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クソデカ日本、爆誕!!!  作者: シヴァいっぬ
中世
2/13

神憑り

(The )(Pacific)( Rim )(Empire)(The )八洲(Nipponese )地方(Birthplace)の中世史(神憑り)






 北嶺(ほくれい)宮家(のみやけ)初代当主・啓良(ひろよし)(おう)は、鎌倉軍事政権を倒し、天皇家を政務の中心に置く国家〝大日本國〟の建国者である。






 啓良王は皇紀1963年12月14日(嘉元元年12月6日)に生まれた。


 王の父は帥宮(そちのみや)、後の後醍醐天皇で、母は万里小路宣房の娘(名前不詳)である。

 後醍醐は彼女を見初め、宣房に対して幸せにすること、いずれ正妻に迎えることを条件に貰い受けた。後醍醐は更に、万里小路家に対して支援を行った。宣房の父の資通は閑職にあって、その影響から宣房自身も中々官職に恵まれず困窮していたからだった。そこで根回しして官職に就かせたり、自身の収入の一部を交通費として、全国各地の有力者に蹴鞠や和歌を教授させたりと、魚だけでなくその釣り方を教えた。このことから後醍醐は、頼れる親分として五畿内の公武から人気を博した。


 しかしその妻は、啓良王を産んで直ぐに体調を崩した。

 後醍醐天皇は血穢も気にせず妻の介抱を自ら行うも、妻は結局産後不良で亡くなった。この間、(わず)か1日であった。

 後醍醐はこの時、宝算僅かに数え一五であった。若く不安定な精神は、愛妻が亡くなった原因は啓良王にあると考えさせた。しかし冷静な部分では、



()()に子の咎ならんや』

(これをどうして子どもの罪であると云えようか。否、云える筈も無い)



 と考えられたので、王を万里小路家に預けようとした。

 しかし万里小路家が、事実は如何あれ「母殺し」の啓良を預かって喜ぶ筈も無く、また仮に預かったとしても、そして彼ら彼女らが望むと望まざるとに拘わらず啓良を政治に利用するであろう。それならば──と考えた末、妙法院門跡に入れる事にした。この時に冷静さを欠かさなかったことが、持明院統と大覚寺統という分裂した皇統を統一し、延いては大日本國の建国などに繫がってくるのだから、明王聖主と尊称される由縁も宜なるかな。



 啓良王は妙法院で尊栄(そんえい)との名を与えられ、傅き立てられた。


 尊栄の境遇を憐れむ寺の者達は、尊栄に好きに振る舞わせた。

 好きにさせたところで、幼子であるから周囲にいる大人、即ち僧侶の真似をするだけだろうと考えたというところもある。その尊栄は幼い頃から仏道修行に励み、肉体を鍛えていた。尊栄或いは啓良王と云うと、現代人は兎角様々な「奇行」を思い浮かべる。妙法院時代の奇行については割愛するが、身分を無視した行動や肉食、熊殺しなどがあった。およそ身分高き者や僧侶どころか賤民さえしないことを好んでしていた時点で、十分どころか十二分に変人奇人の類である。しかしそれが故に尊栄を神仏の顕現であると考える者や、熱狂的なシンパサイザーが現れ、後に彼ら彼女らが尊栄並びに啓良王に依る天下統一と大日本國草創に大きな役割を果たす。

 尊栄には身体にも様々な特徴があり、それも信者の増加に一役買ったが、それもまたここでは割愛する。



 尊栄は自ら山間の地に密かに開村し、開発や発見したものの一部をそこで作らせていた。

 尊栄が後に開いていった村も同様で、後世これらを纏めて『尊栄村』と呼んでいる。尊栄には密かに独自の領地を作って運営したかったという思いがあり、実在を証明し得るものは能う限り作らないようにした。それ故に村の具体的な場所は現在でも不明である。山地だけでなく、(やが)て日本海沿岸部にも勢力を伸ばしたことはわかっている、という程度だ。判明していることは、尊栄が村民に指示した内容で、例えば尺貫法や度量衡の統一、穀類の品種改良、石鹸などの洗浄剤や布など衛生品の大量生産、金属加工技術の向上であった。品種改良では、優れた形質のもの同士を体系的に交配し、目的に合った品質の個体を均一化し、更に改良を加えて系統を管理して記録する手法を考案し実行した。

 村民としては、尊栄が妙法院周辺で知り合った浪人や被差別民など、社会からドロップアウトした者、させられた者が大半であった。尊栄が彼ら彼女らを呼び集められた理由だが、尊栄は、



『余も汝も()(いつ)也。これよりは共に一樹の陰に宿り、一河の流れを汲まん』

(私も君も本を正せば同じ生まれである。これからは苦楽を共にしようではないか)



 と心底から考えており、彼ら彼女らがその考え方に感動したからだ。

 しかし尊栄は、仏の教えに感銘を受けて大慈大悲を起こした訳ではない。彼の思想や信念、後に神道()()()()の信仰として体系化されるそれでは、「人間は遥か昔に遠国で原型が発生した。彼ら彼女らが数を増やしていくと軈て分派し、また別の地で発生したばかりの原型と混交した。更に拡大すると、また分派する。これを繰り返した」ことになっている。それ故に『素は一』である。

