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クソデカ日本、爆誕!!!  作者: シヴァいっぬ
中世
3/13

沖縄王

 (The )(Pacific)( Rim )(Empire)(The )八洲(Nipponese )地方(Birthplace)の中世史(沖縄王)






 文保2年1月1日(皇紀1978年2月2日)、数え15歳となった尊栄は、比叡山延暦寺に書き置きを残すと帆船に乗った。



 書き置きの内容は即ち、『琉球に天台の教えを広めに行く』というものだった。

 置き手紙の手跡()は、宛ら昇る龍のように勢いのあるもので、比叡山の者達は尊栄が篤い信心を持って衝動的に布教に出たのだと、おおよそそのような好意的な評価をした。



 尊栄の乗った帆船は、構造的な特徴として、鋭い突起状の衝角や、船尾には舵を挟むように外輪が挙げられる。

 単層の砲列甲板(Gun deck)には砲24門を備え付けることができ、設計図面では甲板長は約40m、乗員は最大250名程度、排水量は約1,000トン程度あったとされる。平時は砲門から(かい)を伸ばし、漕いで進んだ。後に国軍を建軍する際、巡洋艇(うみまわるこぶね)という艦種のモデルとしたので、ここでは巡洋艇と記す。尊栄は全部で3隻の巡洋艇を動員しており、1隻は武装を一切持たせず給糧艦(きゅうりょうかん)として用い、他2隻は戦闘を主たる目的としていた。


 給糧艦に乗載(じょうさい)した糧秣(りょうまつ)は半年分だった。

 内容としては、当然ながら飼料、そして乾餅(Hard Bread)、干し納豆、漬物、味噌、鰹節、塩増(Processed)乾酪( Cheese)、茶葉、蒸留酒があり、これらを桶や俵や(かます)に入れていた。食料ではないが、石鹸や消毒用の蒸留酒も積んでいた。

 乾餅(かんぺい)は尊栄が開発した、所謂パンである。小麦をメインに粟や稗、蕎麦を粉にし、これに甘酒を加えて捏ねた後、一晩寝かせて焼き上げる。甘酒は米麹の糖化液で、酵母が盛んに増殖して発酵する。パンは酵母が十分に存在した状態のものを上手く発酵させれば、焼き上げた時の風味は香ばしく、美味しくなるものだが、尊栄の開発した乾餅も風味良く、振気食(しんきしょく)即ち気を奮い立たせる食べ物として好まれた。

 干し納豆も尊栄が開発したもので、納豆に塩を振って乾燥させたものだ。

 漬物には大豆もやしや山の芋、椎茸など、様々な農作物を糠漬け或いは酢漬けにしたものを持ち込んだ。漬物を乗載させたのは単に尊栄個人の好みであったが、国軍建軍後や移民船団にも必須食料品として扱われた。そしてそれが良かった。大豆もやしや糠漬けなどはヴィタミンCが豊富で、壊血病予防に多大な功績が見られたのだ。

 味噌には豆味噌を用い、これを焼いて丸めたものを叺に包んだ。豆味噌はタンパク質が17パーセントあり、これは殆ど和牛のようなものである。尊栄はそれを何となく察していたようで、米味噌でも麦味噌でもなく豆味噌を選んだ。

 塩増(しおまし)乾酪(かんらく)は乾酪即ちチーズを溶かして塩を加えたもので、プロセスチーズに相当する。しかし、原料の乳自体がそれ程得られていなかったことや、多くの魔縁にとって全く未知で慣れない風味だったことから、専ら尊栄と八衢天狗の2人が何か企みをする時の肴に食べたという程度だった。

 茶葉は上陸時に煮出して、蒸留酒は船上での水分補給に用いた。尊栄は、茶を作る際の火を通すという作業を、衛生という意味で重視していた。当然ながら生水は危険であるからだが、尊栄はその飲水を禁ずるより、一度火を通したものを流行させることに意を用いた。それが茶と酒類だった。


 また給糧艦に乗載した以外にも、魔縁一人一人に少量ずつ、或いは小さくして食料を携行させていた。

 乾餅や干し納豆、漬物、蒸留酒、それと鰹節を持たせて、腰には芋の茎縄を巻かせた。

 鰹節は、それまでの堅魚(かたうお)という素干しを元に、尊栄が発展させた発酵食品である。尊栄は、物を噛む時には頭の回転が良くなると考えており、魔縁には削り節にしたものを噛ませた。これもまた味良く、振気食として好まれた。

