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クソデカ日本、爆誕!!!  作者: シヴァいっぬ
中世
6/13

啓良王の治世【1】

 (The )(Pacific)( Rim )(Empire)(The )八洲(Nipponese )地方(Birthplace)の中世史(啓良王の治世【1】)






 2年7ヶ月に亘る嘉暦戦争(かりゃくせんそう)が終わると、啓良王は長崎円喜、高資父子から光厳天皇に天下の政権を返還させた(『大政奉還』)。又、王自身も支配する土地と住民の返還(『版籍奉還』)を申し出た。

 光厳はこれらを受け取ると、王を太政大臣に任命し論功行賞(ろんこうこうしょう)を行うこと、年明けには相国府を開府することを大命として降下した。


 王は、論功行賞に消極的であった。

 活躍したのは魔縁群と盟友達であるとの認識で、この戦争で便乗しただけの者、謂わば「敵の敵共」に恩賞を与えることに得心していなかった。


 しかし、人独りの感慨に大した価値は無いとし、職務を遂行することにした。


 王が「敵の敵共」へ与えた恩賞は、多種多様であった。

 国内外から集めた食材や、当時として格別の美酒、金品を与えた。又、近隣と勢力争いをしていた者には先ず安堵状を与えて所領を保障した。長崎父子同様、仏典等の舶来(はくらい)(ひん)を与えることもあった。

 要するに、物質的なものばかりである。


 魔縁群と盟友達には、それら物質に加えて精神的なものも与えた。

 朝廷に官職の推挙をしたり、偏諱を与えたり、武勲を賛する感状を授与したりした。「将来への約束」と云う恩賞もあった。王の政権への参加、王の所領たる北海道の分封、会社の設立時に雇用すること等である。

 更には、王には当時343男641女いたのだが、未婚の者限定で自分の子女と彼ら或いは彼らの子女が見合いをする場を設けた。



 さて、相国府が開府したこの皇紀1990年から2033年を、建武時代と云う。


 後醍醐太上天皇の庶長子である北嶺王家(ほくれいおうけ)初代当主・啓良王(ひろよしおう)と、その嫡男である第2代当主・啓守王(ひろもりおう)が太政大臣として、現行の『憲法』『相国府』『四権分立』『道州制』に繫がる制度を創設し定着させた時代である。






 啓良王は、幼少期から暮らしを豊かにするべく、農林水産業から技術革新を起こしていった。


 これは養える人口の増化だけでなく、より人手が必要になることを意味していた。

 それに併せて平民一人一人が労働者を確保する可く人材採用(Recruit)、要するに多産になっていくし、王としても人口が軍事力であり経済力、更には文化的影響力にも繫がる以上、多産を推奨するが、農漁村地帯に住む人間の現行の意識や風習を思えば、土地を受け継ぐのは長男の家系だと考えていた。当然、次男以下は土地を受け継げない以上、仕事を探すべく都市に出る。


 さて、若者、特に男性と云うのは、仕事に就けなければ安易に過激思想や暴力に走る。

 それに、女性を巡った喧嘩等、治安が悪化する恐れもある。

 王は然う考えていたし、王以後の世界の歴史を見ても、それが正しいことは明らかだ。其處で王は、仕事を用意したり、その他の産業を発達させたりする必要性があると考えた。その上、王は若年男性に与える仕事として、芸能のような虚業(きょぎょう)等でなく、商工業や建築のような実業、郵便や輸送のような社会基盤の整備、採鉱と云った、兎に角国家の地力を増進する産業が良いと考えてもいた。農漁村から都市部へ出る女性は絶対数として少ないだろうから、女性と障害者(Challenged)にはそれらの仕事に加えて芸能への就職を許せば良いとした。

 又、女性は男性労働者を相手に売春する可能性があるが、病気を患っているのに(はる)(ひさ)がれては困るので、公娼制度を整備するのも肝要だった。


 都市労働者、延いては人口が増えていけば、国民全体の生活の質が向上したり、国内市場が拡大したりして一層豊かさが増していく。

 それを高い水準で維持するには、当然労働者を確保する必要があるが、継続して農漁村が若年男性を供出できるとは限らない。例えば富士山のような大きな火山が噴火し、その煙が空を覆って冷え込んで不作になる等すれば、農漁村民は出産数を控え、村から労働者を出さない可能性がある。然うすれば都市で人手不足が起き、その結果として社会基盤、そして治安の悪化に繫がり得る。それ故、数世紀の間は、外国から女性の移民を連れてきて、彼ら彼女らを婚姻させる考えであった。(やが)て彼ら彼女らの間に子どもが生まれてくるが、その時には体力を鑑みて女性を軽工業に、男性を重工業に従事させるだけだ。


 又、人口増加の勢いが土地の生産力を超え、結局早死や飢饉、その他の災厄に繫がるとも考えられる。

 土地の能力を大幅に増強する技術革新や、新たな作物の導入によって食料品の生産性が向上したり、何かの拍子に乳児死亡率が下がったりすれば、農漁村民はそれを好機と見て村内労働力を大いに人材採用する。

 しかし、然うして急増した人口を養う資源量と云うのは大抵用意できておらず、結局人は若くして死ぬことになる。その時には移民させ、海の向こうに『日本』を拡張させれば良い──王はそのように考え、治下ではその準備をした。

 尤もこの危惧は、王本人が現地に行って手に入れた馬鈴薯(Potato)玉蜀黍(Corn)に依って解消した。


 王は、(そも)日本が平和の中で発展し続ければ、人間は欲望と云う名の胃袋を拡張し、饕餮(とうてつ)の如き慢性的な空腹感を満たすべく、外へと膨張せんとするのは必定であるとも考えていた。

