三権国時代(インターネット百科事典のページから抜き出し)
大日本國・大八洲地方の中世史(三権国時代)
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【三権国時代】
★詳細は「三権国時代」を参照
皇紀1839年、平清盛は朝廷を武力で支配し(『治承三年の政変』)、武家として初の政権を築くも、平家の独裁に反発する武士は現・大八洲地方の各地で挙兵した。その中の一人であった源頼朝は、妻・北条政子の実家の北条氏や平家と対立する武士を味方にして関東を制圧する。皇紀1845年、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源頼朝は、弟・義経が後白河法皇から院御厩司(太上天皇や法皇の親衛隊職)を任命されたことを謀叛と認定した。そしてそれを口実に朝廷を恐喝し、守護(各国の軍事及び警察を担う職)・地頭(荘園の管理者)を設置する権限を得て、鎌倉に武家政権を草創した。更に奥州(現・東北地方)で独自に勢力を築いていた奥州藤原氏を滅ぼすと、その3年後の皇紀1852年、征夷大将軍に就任し、鎌倉を根拠地とする軍事政権を樹立する。
源頼朝の死後、子の頼家が若くして第2代征夷大将軍になると、御家人達が台頭していく。北条政子の父・時政、弟・義時父子を始めとする13人の御家人が訴訟の裁決を行う事になり、将軍権力は制限されていった。元々、東国の武士達は自らの所領や権益を守る為に頼朝の挙兵に参加した事もあり、政権基盤が固まって以降、将軍の権力を抑えることに意を用いるのは自然の帰結であった。
取り分け北条時政は、源頼家の後見人である比企能員を滅ぼし、頼家の弟・実朝を擁立して征夷大将軍位に就けるなど謀略を巡らせ、御家人筆頭として将軍を補佐する執権の地位を築いた。しかし娘婿を将軍にする計画が露見して失脚すると、義時が執権職を引き継ぎ、有力御家人の和田義盛を滅ぼして北条氏の覇権を確立する。以後、執権の地位は義時の子孫に受け継がれていく。
皇紀1879年、鎌倉軍事政権第3代征夷大将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁(兄・頼家の子)に暗殺された。この暗殺事件については、公暁が自らを東国大将軍と呼ぶよう求めたことから将軍職を狙う野望によるものであったとも、実朝が後鳥羽上皇に心酔し、朝廷を重んじる姿勢を見せたことに危機感を抱いた御家人達が公暁を利用したとも推測されているが、結局その真相は不明である。実朝には子がおらず、次の将軍には摂関家の九条道家の子・頼経が迎えられた。
以後、将軍職には摂関家や皇族が就任するようになるが、これは将軍職には身分ある者が就くという意識、鎌倉側と朝廷の対立しつつも協力し合う関係性、京の皇族の血が絶えたり対立した時に繫げさせる目的など様々な要因があった。
実朝の死後、朝廷と鎌倉軍事政権の関係は急速に悪化していく。朝廷は不逞な地頭の更迭や消失した内裏の再建などを鎌倉側に要求するも、鎌倉側はこれに応じようとしなかった。そんな鎌倉側の態度に業を煮やした後鳥羽上皇は、挙兵及び政権転覆を決意した(『承久の乱』)。皇紀1881年、畿内で活動する武士を京都に招集し、全国に北条義時追討の宣旨(朝廷の命令書)を発した。
後鳥羽上皇挙兵の報が鎌倉に伝わり、上皇から受け取った宣旨を読めなかった御家人を通してそれが事実であると判明すると、朝廷か鎌倉軍事政権の何方に付くべきか迷う者が多くおり、鎌倉側支配下は動揺した。ここで、北条政子が武士の地位を高めた源頼朝の功績を説いて説得し、御家人達は結束して上皇方と戦う決意を固めたとの美談が伝わっている。実際には、上皇の治世では所領がどう扱われるかわからないなど、上皇側に付くことの利益がわかっていなかったことや、率先して上皇側に付く者がおらず、寝返れば即座に鎌倉側の討伐対象となることが大きかった。北条義時の嫡子・泰時を総大将に19万騎の鎌倉軍は東海道・東山道・北陸道の三方面から西上。後鳥羽上皇の挙兵から僅か1ヶ月で京都を制圧した。