 芋の茎縄は、里芋の(ずいき)を味噌で煮込んだ後に乾燥させ、帯状に編んだ物だ。

 食料以外では丸薬なんかも持たせていた。


 戦闘用の2隻には、船1隻につき1名の指揮官と150名の戦闘員、掠奪などで集めてきた甲冑、弓151張りと火矢4530本、小刀151振り、布切れ302本、撒菱(まきびし)1510個、投擲物1510個、石弓機械(Ballista)6門と弾180個とその予備の太縄やレール用ワックス、馬5頭と2ヶ月分の(まぐさ)、非電源ゲーム、釣り道具を乗載していた。

 魔縁個人個人が小刀と布切れを装備しており、その他は戦闘を開始するまで船内に置いていた。魔縁群の戦闘は踏み込んでの戦いで、常に主導権を確保するよう努めていた。それ故に平時は兵器や防具(魔縁群ではそれぞれ「戎器(じゅうき)」「戎衣(じゅうい)」と呼んだ)を置き、48名は2時間(正確に表現すると、尊栄が7200数える間)は櫂を漕ぐことに専念し、残りは非電源ゲームで気を紛らわせたり、馬の世話をしたり、将又(はたまた)釣りをしたりしていた。日が没すると船を停めて全員で釣りを数時間し、その後は就寝した。勿論、輪番制で見張りをした。

 投擲物は弾状の素焼きで、半分は粒状(Corning)火薬(かやく)を、半分は油脂と共に(ウルシ)(ハゼ)の木片を詰めている。城内に投げて火を放つことで有毒物質、謂わば弱めの毒ガスを出す。毒と云っても弱いものだが、実験段階で蚊や害獣除けに役立つことがわかり、未知の戦場には有益だとして持っていくことにした。

 石弓機械(いしゆみきかい)で用いる弾は丸い石弾、そして土を素焼きしたものだった。石弾は、発射時に得られた弾自身の運動エネルギーにより命中した物体にダメージを与えるというもので、謂わば運動エネルギー弾だ。素焼き弾は、半分は焼夷弾で、残り半分は飽く迄水弾きを目的として油を封じたものがある。焼夷弾の殆ど全部が蒸留酒を吸わせた布を詰め込んだもので、幾つかには軽質油であるナフサを詰めている。ナフサには、遠江国の相良で少量ながらも入手できた石油を使っている。




 さて、当時の琉球だが、後期旧石器時代、貝塚時代、グスク時代を経て三山(さんざん)鼎立(ていりつ)時代(じだい)だった。


 後期旧石器時代と貝塚時代は、土器出現以前と以後で分けている。


 グスク時代は皇紀17世紀後半に始まり、現・大八洲地方に先んじて現れた石垣を有する(グスク)が由来である。

 城主にして地方の有力者である按司(あじ)が、人々を組織化して種々の活動に従事するようになった。また居住地が海沿いからより内部に移動したことや、鉄器の使用や穀物栽培の開始も特徴とされる。奄美群島の硫黄島と喜界島は古くから日本朝廷の支配の南限で、平安時代には大宰府と強く連携して南方交易の拠点となっていたのだが、日本朝廷の支配が揺らいだ奄美では独自に海賊行為をするようになる。この海賊には高麗人もいたらしく、皇紀1657年には高麗政府と奄美海賊が連携して大宰府を襲撃するという事件が起きた。海賊の規模としては300人から400人もいたらしい。これらの海賊が皇紀1848年の源頼朝による遠征で琉球に逃れ、同地に土器文化や鉄器の技術、商人の交易ネットワークを伝えたと考えられている。


 唐土(もろこし)大元(だいげん)王朝(おうちょう)が興ると、琉球はその巨大な交易圏に組み込まれた。

 琉球に福建の白磁が流入し、その交易による収入で城を大型化した。その大元は安嘉大陸(Eurasia)だけでなく、ムスリム海洋商人を用いて東南アジアとの交易ネットワークをも広げた。少し遅れて琉球のネットワークも広がって収入がより増えるが、大元が後継者争いなどの内訌で混乱し始めた。更に琉球でも山北、中山、山南地域での関係が対立に発展したり、倭寇も活発化したりした。魔縁群が動き始めたのは、そんな時期になる。



 魔縁群は敦賀湾を出帆(しゅっぱん)すると、対馬暖流に逆らうようにして進んだ。

 しかし櫂や外輪、また尊栄自ら夥長(かちょう)即ち羅針盤を用いる航海士として航海を行ったので、当初予定よりも相当速く移動できた。他にも、尊栄は優れた視力や聴力で波の流れを感じ取り、それに積極的に乗るようにしていたのも理由である。

