかった。


 そこで王は、当時の甲斐県、備前県、備中県、備後県、安芸県、太宰府、肥前県で確認された水腫脹満(すいしゅちょうまん)即ち日本住血吸虫及びそれに因る病に対し、大戦争を仕掛けた。


 啓良王版風土記と呼ばれる『大日本國(だいにっぽんこく)紅塵青史(こうじんせいし)』には、『牛馬に有病地から採れた飲食物を加熱せずに食べさせ、しかし有病地の水には接触させなかったところ、その牛馬は元気であった。一方で、有病地から採れた飲食物を煮沸して食べさせても、有病地の水に接触させたところ、その牛馬は感染し死亡したので、日本住血吸虫は経皮感染すると判断した』との旨の記述があり、素朴で原始的な科学的思考の萌芽(ほうが)が見られる。


 この『大日本國紅塵青史』に拠ると、王は水田での作業は手足を保護すること、水遊びの禁止、魚捕りの禁止、行水や洗濯は煮沸した水を使うことを地域住民に要求しようとしたが、無理な話だと考えて取り止めた。行水や洗濯の度に湯を沸かすのは大変だし、手足を保護するには防水性のものでなければ無意味であり、仕事の能率が落ちる。甲斐県の場合、盆地であるから夏は特に暑く、行水の禁止は却って死を招く恐れがあった。

 その上で、食料を国内外から買い集めてこれを与えたり、有病地で行水する人を減らすべく公衆浴場を作ったりした。この公衆浴場は膠灰(Cement)で作られており、水は1度沸騰させたものを使うなどしていた。


 王はその内、感染者の糞便に寄生虫の卵が多く含まれており、その卵が孵化してまた人間に感染しているのではないかと考え至り、糞便の段階で断ち切ることにした。この発想は正しかった。

 王は、肥溜めに投じられた人糞に蒸留酒を掛けて燃焼、炭化させることで虫卵を死滅させた。ただ、人糞は肥料として用いられたので、それがなくなることへの恐れから軈て守られなくなるだろうとも考え、硫酸アンモニウムや啓良(Haber–)王恩(Bosch )賜式肥(Process)( in)作成方法( Nippon)に依る窒素肥料を増産し、これを惜しみなく与えた。

 余談であるが、この人糞を轟々と燃やしたことが、今尚甲斐県等各地で行われる火祭りの起源となった。


 王は更に、糞便中の卵が孵化し、その幼虫が中間宿主内で哺乳類に感染できる体に成長し、その中間宿主を人間が食べて感染し、寄生虫の卵を多く含む糞便が出るとも考えた。これもまた正しく、中間宿主は川蜷(かわにな)のような貝だった。これに気付いた王は、『大日本國紅塵青史』に(とぐろ)を巻いた蟠龍(はんりゅう)のような字で、



『乃公、滅尽争の釁端を開くと号せり』

(俺様は絶滅戦争の開戦を宣言した!)



 と記した。美麗でありつつも喜悦と昂奮を抑え切れていない獰猛な手跡()であり、この字から『悪王流』と云う書道の流派が生まれた程だ。


 閑話休題、王は貝を滅ぼすことで日本住血吸虫を絶やす作戦を発動した。


 先ず、貝は水が無ければ死ぬので、水が引き入れられていない時期に水田を全て埋め立て、水捌けの良い果樹園へと転換していった。また水路や溝渠(こうきょ)膠灰(こうかい)で作り直し、貝が付着し繁殖することのないようにした。その上で、中間宿主の貝を死滅させるべく石灰窒素を撒布させた。

 その他、野生動物の糞は人と違って管理できない以上、徹底して駆除したり、公衆浴場を増設したり、殺処分した禽獣(きんじゅう)は概ね骨灰磁器に用いられ、外貨を稼ぐ道具として大事にされた。


 これに因って域内の動植物が多数死滅したが、王は誤差であると判じた。

 死滅した生物を例すると、川蜷を幼虫期の餌とするゲンジボタルや魚、海老、蟹等がいる。王としては、この時代、それら程度は何處にでもいたので、(ほとぼ)りが冷めたら再び繁殖させるだけだと考えていたのだ。又、中継地とする渡り鳥が越冬できる場所を失ったが、渡り鳥にはまた別の冬営地を用意すれば良いと考えていた。現実には、王が用意するよりも先に鳥が新たな地を定めた。