 また、単に優しくしたいと思った時に優しくした、この後も優しくすると決めた、それだけである。故に『共に一樹の陰に宿り、一河の流れを汲まん』としたのだ。


 それに尊栄は、少なくとも卒去する迄、不幸な境遇に堕在した者達に対して同情したりその境遇を憐れんだりする感情や、物事に対する先入観に著しく欠けていた。

 先入観の欠如というのは、如何なるものに対しても、『余の見る(ところ)、彼の造化は斯斯也(かくかくなり)、此の造化は然然也(しかじかなり)』として、急ぎでない限りは自分が下した判断でしか捉えないようにしていたということだ。またこの頃にはもう既に、当時の武士に似て、軽んじられたなら殺すという面もあった。敵対者達には、これらのことから『尊栄=啓良王は一人(ひとり)の名ではなく、少なくとも七人(ななたり)から成る匪賊の名である』と本気で信じられた程であった。


 ただしこれらの性質について、尊栄自身も世間を游泳する上で良くないと直感した。

 そこで平均的な価値観を作るべく、より世人との交流を広くしていき、また表情を能う限り多く準備し、必要になれば即座に使えるよう練習した。その上で尊栄は、世間一般的な振る舞いをすることを煩わしく思い、結局誰に対しても『素は一也』との姿勢を崩さなかった。



 尊栄には、数え8歳になる頃には愛妾がいた。

 現代では、選良(Elite)が自らの下半身に屈した結果、何の技術も無い者を配偶者にしてしまったので、負担になっているなんて話を稀に聞く。しかし尊栄の場合、自分から始まり現代に繫がる王家の繁栄と、大日本國の版図の拡大に繫がっていった。


 尊栄が見初めた穢多の女性・ムラは、当時の日本人にとっては好まれざる容姿をしていた。

 所謂ギョロ目や高身長などで、また豊満な胸部や臀部という女人としての評価に繫がらない特徴の持ち主だった。しかし尊栄は大きな目や女体の曲線美を好んでおり、また自身と比べれば弓や槍程でない限り高身長とは捉えていなかった。従って世人の感性を不思議に思いながら彼女を口説き落とした。また穢多の長にも頭を下げて彼女を尊栄村に連れて帰った。穢多の共同体には労働力を引き抜くことになるので、その対価として仕事の機械化や分業化などを支援し、物質的な繁栄を約束し実現た。


 尊栄のとムラは心身の相性が非常に良かったのか、終生睦まじく2男7女を生している。

 しかし妙法院時代には、ムラ一人では体力的に持たないのでムラの姉妹や寡婦だった母、また尊栄が富を齎した他の町村や河原にも妻や愛妾を得て、彼女らとも睦み合った。尊栄が後醍醐天皇の指示によって還俗し北嶺宮啓良王となると、その恩義からムラの一家には妙法院(みょうほういん)の姓、ムラ個人には叢子(そうし)の名を与え、出身の共同体をまるごと庇護した。


 尚、尊栄=啓良王は、所謂異常性欲とそれに堪え得る強健な肉体の持ち主だった。

 正室、側室、愛妾らの間に生し、且つ成人した子のみを数えても6,020人はいるが、実際にはそれよりも多かったと推測されている。その理由として、尊栄=啓良王の子種に価値を感じられていたからだ。尊栄=啓良王の子の殆ど全員には、生まれる時には小さいもの、長ずるに連れて大きくなり、しかもそれが早熟であったり飢餓に強かったりするなどの特徴が共通していた。


 ところで中世というのは洋の東西を問わず、親は子どもに『小さな大人』、即ち労働力としての機能を求めていた時代だった。

 子作りは要するに無償労働者を獲得する手段であるが、そんな時代だったので、殆ど確実に安全な出産ができ、且つ健康で早熟な育ちをする尊栄=啓良王の子種は尊重されたのだ。子の気質としてはかなり細かいところがあるが、それは真面目さの裏返しでもあり、実際に労働力として優秀だった。()うして、種を持つ方の親としての価値を高めていった尊栄=啓良王は、後に後宮を作るが、その労働者には身分を問わず女性であれば雇うと発表した。その際に平民や一部士族の家庭からの応募が多かったのだが、それは御手付きを狙ったからだった。宛ら、古くから活躍し続ける大種牡馬の精子のように、啓良王のそれを得るというのは確実な投資であるとの認識があったのだ。



 或る時、好景気に沸いている尊栄村を匪賊が襲った。

 ムラやムラの姉妹、その母と交合している時に受けた襲撃だったので、尊栄は邪魔されたことに激憤した。ただ、尊栄はこれまで体を鍛えていても実戦経験どころか武器を持ったことさえ無かったので徒手空拳で挑み、その結果として匪賊を鏖殺した。尊栄はその迎撃について、



『弱』



 の1字のみを日記『覚箇記(おぼえがき)』に記した。


 尊栄=啓良王に引き立てられた浪人によると、当時、眼球を脳に押し込むという人間性を欠いた合理的な戦い方や、喉を引き剥がして舌を引き摺り出すという残虐な戦い方をしていたらしい。従って、尊栄にはそもそも手加減する気はなかったのではないかとの疑惑がある。しかし尊栄は、この後、手加減をする目的で武器を用いる練習を始めたので、彼なりに何か反省することがあったとも考えられている。それに、この頃の尊栄は既に身長6尺(=約181.81cm)、体重28貫(=約105kg)あったらしく、手加減する意思があろうがなかろうが、いずれにせよ敵は死んでいたかもしれない。

 尊栄は賢明で何事も早々に習得・修得できたが、手加減する技術についてだけはかなりの時間を要した。


 因みに、近代でも身分の高い男性が書く日記は、例えば宮中儀礼や政務の事を記録する公式文書という面があった。

 しかし尊栄と彼によって引き立てられた者達、また北嶺宮家の日記は全くプライベートのものとして書かれる傾向があり、それ故に裏側の事情や著者の感情が豊かに描写されている。



