表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クソデカ日本、爆誕!!!  作者: シヴァいっぬ
中世
5/13

嘉暦戦争

(The )(Pacific)( Rim )(Empire)(The )八洲(Nipponese )地方(Birthplace)の中世史(嘉暦戦争)






 皇紀1985年3月5日、敦賀に到着した尊栄は、すぐに敦賀や周辺の魔縁群騎馬隊を招集した。


 尊栄は、北海道が戦国になったと知り、それから機が熟したとして攻め取りに行く迄の増強期間、様々なことをした。

 例えばその1つに、魔縁群の改編がある。それ迄は、尊栄が必要な時に必要な数の戦闘員を動員して作戦行動を取っていた。即ち、尊栄無しには回らない組織である。其處で、最上位に尊栄、次いで八衢天狗(やちまたのてんぐ)のように優秀な者によって組織される大略(たいりゃく)僉議(せんぎ)、そして陸戦部(Army)及び水戦部(Navy)があるという垂直の権力構造にした。尊栄を明確に絶対的な存在にしつつも、その尊栄が直接指示を下せない時には、大略僉議に属する者に権限を一部委任し行動させるようにしたのだ。

 しかし、尊栄がいなければ軍事行動が取れないなんてことになっては不都合なので、遠方に送る時には大略僉議に所属する者を最低2名送り、尊栄がいない限りは彼ら彼女らに最高指揮権を委ねることになっていた。北海道遠征部隊で云うと、操船したり戦闘船を使ったりしたのが水戦部、兵員輸送船に乗っており、陸上では主として戦ったのが陸戦部である。大略僉議に属する八衢天狗は、北海道の魔縁群を指揮監督する最高指揮権保有者であり、同様に大略僉議に属する()(ぜん)円成(えんじょう)を八衢天狗の補佐として置いた。円成は禅だけでなく数字に明るいことが分かったので、都市建設や支援物資の適切な分配を期待して補佐に任命した。

 尚、尊栄が招集した騎馬隊は、日本ではさして珍しくもない重装弓騎兵で、陸戦部に属する。



 その日の内に集まった騎馬兵30名を十三湊強襲部隊として臨時編成し、尊栄らは早速出発した。

 尊栄は待っている最中、装備品を選んでいた。勝呼号が大きく育っていたので、甲冑を()(かた)めて騎乗しても問題無いと判断したので、着物には普段のような僧服でなく、尊栄が設計した特注の鎧兜を装着して跨ってみた。勝呼号は細かく震えており、尊栄は直ちに下馬した。150と数キログラムを乗せるのは厳しかったのだ。尊栄は結局鎧を脱いで僧服に着替え、自力で走ることにした。持ち物は笠と金砕棒を1つずつで、これは自分で携行した。大屠(おおほふり)弦姫(のつるひめ)を持って行きたかったが、沖縄王としての権威を示すべく閣僚評議会に設置しており、手元には無かった。同様に盾も、北海道に魔縁群による統治を主張する威信財(いしんざい)として置いてきた。いずれも設計図はあるので2号、3号と作らせてはいるが、この出立には間に合わなかったのだ。

 着用しなかった尊栄特注の鎧兜だが、『()(かわ)縅之(おどしの)大鎧(おおよろい)』と名付けられた。全身で薄手火蛾(ウスタビガ)の雄を再現した大鎧で、小札(こざね)即ち革や鉄などを小さな板状にした物を、鹿の皮を加工して柔らかくした(かわ)(おど)している。兜と従来の半首(はっぷり)を発展させた目の下頬で、蛾の頭部を細かく表現している。また、蛾の(はね)として懸母衣(かけぼろ)を装着していた。甲冑には()寄生(ヤドリ)長実(ナガミノ)粒茸(ツブタケ)に寄生された版もあるが、騎馬隊には迷彩版を与えて装備させた。

 勝呼号には防具を着せた。奄美蠍擬(アマミサソリモドキ)を模した全身鎧であった。油抜きした竹片に漆を重ね塗りして熊や猪などの毛皮に縫い付けただけだが、この竹片の形状や角度に就いて細かく計算しており、この時代の凡夫の放つ矢程度であれば弾けることを確認した。その上で尊栄は、勝呼号に向けられた攻撃を自ら全て弾き飛ばしたのだが。この馬用防具も、迷彩版のものを騎馬隊の馬に装備させた。



 十三湊強襲部隊は日本海沿岸をなぞるように行脚し、それと併行して各地の公武寺社や有力匪賊を(なだ)め、(すか)し、或いはいつものように(おど)して組織を拡大しながら北上していった。


 日本海側を進むのは、水戦部との連携を目的としていたからだ。

 十三湊強襲部隊が人間集団を襲撃するのは止むを得ない時のみで、その際には尊栄村などへ拉致した。尊栄らは、特に村を襲う時、殺害するにしても拉致するにしても、生き残って敵になるような者が現れないよう、村落単位で消し潰すようにしていた。尊栄は、後醍醐政権に出仕し、親子としての仲を深めていたが、それでも上下君民どころか一切の造化(ぞうか)さえ、その命は等しく無価値であると考えていた。人はいずれ死ぬのだから、せめて我々魔縁群の役に立って死ねとも考えていた。その場で殺すか丁重に扱って死なせるかの判断基準は、死ぬことで役立つなら殺し、生きて役に立つなら生かせるという単純なものである。尊栄の信念にして魔縁群に共有されていた『人の数こそ強さ』という思想は、『人』なら誰でも良いという訳ではなかったのだ。

 平均寿命が35歳程度の当時において、例えば老人は、物事に対する経験や知恵が豊富であるから貴重な存在であった。それが故に、彼ら彼女らに就いては丁重に強制連行した。女性と女児は現在或いは将来的に子どもを産める以上、極めて有り難い存在として何よりも尊重させた。男性は抵抗することが儘あるが、その場合には去勢などすれば従順になった。その後は死なせることを前提に働かせれば、短い期間であってもそれなりの労働力になった。男児であれば何事につけても経験も知識も少なく、消耗したところで大した損にならず、その上獲得し易いので、北海道を開発する屯田兵とした。


 余談だが、水戦部には機械式時計を持って来させており、尊栄は捕えた者を渡す時にその出来を自ら確認した。

 尊栄は、予め襲撃時間を設定しおくことで挟撃したり、十重二十重に備えた小勢で波状攻撃を仕掛けたりしたいと考えていた。従来の日本の戦は大抵遭遇戦で、従って(Military )(Logistics)なんかは杜撰であった。尊栄は鎌倉軍事政権どころか、もっと大きな敵と戦いたいと思うようになっており、日本の場合それは海の向こうの国々となる。そんな国々に踏み込んで勝つには兵站が重要だし、物資や輸送力が有限である以上、適切なものを適切な時に適切なだけ送る必要がある。

 時計と云えば漏刻(ろうこく)だったが、これは水時計で携行し難いものだった。漏刻は櫓1階に置かれたそれで時を知り、2階の太鼓で「(とき)」を、鐘で「(こく)」を知らせるものだ。当時は1日の「時」を、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支で表しており、子なら太鼓を9回、丑なら8回、寅なら7回、卯なら6回、辰なら5回、巳なら4回、午なら9回、未なら8回、申なら7回、酉なら6回、戌なら5回、亥なら4回叩いて報時した。尤もこれは、宮中の貴族達に勤務時間を知らせる正しく時報である。「時」に対して「刻」は、一つの「時」を30分刻みで四等分している。例えば、子は午後11時から翌日午前1時までの2時間を指すが、子一つとなれば午後11時から午後11時30分までの間を指す。要するに漏刻では、報時に人手と手間が要るのに大体でしか時間を判別できない。