 航路としては、隠岐諸島、対馬、五島列島の福江島、天草諸島、甑島(こしきしま)列島(れっとう)、黒島、臥蛇島(がじゃじま)平島(たいらじま)、小宝島、宝島、上ノ根(かんのね)(じま)横当島(よこあてじま)に立ち寄って進んでいった。当初、寄港の目的は専ら食料品を買うためであったが、隠岐については自領に組み込んだ。

 具体的には、地頭の佐々木氏と配下に鎌倉から密命を受けてやって来たとして御所に集め、そこで悉く囚えた。また拷問して鎌倉軍事政権の情報を搾り取ると、その後は解体して魚の餌にした。尊栄は多めに魔縁を連れてきており、彼ら彼女らには鎌倉転覆まで佐々木氏らに成り代わらせた。隠岐の民に対しては、家督争いが激化しただけだと伝えた。

 この戦闘で、尊栄は特注の弓である大屠(おおほふり)弦姫(のつるひめ)を用いた。大屠弦姫は『(えびら)程の太さの弓、弓程の太さの矢、矢程の太さの弦』で構成される強弓で、その抵抗力は凄まじく専用の機械を大人数で用いて弓を張ったことから『20人張り』と伝わっている。一度矢を放てば舟も木造建築物も粉砕したと伝わっている。恐ろしいことにこれらは白髪三千丈ではなく、北嶺宮家に製造方法が伝わっていたことから皇紀26世紀後半の世界戦争では『対戦車用弓箭』として製造され、相当の戦果を挙げた程であった。



 対馬では、尊栄は地頭代の(そう)盛国(もりくに)と馬が合ったので、彼を口説き落として友好的な勢力とした。

 普段の盛国は拠点である筑前におり、代官として仁位(にい)宗香(そうこう)を派遣していた。盛国は、その宗香が圧制を布いていないか偶然見に来たのだ。そこで話すに連れて気が合ったという訳だ。

 盛国は北部九州に知り合いが多く、肥後の菊池氏と肥前の松浦水軍を紹介された。この頃の倭寇、元へ海商には九州を拠点とした集団が多く、琉球は宋や大元など唐土系国家と交易する際の中継拠点だった。そして対馬は、高麗とその背後にいる大元との交易拠点の一であった。商取引ばかりでなく、日本から大元、大元から日本へと僧が移動するなど文化的にも交流があり、日本と外国の狭間にある琉球や対馬は宛ら国際都市であった。その一方の地頭代を務めていた宗氏は、当然ながら顔が広かったという訳だ。実際に、盛国の代で宗氏として初めて高麗へ使節を送るなど、経済にも敏感なところがあった。

 尊栄は宗氏とそれらの勢力に、魔縁群が琉球を直轄する代わりとして好待遇を約束した。尊栄は事細かに内容を定めており、宗氏らはそれを信用できると判断し、その場で盟約を結んだ。

 魔縁群、宗氏・菊池氏・松浦水軍の一部から連合軍は組織された。ただ、宗氏、菊池氏、松浦水軍の舟は所謂和船で、平底で荒波に強くなく、遠洋航海に適さず陸の地形を頼りに航行していた。従って巡洋艇での航海にはその知見があまり役立たず、彼らの舟は巡洋艇に載せ、或いは曳航(えいこう)し、戦闘の際にはそれに移って接舷(せつげん)切り込みなどをするよう求めた。


 尚、天草諸島に寄港した時に、菊池武時と会って話したとされる。

 後に、魔縁群は武時らと共に鎮西探題や大友氏を粉砕することになるが、その強い縁はここで生まれたと云って良いだろう。


 そんな連合軍初の共同作戦は、甑島列島の乗っ取りだった。

 如何にも僧侶然とした尊栄独りが上陸し、統治者の小川氏のもとまで会いに行く。その間、魔縁群は船から密かに下り、少しずつ島々に浸透していく。宗氏・菊池氏・松浦水軍には巡洋艇の警護をさせた。尊栄は小川氏に傘下に入るよう説得するが、素性の分からない一僧侶に従う訳がないので、尊栄は挑発して刀を抜かせ、正当防衛として鏖殺した。そしてそれを合図に、魔縁群は各地の武士を撃滅していった。隠岐でもそうだったが、主家、即ち働き口がなくなったことから従う者もいたので、掌握自体は早く終わった。宗氏・菊池氏・松浦水軍は、その手際の良さや容赦の無さ、尊栄の用いた大屠弦姫という格の違う兵器に舌を巻き、以後魔縁群、そして尊栄との紐帯を強くしようとするようになった。