乱後、鎌倉軍事政権は後鳥羽上皇と子の順徳上皇を配流し、新天皇を擁立。京都の警固や西国御家人の統括を行う西の軍事政権たる六波羅探題を設置して朝廷への監視を強めた。後鳥羽院の子で順徳院の兄である土御門上皇については、承久の乱に関与しておらず処罰の対象外であったが、後鳥羽院が遠流であるのに自分が京にいるのは忍びないとして自ら土佐に流されている。
西国に集中していた上皇方の公家、武士の所領三千余は鎌倉軍事政権に没収され、東国御家人を地頭として派遣した。地頭は年貢を収奪すればする程自らの収入が増える仕事である為、御家人達は各地でその土地の事実上の支配者となっていく。また鎌倉側は守護・地頭を補任する権限をも獲得しており、東国に限定されていた影響力が西日本に及んで全国規模を支配する政権に脱皮し、武力だけでなく世俗権力でも朝廷に優越するようになった。更に御家人の筆頭であった北条氏が、幕政を差配する執権政治が確立していく。
北条義時の死後、第3代執権・北条泰時の下で執権政治は全盛期を迎える。泰時の代で連署(副執権)の設置、合議制による政務・裁判制度の整備、武家初の基本法である御成敗式目の制定などを行われ、鎌倉軍事政権の基盤がここに来て漸く固まった。
第5代執権・北条時頼の頃から、北条氏の宗家である得宗家の力が強くなっていく。宝治合戦で三浦氏を滅ぼし、得宗家の私邸で鎌倉側の重要事項を決める寄合を設置するなど得宗家の専制化を進めていった。後嵯峨上皇の皇子・宗尊親王を将軍に迎えることで、軍事政権の権威向上も図られた。これには、当時の将軍だった藤原頼経の父・九条道家が権勢を誇り、鎌倉側の政治に介入することを危険視する向きがあったので、朝廷を刺戟し過ぎないよう穏便に排除する目的もあった。
北条時頼は執権を辞し出家した後も実権を握った。これにより、鎌倉の最高権力者が執権ではなく得宗であると見做され、得宗専制政治への道が開かれた。
尚、この宗尊親王が任官して以来、征夷大将軍職は4代81年間に亘って、皇子や皇孫らが就くようになった。換言すれば、この宗尊親王の任官がきっかけで、鎌倉軍事政権が滅亡した時点(皇紀1993年)では源氏将軍よりも親王将軍の方が世人に親しまれるものとなった。そしてそのことは、関東以東においても日本の統治者に値するのはやはり皇族であるという意識、即ち統一国家としての日本建国の精神的下地となった。
この頃の安嘉大陸では、大モンゴル国が朝鮮や中国にまでその支配を広げていた。
そして大元王朝を建国した皇帝・クビライ=ハーンは、高麗人の官吏である趙彝の進言やマルコ・ポーロの『東方見聞録』で黄金の国ジパング、即ち現・大八洲地方に関心を持つ。遊牧民は定住民の富を掠奪し、それを分配することで配下を満足させ、そしてそのことで組織を運営し、かつ強めていく。モンゴルはこれを繰り返す中で巨大化し、帝国に発展したと云えよう。従ってモンゴルは、従来のように自国経済のために他国へ服属を要求し、その国である日本の鎌倉軍事政権第8代執権・北条時宗はこれを拒否した。こうして二度に渡るモンゴル軍の日本遠征が決行された(『元寇』)。