 尚、疫神は世の中に疫病を流行させる悪神で、当時は「意地悪神」や「復讐神」などとも呼ばれていた。

 その王が感染症対策を病的な迄に徹底して行ったことや、或る逸話から『神殺し』と呼ばれるようになった。その逸話だが、前提として王は、拳で岩を撃てば岩が火花が散る水に変わった程の力士(ちからびと)である。そんな異次元の破壊者が、或る時、殺生石──即ち金毛九尾と云う妖怪の変じた姿──を噛み砕いたらしい。地元住民が祟りを恐れたが、王は『別なる處無し。唯の石也』と云って吐き捨て哄笑(こうしょう)した。後は知っての通り、王は111歳で腎虚で斃れる迄、健康長寿であった。






 啓良王の腎虚に因る死──性事情に関連する内容として、王は公娼制度を整備し、公営風俗店を設置した。


 当時、王と云う格式の者がすることではないと云われてきたが、それでも鬼神すら避けるような覚悟で断行した。それには目的があった。買売春を無差別に認めれば、性病等の公衆衛生の問題が起きるのは火を見るよりも明らかである。翻って、一律で禁止にすれば、性産業従事者が暴行を受けても相手を訴えることが難しくなること必定。日本がこの先如何(いっか)な豊かな国になろうが、日々を()(ながら)えるための金銭に困る人は絶対におり、又性欲を解消或いは満たしたいという人間の強烈な欲望を無くせないというのもある。


 公娼制度や公営風俗店と云うのは、仕組み次第ではあるが、寧ろ公衆衛生と従事者を守れると踏んだのだ。






 中世日本の都市計画は、この公娼制度の整備や公営風俗店の設置から始まったと云えよう。


 啓良王は、各地方自治体は各々で、もっと云うと人間の欲求の儘に街を発展させることを望んでいた。

 それ故に、口出しは余りしない積もりだった。例外は、相国府でなければ整備するべきと判断したところや、先述の奥羽と沖縄県、日本住血吸虫症に関連する県程度だ。実際、王が各地方自治体に対して口を出したのは、次のこと共であった。即ち、大都市や重要都市を連絡する国道の敷設や、科学研究所の実験施設や防災拠点、災害時用の非常食備蓄倉庫の設置、又石炭や石油のような物資輸送路の整備等だ。例えば、太宰府にて、治水と筑豊炭田で採掘された石炭を輸送するに当たって、遠賀川(おんががわ)洞海湾(どうかいわん)を結ぶ運河を開鑿(かいさく)した。


 それを仄聞(そくぶん)したらしい後醍醐太上天皇は、王に働き掛けた。

 王に命じて南奥羽に仙洞御所(せんとうごしょ)を作らせたのだ。仙洞御所は太上天皇の住まいである。何故後醍醐は、一部を除いて当時荒涼としていたこの地に御所を建てさせたのか。それは、仙洞御所を中心に一定程度には発展し得ると期待したからであった。大まかに、御所と上皇が在ればそれを守る人々が必要で、それらの人々の生活を支える人々も必要で、と云った考えだ。

 王が海外から輸入した人間を多数住まわせたことも働いて、南奥羽の都会化は他地域に比して速く進展していった。無論、上皇の存在と云うのは和人系日本人を集めるのにも大いに活躍したので、王は仙洞御所の造立(ぞうりゅう)について一定の効能を認めた。同時に、地方自治体が上皇と仙洞御所の誘致を巡って争う可能性を考え、王は太政大臣在任中、度々天皇や皇族に謁見し、仙洞御所の造立は飽く迄大日本國のためになる土地を選ぶよう嘆願し、これを明文化した。


 南奥羽の発展を各地の首長が見た少し後、彼らは王が愛育した北海道の発展をも見た。

 東方王都・根室市、西方王都・小樽市、南方王都・函館市、北方王都・稚内市。現代でもこの高緯度地域にこれらに匹敵する大都市は少ないが、それは当時からのことだったらしい。後に北海道の都市計画を、他将軍府将軍や管領及び管領代は数年或いは十数年遅れで模倣し始め、数十年を費やして完成させていく。

 余談であるが、後世、北海道四大王都に苫小牧市が加わる。苫小牧市は歴史的に尊重されてきたが、孝明上皇の仙洞御所が建てられたことで道央帝都と呼ばれるようになった。


 王は北海道での土地開発に当たって、臣民に依る自由な開発を原則として抑制する区域を設けていた。

 例えば、『港湾設置区域』や『道路整備区域』、『防災拠点設置区域』、『公益牧場設置区域』や『公益農園設置区域』、また『塵芥等(Garbage )集積及(collection)処分場( area)設置区域』に『下水処理場設置区域』などがある。