 尊栄は、時間に就いて「大まか」や「大体」というのを好まず、それがきっかけで携行でき、また細かく時間を計測できる時計を欲した。そして尊栄は機械式時計を1つだけ自力で作ったが、独力では呆れんばかりの時間を要した。それに、この機械式時計は不定時法、即ち季節や現在地の緯度によって昼と夜の長さを変える時刻制度を採用していた。しかし、季節毎や緯度毎に時刻を設定するのは手間だし、設定する者によって正午が区区(まちまち)になるとの危機感があった。これでは示し合わせて襲撃するなんてことができない。

 そこで尊栄は、時間には「客観的時間(Chronus)」と「主観的時間(Caerus)」が存在すると仮定し、この客観的時間を採用して定時法、即ち季節や緯度に関係なく、1日の長さを等分して時刻を決める時刻制度の時計に置き換えた。また分業体制を構築したり、部品そのものを少々大型化して加工しやすく、組み立てやすくしたりしていた。また定時では、等しく1日を24時間、1時間を60分、1分を60秒に分けたものにした。ここで60進法を採用したのは、60が2、3、4、5、6全てで割り切れる最小の数であり、四則計算においても使いやすかったことが理由である。

 尤も、結実するのはまだ先のことである。



 尊栄らの行脚は、闇の世界の住人から非常に恐れられた。

 北海道遠征前の増強期間、魔縁群では迷彩目的の化粧やグロテスクな特殊(Special)化粧( Makeup)を研究し、これをするようになったのだが、従来のものとは異質な格好や武士以上の残忍さと獰猛さと組み合わさり、その上それを喧伝する政治的方便(Propaganda)専門の機関を作って運用していたことから、魔縁群は地獄や黄泉のような別世界から現れた妖怪変化と目された程だった。


 しかも十三湊強襲部隊は、関所を通る際、顔を覚えられては不都合だという理由で関守(せきもり)を鏖殺した。そしてその場で死体から臓器を抜き取り、臓器を秘薬として近くにいた者に脅して買わせた。()うして、関所を通過すべく待機していた者達全員を共犯者、共謀者に仕立て上げた。

 死体の残余は硝石作り等に用いる考えで、付近の協力者や「共謀者」の土地に埋めさせてもらった。完全にこの世から消失して供養する機会さえ与えられないというのは、当時の人間には筆舌に尽くし難い恐怖であった。

 神仏に拝む者もいたが、()ういった者達に対して尊栄は、



『神仏ぞ慥かに在る。乃公(だいこう)こそ神祇(じんぎ)より(べち)なる感応(かんおう)、仏より別なる護りを受ければ、斯斯(かくかく)大業(たいぎょう)を行ひたり』

(神や仏は確実に存在する。何せこの私こそが天つ神と国つ神、仏から特別な加護を受けているので、このように偉大な仕事をしているのだ)



 と(ささや)き、従来の信仰と常識、心を壊して勢力に組み込み、魔縁群を新たな拠り所にさせた。


 尊栄は又、関守が然うだが「唯そこにいたから」という理由で人を殺すことがよくあった。

 その一方で、一見すると僧侶らしい慈悲深い行動をすることもあった。北海道遠征前の増強期間、備後国や安芸国で行動していた折、芦田川の流域で水腫脹満(すいしゅちょうまん)──日本住血吸虫症に相当する──に苦しむ村民を多数抱える村落を見て、彼ら彼女らを自ら介護する等した。その後は、せめて川の水を生で使わないよう命じ、尊栄村から薪を安く売るようにした。この本質の捉え難さが、一層魔縁群を尊栄の信者とした。

 尤も、尊栄としては、感情や色のように気質にも明確な境界線なんてものは無かった。聖人且つ鬼畜を両立させていただけだ。



 十三湊強襲部隊、元へ魔縁群に依る破壊と劫略に就いて、在地の武士や寺社からの対策を求める陳情が鎌倉軍事政権へ届くようになった。


 魔縁群の存在が闇の世界から光の世界へと零れ落ちた訳だが、光の世界の代表的存在である鎌倉の対応は遅かった。

 魔縁群は農作業に従事する百姓を拉致していた訳なので、鎌倉は百姓が逃散(ちょうさん)しただけであり、それは珍しくもないことであるし、そのような事態に陥ったのは各々の責任であるという判断を下していた。それに、訴えてきたのは鎌倉にとって部下である武士や、支配者としての同僚である寺社だった。従って、鎌倉は先ずいつものように自立や自力救済を求め、そして朝廷の後醍醐天皇らに放り投げた。

 しかし、後醍醐は、魔縁群は謂わば大事な陪臣且つ臣民であるし、その頭領である庶長子の尊栄は、百姓に就いてはその労働力を重視しており、決して悪いことはしないだろうと確信していた。後醍醐は、政権の首班たる天皇として、臣下に如何動く()きか諮った。魔縁群が味方であると知っているのは、この時点では千種忠顕と悪党即ち反鎌倉の武力保有者のみで、他の者は依然として朝廷の軍事力は弱小であると考えていた。魔縁群が味方だと知らない多数派の1人で、政権内でも有力者の吉田定房は、『この件の解決には実力がいるが、朝廷には軍事力が無いので鎌倉にこそ対処してほしい』との旨を、鎌倉が無視できない程に恭しい物言いで投げ返すという策を提案し、そして多くが賛成した。後醍醐もこれに賛成した。ついでに後醍醐は、この時点ではもう既に鎌倉を潰すつもりになっていたので、魔縁群のいないところから朝廷に直接陳情が来たと云って無駄に各地を転戦させ、鎌倉への信望やその実力の浪費を図ることにした。

 朝廷に投げた筈の球が帰ってきたことや、陳情が恫喝じみたものになってきたことから、鎌倉は漸く腰を上げた。其處で初めて話を詳細に聞いたところ、魔縁群の存在を確認する。魔縁群を悪党集団の一つ「蒙古虫(もうこむし)」との仮称を与え、討伐対象に認定した。名前の由来は、残虐行為をしている点が元寇の蒙古らと共通していること、魔縁群の防具が昆虫などの節足動物のようであること、正体不明の頭目が『自分こそ神仏に特別な加護を与えられている』と云っており、これを嘗ての常世神(とこよのかみ)信仰のように破却し、鎌倉の威光を一層輝かせたいと考えたからである。又、鎌倉軍事政権腐朽担当の魔縁が、長崎円喜、高資父子に対して然うするように働き掛けた、というのもある。


 但し、幕府は立ち上がった後、特に何か新しい事はできなかった。

 神領興行(しんりょうこうぎょう)(ほう)の効果範囲を拡張しただけだった。


 幕府は元寇の後、3度目の来寇に備えて防衛体制の確立を急いだ。

 兵員を確保するべく守護や地頭、御家人に対し、所領に応じた軍役を果たさせようとした。しかし、従来的な武家は貨幣経済が浸透するに連れて困窮するようになり、与えられた所領を借金の形に手放していた。軍役(ぐんやく)を果たせる状態ではなかったのだ。また兵員を輸送する為の船だが、こちらの船を用いる者達、即ち水運や漁撈に従事する者達の中には、朝廷や寺社に属する、或いは属してきたので、簡単には幕府に膝を屈さなかった。そこで幕府は、商人や商業的武士団などが御家人から適法行為で集めた土地を取り上げ、元の持ち主に返すことにした。これが皇紀1957年の「永仁の徳政令」だが、当然商人達は納得しない。御家人と物品の売買を避けたがるようになり、御家人は一層困窮して鎌倉幕府への不満は強まった。更に恩賞だけでなく訴訟も停滞し、社会不安が広がる中、各地では悪党と呼ばれる武装集団が荘園を侵略するようになり、幕府の支配は揺らいでいった。