 尊栄が手加減に成功したのは、約半年後。


 尊栄村に滞在していた或る時、いつものように山賊集団が襲ってきた。

 尊栄は彼らを生きた儘捕らえることに成功すると、そのことに欣喜雀躍した。それから襲撃してきた山賊・八衢(やちまた)天狗(のてんぐ)──後、八岐(やぎ)啓太郎(けいたろう)逸栄(はやひで)──らを、配下になると頷く迄平手打ちし続けた。この頃の尊栄は、武力を背景にした政権と戦争をしてみたいと思っていたのだ。八衢天狗らは、尊栄に対して刀を用いたがその表皮しか斬れず、矢を放ったが肌膚の表面を少し凹ませただけだったので心が折れていた。一方の尊栄は、以前から刀でも矢でも、当たる(まさ)にその瞬間に筋肉を弛緩及び収縮させれば弾き返せると考えており、それをこの実戦で行ったところ成功し習得したので、興奮していた。それに坊主頭で強面の巨漢が、宛ら淫祠邪教(いんしじゃきょう)の宗徒が狂ったように踊りつつ恐喝し、時折自分の顔よりも大きな掌で叩いてくるのだ。恐怖感から仲間になる以外の選択肢は無かった。


 そしてこれが尊栄の私軍・魔縁群(まえんぐん)の始まりである。

 尊栄は八衢天狗を魔縁群の長とし、彼に村民と共に生きていき、先ずは近場、軈ては五畿の匪賊全てを従えるよう命じた。また、


 ・尊栄が定めた武具を用いる事。

 ・尊栄が定めた場所で掠奪する事。

 ・三箇月に一度は篝屋を襲撃して実戦を経験する事。

 ・賊を一集団従える毎にその長と謁見するので、その時には最寄りの尊栄村長に報告する事。

 ・何よりも生存を優先する事。


 などを厳命した(『魔縁群諸法度』)。


 その一方で魔縁=子分に対する保障は手厚かった。

 各地の尊栄村で補給する許可を与え、捕まった際には必ず助けると約束していた。また尊栄村には、いざという時には村民なら誰でも使える「銅鏡奩(どうかがみのこばこ)」という共同金庫の制度があり、この利用を許可したり、差し入れを小忠実に行ったりもした。実際に配下が逮捕された時や平安京の左右獄所に収監された時には、尊栄は単独或いは小集団で連行中また囚獄自体を襲撃して助けていた(『右獄大火』)。



 こうして魔縁群は、結束を強めながら勢力を拡大していった。

 そしてそれを加速させたのは、実は中級下級の公家や寺社だった。当時の匪賊の中には、主業として公家や僧兵を持てない寺社の門番や護衛をし、副業として強窃などをしていた者もいたのだ。尊栄はこの事から五畿内各地に様々な繫がりを得たと考えられている。

 更に魔縁群は公家の婦女子を(かどわ)かすこともあったので、家に対して返還することを条件に恐喝や強請を行い、そこから活動費用を得た。実家に返済能力が無かった場合には、鎌倉転覆の際には味方をするよう神約(しんやく)を結ばせて変換した。恐喝に屈するという形で一度だけ金を払う、或いは鎌倉転覆運動への協力を約束すれば、以後手出しはされなかったのだ。謂わば安全保障を買えた訳であるから、屈辱であっても必ずしも雪ぐ必要性を感じられなかった。

 しかし婦女子の返還を即座に求めなかった場合は、篝屋(=警察組織)や六波羅探題(=京都に置かれた西国統治の小さな軍事政権的機構)などに通報されたと判断し、直ぐ様五畿内から離れさせた。その上で魔縁から尊栄へと上納されたが、尊栄は彼女らを自らの勢力内で功ある者に妻とするよう命じた。『覚箇記』によると、或る魔縁が誤って京都大番役を襲撃し、勢いその儘に後伏見天皇の第六皇女を攫ってきた。これを聞いた尊栄は、



『あなおもしろ。地を天に、天を地に覆すとはあなおもしろ』

(何とおもしろきことか。民が高貴な方に背くとは)



 と大笑した。

 しかし皇族は、貴族同様に病死などとして身内が攫われたことを隠匿するだろうし、皇女が7歳の祝い(現在の七五三に相当する)を済ませていない幼児だったことから、恐喝に使っても効果が小さいと考えた。そこで皇女を、自らの愛人の一人である白拍子・晩烏(ばんう)との子・祝呼(のりこ)として育てた。


 このように劫略と副業匪賊の吸収を繰り返すこと3年、即ち尊栄11歳の頃、五畿どころかその外の諸地域でも治安の改善が見られた。

 魔縁群はそれらの地域の裏社会を掌握し、そればかりか表社会にまでその長い腕を伸ばせる程強くなったのだ。尊栄は匪賊を始めとして農民や漁民、流民、商人、修験者、浪人、被差別民、悪僧、悪党、散所(さんじょの)長者(ちょうじゃ)を配下にしていた。散所(さんじょ)は、耕作に適さない河原など領主が年貢の徴収を予定しない土地のことを云い、そこに生活する住民は年貢を免除される代わり、領主を警護したり交通運輸業務などの雑役に従ったりして商業的な権利を得ていた。この散所の統括を領主から任された者が散所長者である。