 甑島列島以降は領有しながらの航海を行ったが、魔縁と宗氏、菊池氏、松浦水軍には、尊栄が何故上ノ根島と横当島のような無人島を獲得し、更には領有を宣言したのか分からなかった。

 これらの島には枇榔(ビロウ)という樹木が生えていた。その葉は撥水性に富んでおり便利で、その材木は朝廷において尊重されていたのだ。尊栄はこの頃には、朝廷を通じて魔縁群に所属する被差別民の待遇改善を狙う考えがあり、その朝廷に枇榔材を献上し取り入ろうとしていた。また尊栄は、宗氏、菊池氏、松浦水軍に枇榔の価値を悟られては厄介だと考え、自らの好みだと盛んに云った。また採取の他に、未来世代が活用できるよう植樹も行い、枇榔に熱狂しているとアピールした。後に尊栄が太政大臣の啓良王となると、彼らは対馬や平戸、五島列島で栽培を始め、少量ずつではあったが献上するようになったので、この欺瞞作戦は成功していたと云えよう。



 横当島に立ち寄った魔縁群連合軍は、次いで奄美大島に上陸した。

 ここでは全く戦わず、噓と恐喝で自領に組み込んだ。尊栄は楽を好み、楽のための労苦を惜しまなず、また事を為すにおいては現実路線を主軸としながら博打を嗜んだ。そういった気質からか、騙して降伏させるやり方を得意としており、この成功の後は多用するようになった。但し全く戦わずに勝つのではなく、圧倒的な優位を形成して配下を多少戦わせ、そうして戦闘経験を積ませた後に行っていた。恐れ慄いた在地海賊に、尊栄は奄美群島全体を掌握するよう命じて出帆させた。一方の連合軍は、真っ直ぐ琉球に向かった。


 尊栄は、琉球では戦うつもりだった。

 尊栄は倭寇や海賊、武装商人らと交流するに連れて、彼ら彼女らの人間性を認める一方、琉球を信用できなくなっていった。立地として日本と外国の境目にあり、これをその儘放置するのは、将来的に日本を統治する者になる身として許せなかったのだ。また、朝廷も鎌倉軍事政権も、政権であるならばこの辺りをもっとしっかりするべきだろうと内心憤った。

 尊栄は伊平屋島と伊是名島、伊江島を素早く手中に収める。それから尊栄は、数名程度を引き連れて広くはあるものの森林が殆どの山北を、残りの魔縁群は狭いながらも豊かな中山と山南を西側から攻めることにした。

 尊栄らは大元の高僧のような身形(みなり)をして上陸すると、真っ直ぐ今帰仁(なきじん)にある城へと赴き、城主と謁見したその場で宣戦布告をした。


 尊栄は、



『変事を落居(らっきょ)するは銭にあらず、武の力なり』

(厄介後を解決するのはカネではない、武力だ)



 と考えていた。

 また卑怯も外道も権道(けんどう)、即ち臨機応変に対応する術の1つであると見ており、自らを鬼畜と呼ぶ声を鼻で(あしら)った。常識や道徳をよく知り、その上で踏み躙ったり手段として利用したりする、謂わば善悪や美醜を超越した行動を取ることで敵を容易に始末することができる────この信念は魔縁群で共有されており、尊栄=啓良王曰く、それ故に坂東武者との戦い全てに勝ったのだ。

 余談だが、実際の地図、或いは架空のそれで度々机上演習をしていたこと等も、魔縁群の強さの一因でもある。


 さて尊栄らは、城内にいて自らに立ち向かう者達を鏖殺(おうさつ)すると、城主や側近、通訳らの頭部の皮膚や衣装を奪い、城主の妻子らを柱に縛り付けて後で回収することにした。それから狼煙を上げると、馬も奪って次の城を目指した。

 一方の魔縁群には、尊栄らが狼煙を上げた後、石弓機械を絶えず城に放ちながら船を陸地に近付けていき、その後は上陸しながら火矢を斉射するよう命じていた。また矢玉を全て使い果たせば弓の先に小刀を着剣し、下る者は許し、刃向かう者は魚の餌にすると大声で勧降(かんこう)させ続けた。グスクについては積極的には攻めさせず、放火し、出入り口に撒菱を撒く程度に留めさせた。



 尊栄らは纔か2日で掌握に成功する。


 飽く迄城主のみを目標とし、民間人には能う限り手を出さずに勧降し続けたことや、火薬と軽質油によって城が早々に落ちたこと、支配者が変わるだけで政策は変えないと宣伝したことが功を奏した。三山鼎立琉球から「沖縄王国」に改めたが、これは普段暮らす上で大した変化ではなく、反発も小さかった。