 或る時幕府は、神仏の力に(すが)って次の元寇を乗り越えようと考え付いた。寺社に夷狄戎蛮(いてきじゅうばん)調伏(ちょうぶく)を依頼し、霊験(れいげん)が現れた場合には寺社が嘗て持っていた荘園を恩賞として与える政策を行ったのだ。神仏の所領を正しい持ち主に返し再興するという意味で、「神領興行」と呼んだ。一見無法な行為だが、この神領興行は徳政の一つとされた。

 武装商人や商業的武士団が神領興行の下で行われる強奪に反発し、自力で所領や船を守ろうとした。幕府はそれを、神仏に反する謀反人として「悪党」と呼び、武力によって鎮圧するようになった。斯うして悪党を叩いて守護や地頭、御家人の所領と信望を取り返し、強き(Make)鎌倉軍事政権(Shogunate)を取り(Great)戻そう(Again)としたのである。


 鎌倉は、魔縁群を潰そうにも、何処から手を付ければ良いのかわからなかった。

 その影は、夜闇に潜むどころか最早堂々と太陽の下にさえも現れており、努めて探そうとせずとも発見できる程度には数多くあった。ただ、その黒色はあまりに濃く、且つ巨大である。尊栄村民や尊栄の裏の顔を知る信奉者、魔縁群構成員の上下誰もが口を堅く閉じていた。それに尊栄は、魔縁群を結成した時の八衢天狗の一党や盟友である宗盛国(そうもりくに)菊池武時(きくちたけとき)、松浦水軍の一部にしか「尊栄」を名乗っていないし、古くからの尊栄村民には「(ぼん)」や「若旦那(わかだんな)」と呼ばれていた。その上、「(おさ)」や「御仁(ごじん)」等、呼び名が幾何級数的に増殖していた。「尊栄」に辿り着くには、北海道に強襲上陸して要塞と1万の兵士を破り、その末に八衢天狗らを捕らえて拷問するか、真反対の沖縄にある議会を襲撃するくらいしかないのだ。

 尤も、八衢天狗は裏切らないし、裏切れない。何せ息子である隠仁(おに)の妻が、尊栄の養女にして後伏見天皇の第六皇女・祝呼(のりこ)であり、息子と自分、この嫁、嫁の養父との仲の良さを考えると、裏切ろうとすれば息子は間違い無く察知し、激憤し、殺しに来ると確信していたのだ。出来息子に殺されるならそれはそれで良いのだが、嫁は可愛いし主君のことは大好きだ。叛く位なら、内臓を引き摺り出して自決する覚悟であった。勿論、引き摺り出す内臓とは敵のものだ。

 苛烈さで云えば、沖縄も然うだ。常任議員達は、自由な商売を邪魔するのであれば、鎌倉であろうと殺す気でいた。

 加えて、魔縁群の影響下に置かれていただけの者は、(そも)魔縁群の仔細さえ知らされていなかった。精々「嘗て無く大きな組織」程度にしか捉えられていなかった。


 ついぞ鎌倉は、魔縁群に対して討伐軍を差し向けることはなかった。

 魔縁群が巨大である以上、自壊し始めたらそれに乗じて攻撃を仕掛ければ良いと考えを改めたのだ。それに、この頃から長崎円喜、高資親子が、出家した執権北条高時の後継を巡って安達氏と対立し始め、政権内の亀裂が分断に発展しかけていた。高々一悪党なぞに割ける手間や時間はなかったのだ。それ故に神領興行法を適用しただけで済ませたのだが、政権内の分断は九州にも伝わっていたらしく、尊栄はこれを、『幕府は軍事政権であるというのに、宛ら朝廷貴族のように御上品にも権力闘争に勤しんでいるようだ』と嗤笑した。当の魔縁群が、忠勤を励む者達を次々と得ている一方で、である。勿論、鎌倉腐朽担当には、長崎父子を引き続き支援させている。



 悪党集団「蒙古虫」は、現・青森県に進入した。

 十三湊強奪決行日の17日前のことである。尊栄は、天台宗を布教しに来た坊主の振りをしてそれとなく話を聞いて回ったり、或いは適当な武士を捕まえては拷問したりして、どこから襲撃すべきかなどの情報を集めた。得られた情報によると、北条高時によって蝦夷代官を外された安藤季長は、その裁定を不服に思って西浜折曾(にしはまおりその)(せき )(現・青森県深浦町)に城郭を築き始め、対抗するように季久も外浜内末部(そとはまうちまっぺ)(現・青森市内真部)に要塞を造り始めたことがわかった。一触即発の状況で、尊栄は両方を襲撃し、互いに猜疑心を持っていることや武士という矜持を傷付けて武力衝突させることにした。

 それぞれの郎従を襲撃し、先般拷問した武士らと合わせて展示したり、或いは季長と季久に近い者に催吐剤と便秘薬を同時に盛って()()()()()させたり、寺社を燃やしたりすると、忽ち苛烈な紛争へと発展した。尊栄ら十三湊強襲部隊は、その紛争を横目に、せっせと百姓を拉致しては水戦部に引き渡していた。ついでに、周辺の悪党を威名で以て配下に組み込んだ。


 決行日、八衢天狗らによる大砲や石弓機械(Ballista)の釣瓶撃ちから戦闘は始まった。

 季長らも季久らも混乱した。安藤氏が領有している筈の蝦夷地改め北海道から、それも見たことのない大型船が急に現れ、見たことのない兵器で攻撃されたのだ。同時に、十三湊強襲部隊は、優先して襲撃すべきところ、例えば武器庫に火を放つなどもしていた。混乱に陥った安藤氏らを突き、安藤季長と季久及びその近臣を皆殺しにした。互いに消耗し合っていたので、尊栄曰く、掃いて角に集めた塵芥を回収するよりも容易なことであったらしい。

 それからは隠岐の時のように、魔縁群の中から似ている者を季長、季久として十三湊を乗っ取った。また、魔縁群及び尊栄村民と十三湊に元からいた住民を少しずつ入れ替えたり、駐十三湊魔縁群を臨時に編成したりして支配率を高めることにした。駐十三湊魔縁群における最高指揮権を尊栄から委任されたのは、当然大略僉議に属する者で、名は魘魅(えんみ)夜叉(やしゃ)と云う。

 但し、安藤氏の内紛が激化したことは鎌倉にも伝わっており、まもなく鎮圧に工藤(くどう)貞祐(さだすけ)を派遣してきた。尊栄らはこれを悉く殺害し、駐十三湊魔縁群に命じて少しずつ南方へと勢力を浸透させていった。それ故にこの十三湊強襲を、後述する嘉暦戦争の始まりと捉える向きもある。

 尊栄はこの後、北海道、京、沖縄を渡り鳥のように移動する忙しい日々を始めた。



 年が明けて皇紀1987年(嘉暦2年)、鎌倉軍事政権では、貞祐らの勢を送ってまもなく半年となるのに、未だに音沙汰無く、誰1人として帰って来ないことを不審に感じる声が続々と上がっていた。