 頭目に忠誠を誓った魔縁群は、尊栄の命令で政治や経済の中心である五畿や関東、若狭、越前、淡路、博多の蚕食を始める。



光陰(くゎういん)のゆきてかへらふ(もと)、露に泣く青人草の()(なづ)み、また一代、葉は青々と()ぐみ()づ。()辺際(へんさい)あらぬべけれど、()かる日の影見てあへなくなるは()し。大地(おほつち)(した)(もと)にぞ魔縁ある。(しか)(ゆゑ)、役の悉くは葉の滋養、己に益を齎すことなし。(うつ)()片時(へんし)の日影と(さきわひ)を一切知るさへ(あた)わなし。この苦患(くげん)(とこ)しなへなるべかんなり。()れど()は、大魔縁のなかりせば』

(太陽が昇っては沈み、月もまたそれを繰り返して月日が早々と過ぎる中、草にも喩えられる世の人々は、生の苦に苦しみながらも次代へ繫いでいく。この繰り返しに果ては無いのだろうが、心地良い日の光を見て知って死ぬだけましなのであろう。何せ、魔縁というのは土の底にいるのだ。それ故に、魔縁の労苦は全て人々のためにはなっても、自分の利益にはならないのだ。そのような苦しき一生において、ほんの少しの日の光や幸福を知ることさえもできないのだ。このことはきっと永久に変わらないのだろう。しかしそれは、ここに大魔縁がいなかったらの話である)



 概ね五か七で構成された言葉でなる文は小気味良く、それでいて魔縁群にとっては痛みのある文章だった。

 しかし最後の『然れどここに、大魔縁のなかりせば』は、魔縁群に数瞬の沈黙と、その後に静かで厳粛な熱狂を生み出した。魔縁それぞれは、尊栄によって組織された個人的な戦争への渇望を満たす集団ではなくなり、自らに付いてくる者への恩義に報いると表明したと気付いたからだ。


 欲心(よくしん)熾盛(しじょう)する尊栄らが狙った地域の、まずは畿内について。

 鎌倉軍事政権と戦うための資金集めや、自勢力を拡大し敵勢力を弱める目的からであった。というのも、畿内は日本(=現・大八洲地方)人口のかなりの割合を占めており、稼いだり影響力を増したりするならここを外す考えは無かった。人口こそが経済力であり、軍事力であるのだ。それに、畿内に物が入ってくる時、また東国と西国が交易をする時には必ずと云って良い程に用いられる2つの経路があった。この経路で稼ごうとしたのだ。

 畿内の物流2大経路、即ち東方の琵琶湖及び淀川水系、西方の瀬戸内海及び現・大阪湾を通る物流である。この頃、近江国の京極(きょうごく)高氏(たかうじ)(後の佐々木(ささき)道誉(どうよ))が琵琶湖から伊勢湾の流通を支配していた。畿内の米全てを買い占められる財力を有すると思われていた程で、尊栄が概算を出したところ、実行可能性は無いが殆ど買い占められることは確かであった。万が一にも直接対決に持ち込まれたなら、味方犠牲者は多数出ると判断したので、まずは高氏の影響力が大き過ぎない近江の北方や越前を押さえることから始めた。

 若狭は北条得宗家が領していた。越前は、北陸道諸国で唯一の北条氏以外の御家人が守護を務める地であった。それ故に東西からの監視が強いはずだが、尊栄に云わせればその監視網は、否、両隣の国自体が劣化していた。また越前自体も、歴史的には天皇家の影響力が及んでいたところに、北条氏が新関停止令を出して関所の設定或いは停止の権利を得るなどしており、冷戦状態が続いていた。そんな状態であるから、尊栄には、折角の敦賀と三国湊という要津を活かせていないように思えてならなかった。

 このように、畿内ではまだまだ派手な動きができないと判断した尊栄は、複数の魔縁を武装商人に仕立て上げ、時に有力者の懐に入るなどもして、それぞれで勢力を拡大させていくという程度にした。


 淡路国について。

 ここは西国から物品が中継され集積される場所であるため、古くは朝廷の領するところであった。平安時代には天皇家に食糧を納める国として扱われたが、承久の乱は鎌倉軍事政権によって大小様々な武士が置かれ、島の各地をそれぞれで支配していた。そこで尊栄は、この淡路と以西地域、また日本のもう一つの首都である鎌倉周辺では、鎌倉勢力や親鎌倉勢力、また適当な公武寺社や商人を獲物と設定した。魔縁群は、鎌倉派への襲撃は理解できたものの、それ以外の勢力については測り兼ねていた。それ故に執事の枠に収まっていた八衢天狗が代表して訊ねてみたところ、



奴原(やつばら)(もの)(うと)し。(しか)れどもその血は甘露也、愚者の味せり』

(奴らのことが何となく気に入らないから。けれども血はバカの味がして美味しかった(から、また殺して飲みたいのだ))



 と返答している。

 合理性や必要性など一切考慮せず、気分や好みで決めた訳である。しかしこの為に、鎌倉軍事政権は下手人を単なる反鎌倉勢力や朝廷ではないと見做した。そしてそのことは、軍事政権だけでなく朝廷にも不満を抱える者達の気分を良くした。但し八衢天狗だけは真意を察した。魔縁群という組織そのものが野蛮性を保ち、それでいて狡猾さを得るには汚いことをやっていく必要があるのだと。