 その上で尊栄は、真の意味で沖縄の支配者となるべく、民心を宥めることにした。尊栄は、『縦令(たとい)池で妖精を()()る女性に聖剣を渡されても政治組織の根拠にはならないが、最高行政権は大衆の委任によって生まれる』と考えていた。読点(とうてん)以前にある例はどこから来たのか不明であるが、兎に角そういう考えで人心を得ようとしていた。尊栄自ら、砂糖黍などの栽培を指導して回ったり、それを高額で買い取ることを約束し実行したりなどしたのだ。尤も、沖縄という土地はその狭さや土壌の問題から農業には不向きなところもあり、尊栄は営農技術の向上はすぐに限界が来ると悟り、従来の漁撈(ぎょろう)を効率化したり、珊瑚を養殖させて買い取ったり、交易を大規模に行えるよう港湾を整備したりしていった。

 尊栄自身は、やはり無頼を束ねる長らしく腕力以外にも愛想や対応の良さがあった。仕事をし、角力(すもう)などの遊びに誘われれば組み合い、また仕事をしては遊びに興ずる。そうして地道に、国王というよりは親分としての信望を得ていった。

 このような人心慰撫を1年に亘って努める一方、尊栄は尊栄村や「海商町(かいしょうのまち)」を建設した。既存の尊栄村では人口が著しく増加しており、彼ら彼女らの入植地としての開村であった。沖縄尊栄村では主に砂糖、石鹸などの洗浄剤や酒、竹槍の製造に従事させた。海商町だが、これはその名の通り海商のための町を建設した。町には、立地や質から高い順に「左」と「右」という等級を設けており、「左」は宗氏・菊池氏・松浦水軍・奄美海賊、それと島津氏、「右」はそれ以外の者の使用とした。奄美海賊については奄美群島を掌握した褒美で、島津氏については薩摩という近いところにいることから後に安全保障目的で追加した。また外国人倭寇から、その国にしかない植物や産品を得たいとも考えており、彼ら彼女らには、外国人倭寇や海商がいればそう伝えるよう求めた。そのことから中国やジャワ、ミンダナオ、ルソン、またマラッカやアユタヤなどの港市出身の海商と知己を得て、その交易品を鎌倉軍事政権の腐朽を担当する魔縁を介して長崎円喜に売るなどし、鎌倉を腐敗させつつも各地の尊栄村を富ませた。

 その他、恣意(しい)(てき)な政治をしないとアピールするため、沖縄王国の最高決定機関として『評議会』を設置した。国家元首は尊栄で、評議会の常任議員には宗氏・菊池氏・松浦水軍・奄美海賊の沖縄駐在官、そして在地の名望家を据えて世襲制とした。重要な国家官職については、全て常任議員の中から互選する形式にした。


 尚、各城主の妻子についてだが、後家は未婚の魔縁や常任議員に妻として娶らせ、子は養子にさせた。


 更に余談だが、山北には済州島に逃れていた反明勢力のモンゴル人や、モンゴル皇帝に仕えていたイラン系遊牧民のオセット人が亡命してきた。尊栄=啓良王はモンゴルとの同盟に彼らの助力を得た。その啓良王の孫である啓雄王は、安嘉大陸(Eurasia)の征服活動にオセット人を連れて行き、出身地(現・大日本國北嶺州の南東部から隣接するジョージアのオセチア地方)に住む同根の者達を勢力に組み込んだり、その彼ら彼女らを通してルーシ系国家やオスマン帝国、ティムール帝国との関係を構築したりと、多岐に亘る活躍をした。



 文保3年1月28日(皇紀1979年2月18日)に琉球を出帆した魔縁群は黒潮、次いで対馬暖流に乗って6日後、敦賀湾に到着した。

 尊栄は京の知り合いや比叡山延暦寺へ挨拶に行き、そしてそれを以て各地で活動する魔縁に無事を報せた。尊栄は、延暦寺に対しては、『琉球は海賊が集う場所だが禅宗や日蓮宗が熱心に信仰されており、仏の教えを広めるに当たってはやりがいがある場所で、再び向かうつもりである』との意思を表明した。また、それまでの間は、五畿内にて実践を兼ねて布教する練習で回りたいと伝え、この許可を得た。そうして各地の尊栄村民を訪れると、日々の労苦を労ったり、或いは隠岐諸島と甑島列島への移民をお願いしたりした。移民について、尊栄村では土地毎に等級を設定して各土地で養える人口を推算しており、その基準人口を超えていた場合にのみ、その時点での人口の8割になるまで全年代から満遍無く移民を募集した。