 しかし、未だ政権最高権力者である長崎円喜、高資父子は、貞祐らのこと以上に土地訴訟や未だ続く元寇での恩賞付与に熱心だった。以前より長崎父子は、弱小御家人からの支持を集めて紐帯を太くし、彼らと父子の間にいる有力者を上下から圧殺しようとしていた。そしてこれが、中々上手く行っていた。長崎父子は、弱小武士に対して土地から舶来の文物へと興味を移らせ、それを与えて従えていった。「遥々天竺と唐土を巡り、遂に日本は関東へ渡来した」と(うそぶ)き、磁器や漢籍(かんせき)を贈って心を捕えたのだ。そして、それを続けるのに必死だった。

 これを鎌倉軍事政権の有力者は文弱(ぶんじゃく)として鼻で笑っていたが、北条高時の次の執権として実子邦時を推した長崎父子が、弟の泰家を推す安達氏と対立するも鎧袖一触で勝ったことで、その威権を脅威に思うようになっていった。特に宇都宮高貞と小田高知は、邦時を脅して迄貞祐らを迎えに行く許可を得て、長崎父子の返答を聞かずに出発した。寝耳に水であった父子は、「執権風情、いつでも挿げ替えられる」と主張するべく邦時を事も無げに退任させ、同時に安達氏らへの配慮も兼ねて赤橋守時を就任させた。又、権威は権威を重んじるように、長崎父子は朝廷に献金して改元を求めた。理由としては、皇紀1984年頃から感染症の流行や地震が断続的に起きているからであった。



 ところで後醍醐は、尊栄に出会って影響を受けるようになってから、何に就いても妙に冷めた見方をしていた。


 元号に就いてもそうだ。

 生まれと育ち、天皇という立場故に、元号が天皇に依る時空間支配を端的に象徴するものと理解していたが、頻繁に改元したことはその品位を貶めた、()てて(くわ)えて尊栄が云うように歴史として学ぶ時に元号の順番を知らないと学ぶのが難しくなる等、使い勝手に問題があると認識していた。しかもその尊栄らの観測により、1太陽年が365.2425日であるとわかったことや、尊栄の「皇紀」の発案があり、改元よりも改暦をした方が良いと考え始めた。

 今回の改元理由だが、当時の人間は、疫病の流行や地震の発生を政治家の不徳と考える向きがあった。後醍醐政権と朝廷直轄領では感染症予防や政治が上手く行っており、後醍醐政権からすれば、鎌倉軍事政権や各地の為政者の政治指導力に対する疑念が高まっただけなのだが、その鎌倉から改元を求められた。しかも、金銭という形式で実力を見せ付けてきた。後醍醐は、高々人間1人で地震を起こせる訳がないし、鎌倉の不徳が何故改元に繫がるのか理解できないと不満に思っていた。それにその金は、魔縁群が味方であると知る者には、後醍醐の庶長子の元で人民が稼いだものであるから、何ら脅威を感じていなかった。廻り廻って帰ってきただけではないか、と。尤も、後醍醐と近臣による魔縁群を通じた対鎌倉政策と知らない者には、長崎父子、元へ鎌倉の実力を恐ろしく感じさせた。その恐怖を察知した後醍醐は、仕方無しに改元し、世間にはより良い政治を行うべく一層努力するので協力してほしいと訴え掛けることにした。

 しかし、後醍醐はしぶとさを獲得していた。鎌倉支配下の民心を慰撫して引き寄せる好機であると考えたのだ。献金の一部を貯蓄に回したが、残り全部に就いては、長崎父子に許可を得て五畿内の貧民向けに炊き出したり、雨風を凌げるよう長屋を作ったり、或いは石鹸等の洗浄剤を買い与えたり、将又(はたまた)救恤(きゅうじゅつ)(きん)として少額だが渡したりもした。加えて尊栄が、魔縁群を通じて数多の流言蜚語(りゅうげんひご)を溺死してしまいそうな程に厖大(ぼうだい)諧謔(Humour)で押し流した。無論、鎌倉への流言蜚語を流すことも日々惜しまず行っている。



 その頃、宇都宮高貞と小田高知は、駐十三湊魔縁群によって文字通り腹を割られていた。


 今更のことであるが、魔縁群はこの時、如何に高名な武者と雖も砲弾を直接人体に当てられては「(ジン)」と「(タイ)」に分断されると思い知った。或いは「人」どころか「ノ」と「\」に、「体」どころか「ノ」、「I」、「一」、「I」、「ノ」、「\」、「一」に飛散すると理解した者もいたかもしれない。

 そして、火力の前では高々『猛者として有名である』程度では糞の役にも立たないこと、火力を用いるのに老若男女や貴賤の区別は不要であり、目標を狙う技術が未熟でも物量がそれを補い得ることも思い知った。この新常識は嘉暦戦争を通して各地の魔縁群に受け入れられる。後に国軍を建軍すると一層広く受容され、軍の運用に於ける基本思想となっていった。




 同年3月、鎌倉転覆計画が発覚した。

 この事件から始まる戦乱を「嘉暦戦争」と云う。


 後醍醐天皇は、数年前に日野資朝と同族の日野俊基を密談に加えており、彼らは度々反鎌倉勢力を募るべく全国各地へ説得の旅に出ていた。

 彼らは、中世の武士は気に食わないなら誰でも殺そうとする者であるから、武士らが鎌倉に対して元寇以来持つ不満を利用せんと考えていた。概ね上手く行っていたが、その内の誰かが鎌倉に通報した。資朝と俊基は、鎌倉が後醍醐に怒りや恐怖を抱いて攻撃することのないよう、銭で下人を雇い、これを使って鎌倉を撹乱しようとした。しかしこれは、倒幕を企てた末に失敗したことになり、結局のところ後醍醐迄も疑われてしまった。その上、朝廷の直轄領でない地域や魔縁群の影響力が及ばない土地では、後醍醐に依る謀反、それも失敗だと考えられた。


 最初に鎌倉が反応した。

 激烈な反応を見せた。執権である赤橋守時、元へ北条守時が長崎円喜、高資父子を通じて後醍醐を捕縛するよう六波羅探題に命じた。そして皇位を持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)(後の光厳天皇)に挿げ替える()く、脅迫してでも引き摺り出すよう厳命した。後醍醐は、敢えて抵抗せずに捕まった。

 後醍醐は隠岐へと配流される前、在京魔縁群や天台宗を通じて満天下に、



天佑(てんゆう)を保有し大日本國の皇祚(こうそ)()める朕、後醍醐天皇尊治(たかはる)は、(ここ)に鐮倉の府との(いくさ)(せん)す。朕は、第百八世天臺(てんだい)座主(ざす)尊榮(そんえい)鎭守府將軍(ちんじゅふしょうぐん)に任ず。尊榮は忠誠勇武に無双で、朕の落胤なり。また、尊榮には北嶺宮家(ほくれいのみやけ)を草創し、(ひろ)(よし)(おう)()()る事を命ず。朕は、朕が文武百官(ぶんぶひゃっかん)には王事(おうじ)勵精(れいせい)奉行(ほうこう)し、朕が有衆(ゆうしゅう)は各々其の本分を()くし、聖戰を遺算(いさん)()く成し遂げんことを期す』