 現代で云うところの市街化調整区域の考え方で、(いず)れも緻密に設定されていた。港湾は効率的な物流、道路は、それに加えて常用や災害発生時に於ける避難経路の増設等の目的があるが、王は公衆衛生を主たる目的としていた。

 緻密な区域設定をした訳は、王は鼠が媒介者となって様々な病を運んでくると考えており、その天敵たる鳥獣を、能う限り減らさないようにしたかったからであった。又、王自ら農耕技術を進歩させたが、これに依って食料が余ることがあれば人口が増加して都市が大きくなり、当然、人口密度も高くなり、そんな都市で大量に発生する糞や塵芥を鼠が食べて大いに数を増やす──此處迄は止められない奔流(ほんりゅう)と見做していたが、王はせめて、人外且つ鼠を殺す生き物と共存せねば、感染症流行の範囲も速度も強烈なものになると踏んでいたのだ。それ故、鼠捕りを目的に猫を積極的に繁殖させたり、放し飼いしたりした。この猫は、北海道と云う冷涼な土地でも役割を果たせるよう、態々モンゴルから輸入した麼寝(Pallas's)( Cat)を用いた。王は麼寝猫(マヌルネコ)を気に入っていたようで、度々絵に描いた。

 尚、塵芥等集積及処分場について、此處ではゴミを焼却処理するのだが、その過程で生じる溶滓(ようし)を乾燥及び整粒し、現代で云うケイ酸質肥料などとした。






 建武時代の輸送は主として水路、即ち船に依って行われたが、当然陸路も用いられた。


 陸路では車を曳く輓獣(ばんじゅう)に牛馬が活躍したが、啓良王の治世以来、牛馬その他に於いて品種改良が大々的に行われてきた。


 王は、妙法院時代には動植で優れた形質のもの同士を体系的に交配し、目的に合った品質の個体を均一化し、更に改良を加えて系統を管理して記録する手法を考案し、実践していた。尊栄時代には、陸稲(りくとう)及び水稲(すいとう)で耐冷性に優れたものを発見し増殖させていたが、これらに加えて(ひえ)(あわ)や大豆について、より耐冷性と耐病性を高めることに意を用いた。

 王の在任中、これら植物では一定の成果を残し、米であれば、本来向かない気候帯である北海道や奥羽でも栽培すること、そして貧しい平民身分でもしっかり食べることができるようになった。


 反対に、牛馬等の畜類は世代時間が長いからか、王の在任中は殆ど進展は無かった。

 しかし、土台部分は作ることができたようで、嫡男にして第2代太政大臣・啓守王の治世では急激に進んだ。

 啓良王は愛馬である「妙法院(みょうほういん)勝呼(しょうこ)」号の3頭の牝駒(ひんく)から品種の造成と改良を始めたのだが、いずれも母から原毛色が鹿毛の佐目毛(Perlino)を引き継いでいたが、長女は日本在来馬をそのまま大きくした体型、次女は大柄で四肢が長かったが細く薄い体型、末女は小柄な体躯をしていた。長女の子孫は農耕や木材の運送、又皇御軍(すめらみくさ)にて戎馬(じゅうば)をした。戎馬の場合、引退後には心理療(Therapy)法馬(Horse)となることもあった。一方、次女の子孫は競馬(くらべうま)や、これまた心理療法馬、末女の子孫はより小型化して愛玩動物(Pet)となり、今尚日本人と共に生きている。

 但し、「妙法院勝呼」号の子孫で、尚且つ戎馬を経験して血を繫ぎ、加えて佐目毛の牝馬は気性激烈である場合が殆どだ。現在でも(しばしば)人間を殺傷するので、心理療法馬には「先祖に戦争を経験した馬が少ない」「佐目毛ではない」「牡馬」という条件を満たすものが選ばれがちだ。

 尤も、それでも殺される時は殺される。



 軍に関連して、啓良王は軍鳩(ぐんきゅう)と軍犬の研究を始めた。

 正確には研究しようとしてしたのは軍鳩だけである。軍犬は偶然生まれたようなものだった。


 先ず軍鳩だが、王は伝書鳩として軍隊で用いようとした。

 鳩の優れた帰巣性に目を付けたのだ。その為、速さと方向転換に優れている鳩へと改良していった。

 又、他国も軍鳩を使うことも考え、その鳩を狩る鷹の研究も始めた。


 次いで軍犬だが、これは王が太政大臣在任中に選抜育種してきた闘犬に、退任後に拾った日本狼を掛け合わせた武蔵(ムサシ)准真神(マカミナズライ)と云う犬種である。

 マカミナズライ即ち日本原産の日本狼犬の一種で、マカミナズライの中では雄武(オウム)准真神(マカミナズライ)に次いで大きく、体高は70センチメートル、体重は80キログラムを超える。