日本はこの元寇に勝利したものの、国土防衛戦であったことから新たな領地を得られず、当然ながら御家人達への恩賞も少なくなった。それに、このような未曾有の事態における恩賞配分を想定していなかった。また、鎌倉軍事政権は更なる国難、この場合は3度目の襲来に備えるべく、諸国の兵糧の確保、非御家人達を動員できる権限を得た。その上で、御家人達には異国警固という大義名分で沿岸防備を継続させつつ、中国・九州諸国の守護に北条一門を任ずるなどして勢力を増大し、得宗並びに北条一門権力を強化していった。当然、御家人達の不満は高まった。
皇紀1944年、北条時宗が急死し、14歳の北条貞時が跡を継ぐと、得宗の家臣である御内人と御家人達の対立が激化する。翌年、内管領(御内人の筆頭)の平頼綱が、貞時の外祖父である有力御家人・安達泰盛を滅ぼして実権を握った(『霜月騒動』)。時宗の死後、泰盛が実行した訴訟や御家人統制に関わる急進的な改革への反発が原因だったと考えられている。
しかし、その平頼綱も8年後、北条貞時に討たれ(『平禅門の乱』)、鎌倉側における全権を得宗の貞時が掌握し、得宗専制政治は絶頂に達する。貞時は訴訟裁決の諮問機関である執奏を置いて裁判権を掌握。九州の御家人統括に当たる鎮西探題を設けて、北条一門の金沢実政を任ずるなど得宗権力の強化に努めた。
皇紀19世紀初めから現・大八洲地方では貨幣経済が本格化し、それに併せて流通が活性化したり多数の村落が形成されたりするなど、社会が大きく変動し始めた。その中で起きたのが元寇であり、社会の変容はより劇的なものとなっていった。御家人の中には、貨幣経済とそれによる社会変容に取り残され、また元寇後から続く異国警固番役の負担の大きさや当時の武士の相続制度によって没落する者がいた。当時は一門の子女に所領を分け与える分割相続が基本だったのだが、当然ながらこれでは代を重ねる毎に所領は細分化され、収入は激減していく。
貞時が執権になる頃には多くの中小御家人達が窮乏に喘いでおり、酷い場合は所領を売り払う御家人さえいたと伝わる。
皇紀1957年、鎌倉軍事政権は永仁の徳政令を発して、御家人が売却・質入れした土地を無料で返却することを命じた。この徳政令により、人々は打撃を受けて経済は混乱した。更にこの債務放棄は人々に不信感を与えた。御家人から何らかの物品を購入しても、その御家人が貧しくなれば鎌倉からその物品を返却するよう命じられる危険性が浮上したのだ。その結果として御家人と取引そのものを避けたがるようになり、御家人は一層困窮して鎌倉軍事政権への不満は強まった。更に恩賞だけでなく訴訟も停滞していたので、鎌倉への不満は不信にさえ繫がっていった。
社会不安が広がる中、各地では悪党と呼ばれる武装集団が現れた。悪党は合法的、非合法的手段で荘園を取るようになり、鎌倉軍事政権の威権と支配は揺らいでいった。
鎌倉軍事政権が御家人の救済に力を注いでいた頃、京都では天皇家の皇統皇位を巡る内紛が深刻化していた。
その発端は皇紀1932年、後嵯峨上皇が後継者を決めずに崩御した事から始まった。
貴族達は、本来は一介の護衛に過ぎない武士が反旗を翻すばかりか東方で政権を得た事に危機感を覚えていた。それに加えて、承久の乱では朝廷軍が敗北し、上皇や天皇の流罪が行われた事から貴族社会、既存秩序が危殆に瀕していると考えた。それ故に朝廷内では、現実主義路線で権力を取り戻そうとする思想・運動が盛んになる。乱後、征夷大将軍に就任した藤原頼経の父である九条道家が権勢を強めていたが、道家も積極的に朝廷政治の改革を進めた。その運動の一つに徳政があった。徳政は貧民救済や神事の興行、訴訟処理などの社会政策で、朝廷はこれを通じて権勢を再度強めようとしていた。