(天の特別な加護の下にある大日本國の天皇たる私、後醍醐天皇尊治は、この場で鎌倉軍事政権に宣戦布告することにいたしました。私は、第108世天台座主である尊栄を鎮守府将軍に任命いたします。尊栄は、比較の対象がいない程に忠実で誠実で勇敢且つ強く、私の実子でもあります。また、尊栄には北嶺宮家を創設し、今後は啓良王を名告ることを命じます。私は、公家と武家の全ての者が天皇家の事業に精を出して取り組み、その他の臣民はそれぞれの務めを尽くすことで、聖戦を手落ち無く達成することを望みます)



 と号令した。

 勿論、この隠岐は魔縁群の領するところであるから、後醍醐を流しに来た鎌倉側の護衛は上陸と同時に殺戮された。後醍醐は、隠岐の魔縁群に『お願いする』という形で十三湊に移動し、其處から駐十三湊魔縁群と共に漸々(ぜんぜん)たる南下を進めていった。後醍醐は、当初は各地の御家人や有力者に鎌倉軍事政権転覆の令旨(りょうじ)を送ろうとしたが、鎌倉から厖大な御家人という負債を引き継ぐことを厭うた。それを察した駐十三湊魔縁群の最高指揮権委任者である魘魅夜叉は、後醍醐に『彼ら彼女らには事故死してもらう』ことを提案し、これに決めた。


 尊栄、改め北嶺宮啓良王は、その時いた天草諸島から後醍醐に応え、



『余は北嶺宮啓良王、(かしこ)くも大日本國長者たる後醍醐の庶長子にして、誉れ高いことに天皇家の臣なり。この度、優渥(ゆうあく)なる勅語(ちょくご)と共に鈇鉞(ふえつ)を賜り、誠に恐懼(きょうく)感激(かんげき)し奉る。(さて)乃公(だいこう)は臣道を歩みて、日月(じつげつ)のようなる御稜威(みいつ)を輝かすべく、鎌倉の府を討ち果たさん。府は君臣の義を存ず可きにこれ迄の沙汰に及ぶ事、(みことのり)()けては必ず謹むべけれどもそれをせず、(あまつさ)超涯(ちょうがい)皇沢(こうたく)に誇りて天皇を踏み越えんとする。斯くなる僭上(せんじょう)無礼(ぶれい)の咎、是を見て(のが)(ことわり)は無し。乃公、皇御国(すめらみくに)の天壌無窮に海晏河清(かいあんかせい)を齎す聖業を扶翼する可く、大日本国天皇と青人草の御為に大魔縁と成りても、無道(ぶどう)の者共一切を誅し合切の不義を(しりぞ)けんことを誓う』

(私は北嶺宮啓良王、畏れ多いことに大日本國の天皇である後醍醐天皇の庶長子で、名誉である天皇家の臣である。この度、(後醍醐には)御心遣い厚き御言葉に加えて(戦争の)正当性をいただきまして、心からお礼申し上げます。さて、俺様は臣下として守るべき道を行くことで、太陽や月の如き天皇陛下の御威光を輝かせるため、鎌倉軍事政権を誅殺することにした。鎌倉は天皇と臣民の間にある義の徳を(わきま)えるべきであるのに、これまでしてきたことは何だ、天皇から命令されたならば必ず謹んで従わねばならないのにせず、それどころかその身に過ぎる天皇陛下からの恩寵を以て天皇陛下を踏み台にしようとする。このような身分を弁えない無礼という罪科(つみとが)を見過ごす道理はない。俺様は皇国を、天地が続く限り平和を維持するという天皇陛下の事業を補佐するべく、君民のために魔神に変化してでも道を踏み外した者全てを誅殺し、不義を排除することを誓う)



 日本全土に声を上げた。

 これを合図に、日本に遍在し潜伏していた闇が、太陽の下に這い出たのだ。闇は、時に遊芸者の形態を模倣し、敵に近寄っては眼球を脳に押し込んで掻き混ぜた。或いは車借の真似をし、荷台に載せた大砲で肉薄砲撃をして、又次の行動場所に移る、これを繰り返した。こういった暗殺が終戦まで続いた。多い日には40件を超す地域もあった程だ。


 また、この時、魔縁群を『救世軍』と改称した。以後、魔縁群は反鎌倉勢力を吸収し、或いは他勢力と連合するが、ここではこれらの勢力を纏めて救世軍とする。



 さて、天草で挙兵した啓良王は、その場にいた菊池武時(きくちたけとき)らを巻き込んで鎮西探題に攻め入り、これを絶滅した。


 巻き込んだとは云うものの、武時は予而(かねて)より鎮西探題を職場環境や負担面から好まず、口論とまでは行かないにしても皮肉の応酬を度々行っていた。

 そこに来て王から誘われた。そのことは武時に自尊心を満たした上、彼にとっての気に入らない連中を斃す正当性を与えられたのだ。武時は、王の進攻に嬉嬉として従い、郎党を率いて博多の鎮西探題館(現・太宰府博多区)に赴いた。

 そしてその際、王の強さを目の当たりにした。王が手ずから──この場合は手力(てぢから)だろうか──門番を皆殺しにして押し入ると、大屠弦姫(おおほふりのつるひめ)を引いて矢を放つ。探題館には、啓良王を始末する可く軍議を行っていた鎮西探題の北条英時(ほうじょうひでとき)、その養子の高政(たかまさ)がおり、放たれた矢は彼らの胸部と背後の壁を粉砕した。


 こんな話がある。

 鎌倉軍事政権は第4代征夷大将軍の九条頼経(くじょうよりつね)が、兄の二条良実(にじょうよしざね)の邸を訪ねた折のことである。飼っていた鳩が籠から逃げ出したのだが、それを供侍の結城朝村(ゆうきともむら)に命じて、鳩を傷付けないように矢で撃ち落とさせた。また、源為朝(みなもとのためとも)は弓矢で軍船を轟沈させた。王は、古い時代の和船相手の功績だと考えたが、(そも)鎌倉時代の武士は弓馬の道を重要視し、しかも大鎧の纔かな隙間にある強靭な肉体を狙う必要があった。そのため、無傷の部分は誇張であっても命中させる技術はそれと同等以上にあった筈であるとも判断した。

 それは即ち、鍛えればその程度は可能だと過去が証明していたことになる。


 生きる限り体が鍛えられてしまう体質の啓良王は、この時、並々ならざる集中をし、伝説を超えた。

 又王は、弱者が敵を斃すには、絶えず体を鍛えて技術を習得しようとするものだが、生来の強者即ち己にそれは不用だと確信していた。何しろ王は、手加減の練習をした程だ。普通の拳打一発が殺人拳となるので、殺人技なんて覚える必要は無い。全ての単純な暴力が、人を殺せる威力なのだ。


 王が放った3本の矢は、探題館本館を解体するに至った。


 結果として武時らは生き残りを始末するばかりになったが、王は彼らひとりひとりを労ると、武時に対しては或ることを頼んだ。

 それは、此處博多に『九州評議会』を設置するので、常任議員の1人として九州全体の行政に携わってほしい、というものだ。それを、先帝の後醍醐の子にして鎮守府将軍たる啓良王でなく、友人としてお願いしたのだ。要するに、他にも同格の者がいるにしても、九州に於ける最高指導部に座るよう云い渡された訳であり、武時は喜んでこれを受けた。武時は、但し九州島には他にも有力者がいるので、それを不安視していると腹蔵無く伝えた。一方の王は、武時がその連中を常任議員として巻き込み、それを王が認めるという形式にすれば、武時への恩ができ、領地に対する安全保障をできると述べた。又王は、武時らに手を出した場合、鎌倉同様に朝敵認定して破壊してやると親分気質を見せた。武時は安堵し、それからは沼のように他の有力者を九州評議会に引き摺り込んでいった。