 ムサシマカミナズライの祖は啓良王に依って産まれた。

 王が南関東将軍府の現・武蔵府を訪れた時、当時の将軍だった護普(もりくに)の父にして王の弟である護良(もりよし)に誘われ、梅見に行った。その頃の王は最愛の「妙法院勝呼」号を喪い、それを天罰だと云った寺社と僧侶を痕跡も記録も、即ち地上から消滅するなど荒れに荒れていた。王と特に仲が良かった護良は、慰めようとしていたのだ。思惑は概ね成功し、美事(みごと)な梅花に感動した王は気分を良くした。護良は、王により気分良くなってもらおうと酒宴に誘ったが、一行は梅見の帰り際に狼の群れを発見した。その筆頭格の雌が難産に悩んでいるようだったので、王は護良と護普将軍に許可を得て山中、もっと云うと群れに滞在し、2日間に(わた)る出産を支援した。遂には無事に産まれたのだが、その中には金色に白色が混じった珍しい毛色の雌がいた。筆頭格の(つがい)は目立つことを嫌ったのか、王にその雌を押し付けた。親子を哀れに思った王は、金の狼に「雲装(くもよそい)」との名を与えて養うことに決めた。王にしては珍しい、着衣する日々が始まった。胸元の空間に雲装を入れ、衣類と体温で温める為だった。

 王はその儘上洛して、当時相国を任じられていた嫡男・啓守王の京屋敷を訪れた。父王と再開した啓守王は当初、着衣していることを理由に影武者かと考えたが、胸元から顔を出した「雲装」号を見て、この奇行は正しく父王であると認識した。そして暫く雑談すると、父・啓良王は子・啓守王に現・武蔵府での出来事を話した。啓守王は、



()れば法を発令せん』

()ういうことなら法を作って、公布・施行しようか)



 と云うと、その場で父子は協力して生類猟獲制限法の草案を作り、翌月には公布、更にその翌月には施行した。


 啓良王が「雲装」号を北海道に連れ帰ると、稚内市の王宮・隆脩第(りゅうじょうだい)内で育てる事にした。

 邸内各所には衛獣屋(えいじゅうのや)という犬を養う建物があったが、「雲装」号がイヌでなくオオカミの雌であること、まだ幼かったこと、目立つ毛色であることから隆脩第の中でも王と正室及び側室が暮らす仰魔殿(ぎょうまでん)で育てられた。隆脩第では相当可愛がられたらしく、王は妻妾(さいしょう)や子どもらが「雲装」号と戯れている絵を多数描き残している。


 因みに、この時に雲装が耐伝染症性や耐ウイルス性などを手に入れたと考えられている。

 王自身やその子孫と、王と性的接触があったとされる愛馬・「妙法院勝呼」号及び子孫には、共通した特徴が多々見られるのだが、その特徴の一つに伝染症やウイルスへの高い耐性というものがある。又、隆脩第は後宮そのもので、王の汗や精液などの体液を舐めるなどしても不思議ではなく、それによって体内に取り込んだ可能性が指摘されている。後に海外から犬ジステンパーウイルス感染症が流入し、日本在来のイヌやニホンオオカミが絶滅の危機に瀕した時には、雲装の子孫によってその個体数を劇的に回復させた。


 さて、雲装が隆脩第に来た頃、衛獣屋には闘犬の「吉野(エシヌ)」号の子孫が多数飼われていた。

 この「吉野」号は嘉暦戦争にて何名かの武士を殺害した。「吉野」号の子はまるで親を象ったかのように形質的特徴を全く忠実に受け継いでおり、しかも「吉野」号以上に従順で粗食に堪えられた。王の妻妾らが外出する際、この吉野の子を必ず連れて行く程だった。子の中でも、特に「大顎(オオアゴ)」号は親としても優秀だと知られていた。「大顎」号の子は吉野の強さと賢明さを遺伝させ、「大顎」号ら以上の従順さを子に与えた。北海州将軍家即ち北嶺王家の領内では、学問の発展や発明をするなどの功績を挙げた者は、(しか)るべき機関だけでなく王家からも独自に褒賞を与えていたが、士農工商に関係無くその子種を報酬に望んだ程であった。