 国内であれ海外進出であれ、その主たる構成員が平民である以上、欲望の大部分は彼ら彼女らに依って作られる。国家が平和になれば、その後の政権の仕事と云うのは彼ら彼女らの欲望に方向を示したり、その熱狂を形にしたりすることになってくる。従って、所謂夜警国家的な運営でも良いと考えたが、平民が君臣の儀を弁えずに君主たる天皇を廃することがあれば日本人は細分化し、他国の支配に服する者が現れたり、同族嫌悪の果てに内訌に至ったりするとも考えていた。更に、海外進出の程度に依っては、世界規模の大戦争に発展するとも。

 海外進出を制限することもできるが、その場合、民衆の拡張された胃は他の日本人に向く。強い者が弱い者を喰らい、より強くなって武力での下克上を志向する。それは謂わば、日本内部が唐土で云う戦国の様相を呈すると云う危険性である。

 加えて、欲望を制限されたことへの不満は専ら内政に向かい、少しでも厳しい政策があれば体制への闘争に発展し得る。それを少しでもマシにするには、民を教化すると云う精神世界への干渉だけでは足りず、物質世界に於いて政権奪(Coup)取闘争(d'État)や暴力革命を起こさせないようにする必要があると見た。


 其處で王は、天皇家を日本と云う想像の共同体を象徴し統合する記号として利用することを思い付いた。

 気が合う父帝・後醍醐の出身家に対する慈悲心、即ち天皇家を残す策でもあったが、同時に天皇家の権力を弱めることを望んだ。庇護と弱体化、ともすれば矛盾しているように見えるが、これこそが啓良王の草創する新たな国家体制の肝であった。

 歴史上、親政をした天皇はいるにはいたが、例えば奈良時代には国家の政治は太政官会議と云う最大の会議体で論じられた。平安時代には、その太政官会議にて複雑な議題を論じる際には、専門家が事前に作成した意見書が提示される等より高度化していった。この太政官会議だが、参加した公卿達が順に意見書に意見を付して、議題が重要なら原則として満場一致に、然うでなければ多数意見を踏まえて天皇が裁決していた。このように、国政は基本的に有力者達の話し合いと、天皇による決定で行われたが、重大とそうでないもの、そして天皇の立場と権限は曖昧だったので天皇の威を借る輩が現れた。それ故に啓良王は、何事につけても基準を設けたり、天皇やその他役職の職掌を正しく明文化することで、後世に遺す禍根(かこん)を少なくしたいと考えた。


 その思考の産物が、前代未聞の諸制度である。



 啓良王に就いての評価は、父帝の後醍醐と嫡男の啓守王とで一致している。


 即ち、啓良王は紛う事無くこの世の争いごと全てに就いて鬼神的才覚を持っており、恐らくは武士を消滅することさえ可能であったと。

 では何故それをしなかったのか。後醍醐と啓守王は、武士が地方で新たな「お上」になっていたからで、それを通じて日本を支配する方が効率的だと判断したのだと考えた。その推測は啓良王の考えと概ね一致していた。啓良王は朝廷が日本の支配者から転げ落ちた理由を、全国の統治に対して消極的になった事だと考えていた。荘園が乱立して国司は任地には赴かなくなり、在地の領主、武士が政治の担い手となっていった。そしてそれは、遣唐使の廃止後に始まったとも。

 啓守王は後醍醐よりももう一歩先に踏み込んだ。一方の朝廷が最早日本全土の「お上」たる資格を持ち合わせていなかったので、これを滅ぼして新たな絶対者として君臨すれば良さそうなものだと考えたのだ。啓良王の王朝を創始すれば良いと。それに対して父王(ふおう)は答えて曰く、考えないこともなかったが、鎌倉時代の日本の国家体制そのものに難があったとのこと。以前に記述したように、王朝国家の朝廷と封建国家の鎌倉軍事政権、それに寺社勢力が他の勢力を圧倒できず、衝突と和解を繰り返しながら日本として連帯していたと云う状況だった。その中での王朝草創は、間違い無く面倒この上ないし、そのような労苦をして迄やろうとは思えないのだと。


 更に、啓守王の日記『王事録』によると、啓良王の口吻を洩らすところによれば、王は自身の来歴も問題視していた。

 王は天皇の子であるものの、生まれた翌日には妙法院に預けられ、青年時代も比叡山延暦寺で過ごしたことから、世人には寺社勢力、それも鎮護国家仏教の天台宗に属すると見られていた。そして後醍醐に()()()()()として雇われて政治に参加したので、その印象が定着していた。その後、朝廷を反鎌倉で纏め上げ、嘉暦戦争では朝廷の総意で王子として還俗、鎮守府将軍に任ぜられた。それから不可触賤民的な階級や社会から落伍した者を中心とする私兵の武力を以て、鎌倉軍事政権を灰燼に帰する訳だが、仏教勢力の者がその他の宗教に優越し、朝廷、武士の上に立つ、立とうとしていると勘違いされるのも不快だったのだ。

 では、三大勢力が併存する時代に軍事政権を椅子から投げ飛ばして打ち据えた以上、その席に座っても良さそうなものだ。しかし王は、自らがやったように朝廷の討伐対象に認定され、争乱になることを警戒した。(そも)朝廷や寺社勢力や平民からの信望が篤い一方、武士層一般からの支持基盤は小さかった。更には、軍事政権が即ち武家の政権であり、その首長では治められる地域が、飽く迄日本の大部分であって一天下ではないと云うこと等、問題点は挙げれば切りが無いとも述べた。


 新たな国家体制を欲した理由としては、次のものもあった。

 即ち、天皇家でも北条氏でも、たった一つ或いは少数の『家』が、面積は兎も角距離的には相当ある日本の天下を差配するのは難しいと考えたのだ。『家』と云う集団では構成員の思考や物の見方が似通ってくること、不正行為をしても身内だからと見逃す恐れがある。更には同質的な『家』の内側の者を尊重する一方で外の者を軽視し、最新情報を得るのに相当の時間を要したり、その質の劣化に繫がったりするようになる。然うして『家』の構成員は、時代が経る毎に変容する現実世界に対して、その目に映る世界観を抽象的なものとし、或いは狭めていって衰退していくが、そんな衰えた『家』でもそれ無しでは生きられない、謂わば寄生する者がいる。自暴自棄になった寄生者が、『家』の混乱を機に国家を巻き込む争乱に発展させる危険性だってある。