 関東については、主として情報収集がメインであった。

 また可能であれば、その時々の鎌倉側における有力者に(かじ)()き、蟻害(ぎがい)を与え腐朽(ふきゅう)せしめ、魔縁群の勢力を増すことを狙った。尤も尊栄には、飽く迄情報収集がメインであって、そこまでできるとは思っていなかった。敵を知らずに挑むのは無謀と愚行の極みであるが、知りたいという好奇心は大胆な行動を取らせてしまい、場合によっては個人の死で済まず組織の壊滅さえ招くと危惧したのだ。

 しかし運良く鎌倉側に長崎(ながさき)円喜(えんき)高資(たかすけ)親子が登場したので、政商として寄生して腐朽するべく、大いに利用することにした。親子は、各地で守護に任じられていた北条一門を失脚させて相対的に強くなることを選んだのだが、尊栄はこれを見て『姦党(カントウ)武者(むしゃ)の鑑だ、恐れ入る』と皮肉を述べ、敦賀や越前などを次々と領していった。



 尊栄らは関東、若狭、越前、淡路、博多にて、硬軟織り交ぜた手段を以て在地の公武寺社や商人らに宗主権を認めさせると、その新天地での経済活動を始めた。

 拠点は当然尊栄村で、山間や海辺、時には洞窟に開村したという。尊栄は魔縁群に、これまで貯えた銭を荘園領主や鎌倉側の御家人に貸し付けさせ、返済できなくなった者からは担保にした土地を没収したり、本人或いは代理を奴隷として購入したりさせた。また収入は、見ヶ〆料の徴収、強盗、恐喝及び強要、殺人及び暗殺、賭博、民事介入暴力、行政対象暴力、商人対象暴力、高利貸しなどの犯罪的行為と、車借などの運送業や尊栄村生産品の販売といった合法的な行為によって集めていた。鎌倉周辺、元へ東国での強盗は、西国以上に馬産が発達していたことから、財産だけでなく時には軍事訓練を兼ねてこれを強奪し、機動力を奪いつつも増強していった。


 尊栄村での生産品の中には、偃息(Porno)草紙(graphy)甲種(こうしゅ)酒類(しゅるい)と云うものがあった。

 尊栄は女性を売春や美人局(つつもたせ)に用いることを嫌悪し、その代わりとして偃息草紙(おんそくぞうし)の販売を行った。尊栄自ら偃息図(おんそくず)、即ち性行為を描写した絵画を多数描き、尊栄村民に木版印刷で量産させたのだ。そしてそれを魔縁群が販売した。尊栄の絵は写真のように極めて写実的で、様々な勢力が呪殺の道具に使えるのではないかと考えた程だった。画家を見つけんとして多大な労力を費やした者もいた。無論、魔縁群は彼ら彼女らの主を裏切る真似はしなかった。

 甲種(こうしゅ)酒類(しゅるい)は、大麻などを用いた中毒性の高い蒸留酒で、これについては高額で売った。『覚箇記』によると、尊栄は富裕層即ち上流階級のみがこれを飲酒できる状態にし、彼らを廃人、またはそれに準ずる程度の無能にし、執政を代行するという形式で政権を得ようと考えていたらしい。


 因みに、魔縁群における個人の戦闘力や恐喝の上手さについてだが、単なる首領である筈の尊栄がいずれも図抜けていた。

 八衢天狗と嫡男の隠仁(おに)──後、八岐(やぎ)啓一郎(けいいちろう)(たいらの)朝臣(あそん)良栄(よしひで)──親子は尊栄の顔を、『明王にも如来にもなれる顔で、不断は如来のような曖昧な笑みを浮かべている。また(尊栄の)事情を知らない者には神秘的な魅力を、知った者には特別の敬愛を抱かせた』と評している。尊栄の異母弟・護良親王によると、尊栄(当時は啓良王)の領地に招かれて私室に通された際、各齢の顔を写し取った面(Life Mask)が壁に掛けられていた。それらを見比べた護良親王は、啓良王の得意とする恐喝は『(啓良王は)相手の心を見透かす、或いは思う儘に操る術を持っているとは確信していた。また(啓良王は)度々仏道修行で得られた大音声を(脅迫などに)用いたが、実際には何より生まれ持った顔に依るところが大きい』と分析した。


 更に余談だが、尊栄の顔は眉骨が太く、目や鼻や口が大きい。

 鼻筋が通っており、頰が高く、唇が厚い。尊栄=啓良王は、各地に点在する愛人達の寂しさを紛らわせる目的や、年齢による人相の変化を知りたがっていたことからを作成していたのだが、その面からこれらの特徴が判明している。何とも濃くて野性味のある顔だが、そのような顔は歳を重ねる程に凄みや風格を増していく。尊栄は木製の道具や漆器などを『経年美化する』と評したが、それは自身の場合も同様であった。

 尚、近年アメリカ合衆国から発売されたゲームで、嘉暦戦争を舞台にした『ゴースト・オブ・ヤシマ』が好評を博しているが、それに登場する悪法師・弘雄(ひろお)の顔は尊栄=啓良王でなく、その孫の啓雄(ひろたけ)(おう)である。欧米キリスト教世界の出身者にとっての大日本國の人物と云えば、建国者というよりも、アレキサンダー大王やチンギス・カン、ティムール、メフメト2世に並ぶ征服者の方が印象深いらしい。



 尊栄は様々なものを開発し、或いは発見してきた。

 後に比叡山延暦寺へ行くのだが、妙法院時代から延暦寺に行くまでに作ったものは、多々ある。


 例えば安全な酒類、これらは般若湯や僧坊酒などと称して大規模に販売した。

 京では鎌倉時代に酒が産業として隆盛していた。古今東西、都会から地方へと産業や流行などは波及していくのだが、この時代では酒にも同じことが云えた。それに目を付けた尊栄は、少なくとも日本では前代未聞の爛れるような酒類を魔縁群らに売らせて外貨を稼いだ。