 この間、魔縁群琉球遠征組に対して、半数には各地の魔縁に尊栄と自らの無事を伝える、それぞれ持ち場を交換するよう命じた。また魔縁にも、尊栄がまだ赴いていない村で移民を募らせた。残余の半数は、沖縄にいた時のように船に富士壺(ふじつぼ)の固着を予防すべく掃除や、次の遠征に向けての勉強会、また補給をさせた。帆船を用いる海戦では常に風上に陣取った方が有利であるなど、現代人から見ると当たり前のことだが当時の人間にはまだ常識になっていないことを、大事な原則として刻み込んでいった。この魔縁群の勉強熱心さが、相国府でも受け継がれた。次の遠征についてだが、これは蝦夷地(現・北海道)へ向かう予定であった。鎌倉軍事政権の影響力が強いであろうと考え、飽く迄反鎌倉勢力との交流を得る目的だった。

 尊栄は、延暦寺に対しては、『琉球は海賊が集う場所だが禅宗や日蓮宗が熱心に信仰されており、仏の教えを広めるに当たってはやりがいがある場所で、再び向かうつもりである』との意思を表明した。また、それまでの間は、五畿内にて実践を兼ねて布教する練習で回りたいと伝え、この許可を得た。そうして各地の尊栄村民を訪れ、日々の労苦を労ったり、或いは移民をお願いしたりしながら、それぞれに次の指示を出していった。



 そこで出会ったのが、尊栄=啓良王が心底愛し傅き立った愛馬「妙法院(みょうほういん)勝呼(しょうこ)」号だ。


 尊栄=啓良王は勝呼と呼んでいた。尊栄村では様々な動植物の品種造成及び改良を行っていたが、勝呼号はその過程で生まれた。父母共に大型馬で、毛色は鹿毛であった。尊栄は年々筋肉が肥大化しており、数え16歳になったこの時期には体重が110キログラムを超えていた。いずれ甲冑を着け弓矢を装備する機会があるだろうと考え、しかしそんな時に乗れるような馬がいなくなるだろうと考えての品種改良だった。そんな中で生まれた勝呼号は、希望を感じさせる馬体をしていた。


 勝呼号は原毛色が鹿毛の佐目毛(Perlino)で、綿で作ったように柔らかな毛である。

 二重瞼(ふたえまぶた)の下には零れそうな程に大きな、鈍色の理知的な宝玉を収めている。勝呼号は予定日よりも2ヶ月遅く生まれてきたのだが、母馬の胎内で貯えた栄養は体を大きくし骨を太く密にしたようだったが、筋肉は少なく脚はまだまだ細長かったようだ。一見すると見栄えが良くないが、尊栄は『太い骨の子に生まれたのだから、立派な亡骸になってきっと美しい死を見せてくれるだろう』として、愛育することを決意した。しかし勝呼号には、気性に難があった。

 母馬が出産した時、自分の股座(またぐら)にいるその薄桃色の塊に驚き、また恐れて育児放棄した。勝呼号はアンバランスな体でふらつきながら、それでも何とか乳を飲もうとしたところ、脚を滑らせ乳房に噛み付いた。恐怖の対象から攻撃されたと思った母馬は、勝呼号の顎を蹴り上げて気絶させた。勝呼号は何とか一命を取り留め、また搾った乳を飲ませられたものの、舌は先が二つに別れたスプリットタンになったし、意識しなければ口が自然と開くようになった。その上、母馬から勝呼号への威嚇行動さえ見られるようになり、それに対抗するかのように気性が荒くなった。

 尊栄が勝呼号の馬房の前に立ったところ、勝呼号にすかさず下顎を噛まれた。途中までは首を狙っていたが、急遽下顎に変える軌道だった。首でなく下顎にした理由については、尊栄は、常人の倍程に太いそれを幼駒の口では噛めないと判断したと推測している。尊栄はその儘勝呼号を観察すると、その眼光は鋭く、人を何名か潰したような強暴さを感じさせたという。実際に首を狙われ、何とか回避したものの耳や肩を持っていかれたという者も出ており、殺処分も致し方無いかというところだったらしい。しかし尊栄はこれを、



『あはや、をかしき女性なめり』

(ほう、面白い女性だ)