 とまれかくまれ、啓良王は、新たな国家体制を構築するに当たって、公武寺社にいるであろう守旧派や政敵、又その予備軍を警戒した。


 其處で、開府して間もない頃には、政敵やその予備軍に思考を停止させる程の大きな()()を与え続け、その間に新たな現実世界を作り上げつつ彼らを宥め、或いは賺し、又は脅し、時には粛清を行い、誰にも否定できない既成事実を積み重ねることにした。失敗すれば頸椎(けいつい)を粉砕し兼ねない跳躍であったが、王としては概ね成功したらしい。


 衝撃に就いては、約1ヶ月に亘って新奇な概念を発表すると云う行為であった。


 尤も、粛清自体は稀であった。

 王は、戦前から皇族や公卿に対して統一国家を建国すること、そしてそれには新たな国家体制の構築が必要であることを訴え、勝ち取った信頼があったので、説得にあたってはそれ程までに苦労しなかった。一方の公卿らには中々首を縦に振らない者がおり、度々反対意見の根強いところで公聴会を催し、逃げずに説明して信頼を得ていった。

 (ごく)(まれ)に反抗する勢力が現れたが、その時は王自ら出陣し、さっさと打ち破った。王は直属の臣に彼らを縛り上げさせ、又自陣に引き据えさせた。王は、簡潔に『判決、斬首。十日間四条河原に晒す』とだけ述べて自ら斬り捨てると、その首から下を積み上げて『屍蔵(かばねくら)』を建設した。王は、王と同時代を生きる中世の人間を、大抵の場合殆ど畜生と変わらないと考えていた。

 そんな獣相手には、恐怖こそが最高の統治の手段と断じた。






 開府当日の衝撃は、『五人(いつたりの)称令(しょうのれい)』、『大日本(だいにっぽん)偃武令(えんぶのれい)』、『一県(あがたひとつに)二城令(しろふたつのれい)』、『参勤(さんきん)交代令(こうたいのれい)』、『建武(けんむの)律令(りつりょう)格式(きゃくしき)』、『大日本(だいにっぽん)検地令(けんちのれい)』の発表だった。



 効力は1箇月後から発するとした。


 これらの命令に違背する、或いはそのような態度を見せた者は、誰であろうと啓良王自ら魔縁群を率いて族滅(ぞくめつ)し、畑の肥やしや水族の食料に換えた。

 軍勢を差し向ける中で謝罪した者に就いては、現・千島県と現・山佳道(Sakhalin)への入植及び開拓を命じた。



 先ず五人称令であるが、身分制度を高い順に『皇族』、『王族』、『華族』、『士族』、『平民』のいずれかに纏めた。


 天皇は皇族でも、当然乍らそれ以外の身分にも属さない。

 天皇は飽く迄、皇族及び大日本國の人民(おおみたから)の長者であり、長者に対する不敬行為を許さぬこと、長者は政治上の責任を負わないこと、一般に国法の適応を負わないこと、皇位を廃することは不可能であることと云う4つの法律的内容を持つとした。それ以外の部分では超法規的存在と成っていった。

 この天皇だが、最終的には大覚寺統と持明院統の合流を行うが、それまでは両統が迭立(てつりつ)して天皇を輩出することにした。合流は後醍醐と光厳の曾孫として生まれた男女の婚姻で達成することとした。両統が後宇多の子の代で分裂したので、健康に配慮して後宇多の血も薄くなってからである。

 合流後の皇位に就いては直系長系長子を最優先とし、兄弟のように同等の間では嫡庶長幼の順と定めた。庶子孫も嫡出子孫が不在の場合には継承できるとする。


 皇族の区分に就いては、この時点では満天下に対しては曖昧に表現した。

 太政大臣でさえ容易に口を出せないものであると内外に仄めかし、況してや文武百官程度が皇位継承に介入することはできないのだと、聖性や不可侵性の印象を付与することを目的とした。

 但し、当の皇族には、大覚寺統と持明院統の合流後は、嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫で、男は親王、女は内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とすること、又皇后・皇太后・太上天皇・上皇后、太皇太后、未婚で出家していない親王・親王妃・内親王、同じく未婚で出家していない王及び女王を皇族とするよう天皇及び天皇経験者全員から綸言(りんげん)を引き出した。


 王族の範囲には、既存の宮家と、天皇に登位しなかった親王及びその嫡出の子、王を含めた。

 その時点での日本の領域即ち大八洲(おおやしま)地方(ちほう)の外の地域に進出した王族を王家と呼び、大八洲地方に留まった王族を宮家と呼ぶ。王家には皇位継承の可能性がなく、宮家にはあるとした。又、この時に啓良王は、北嶺宮家から北嶺王家に改め、皇位を求めず版図を拡大することを表明した。


 華族には公家と国持の武家、官位を有する武家を纏めた。

 華族は府県の管領及び管領代に就くことができる。併呑した国の皇族や王族格はここに編入される。


 士族には官位を持たない武家や、地方の名望家をここに纏めた。

 士族は地方公議院に参画することができる。又市長、町長、村長に就くことができるとした。併呑した国の貴族や部族長格はここに編入される。


 これら王族、華族、士族では、直系優先、長系優先、近親優先でその家を相続することとした。

 当主となった者以外の男性は、一つ低い身分で家を創設することができる。又、嫁ぎ先のそれになれるともした。後世、特に北嶺王家が天皇の名代として統治した地域では、王族男性が平民女性と結婚して平民となったり、平民女性が華族男性と結婚して華族になったりと、そこ迄珍しい話ではなかった。