 王は、軈て成長した「雲装」号に「大顎」号の種を雲装に付けた。

 ()うして生まれてきたのが後の武蔵(ムサシ)准真神(マカミナズライ)、その曩祖(のうそ)だ。当時は単なる「准真神(マカミナズライ)」だったが、後に啓守王が北海道犬と蝦夷狼とで狼犬を作った際、啓守王は狼犬全般を准真神とした。そして区別する為に、啓良王の准真神を武蔵准真神、啓守王の准真神を雄武(オウム)准真神(マカミナズライ)と呼称するようになった。


 初年度に生まれてきた狼犬は10匹だった。

 いずれも「大顎」号の子らしく賢明で従順、「雲装」号の子らしく金色の毛並みだった。啓良王はその殆どを重臣に褒美として与えたが、獰猛さを隠そうとしないものについては手元に残し、自ら鍛え上げた。王はその中で最も高く評価した雄に「大長牙(おおなが)」号、それ以外には「()〇〇(まるまる)(ひと)」や「()〇〇(まるまる)(ふた)」等と名付けた。王はこの「大長牙」号について、「男が4、女が3、豺が9、狐が3、馬が3である。 男の特質として筋骨隆々、獰猛、残酷。女の特質として、愛情深さ、豊かな胸と髪、柔らかでよく動く唇。狐の特質として、美しい尾と耳、跳ねるような(あし)(さば)き。馬の特質として、大きな顎と長い四肢、俊敏性」と述べている。


 そしてこの「大長牙」号から品種改良が始まった。


 王は日本各地の治安や地方政治を見るべく周っていたのだが、その立ち寄った先で雌の狼を捕らえた。

 雌狼を領内に連れ帰るとこれを馴致し、「大長牙」号の種を付けた。そうして産まれてきた中で、「大長牙」号のような個体を選び続けた。王は同時に、近親婚が起こらないよう数を増やすべく、「吉野」号の血も「雲装」号の血も引いていないマカミナズライも複数作って遺伝的多様性を用意した。そして「大長牙」号の子ども達の中で、一層従順で懸命で獰猛な個体を選んでは子孫を残させるを繰り返す内に、今のニホンオオカミの血が75%以上のムサシマカミナズライに成っていった。若い頃からの種付けを繰り返した為か、ムサシマカミナズライは早熟性をも手に入れたのだった。



 この武蔵(ムサシ)准真神(マカミナズライ)、そして雄武(オウム)准真神(マカミナズライ)は、主に軍犬として大進出時代から近代の諸戦争(皇紀21世紀半ば〜27世紀半ば)で用いられた。

 大きな体格を活かして犬橇(いぬぞり)を曳いたり、塹壕突破兵と共に数々の塹壕を突破したりと、日本に尽くしてきた。戦後、日本の伝統的同盟国や新同盟国内では、軍部の交流が盛んになった。同盟国から日本への派遣目的は多々あったが、その中に塹壕戦の研究と、軍用犬としての准真神の導入もあった。


 後に愛玩動物として扱われるようになると、その性質を熟知していない者が咬傷事故に遭う事が(しばしば)あった。

 そして捨てられて野犬化すると、山中に潜んだ。しかも日本狼や蝦夷狼と違い、節度や躊躇い、恐れを感じること無く動物を襲うので、野生鳥獣や警察に多数の犠牲が出た。それで警察や軍兵が動く事態に迄発展したが、この事件が後に、動物愛護に関する法を一層厳格にしていった。



 啓良王は品種の造成ばかりではなく、多方面の用途に向けて思い切った品種造成を行った。


 人間が生物の品種改良を行うに当たって、遺伝資源は多様且つ豊富でなければならない。

 と云うより、然うでないと種は環境に適応できずに滅ぶ。この時代よりもずっと後世で他国の例だが、皇紀26世紀初頭にアイルランドで起きた松露芋(Potato)飢饉がそれ原因だった。当時のアイルランドで栽培されていた松露芋(しょうろいも)は、全てたった1種の松露芋のクローンで、遺伝的に均一だった。そのせいで、全ての松露芋が同じ疫病に罹って全滅した。

 このようなことを予期したかしていないかは不明だが、建武時代やそれ以降の政権は、世界中から多種多様な遺伝資源を入手するべく海外へと船を送った。

 このことも又、後の大進出時代に繫がったと云えよう。

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