 として気に入り、下顎を噛まれた儘次の夜明けまで、鼻筋や首を撫でて過ごした。

 勝呼号はすっかり毒気を抜かれて、尊栄を馬房内に招き入れると山々を破るようにして昇る太陽を共に見た。尊栄=啓良王は、人でも牛馬でも昆虫でも、年齢に拘わらず1個の魂として尊重するようにしていた。後に「勝呼の背」という書籍を出版するが、それによると、勝呼号は子どもや腫れ物でなく、純粋に唯1頭の牝馬として扱われたことを喜んだのではないかと推測した。「勝呼の背」では他にも、



『これより戦なれど、(くつろ)かに征かん。乃公(だいこう)栄西(えいさい)にあらずと(いえど)も、且緩緩(しゃかんかん)なり。汝であらばこの禅語も聞き知らむべし。(しか)り、寛かなれ。然り、然り、其の如く調(ととの)ほるべし』

(これから戦争だが、気楽に行こう。私は明菴栄西(みょうあんえいさい)禅師(ぜんし)ではないが、且緩緩(=ゆっくりやっていこう)。君であればこの程度の禅語はわかるだろう。そうだ、気楽にだ。そうだ、そうだ、そのように調子を合わせていこう)



 といった数多くの名文がある。


 尊栄=啓良王が勝呼号に乗ることは、実際には稀であった。

 この後、鎧が不要になる程に筋肉が肥大化していったので、騎乗しては気の毒に思えてならなかったと云う。普段は尊栄=啓良王の盾や弓箭を運んでいたが、戦場では尊栄=啓良王の方こそ勝呼号を背負って馳騁(ちてい)していたくらいだ。

 因みに先の名文は、勝呼号を背負ってのものだったらしい。


 尚、尊栄=啓良王の子孫と勝呼号やその子孫は、脳の体積が纔かに大きく、体が大柄で強健、また腸内に植物からデンプンを分解してアミノ酸を合成する細菌を豊富に持っていたり、明らかに感染症や飢えに強かったりする。

 そのような形質が現れる理由に、尊栄が保有していたウイルスを渡されたのではないかとする説がある。実際に動物はウイルスからDNAを奪い、取り込んでいる。例えば哺乳類の祖先はPEG10で胎盤を形成するようになり、RTL1は脳の進化に寄与したと云う。またウイルスの大半は危害の少ないもので、生物は日常的にウイルス、そしてDNAをやりとりしている。尊栄が下顎を噛まれている時、体液(唾液)の交換が行われていも不思議ではない。

 それに尊栄=啓良王は、勝呼号の性欲処理に付き合ったことがある。勝呼号は初の発情(フケ)では戸惑ったのか、泣いて暴れ回って目の前に現れた猿を粉砕した程だったので、フケの感覚に慣れるまでの期間、下顎を噛ませる形の接吻や、種付けの時に備えて膣へ腕を挿入して(ほぐ)すなどした。他にも、後醍醐天皇から馬と交合したのか下問を受けた時、焦った様子で強引に話題を変えたと、後醍醐天皇の政権で働いていた幾人かの公家が記している。また本人も日記の覚箇記(おぼえがき)にて、『私は朝型の体質であるから性行為は朝に行っているが、正室や側室達に与えたように勝呼号にも一室を与えており、朝の行為後には入室してきて陰茎を舐めてくる』と書いている。

 また、北嶺州の竜田府には『北嶺(ほくれい)大魔(のだいま)縁木(えんのき)』という北嶺(Siberian)落葉松( Larch)2本から成る連理木がある。樹高は44m、幹径は4mもあるという巨大樹で、樹の周りを環状交差点にした程だ。この北嶺大魔縁木は、尊栄=啓良王の死後、王の遺言に従って体毛や筋肉を蚯蚓(みみず)などを通じて肥料にし、それで育てたと伝わっている。木の周辺にいる蚯蚓やその他昆虫はいずれも大八洲地方から連れて来られたのだが、白化したり巨大化したり病害に強かったりと、形質を独自のものに変えている。木にも体格が大きく病害虫に強いという性質がある。

 これらのことから、尊栄=啓良王と勝呼号は日常的にウイルスの遣り取りをしていたのは殆ど確実であり、従って、一概に珍説と切って捨てることのできない奇説(・・)であるという訳だ。