 尚、嫡出子孫が不在の場合、家を終わらせることも養子で継続することができるとした。


 平民は官位や爵位を持たない全ての者とし、農民、職人、商人、僧侶、被差別民をここに纏めた。

 国家公務員の中で行政以外の職であれば、何にでも就くことができるとした。又、平民でも、科学技術や軍事等で一定の功績があれば、勲功士族と云う1代限りの士族として身分の上昇を望めた。更には勲功士族の子も又、一定の功績があれば通常の士族である継承士族になれるともした。


 身分に就いてのその他の規定は、翌日に発表する『皇御國(すめらみくに)憲法(のけんぽう)』の中で細かく記した。



 大日本偃武令だが、これは私戦や私的執行、私刑罰、自力救済や自救行為、復讐その他一切を厳禁し、これに違反する者は族滅等の厳しい処分を下すことを明確にした法令である。

 全ての紛争を相国府が最高機関として処理に当たり、違背に対しては警察権と司法、加えて軍権を行使した。暴力装置の完全な独占や、裁判権や刑罰権を相国府に集中させる狙いがあった。又、自救行為や私刑、復讐を厳禁することで道理による国家秩序の安定、人民の教化をも企図していた。



 一県二城令では、その時点での領土支配を認めて管領の地位を与える代わり、所有する城の中でも都鄙に在る二城を除き、残余を破却するよう命じた。その際に発生した部材は、道路や橋等の社会基盤の整備に使わせた。

 又、従来の令制国を府及び県に改め、都市の規模に依って「市」、「町」、「村」と設定した。



 参勤交代は、管領及び管領代に課せた京に出仕させる制度で、4年毎に参勤させた。

 京と大和県の現・奈良市に土地を用意して屋敷を建て、京には正室及び世継ぎを常住させ、大和県には側室及び庶子を参勤中のみ住まわせた。更には子女を学校に通わせた。参勤交代では、自領から京までの旅費だけでなく京の滞在費も管領らに負担させたが、そこまで財政的負担は大きくなかった。と云うのも、参勤が4年毎だったこと、管領らの経済力に応じて動員させる従者の員数や内訳を定めていたこと、京での屋敷建設費を相国府が負担したこと、学校は無償であること、王による殖産興業が全国規模で物品を安くしたこと等、様々な理由がある。


 遠方の陸奥県や薩摩県の管領代の説得は難航すると考えていたが、一対一で説得したところ無事に成功した。そのことへの謝意を示し、最初2回の参勤交代の費用は、1回目の分は相国府、2回目の分は王が持つことになった。王は、政権の最初期が以後暫くの組織性を決めると考えていた。即ち、金遣いが荒ければ、その性質が長続きして終いには国共貧しくなり、財布の紐の結びが固ければ、それが長続きして出すべき時機を逃す等。1回目を相国府で支払ったのは、相国府が抑圧を加えるだけの存在でないとの主張で、2回目の王に依る支払いは純粋な感謝からであった。

 (そもそも)の話であるが、王は両県より遠い北海道と沖縄県を領すること、恐喝の達人であることから失敗する可能性はなかった。


 参勤交代に於いて、王の狙いは複数あった。

 平民の目に『これ程の勢が王城に向かっている』と映させ、天皇の威信を高めること。参勤交代に因って街道を整備させ、物品や人の交流を盛んにして一つの日本としていくこと。管領らに、地方の君主としての意識を薄れさせ、大日本國の官僚化にすること。管領らの後継ぎが全員京育ちで、しかも学校にて共に学ぶことで、相国府制度の受容や日本人意識の共有、日本語の平準化等、精神面でも一つの日本とすること等である。


 啓良王は約33年間、嫡男・啓守王は約10年間、合わせて43年程独裁を()き、そこ迄してやっと天下に静謐を(もたら)したのだが、その期間中ずっと参勤交代は行われた。鎌倉時代の日本人の平均寿命が30歳程度で、文化人類学の考えでも25年で1世代である。政権は2世代、或いは3世代に亘った訳である。それに管領らが従った結果、財政的負担は大きくないにしても、絶対に避けられない支出と考えるようになっていたので、軍備は縮小されていった。啓守王は、その小さくなった軍事力を各地の検非違使に改めさせた。


 尚、学校では、啓良王が比叡山延暦寺にいた頃から王を慕う僧侶や、仲の良い公家に教師をしてもらった。

 内容としては、文字の読み書きを国書や漢籍を用いて教えたり、算用(Arabic )数字(numerals)で書かれた機械式時計の読み方や計算を反復(Drill)学習させたりと云うものであった。

 更に余談であるが、これら算用数字は、王が太政大臣として務める傍ら、外国と密貿易する中で知ったものらしい。巨大な数字を表すのに使いやすく、非常に有益であると判断し、導入を進めていった。



 建武律令格式は、皇族と王族を除く全ての者に課せられる基本法だ。

 これに就いては御成敗式目を流用し、啓良王がそれにいくつかの条を加え、或いは修正し、又施行細則を明文化しただけであった。実は啓良王は、戦前には『皇御國(すめらみくにの)萬民法(ばんみんのほう)』を完成させており、これを発表する予定であった。

 御成敗式目を用いることにしたのは、父帝・後醍醐上皇からの強い勧めが理由であった。王は高々勧め程度では一顧だにしないが、後醍醐には貸しがあった。建武時代に様々な改革を打ち出せたのは、王だけでなく後醍醐自らも皇族や公卿を説得し回ったからである。自らが焼滅した北条氏のそれを使う辺り、王自身も節操が無いと思ったが、鎌倉軍事政権の支配下にあった人心を平らかにすると云う点では現実的なやり方であるとは思った。