 斯くして九州評議会が誕生し、以後、嘉暦戦争が終わるまでは九州域内の政治や鎌倉側残党の処分を淡々と行った。



 菊池武時が懸念したこと、即ち九州島で大勢力を誇る勢力は当然他にもいたということだが、彼ら彼女らは、鎮西探題が消滅するといそいそと後醍醐側に付いた。(そも)多くの武士は、『天皇』が任命した『征夷大将軍』を戴いているので、その部下である『執権』や『探題』に従っている、即ち大本の権威や家格には敬意を払いつつも、中間管理職には渋々従っているだけだ。それが消えてすっきりしたというのが本音だった。


 ただ、この九州島、元へ九州における勢力は、その重石である鎮西探題が消えただけでは、それぞれが勢力を伸張しようとする、謂わば日本版戦国時代に発展する可能性があった。

 しかし、例えば少弐貞経であれば、宗盛国の主君であるので盛国からの説得があって軽挙妄動を謹んだ。大友氏に就いては、王自ら書いた手紙を受け取ったが従わず、そうこうしていると鎮西探題が消滅しており、それから動いてはばつが悪いとのことで軽率な行動はすまいと自重した。阿蘇大宮司である阿蘇惟時に就いては、王からは関わらないよう努めた。宗教が発言力を持っては始末が面倒だと考えていたからだ。島津に就いては、沖縄に常任議員を置く際、縁深い藤原氏らを通して味方するとの手紙を受け取っていた。

 何より、中世の人間の感性が、如何にも文明化以前らしい素朴さだったのが効いた。即ち、強い者をその強さ故に恐れ、その強さ故に従うのだ。この場合は、総勢300に満たない少数で鎮西探題を消したという異常な強さに恐怖し、服従するのを選んだということだ。武士の『ナメられたら殺す』というのは、安易に他者を侮辱しては命の危機に瀕し、それで落命しては経済合理的に考えて勿体無いという考えから来るものであった。そのような態度を見せることで悪くはない関係を保ち、もし一線を越えれば何方か或いは両家に死者が出るという相互確証破壊として機能していたのだ。


 啓良王は、戦後に法治主義を布くことを勘案(かんあん)していた。

 しかし、安易に他者の命を奪えなくなれば、法律を傘にして人は無礼な振る舞いになるとも考えていた。植民地支配なんかは、文明人──或いは自意識──故に為した蛮行であろう。

 さて、王は九州が静謐な理由を察して、それを参考に腹案を発展させていった。野蛮さ故の礼儀正しさを保つ方法としては、例えば帯刀を推奨したり、些細なことでも死刑にしたりするなど、であった。


 尚、啓良王が鎮西探題を襲撃してから終戦、それどころか死没するまでの期間を殆ど半裸で過ごした。

 この時は巻纓冠(けんえいかん)指貫籠手(さしぬきごて)(ふんどし)(すね)()てのみであった。

 冠は、頭に(かぶ)る部分と、巾子(こじ)と云う(まげ)を納める部分、そして(えい)と云う背中側へと垂らす長細い薄布から成る。巻纓冠は武官の冠で、この纓を内巻きにして留めている。又、武官のみの付属品として(おいかけ)と云う通常、馬の毛を刷毛状に束ねて扇形に開く飾りがある。王の冠は、狼の頭にダルマにした子猿を縫い付け、緌に人の手を用いた。

 指貫籠手は籠手の一で、左右の家地が繫がっており、手首辺りで紐を括って固定する。見た目としては所謂ボレロのようなものである。

 褌と臑当てには鞣した熊の皮革を用いた。

 王にとっては刀も矢も、当たるその瞬間に筋肉を弛緩及び収縮させれば、表皮を少々削られるが弾き返せるものでしかなかった。それ故に、動きやすい格好を求めていった結果、このように、貧しい野武士でももっとマシで文明的な格好をするだろうという姿に行き着いた。それが死没するまで続いたのは、単に暗殺を警戒してのことであった。ただ、その姿は、より軽装の指貫籠手と褌のみになったのだが。



 鎮西探題の粉砕を以て日本中に威名を轟かせると、赤馬関(現・山口県下関市)に上陸した。

 中国地方では、長門探題の北条時直が鎮西探題の救援に向かおうとするもその鎮西探題が滅んだので、取り急ぎ長門探題館(現・山口県下関市)の防備を固めんとしていたところ、四国から魔縁群、元へ救世軍らが攻め込んできた。長門探題は、この対応に取り組んでいる最中であった。

 四国の救世軍は、反鎌倉側に立って蜂起した在地の有力者である祝安親(はふりやすちか)土居通増(どいみちます)得能通綱(とくのうみちつな)忽那重清(くつなしげきよ)らと連携し、さっさと四国から鎌倉軍事政権の影響を滅ぼした。元々四国に就いては、啓良王が救世軍に相手の弱みを握ったなら、相手の足どころか足下を掬えと、即ち土地を奪っていけと指令を与えており、それ故に迅速に事が運んだのだ。それから、彼らと協力して中国地方沿岸部に強襲上陸していった。武士は大集団だったことから、逃げも隠れもできないので正面から攻撃を仕掛け、一方の救世軍は少数或いは単独行動が基本だったので、分散して山陽各地に染み込み、横腹を突こうとしていた。


 そして、その時直らの後背を王が単騎で突き、これまた弓矢で一撃して粉砕した。


 誉れは浜で死んだかのような斬首作戦は成功し、長門探題の残兵に混乱と恐慌を巻き起こした。

 四国の救世軍と合流した王は、その混乱に乗じて急遽戦闘集団を組織し、勧降しながら討滅していき、長門探題を過去のものとした。その降兵や祝らの中から志願した者に就いては、自ら親率する救世軍に組み込んで進軍した。



 後醍醐による鎌倉転覆の宣言からここまで、未だ1ヶ月に満たなかった。


 鎌倉軍事政権及び六波羅探題の動きは、徐々に活発化してきたものの依然として鈍いところがあった。

 先ず六波羅探題だが、こちらは魔縁群と悪党による妨害に悩まされながらも、鎌倉軍事政権からの命令で量仁親王を天皇に即位させていた。

 ただ、持明院統は大覚寺統と合流する気になっており、その交渉役に当たっていた啓良王を気に入っていた。即位に就いては、後醍醐父子の今までの好意を蔑ろにするようで気が引けており、体調不良等を理由に延期してきた。無論、それにも限界が来るが、隠岐に配流された後醍醐が太上天皇と名告って十三湊に現れたり、啓良王が九州を制圧したりしたので、量仁親王は鎌倉側に協力する振りをして即位した其處で初めて六波羅探題は、戦力を軍集団として動員できる余裕が生まれたのだ。六波羅探題は、五畿内で反鎌倉暴動が起きればそれを鎮圧する心算であったが、中四国や九州に就いては如何するか、これを鎌倉軍事政権に訊ねようと使者を出していた。その使者は鎌倉には行かず、水族の餌となったが。


 鎌倉軍事政権は、議論を過熱させていた。

 日野資朝及び俊基を鎌倉で斬首した後、後醍醐上皇が現れたと云う十三湊に軍勢を送って殺害するか、今上がいて人口的経済的にも中心の京に大軍勢を送って掌握し、反攻するかの議論である。