 沼地や池があるところでは蓮を育てさせた。

 蓮の葉柄は糸と為し布に織り上げ、根は食べる考えだった。製糸方法については図絵と説明を書いた書を渡していた。蓮の布について、日本書紀によれば新羅より来朝した達率奈未智が蓮の布で作った都卒曼荼羅を献上した。この故事から寺院や朝廷への工作に使えると判断した。


 日本海沿岸部では阿古屋(アコヤ)(ガイ)を養殖した。

 阿古屋貝から取れる真珠は仏具として有用で、実際に大寺院を懐柔する際には絶大な効力を発した。


 このように尊栄村は、一つ一つの収入は小さいながらも、その数の多さで村民や魔縁群、後には皇族の生活さえも支えることができた。

 そしてその生活援助が、後に大覚寺統と持明院統、これら二統の平和的合流や、尊栄=啓良王が主導する政権発足を実現する大きな手助けとなった。


 また山間の尊栄村には、小さいながらも工場施設を設けていた。

 耐火煉瓦と膠灰(Cement)を開発するとそれらを組み合わせ、銅製錬を目的とする反射炉を建設した。また高い構造物では目立つと考え、急な山肌や崖を見つけては削ってそこに造り、偽装布を被せて覆い隠した。

 尊栄は太平の世を迎えて人口が増えれば銭が足らなくなり、十分な貨幣が流通しない事で経済が停滞すると考え、先に銅で銭を作る備えを始めていたのだ。それまでの硬貨というのは、金属を融かして砂型の中に流し込んで作られてきたのだが、尊栄はこれを不満に思っていた。砂型鋳造は生産性が低く、しかも出来上がりは表面がざらざらしていて形や厚さの精度は良くない。その上、外形や穴にあるバリを取る必要があったからだ。それ故に日本では中国の銭(宋銭など)を使っていたが、尊栄は自国の通貨に舶来の物を用いる事についても強烈な不満を抱いていた。というのも、国外の影響を大いに受けてその相場は乱高下しやすく、銭の価値や流れが変われば大小の程度の差はあれ必ず諍いが起き、大なれば戦に発展し得るのは火を見るよりも明らかだと考えていたからだ。自身は鎌倉軍事政権と戦争をしたいが、無関係の者を巻き込む気はなかった。

 また銅は融点が低く加工しやすいので、この反射炉は大筒などの兵器開発にも活躍した。


 銅製錬は大量の亜硫酸ガスを発生させるのだが、尊栄は環境汚染を多少軽減している。

 事前に『毒のある気(=亜硫酸ガス)』の存在を交流のある山師や鍛冶から聞いていたので、彼ら彼女らの協力を仰いでガスの回収手段を先に講じていたのだ。その結果、亜硫酸ガスを硫酸とした。後に十三湊を乗っ取るが、蝦夷地(現・北海道)との交易を行って石炭を手に入れると、硫酸をコークス製造で発生したアンモニアと反応させて硫酸アンモニウムを製造するようになった。硫安は現代で云う化学合成窒素肥料で、更に後に啓良(Haber–)王恩(Bosch )賜式肥(Process)( in)作成方法( Nippon)が確立されると、それと組み合わせて畑作の肥料に大いに用いられた。その結果として和人人口は爆発的に増加し、本州・四国・九州の国土では養えない程になり、和人の海外進出やそれに伴う日本の版図の拡大へと繫がっていった。


 尊栄は、硬貨を大量生産するに当たって、全く同じ型が複数あれば良いと考えた。

 その型は砂ではなく石や金属、特に熱を加えさえすれば成型しやすいので金属で作るべきだと発想する。金型の元になる金型を一つ作れば、それから転写をして硬貨生産用の金型を作る事ができるとも思い至った。では一体、その金型にはどのような金属を使うべきか。尊栄は刀鍛冶を見ている内に、鋼を使う事を思い付いた。

 そこで鋼を大量生産する装置を作ろうとしたが、これは頓挫する。



 尊治(たかはる)親王(しんのう)、即ち後の後醍醐天皇の指示で、急遽比叡山延暦寺へ行く事になったのだ。



 尊治親王は、(かね)てから啓良=尊栄を気にかけており、妙法院の者や商人などを通して様子を調べさせていた。

 一方の尊栄は、周りの扱いから自らが貴種であり、延暦寺行きを知らせる使者に羽林家の一で優れた歌人や歌学者を輩出してきた権門、六条家の出身である千種忠明がやって来たことでそれを確信した。それ故に驚かなかったが、まさか自らが親王の庶長子であるとは予想だにしていなかった。それ故に延暦寺行きの指示が下った時は心底不快に思い、京都を焼き尽くす計画を急遽練り始める。この時点では、親王は尊栄との親子関係について知らせるつもりはなかった。財力にも自衛力にも困らない、環境が良い延暦寺で過ごしてほしいという親心だった。しかし尊栄に不穏な気配を感じた忠明は、出生の秘密を粉飾して教えた。