 後醍醐が御成敗式目を流用するよう勧奨した理由だが、単に力を以て事を為してきた武家への憧れと、その武家が作って武家の首根っこを押さえてきた縛りへの信頼なんかがあったが、何より後醍醐が元来保守的な性質だったと云うのが大きい。倒幕前の後醍醐は、従来の公家徳政を現在で云う大八洲地方全土へ拡大、延長することを考えていた。しかし王は、僧侶の尊栄(そんえい)として後醍醐を輔弼し始めた頃、後醍醐の提示する諸政策悉くを、



(おう)()(もろ)きことなしと雖も、当今の明王聖主(みょうおうしょうしゅ)岩戸(いわと)に御座せり』

(君主の事業は堅固でなければならないと云うが、聖徳あって賢明な君主=後醍醐天皇は天岩戸に籠もられていた)



 と評価していた。

 と云うのも、後宇多上皇の政策をそっくりそのまま引き継いでいたからであった。後宇多から飽く迄繫ぎとして即位を許された身と雖も、啓良王に云わせれば臆病風に吹かされ過ぎであった。又後醍醐は、繫ぎと云う性質上、孤独と猜疑心を持って即位したので、極位極官を無視してでも人材を登用し、信頼できる側近に育て上げようとした。

 それ故に王は、以前にも記述したように、後醍醐の猜疑心と緊張を丁寧に解しながら、臣下には君臣の儀を超えさせてでも交流し、その合間に山城を主とした殖産興業と富国強兵を進めていった訳だ。

 又後醍醐は、嘉暦戦争中に自分を助けた者達、特に武士達に積極的に官位等の恩賞を与えてやりたいと云っていた。一方の王は、武功を挙げても文事に力量を発揮するとは限らないとし、官位の授与には否定的であった。其處で後醍醐には、足利高氏へは『尊』の字を与え、結城宗広と葛西清貞にはその忠節を褒め称えさせた。北条氏が滅んだ今、北条氏の血を引く者で最も有力で血筋も良い足利高氏に、それなりの信望が集まりつつあったからである。王自身も、敵対したとは思えない程に高氏と仲が良かったのだが、これを通じて日本の支配を強固にしようとしたのだ。



 大日本検地令では、土地の性質等を調査した。

 啓良王は様々な税制を考えており、この令に於いては、土地を低い順に「皮」、「肉」、「骨」、「髄」との格付けをし、その格に合う税額を設定しようと云うものだ。






 開府1箇月後にも衝撃が日本を揺らした。

 それらは『国号や国旗等の制定』、『皇御國(すめらみくに)憲法(のけんぽう)』並びに『皇御國(すめらみくにの)萬民法(ばんみんのほう)』の公布と施行日の発表だった。



 啓良王は国号や国旗の制定は、諸外国との交流に必要であることの他に、民族意識を涵養(かんよう)し、難事に際しても団結しやすくする効果があると考えた。

 王は先ず、国号を「大日本國」に、国旗を「日月(黒地に紅色の太陽、金色の月に星)」に制定した。


 国号に就いて、王曰く「大日本帝國」も候補にあったが、「大」自体に「皇帝」や「唐土から自立している」といった要素があるので、それに「帝国」を加えては(くど)いと考えた。

 他にも、鎌倉時代には「大日如来の本国」と云う意味での「大日本国」と云う表現があったので、広く受け入れやすいであろうこれを選んだ。

 ()てて(くわ)えて、王は、これから君主の権力を削減していくと云うのに、その君主の称号を冠することは望ましくないと考えていた。


 国旗に就いて、「黒地、紅色の太陽、金色の三日月及び星」である。

 王は当初、日月紋を用いることを思い付いた。父帝・後醍醐が日輪と月輪の意匠が入った錦の御旗を使っており、これに感銘を受けたのだ。次いで色の組み合わせを考えた。錦の御旗を題材(Motif)にする以上、赤は外せなかったが、赤単色で日月を表せない。そこで黒を用いてみる。黒と赤では激しい印象を与えるが、赤の色調を下げるに連れて重厚感が出てきた。しかし目がチカチカしたので、「赤地に黒線」から「紅地に黒い円2つ」を経て、軈て「黒地に紅円2つ」と変えた。チカチカは幾分マシになったものの、今度は視認性の問題が発生した。月を金色にしたところ、高級な雰囲気が出たが、金をふんだんに用いているような感じが何處か下品に思えたらしい。試しに満月から三日月にしてみると荘重さと云う面で良い出来になったが、視認性に欠ける部分があったので、三日月の隣に金色の星を(しつら)えて改善した。

 尚、嫡男以外には、『地の黒色は他のどんな色によっても染まらないことから、日本は、宛ら白色の布の如く王朝がコロコロ変わっては直ぐに染まる唐土(もろこし)のようにはせぬ覚悟を表している。紅色の円は太陽であり、その色は博愛と活力を、太陽は天皇と天皇の国である日本の土地を示すものである。金色の三日月型と円はやはり月と星であり、その色は天地開闢以前から輝きを放つと云う高貴さと不滅性を、月と星は臣民を示すものである』と説明していた。

 又、『国号や国旗()の制定』とあるように、この時点では国章と国璽(こくじ)に就いても制定した。






 皇御國憲法は憲法典で制定されており、上諭、前文、本文から構成されている。本文は「天皇」、「統治機構」、「臣民」、「財政」、「地方自治」、「憲法の保障及び改正」、「補則」から成る。


 啓良王は、特定の個人に備わる非日常的で神授・超人間的な魅力(Charisma)が持っている権威に由来する支配や、古くから行われてきた伝統の神聖さや、それに依って権威を与えられた者の正統性に対する日常的信念に基づく支配を警戒した。然ういった勢力は、兎角恣意的な政治を行い、君民共に飢えさせるだろうと断じた。『恣意的』と云う点においては自身を棚に上げているが、王自身は、混乱状態に於ける政治家は痛痒も感慨も無視して粛々と仕事を行うものであると考えた。