 前者に就いて、先ず反対意見が出た。廃したと雖も後醍醐は天皇経験者であり、これを斃すことがあっては、格からしてその下の存在である鎌倉も潰されて当然の存在に成り果てる、というものだった。反対意見に対する反論や指摘、詰まるところ賛成意見として、大勢力として結集されては厄介なので後醍醐は必ず斃すべきで、殺害したら後醍醐を名告る不届き者だったとすれば問題ではなくなる、というものがあった。それに更に反対する意見も出て紛糾したのだ。

 後者は賛成者が多数いた。今上という権威を確保して戦争に正当性を得て、敵に対しては帰参を許すという形式で勧降することにした。後醍醐に就いては、今上から朝敵として認定してもらい、それまでは複数の防衛線を構築して防戦に専念することにした。

 そのように決定し、鎌倉から六波羅探題へと使者を出した。しかしこちらもまた、使者は全身から海藻を生やし、骨を微生物達の生態系にするという虎に肉体を与えた仏陀のように慈悲深い善行を積むことになった。


 互いに使者を送れず、又迎えられずやきもきしている頃、九州どころか中四国も落ちた。

 長崎父子は、以前、後醍醐に改元費用を送ったことで繫がったのではないかと睨まれるようになった。その為、渋々西征を担当し、一方で、後醍醐との関係性が殆ど無く、遠慮無く殺害し得る北条守時や安達氏らは北方へ向かうこととした。



 鎌倉側が慌ただしく動いている時、各地の救世軍も当然動いていた。


 先述したように、魔縁群改め救世軍は、身分を偽ったり通りすがる際に砲撃したりして、鎌倉側に属する者を少しずつ消していった。また、昔日に鎌倉転覆への協力を約束させた公家や、名和長年や楠木正成のような散所(さんじょの)長者(ちょうじゃ)、寺社勢力やその他悪党と連合を作って事に当たっていた。

 それ故に反鎌倉の兵火は燎原(りょうげん)()よりも速く広く燃え広がり、南都では東大寺、北嶺では比叡山が挙兵した。尤も、寺社勢力は戦闘集団としては決して強くなく、兵を挙げ、囲まれると和睦するを繰り返して六波羅に消耗を強いた。啓良王の影響か、妙に血の気が多い護良親王と宗良親王は、比叡山を離れて楠木正成や湯浅宗藤(ゆあさむねふじ)らのいる救世軍に身を寄せ、紀伊半島から鎌倉側勢力を駆逐して回っていた。


 親王らを討伐するべく、六波羅探題が兵を動員したその時。

 啓良王らが六波羅探題館の後方を、軍事パレードでもするかのように鷹揚に進んでいた。王は救世軍だけでなく、途中で有力者の赤松則村(あかまつのりむら)ら赤松氏や、その赤松氏に圧迫されていた寺田法念(てらだほうねん)なんかも巻き込んで入京したのだ。

 更には近江の京極高氏も救世軍に回ると旗幟(きし)を鮮明にしたので、六波羅探題では『集団自決』という言葉が頻りに使われた。せめて武士らしく戦って死にたい、そしてあわよくば名のある首を取りたいと判断して王らを狙った。しかし、六波羅が『集団自決』論争を囀り終える頃には、王は海路で鎌倉を征かんと考えを改めて、淡路に向かっていた。六波羅は王を諦めて高氏を襲撃し、美事(みごと)勢力を半減させる程の痛手を負わせるという最期の輝きを見せて消滅した。消滅したというのは、京極が血腥い報復に出て、その上、救世軍と一般人が臨時収入を得るべく落ち武者狩りをしたからだ。


 ところで、王が海路鎌倉を攻めんとした理由だが、これは王が後醍醐から求められた、と勘違いしたからであった。

 父子は頻りに手紙を送り合っていたのだが、それは状況を報せることが主たる目的にあったからだ。又、後醍醐の方は、誰がどのような働きをしたか書き連ねた。後醍醐は戦後の恩賞に就いて考え始めていたのだ。更に、戦後に関連して、『伊勢海老の酒蒸しが美味であると聞いたので、機会があれば食べよう』と啓良王を誘っている。

 王はこれを勘違いした。

 後醍醐は普段、伊勢海老と云わず「鎌倉(かまくら)蝦魚(えび)」と呼んでいた。実際、後醍醐はこの戦時中に混乱を招く表現を避ける目的で別称の「伊勢海老」を用いたのだが、王はそれを『直接鎌倉を襲撃せよ』と読解した。「酒蒸し」の件では、魔縁群が蒸留酒の焼夷弾を多用していることから、『鎌倉に火を放て』との謎掛けであると判断した。



 啓良王が総勢2万の無頼と共に、海路、鎌倉へ向かっていた丁度その頃。


 鎌倉では、何故六波羅から使者が帰って来ないのか、裏切ったのではないかと疑い憤る声が大きくなっていた。

 (やが)てその声は、畿内の反鎌倉勢力を滅ぼし、ついでに六波羅も挿げ替えてしまえという考えに発展した。西征の準備で忙しい長崎円喜、高資父子は落ち着くよう各所を自ら回ったが、執権を替えられるなら六波羅探題程度替えられるだろうと脅され、抑え切れなくなった。しかも、それを北条守時自身が大勢の前で云ったので、強行案を推し進めるしかなくなった。ただ、この長崎父子、長年権力を握って運用していただけあって、父子を恨んだり嫌ったりする者にも父子の後方支援的な部分における能力を信用されていた。それ故に、長崎父子は鎌倉に押し込められて、事務仕事に専念させられた。

 さて、『後方支援()な部分における能力』という(くど)い表現をしたのは、(そも)武士が糧秣(りょうまつ)を獲得する手段は大抵掠奪であったからだ。極端な表現であるが、日本語で「8」が「数の多い様」を意味するのは、算数が普及し発達するまで、「1、2、3、多い、もっと多い、いっぱい!」という丼も自ら割れるような杜撰(ずさん)な勘定をしていたからで、戦争に際して最初から必要な物資の量を朧にしか考えられなかった。これには、遭遇戦が主だったからというのもあるが、鍛錬に明け暮れた武士の中には、算勘や文字の読み書きを犠牲にし、然ういったことを京から下った公家に任せ切りにする者さえいた、というのがある。そのため、魔縁群により数字に強くなっていた長崎父子は、現代の概念で云う『後方支援的な部分における能力』を評価されたのだ。

 但し、その父子も現地での掠奪を重要視していた。敵が屈服する迄荒らし続ければ民心は早々に離れるだろうし、それをしに行ったのは自分に従わない者達なので、敵対的な人員を多少は削減できるという部分がった。はっきりと云えば、敵諸共、自らに対して非友好的な勢力を死なせる目的での送出だった。それ故に事務仕事を懸命に、誠実に、丁寧に行ったのだ。


 因みに、啓良王は、鎌倉軍事政権腐朽担当の魔縁を、戦争開始直後から魔縁群に襲われたという体で少しずつ離脱させていた。この頃には、腐朽担当の最高指揮権委任者にして、直接長崎父子と話して思考を奪取したり吹入してきた魔縁だけが残っていた。



 長崎円喜、高資父子の過労によって、特段問題も起きずに西征と北方防衛戦が発動された。


 西征軍の総大将は北条守時自ら務めた。

 また、その一族である阿曾(あそ)大仏(おさらぎ)名越(なごえ)伊具(いぐ)赤橋(あかはし)を通して外様を、そしてその外様は御家人を、更には御家人が農民兵を指揮するという構成になっていた。外様及び御家人には、現在で云う関東地方と中部地方に住まう5分の3を動員した。総勢7万騎に上るが、長崎父子の潜在敵を少しでも削減したいという気持ちが犇犇(ひしひし)と伝わってくる。