 尊栄は『運命の出逢い』を果たしながら、各地の魔縁を労い、或いは指示を出していると、比叡山延暦寺から天台座主に就任しないかと打診された。


 尊栄は寺について、僧兵戦力としては期待する程の強さを有しておらず、精々籠城に使えれば良いと考えを変えていた。しかし持ち掛けてきた者の面子や上下からの信望を考え、更に寺内への影響力を多少なりとも残すべく、これを受けることにし、諸々の手続きを始めた。そのすぐ後、敦賀の魔縁から蝦夷地へ向かう準備が整ったと報せが来たが、尊栄は蝦夷地とは交易をする程度に留めると方針転換した。但し交易相手はアイヌ系諸部族、所謂イシカルンクルなどに限ること、彼ら彼女らに売る物は兵器(日本刀や銅砲、導火線や火薬、また焼夷弾として蒸留酒など)、買う物は鉄と硫黄、石炭、石油を優先することなど細かに指示を出した。そして彼ら彼女らを唆し、安藤氏を苦しめようとしたのだ。安藤氏は鎌倉方に属する者で、これを弱体化する目的だった。また補給地として佐渡ヶ島を用いるべく、この買収を魔縁に任せた。


 安東氏と云うのは、鎌倉時代初め、北条義時が蝦夷関連の諸職を統括する役職として蝦夷代官を設置し、これに安藤堯秀を据えたことから始まる。

 以後安藤氏が蝦夷代官を世襲するようになり、北条得宗家の代官として蝦夷地との交易船から収益を徴税し、それを北条得宗家に上納した。また鎌倉軍事政権樹立の頃より、蝦夷地は本土(現・大八洲地方)からの重犯罪人の流刑地になっており、蝦夷代官は犯罪人の送致や監視も役目としていた。また、北の蝦夷やモンゴル系勢力など、異民族への抑えとしての機能を持っていたことから、本土(現・大八洲地方)の津軽・下北から北海道の渡島(わたりじま)に掛けての広範囲の領有を許されていた。更には、現在の青森県にある十三湊(とさみなと)をも抑えていた。この十三湊に蝦夷代官の政務を行う役所を置いていたが、十三湊の船は本土(現・大八洲地方)だけでなく、日本海を横断して安嘉大陸(Primorsky)東端( Krai)や朝鮮半島、山佳島(Sakhalin)西岸を辿って大酒井川(Amur River)流域に迄行き、東の博多と呼ばれる程に栄えていた。

 安東氏は「蝦夷」と()()っており、また「渡党(わたりとう)」とも呼ばれていた。和人系日本人でありつつも半ば土着化していたが、津軽や下北、北海道南部に居住していたアイヌ系は和人の文化を受け入れつつ、和人は和人で厳しい環境に適応するべくアイヌ系の生活を採用するなど、文化の混合が珍しくなかったのだ。


 尚、北海道アイヌ系は皇紀20世紀以降、山佳(やんけ)(しま)にも進出していった。

 元々山佳島には先住民としてギリヤークがいたが、北海道アイヌ系の進出によって居住地や狩場・漁場などを巡って争いが始まった。大元(だいげん)はクビライ・カアンの時代に、大酒井川(おおさかいがわ)や山佳島への侵入し、大陸側のギリヤークを支配下に置いた。そのギリヤークは大元に対し、アイヌ系の進出に困っていると助けを求め、大元はこれに応える形で山佳島のアイヌ系を制圧した。山佳島に渡ったアイヌ系は大元に一旦は服属するも、度々抵抗した。(やが)て山佳島から渡海して大陸側に攻め込み、大元の守備隊を攻撃したが、撃退されて改めて服属、毎年毛皮を献上するようになった。



 尊栄は皇紀1979年3月14日、数え16歳にして天台座主の地位に就いた。

 尊栄は天台座主として寺務の効率化など大小様々な業務の改善を進めていったが、尊栄には苦痛だった。仕事が忙しいことそれ自体に不満はなかったが、常軌を逸した行動力や異常性欲の持ち主には、宗派の代表と云うのは苦痛極まりなかった。また尊栄が富や安寧を齎してきた寺の外の者達や京童部は、彼ら彼女らの気の良い親分が寺に縛られたことに不満、またこれからも縛られて会えなくなるのではないかという不安を感じていた。

 此處で尊栄は、魔縁群に命じて寺外を煽らせた。尊栄を解放するよう抗議活動を行わせたのだ。直に寺内でも尤もだという意見が上がり始め、その時に尊栄は辞任の意思表示と謝罪をして回り、正式に辞任した。



 そんなところで、後醍醐天皇から政権に招かれた。

 使者はやはり、千種忠顕だった。尊栄は、父帝が本気で自らを招いていると判断し、これをその場で受諾。尊栄の脳内にいる後醍醐天皇から望まれていた、天台宗の掌握と僧兵戦力の確保についてが結局果たせていないが、魔縁群という組織を売り込んで彼ら彼女らの待遇を是正する好機に見えたのだ。

 また、父子としてか君臣としてかは分からないにしても、天皇という職にある者は一体どのような話をするのかと興味が湧いたという側面もある。

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