 其處で、秩序及びその秩序から支配を行う者に権限を与えること、この合法性や内容を文章形式で明文化した。又、これには国家権力の制限や国家の方針を決めると云う目的もあった。特に後者は、法を文章として起草してのものであるから画期的と云えよう。


 さて、「天皇」の章では、天皇の地位や主権の所在、皇族の定義、皇位の継承、国事行為、権能、任命権、皇室の財産授受を規定している。

 主権そのものは統治機構に属するとし、天皇はその統治機構を通じて最高意思決定権を行使するとした。これは、天皇の神格的超越性を否定しつつも、それ故に来寇等によって国家滅亡の危機に瀕しても、天皇の持つ権限と負う責任は小さかったと内外に説明し、皇室を守る方法としていた。それでいて、国家の最高機関である天皇の権限を尊重するものでもあった。

 国事行為では、現行のものと変わらない5年毎の太政大臣の任命等の他、象徴の設定と云うものがあった。これは、天皇が国歌や国技、州鳥や州花等、日本或いは州を代表するものを象徴として定めると云うものであった。後に日本人が海外に新たな州を設置し、何某系日本人と云う名の先住民やその先住民との混血が珍しくなくなると、ただでさえ忙しい天皇が激務に陥ったので、天皇の名代として州を統治する現地の王家に委任するようになった。




「統治機構」の章では、四権とその職掌、組織編成を規定する。

 国家を現実に統治する機構における権限を、立法の公議院(こうぎいん)、司法の大審院(だいしんいん)、行政の相国府(しょうこくふ)、監察の弾正台(だんじょうだい)と云う4つの機関に分立し、その職掌を明文化した。その目的は、四権に互いに抑制させ、権力の濫用を防がせようとするものであった。又天皇が、国事行為の1つとしてそれら四権の首長を任命することとした。啓良王は、天皇が親政することのないよう権力を引き剥がしつつも、任命すると云う重大な役割を担わせることで臣民が天皇制を必要とし、因って天皇家そのものが存続する確率を高めようとしたのだ。


 公議院には中央公議院と州公議院がある。

 中央公議院の権能としては、立法権、条約承認権、弾劾裁判所の設置権、財政監督権、憲法改正発議権、公議院自律権と国政調査権等がある。州公議院の場合は、州の意思を決定する機関としているので、管領や管領代及び市町村長から提案される予算、決算、条例制定や改廃、州が締結する契約等を審議し、その可否如何を決定する権限がある。州公議院の議長は、その州の王とする。


 大審院(しほうさいばんしょ)は司法権を行使する裁判所で、その下にある京兆(みさとづかさ)やその他の機関には覆すことが認められない判決を下す権限を有する。

 京兆(さいばんしょ)には極京兆(はたてのみさとづかさ)縣京兆(あがたのみさとづかさ)家内京兆(けないのみさとづかさ)がある。


 相国府は相国即ち太政大臣を補佐する。重要政策に関する企画立案や総合調整、太政大臣が担当するに値する行政事務の処理等を行う。立場としては全ての省よりも一段高い。その省には中務省(なかつかさしょう)文武省(ぶんぶしょう)宮内省(くないしょう)刑部省(ぎょうぶしょう)玄蕃省(げんばしょう)大蔵省(おおくらしょう)治部省(じぶしょう)民部省(みんぶしょう)往還省(おうかんしょう)兵部省(ひょうぶしょう)と云う10の省と多数の関係庁がある。

 王の治世は、それぞれの仕事の遣り方を模索し、手順化することに専念したので、実際に用いられるようになったのは太政大臣を継いだ嫡男・啓守王の代になってからだった。


 弾正台は公務員を問責、弾劾する権限、他の三権に対し会計監査を行う権限を有する。


 これら四権の中では、相国府が纔かながらに最も優位に立つとした。

 王は、行政機関が弱くては国家を運営できないばかりか、内国社会を混乱させるだけだと考えたのだ。相国府が優位に立つためには、続く「臣民」の章に関係するが、相国府は臣民から人権を()()()()()と云う形で譲り受け、それに依って組織を強化した。所謂社会契約を結び、これに依る権力移譲を通じて強力な主権国家を形作ると云う狙いがあったと推測される。

 但し相国府は、『臣民全般の利福のために政治を執り行い、その政策決定は常に民情に基づくもの』とした。具体的には、省庁等に務める公務員の内、士族と平民が同数になるように雇用すると云った制度を設ける等して、その担保を図る。




「臣民」の章では、臣民の定義、身分、臣民(The)に授けられる(Basic)権理通(Human)義項目(Rights)、臣民が負う義務を記している。

 ここでは身分制度の改正や、それぞれの身分に就いての定義が記述される。


「臣民の定義」の条では、天皇を主君とし、王族・華族・士族・平民の四民が臣民であると暗示した。

 臣民の名前に就いても記述がある。王家であれば支配地域を名字とし、それに諱で構成される。華族と継承士族は名字・通称・氏・姓・諱で構成する。勲功士族と平民は、名字・通称・諱で構成するとした。それぞれ北嶺(ほくれいの)啓良(ひろよし)新田(にった)小太郎(こたろう)(みなもとの)朝臣(あそん)義貞(よしさだ)、八衢天狗の子の隠仁(おに)なら八岐(やぎ)啓一郎(けいいちろう)(たいらの)朝臣(あそん)良栄(よしひで)、八衢天狗なら八岐(やぎ)啓太郎(けいたろう)逸栄(はやひで)となった。

 一方、臣民ではなく主君たる天皇の名前は、世界的にも珍しく諱1つのみで構成されている。後醍醐太上天皇なら、『尊治(たかはる)』と云う諱のみになるということだ。


 又啓良王は、五人称令では発表していなかったが、「身分」の条にて、宮家の創設に当たっては満15歳以上の親王が、本人の意志に基づき、又皇室会議の承認を得ることで臣籍降下することができると明記した。