 尊栄は考えを変えた。


 尊栄は、勘違いした。


 自分の親であるなら父帝も血の気が多く、鎌倉軍事政権と戦いたいに決まっており、これは共闘を提案されているのだと。

 そして尊栄自身、政権同士の戦争は大規模なものになる筈と考え、また然うする予定であり、それであるならば共闘も吝かではなかった。それではこの延暦寺行きは如何なる趣きか。即ち、比叡山、延いては天台宗そのものを乗っ取って戦力にしてみせよという謎掛けであろうと。親の心子知らず、子の心親知らず。面白いと思った尊栄は、忠明に対して年が明けて皇紀1975年、数え12歳になれば行くと応じた。



 尊栄は延暦寺に行く前、魔縁群に対して助けに行けなくなるから慎重な行動や連携する練習期間とするよう伝えた。

 また教練については細かに指示を出した。尊栄は持ち前のカリスマ性、残虐さ、面倒見の良さから、荒くれ者達から親分として慕われていたので、魔縁群はその命令を忠実に守った。勢力は伊賀国についてのみ完全に併呑して、その後は一切拡大も縮小もせず内部の綱紀粛正を行ったので、尊栄が下山した頃には元は匪賊だったと思えない程洗練された動きを身に付けたと伝わる。更には、弱小ではあるが多数の公武寺社と緊密な関係を築いた。これについては、八衢天狗が、戦後には政権を運営する官僚が要るだろうと考えて独自にやったことであった。

 伊賀国は国土の殆ど全てが東大寺の荘園で、政権から任命された守護や地頭は猫の額程の土地しか支配できずにいた。その状況で地侍達に、東大寺の荘園を奪うなら物資を格安で売ると約束した。それから分断し、ばらばらにして自勢力に組み込んでいった。


 魔縁群の首魁は、妙法院時代も延暦寺時代も、公開しても良い情報とするべきでない情報を徹底して峻別した。

 公開した情報は世人の目に奇行と映したが、しかしその奇行以外では一見すると模範的で優秀な僧侶であったので、世間からはカルト的な人気を、もっと云うと神のような存在として崇拝を得始めていた。

 その世界最新の神は神で、魔縁や愛人の元にいつでも戻れるよう自由に動ける立場を望んでいた。そこで、酒を売って収入を寺に入れることや、千日回峰行を、それも最速で終えることで山内での発言力を得ようとした。千日回峰行は、現・大八洲地方の近江県と京都に跨がる比叡山の山内で行われる天台宗の回峰行の一つで、この回峰行とは比叡山の峰々を縫うように巡って礼拝する修行だ。通常、千日回峰行は975日の行を7年程掛けて行うものだが、尊栄は入山後全員に挨拶と自己紹介、雑話を程々にした後、すぐに先達から受戒を受けて作法と所作を学んで行を始めた。そしてその結果、尊栄は入山後僅か982日即ち史上最速、数え14歳即ち史上最年少、975日連続即ち休み無しという唯一無二の三冠を達成した。最も苦しかったことは性欲の処理だったらしい。


 因みに、千日回峰行では堂入りという荒行を行い、これを満行した者は生身の不動明王〝当行満(とうぎょうまん)阿闍梨(あじゃり)〟と、また千日間を満行した者は〝北嶺(ほくれい)大行満(だいぎょうまん)大阿闍梨(だいあじゃり)〟と呼ばれる。千日回峰行で三冠(さんかん)というアンタッチャブルレコードを残した尊栄は、還俗した後に北嶺宮家との名前を与えられるが、その北嶺はここに由来する。



 三冠僧は年が明けて皇紀1978年、数え15歳になった。

 尊栄は下山するべく、『夢の中で葦原が眼前に広がっていた。掻き分けていくと大きな泉があり、そこに飛び込んでみれば、その先には御肇国天皇(=崇神天皇)が御座した。天皇からは様々な事を教わったので、これを実践するべく寺の内外で事を為さねばならない』と(うそぶ)いた。周囲の僧は狐憑きか神憑りかと考えたが、尊栄の奇行は民草を思っての行為だと有名だったことから神憑りと判断した。大覚寺統の王子という身分でありながら、持明院統関係者や中級貴族、下級貴族、武家の出身者相手にも気軽に話し掛けるので彼らからの受けも良かった。彼らは要するに、それなりにエリートの家庭出身でありながら後継ぎになれず、そればかりか口減らしとして髪を下ろさせられたのだ。気分としては流罪に遭ったようなものだ。彼らにとっての尊栄は、似たような境遇なのに腐らずに民を思う聖人で、惨めな自分達にも真の友のように接し、山内の雰囲気を良くしてくれた聖人なのだ。後に彼らも尊栄=啓良王の倒幕運動を支えるシンパサイザーになっていった。


 比叡山上層部からの覚えは目出度かった。

 尊栄は尊栄村で開発した様々な料理や般若湯を寺に持ち込み、そしてその酒宴で山内の雰囲気を良くしていたのだ。それらがどのような伝手や流れで運ばれてきたかは不明で、その点については不安に感じていたようだが、雰囲気が良くなったことの前には些事だった。古今東西どこの組織であっても、上層部に座る者というのは、悪い空気にも顔色一つ変えない度量を求められるしそれを実践するものだが、だからと云って悪い空気を好む者は少ないのだ。

 比叡山内部は持明院統よりも大覚寺統が優勢であり、この時期の天台座主には、大覚寺統は亀山天皇の皇子である慈道法親王が第105世、同じく亀山天皇の皇子である覚雲法親王が第一〇七世として就いていた。その他は旗幟を鮮明にできない公卿や、持明院統でも大覚寺統でもない鎌倉軍事政権皇族将軍の王子くらいであったが、尊栄はそんな彼らに対しても堂々と仲良くしていた。上層部はそれに絆されたのだ。俗世を離れてもその俗世の権力闘争が山内で続けるのは、彼らとしても中々に心労だったようで、これを機に山内の対立的な空気感を解消した。このことは後に、天台宗、延いては仏教全体の綱紀が粛正されていくことに繫がった。