 御家人も御家人で得られる御恩が少ないことは察しており、五畿内の富を力尽くで奪い、これを御恩として認めさせようと思い定めた。

 一方、北方防衛軍には、北条守時の子である北条益時を総大将に、前執権の北条高時とその子である邦時が補佐することになった。

 当然、その下には外様と御家人がおり、関東地方と中部地方に住まう5分の1を動員した。総勢は2万騎を優に超えた。



 単純な距離の問題で、駐十三湊魔縁群、元へ奥羽救世軍と鎌倉軍事政権北方防衛軍の戦闘が先に勃発した。

 後醍醐は、駐十三湊魔縁群を親率するようになって以来、補佐もあって奥羽を制しており、その後は自ら現地住民に対する宣撫に努めていた。そのため、何處(どこ)にどのような地形が広がっており、何が採れる、どのような気象現象が起きるなどを聞き出すことができていた。それを、後醍醐が嘗て朝廷で読んだ風土記の記述や、魔縁群の斥候が齎す情報と組み合わせて、日本史上初の立体地図を生み出すに至った。因果が逆なのであろうが、(さすが)は啓良王の父と云うべきか、終戦の時迄、侵攻しようとする鎌倉側の攻撃を巧みに耐え、或いは受け流していた。

 後醍醐は自ら落ち武者狩りを行う程で、隠岐への配流以来供奉している千種忠顕や花山院(かざんいん)師賢(もろかた)などに(しばしば)諌められていた。

 当の後醍醐は、獰猛な笑みを浮かべて、



()()()()()

(ヒりつくぜ)



 と返していたらしいが。



 啓良王と一部の戦闘員は、夜の海に着水して由比ヶ浜まで泳ぎ、静かに鎌倉の土を踏んだ。


 鎌倉腐朽担当の魔縁と長崎父子の蜜月関係によって、水戦部で使っている巡洋艇(うみまわるこぶね)を停める場所は存在したが、船上から鎌倉の様子を見た王は、焼滅するのを中止した。

 確かに、その繁栄する様を見れば灰燼に帰すに相応しいと思ったが、それにしては鎌倉の有力者が住まう屋敷が妙に静かに感じられた。王は、どうもそれなりの戦力が北か西にでも赴いたと気づき、鎌倉を奪取してからそれを打擲(ちょうちゃく)することにした。その為、焼夷弾を温存することにした。更には、門番を静かに殺害して屋敷に忍び込み、配下には長崎円喜と高資父子を、自らは征夷大将軍の守邦(もりくに)親王(しんのう)を捕縛した。そしてその儘、西征軍を滅ぼすことにした。

 彼らの妻子に就いても捕縛しており、此方は戦場へ連行せずに京の光厳天皇の元へと送った。巡洋艇1隻をそれに割り当て、残りは後醍醐の支援に回した。


 鎌倉は当時、難攻不落と称された。

 その理由は地形にあった。鎌倉の北側には山々が並び、南側には相模湾が広がっている。又陸路で鎌倉へ軍勢を送るには、山を掘鑿(くっさく)して作った名越(なごえ)朝夷奈(あさいな)巨福呂坂(こぶくろざか)亀ヶ谷(かめがや)化粧坂(けわいざか)大仏坂(だいぶつざか)極楽寺坂(ごくらくじざか)の7つの切通し(『鎌倉七口』)を突破するしかない。それ故に守るに易く、攻めるに難しいと考えられていた。

 しかし啓良王は、『敵を滅ぼすには兵刃を交えるよりも飢餓と感染症が経済的である』と考えており、切通しを逆に封鎖し、火を放ったり天然痘死者の死体を投げ込んだりすれば良いだけだとした。死体処理の際に酒を浴びせて燃やせば、酒蒸しということになるだろうとも考えていた。

 鎌倉の海は遠浅なので、実際に食料を取って武士に献上する民は此處から各地へ逃げるかもしれないが、それに就いては敵の民を我らの民にすれば良いだけなので問題でない。滅ぼす対象も逃げるかもしれないが、散り散りでなければ纏めて撃滅されるだけなので独り或いは少数名で逃げることになる。そして少数名では、民に落ち武者狩りの対象として殺害されて終わるだけだ。それでも心配であるなら、海も塞げば良いだけのことだ。人は、陸地の食べ物のみでも生きられるが、栄養面を考慮すると決して長生きできず、海の封鎖は敵の寿命を一層短くする。

 従って王は、鎌倉は寧ろ攻めやすく、この『難攻不落』とは鎌倉側が身を守るべく打ち出した政治的方便(Propaganda)と判断した。そして当の鎌倉も、自らの発した政治的方便に因って一隻眼を潰されたとも。但し王は、敵が二の足を踏むような虚言は必要であるとし、王の政権では数多の事実でないことや誇張した事実が用いられた。



 この当時、日本の火器は魔縁群の手元と尊栄村にしかない。

 その尊栄村の火器も、北海道と沖縄を除く全国から奥羽救世軍と畿内の救世軍の元に集められていた。


 畿内を劫略する心算だった西征軍は、救世軍が築いた付け城を攻略しようとしていた。

 六波羅探題消滅後、後醍醐のみならず光厳天皇も鎌倉を朝敵と見做し、これを征伐するよう詔を発した。救世軍の気力は横溢(おういつ)し、西征軍に対して城からの大砲や石弓機械による釣瓶撃ちを行っていたが、朝敵認定されたために却って自暴自棄の恐れ知らずになった北条守時は、その西征軍の圧倒的物量で何とか押さんとしていた。一進一退、或いは膠着状態にあった。



 3つの付け城が破られた頃、啓良王が200の手勢を率いて攻めてきた。


 そのような小勢、本来恐れるに足りない。

 しかし王は、恩賞を認めてくれる長崎父子と守邦親王を人質にしていた。王としては、彼らから聞き取った有用な人物を生かし、残余は破壊の対象として壊すことにしていたのだ。実際、長崎父子らの嘆願があった時には、気絶させたり、四肢を切断したりして動けなくし、それから手勢に渡していた。

 尤も、王は、基本的には殺戮や残虐行為に興じた。王は自らに立ち向かってきた武士の顔面を握ると、その儘指を骨にまで食い込ませ、頭部から引き剥がした。王が敵の兜を殴れば、敵は火花と血飛沫と脂を飛ばした。又王は、純然たる膂力(りょりょく)のみで敵の首を捩じ切っては蹴鞠をし、その鞠を蹴り飛ばし、受け取った者は股裂きし、受け取らなかった者は無礼であるとして次の鞠に生まれ変わらせた。

 但し、残虐行為ばかりでなく、大屠弦姫で軍勢を分断するなど、最早武士が信奉する源為朝を超えたとしか思えない御業を披露した。


 農兵に就いては能う限り攻撃せず、又、手勢にも攻撃させなかった。

 中世日本の農民と云うのは、倫理観から現代人にとっては匪賊と大した違いは無いが、それでも重要な労働力に変わりはなかったので、勧降し続けた。更には、王も長崎父子同様に御家人の多さを問題視しており、帰農するなら降伏を許すと云った。


 畿内の救世軍が王の猛攻に気付くと、意を決して打って出て、挟撃される形になった西征軍はついに降伏した。



 皇紀1989年10月、嘉暦戦争は終結した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