「臣民に授けられる権理通義項目」の条では、それの説明から始まる。


 此處では次の前提を設けている。

 先ず、物質は有限である一方、人間の欲得は無限である。人間は決定的な能力差の無い時に必ず対立するが、有限である物質を得る、即ち自らの利益を求めて互いに争いを繰り返す。斯うした状態では、人間は常に生命の危険に曝され、安心して生活できない。

 この紛争状況を能う限り遠ざけ、人間が平和裏に共存し、社会に正義が実現されるためには、人間が天賦のものとして持ち得るもの一切を、公共的な権力である統治機構に譲渡すると云う社会契約をするべきである。其處で、臣民は社会の最高調停者たる天皇を信頼して一切を献上する。それらを受け取った天皇は、情勢を鑑み、四権を信任して国家運営に必要な分だけ臣民のそれを貸与し、臣民が内国で生存するに当たって持つべき権利に就いては、改めて天皇から臣民へ恩賜すると云う形式を取って定める。この、臣民が天皇から授けられたものを権理通義であるとしている。


 この時代の権理通義としては、信教の自由、学問の自由、表現の自由、私企業における勤労者の団結権、財産権、適正手続の保障、裁判を受ける権利、現行犯逮捕を例外として逮捕状による逮捕の原則、住居の不可侵、刑事被告人の権利、刑事被告人の権利、自己負罪拒否権、遡及処罰の禁止、一事不再理を認めた。これらは、日本人であれば誰もが天皇から賜るものとすることで、他の誰もが侵すことや引き剥がすことをしてはいけないと示したのだ。


 皇御國憲法における権理通義の享有者は、臣民と訪日中の同盟国民、法人、公務員とした。

 但し、法人はその性質上精神の自由等を認められないし、公務員は「国家全体の奉仕者」と設定していることから、政治活動の自由等の参政権や労働基本権を制限している。


 この時点では全ての自由が完全なものではない。

 先ず、自由は世間に迷惑を掛けていない状況でのみ保障された。又、自由の範囲は事細かに明文化された。


 例えば、表現の自由では、名誉毀損的表現は流罪が妥当の重罪であるとしていた。

 信教の自由においては、国家が認める宗教法人に限る等、細かな規定と制限が加えられていた。宗教法人として認可するには様々な条件がある。例えば、人間を生贄に用いないことや、他の宗教の信者を攻撃しないこと等だ。王は宗教戦争は残忍酷薄な闘争に発展し得ると考えたので、兎にも角にも宗教的排他主義に注意していた。又、王としては信教の自由に限らずその他の自由も最大限に尊重す可きものであるが、絶対無制限のものではないと断じた。戦災や疫病等国家がその静謐、独立自尊を脅かされる事態に際し、尋常の在り方では対応できない時、相国府に大幅な権限を与える非常措置をとることに依って、秩序の回復を図ることを考えていたのだ。これは所謂国家緊急権であるが、尤も歴代太政大臣の多くは不要不急の活動の自粛を求めることを好んだ。大抵、人間は適度な緊張があって成長するが、過度なそれや厳禁と云うのは人間に不満を持たせてしまい、その後の内政に影響が出ると判断してのものだった。


 義務には勤労、納税、兵役がある。

 兵役に就いては、6歳から18歳の12年間課す。啓良王と側近らは臣民皆兵を構想していた。個人的な武技ではこれからの戦争を戦えないと、元寇にて日本武士がモンゴルの集団戦術に苦戦した前例、嘉暦戦争にて武士を火力で多数殺害した経験から判断していた。又王らは、兵役を以て日本に住む人間を何某系日本人として統合し、内戦への発展を防ぐ、即ち人間の社会的紀律化の1つとして実践することも目的としていた。

 後には『教育を受けさせること』も義務として加えられる。




「財政」の章では、財政に関する事項を定めている。

 現代のそれと大きく変わらないので割愛する。




「地方自治」の章では、道府県の設置、州並びに州公議院の設置を明文化する。


 中央集権制を原則としつつも一定の自治権を地方に与えることで、中央や地方で致命的な失政があっても国家全体が破局的に揺らぐことのないようにした。又、自らの責任で地方自治を担う者が増えれば、都鄙(とひ)(とも)に名利があるとも考えていた。地方では、その経験を買われて中央公議院の州割り当て枠に選出されたり、中央では、地方政治家が中央で勢力を伸長すると云うことに奮起或いは恐怖したりして無責任で無軌道な執政も減るであろうと。其處で、大日本國における立憲制の興立(こうりゅう)や、その後の繁栄と云う美果を育てるのに寄与したとして、永遠の誉れが与えられると一人一人に触れ込んだ。


「道府県の設置」の条では、従来の令制国を府又は県に改称すること、府県の首長をそれぞれ「管領」、「管領代」とすることが記される。管領になれるのは華族のみで、士族が就くことができるのは市町村長から管領代まで明記した。又、管領及び管領代は中務省管轄の勅任官であるとも明記する。首長として不適切な人材だと判断するまでは、事実上の世襲を許すことになる。


「州並びに州公議院の設置」の条では、府県の境界を越えて広がる共通の行政課題を処理すること目的に、広域の行政単位として州を設置することを記し、更には、州内に広域行政執行機関として「州公議院」を設置する。

 例えば、複数の都道府県に流れる河川の上流で浚渫すると、下流では洪水が起こりやすくなる。公議院は、この下流域が別の府県に在る時、地域住民への説得や、洪水が起きないような対策、起きた後の弥縫策(びほうさく)と改善案を勘案し実行する、管領や管領代よりも上位の地方政府である。その首長には大覚寺統と持明院統の皇子を据えた。この為、先月は宮家と王家が同義語となったが、ここに将軍家も加わることになった。