 ところで、現代では、脳の角回という箇所を刺激すると神が見えたり幽体離脱したりできると云われている。

 角回は言語や認知に関係しており、或る実験では、角回への刺激が体外離脱体験を引き起こす可能性が示された。背後に存在する幻影を感じたり天井にいたりするような感覚になるらしい。現代以上にオカルト的なものが実際生活に溶け込んでいる当時、常人では計り知れない僧・尊栄の神妙不可思議な体験と奇行は、彼を神格化する一助になったのでないかと考えられている。



 無事延暦寺を自由に出入りすることを許された尊栄は、初日は八衢天狗や組頭(=幹部、部隊指揮官)に手紙を出し、後は愛人達との時間を過ごした。

 翌朝には八衢天狗らが待っていた。尊栄は彼らひとりひとりに語り掛け、頰を撫で、肩を叩くと自ら酒を注いで酒宴を始めた。その途中で尊栄は、立ち上がって注目を集めた。次いで懐から仏像を取り出すと、星々に聞かせるような大仰な身振り手振りを加えてこう語った。



(まば)れや瞻れ。雲、嶺頭(れいとう)に破れ、月、池に(きた)れり。御仏、水にこれを(とら)わんとするも、曼網相(まんもうそう)に蟻の穴ありて水()る。(さなが)ら、黒漫漫(こくまんまん)の錦なんめり。然らば、恁麼(いんも)にし()らむ』

(刮目して見るが善い。雲はあの山の頂きに切り裂かれ、それによって月が池の水面に映ったぞ。仏は水中の月を掴もうとするが(当然無益な努力であるし、木像だからなのだろう)、水掻きにはシロアリの食べた穴があったので水が溢れていった。まるで暗闇の中の錦のように無用である。そのような物であるならば、このようにしてしまおう)



 尊栄は仏像の脚を握り、拷問するように水に漬けながら滔々と述べていたが、これを引き上げると扼殺(やくさつ)するように粉砕し、捨てた。

 続けて尊栄は、その(とち)()或いは無花果(いちじく)の葉程大きな手の平をひらひらとしながら、



『大魔縁に曼網相はあらざるといへども一隻眼(いっせきがん)あり。大魔縁は、氷輪(ひょうりん)ただよふ底の水漬(みづ)(かばね)こそ(きく)すれ。屍の腕に刺せる(すみ)を見れば日の本とあり。これぞ我らの(まこと)の母なる。今の日の本は日の本にあらず、(かたき)の騙り名なり。発明なる魔縁よ、偽りの天を回せや回せ。回して、魔縁による魔縁のための大日本國を(はじ)めん。会麼(えするや)

(大魔縁には水掻きがないが、真実を見通す第3の目がある。(仏と違って)月が浮かぶ池の底に横たわる死者をこそ引き上げんとするのだ。この死体の腕には『日本』と刺青がされているではないか。これこそが我らの真の母であるのだ。(当然ながら)今の日本は日本ではなく、敵が仮冒(かぼう)しているのである。賢明な魔縁群諸君よ、天下の情勢を一変させてしまおうではないか。好機を逃さず、魔縁による魔縁のための大日本国を建国しようではないか。わかったな)



 国盗りを、宣言した。

 魔縁は酔いが回っている状態であり、また尊栄独特の表現だったが故、意味を咀嚼すべく沈思黙考した。かと思えば、過熱した液体が突沸するかのように熱狂した。この時の『会せり、我会せり(わかった、わかった)』との絶叫は、魔縁群、そして北嶺宮家の軍特有の鬨の声となった。


 尊栄は修行中、鎌倉軍事政権と戦争したい気持ちについて再検討していた。

 そしてその気持ちは変わらないどころか、寧ろ嘗てよりも強まっていた事に気付く。では何故強まったか。今度はその根拠について思い巡らすと、朝幕以上に自分達の方が上手く天下を治められると確信している事に気付く。

 事実、尊栄=啓良王以前の支配層は、特に遠国や辺鄙の地に対して顕著に見られた特徴だが、統治に対して怠惰でありながら利益だけは何としてでも毟り取ろうとしてばかりいた。全国規模の政権だった鎌倉軍事政権でさえ、利益を啜ることを好み、しかし面倒になれば朝廷に押し付けるといった姿勢であった。啓良王以前の日本(現・大八洲地方)は内乱状態こそが平常の状態だった程だ。それ故、啓良王及び元組織犯罪シンジケートによって構成された政権の政治は、病的或いは狂的なまでに丁寧で真剣に、日本史に画期を成す出来事だと評される。


 尊栄は政権を合法的に得るに当たって、身分意識が障壁になると考えた。

 身分意識は、朝廷も鎌倉軍事政権も、そして自らを除いた遍く人民に受け入れられていたからだ。それらのいずれかに寄生し内から乗っ取ろうにも、それを成すには時間と思想的カリスマ後継者を要するので、両方に壊滅的な被害を与えてその肉を呑み込むことに決めた。では何処から如何盗るか、それの思索を巡らせる時間が修行中の殆どを占めていたのだった。


 尊栄は先の演説の後、蝦夷地改め北海道、琉球改め沖縄県を魔縁群の主要な拠点とし、南北から日本を併呑していくことを宣言した。

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