 又、高級貴族も下向させた。彼らには日本の()()をお願いし、そしてそれは余人に任せられないこと、そして名声を高めれば永く臣民に尊敬されるのだと囁いた。


 尚、この州公議院を「将軍府」とも呼ぶ。

 それは啓良王が、当時の武士が在地の政治家として君臨しており、その彼らの上に置く機関である以上、彼らが慕い、又自ら進んで膝を屈するに値する名前を与える必要があると考えたからであった。歴史的にも「州公議院」以上に「将軍府」の方が屢用いられており、以後「◯◯州将軍府」と表記する。


 最初に設置された将軍府には、北嶺州将軍府、北奥羽将軍府、南奥羽将軍府、北関東将軍府、南関東将軍府、北陸道将軍府、東山道将軍府、東海道将軍府、禁衛大将軍府、山陽道将軍府、山陰道将軍府、南海道将軍府、西海道将軍府、沖縄道将軍府がある。

 各将軍府の庁舎は、特定の都市に固定しないようにした。その代わり、各府県の首長に対して所有する城の内、一国二城令でどちらかの城を各府県が持ち回りで貸すこととした。勿論、貸している期間は城の維持管理費等は将軍府が出す。


 禁衛大将軍府の将軍には皇太子が就任し、次世代の官僚らの補佐を受けながらも政治的判断力を養っていく場、時間とした。

 一方で、その他の将軍府に就いては、配属された王族が州の将軍職を代々継承していくとした。啓良王の北嶺王家は、現代で云う北海道を領する。又王位の継承同様、将軍職に就任したり退任したりする度、天皇が将軍、副将軍を任命すると云う形式にしている。


 業務内容の明示や組織に就いても記述している。

 例えば業務には、地方の将軍府は変事の有無に拘わらず禁衛大将軍府に日報を送る。禁衛大将軍府の皇太子はそれらを総覧した後、疑問があれば返信したり、地方で問題が起きていれば中央省庁に連絡したりする。又、府県の首長から改称や廃置分合を要求された時には、これを天皇に直接上奏すると云う仕事や、各府県の管領及び管領代の参勤交代を受けたり、自らも彼らを伴って京に参勤交代をしたりすると云うのもある。




「憲法の保障及び改正」の章では、憲法の最高法規性やその根拠の明文化、憲法改正の手続きを規定している。

 憲法による秩序の存続や安定の保持、そしてそれを定着させるべく、硬性憲法として規定すること等も記されている。




「補則」の章では、憲法を実施するべく、その施行期日や準備の手続き、公務員の地位等を規定している。




 皇御國萬民法は、憲法と同様、法典に纏められている。


 啓良王は、新たに法律が作られる時、枝番号を使って条に追加する形式が手軽だろうと考えたので、然ういった形式になっている。そしてその為に、皇御國萬民法は現在でも使われているのだ。

 但し、当時は天皇制を揺らがせない為に、長幼の序や君臣の義を社会に染み込ませる可く、現代では否定されている尊属殺重罰規定等が設定されていた。王は、国民性は生きていれば回避不能の教育や社会風俗と云う幹だけでなく、余程の事がなければ滅多に関わり合いにならない法律等の枝葉に依っても育つと考えていた。

 刑の軽重としては、軽い順に付加刑の「没収」、財産刑の「科料」、自由刑の「拘留」、財産刑の「罰金」、自由刑の「禁錮」、自由刑の「懲役」、自由刑の「労役」、生命刑の「死刑」を定めた。

 近代以前、現代から見れば些細なことでも死刑を課すようになっていた。口論になった人が酒の勢いで刀を抜けば、人を傷つけなくても必ず死刑となる等が正にそれである。糸一本でも盗めば死刑、姦淫や失火等も死刑である。死刑には多数の種類があり、切腹や試し斬りの他、人体実験等が有名である。又、殺人罪は全て死刑になるのだが、これに就いては公訴時効、即ち犯罪行為が行われても犯人を処罰できなくなるまでの期間を無しにしている。

 尤も、近代以後は死刑が労役になっただけである。


 刀に関連して、王は身分を証明する道具として、士族以上の臣民に帯刀を義務付けている。

 その上で、妄りに鞘を払えば他者の命だけではなく自らの命も棄てることになるとしたのは、人間間(にんげんかん)が礼節に依って秩序ある関係を構築し、以て社会が統御されることを目的としていたからだ。殺すために鍛えられ、そして喧嘩や私闘では永劫使用されないことを誉れとする奇妙な武器、日本刀が本当の意味で誕生したのである。




 又啓良王は、憲法に基づき「大日本皇族法」と云う法律を制定し施行した。

 法律では皇室に関する事項を、例えば皇位継承や皇族の身分、国事行為、皇室財産、皇室会議等章立てして定めている。


 例えば皇位継承の資格は皇統に属する男系男子のみとしているが、この皇統と云うのは大覚寺統と持明院統が合流した血統を云う。合流に就いては、後醍醐上皇の曾孫と光厳天皇の孫、それも先に生まれた男系男子と男系女子の婚姻によって合流するものとした。又合流後、皇位を継承するのは天皇が50歳を過ぎ、天皇自身が体調に不安を覚えてからのみとした。


 他にも皇室財産の章では、宸翰(しんかん)を売る等独自の経済活動をして権力を得られては困るので、皇族を国費で養うことを定める。神人(じにん)供御人(くごにん)に就いては、広く国内から食料品やその他物品を買い集める役割や一般の商人に変わっていった。

 尤も、贈り物を受け取ってはいかない訳ではない。但し、付け届けで官位等を決められないよう、別個で基準を示したり法で定めたりした。

 尚、この法律自体は、啓良王が戦前に大覚寺統と持明院統の両統と事前に話し合った内容、それを明文化したものであった。



 啓良王は、憲法でも然うだが法律でも解説書を出した。

 王は、読者と云うのは生きてきた中で育んできた常識で条文を解釈すると考えており、解説書の出版は、平和や秩序のための文言が悪業をする建前にならないよう予防せんとする為であった。

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