ところが皇紀1906年(寛元四年)、道家は将軍頼経の失脚とともに蟄居させられた。道家と頼経の権勢が強大化したことを、鎌倉軍事政権に警戒されたのである。道家政権の末期に天皇になったのは、鎌倉側の支持を受けて践祚した後嵯峨天皇であったが、道家が失脚した年に後嵯峨は息子の後深草に譲位して院政を開始した。鎌倉は、後嵯峨院政が開始されて間もない朝廷に、徳政政策に力を入れ朝廷政治の刷新を図るよう申し入れた。それを受け、朝廷では公家のなかから評定衆を選び、その合議で重要事項を決定することにした。このとき導入された評定衆による会議のことを「院評定」という。鎌倉側は既に評定衆を置いていたので、朝廷も同様の制度を取り入れたと見て取れる。
それと同時に、院評定制は朝廷の伝統的な会議を継承している面もある。朝廷では長らく、大臣・納言・参議などの議政官による会議が最高議決機関であったが、承久の乱前の院政期では、重要な事案でも院が極少数の近臣に諮問をするだけで決めてしまい、議政官会議が十分に機能していなかった。その為、後嵯峨より前の院政は、院一人の思惑に左右される専制的な院政であったと云えよう。それに対して後嵯峨以降の院政は、評定衆に大臣クラスや参議クラスからも選出している。後鳥羽上皇が承久の乱を起こすに至った理由を専制性と独人故の浅慮や情報の不確かさに見出し、評定衆の合議の結果を踏まえるという、謂わば議政官会議に倣った制度である。
天皇親政期には議定衆が置かれ、その合議制が運営された。そしてこの時代、政治を執っていれば院も天皇も共に「治天の君」と呼ばれた。院政であろうと天皇親政であろうと、類似した体制下で政治が為されていた訳だ。
このように後嵯峨は、朝廷内の一政治家としては種々の改革を取り入れるなど生前から評価は高かったが、治天の君の座を誰に譲るかを明言していなかった。
この時代の日本は、律令国家から進化した王朝国家『朝廷』と、土地所有を旨とし、御恩・奉公の関係で成り立つ封建国家である『鎌倉軍事政権』がそれぞれの法・裁判権で俗世という物質世界を統治し、寺社勢力が精神世界を統治していた。一勢力が他勢力を圧倒して完全に服従させられなかったので、それぞれの足りない部分を補い合い、時に領分を侵し合って一国家を形作っていた。これ故に『三権国時代』と。称する
それ故に後嵯峨は、共に俗世を支配する鎌倉軍事政権の意向や裁定であるなら、誰が後継になっても良いと考えたと推測されている。また鎌倉は以前から朝廷政治の状況を批判的に見ており、朝廷に対して度々一層の徳政を求めていた。朝廷が徳政を本格化すると、それに従い、「武者の世になりける」以前へと復古する思想に結び付いた。これに危機感を覚えていた鎌倉側は、皇族に楔を打ち込む良い機会と考えて、皇位を巡る内紛に介入したという側面がある。後嵯峨から後継者選定を任された鎌倉は、候補である後深草及び亀山兄弟の母・大宮院に、後嵯峨の遺志を確認した。その大宮院の言葉に拠って、後嵯峨上皇の意思は亀山にあったと認定し、亀山が正当性と正統性を確保して治天の君になった。
その2年後の皇紀1934年(文永11年)、亀山は二の宮である世仁親王に譲位して後宇多天皇を立て、院政を始めた。しかしこれを不服とした後深草上皇は一の宮・熈仁の即位を望み、実現しなければ出家すると主張した為に事が紛糾した。
この頃の鎌倉は元寇を警戒しており、朝廷内部の諍いを早々に解消したい思いがあったが、同時にこれは朝廷が一層鎌倉に逆らい難くなる好機にも映った。鎌倉は熈仁親王を伏見天皇として即位させた。また皇位継承において、後深草の流れと亀山の流れの両統が交互に帝を迭立する両統迭立政策を提案した。その後、亀山・伏見両上皇の院政停止を行なった。当時の帝や院、その近臣の本音はともかくとして受け入れられたが、朝廷と鎌倉の間に緊張状態が生じた。
これに因って皇統は、後深草上皇の血筋と亀山上皇の血筋の二統に分裂し、暫く両統は皇位を巡って相争う事となったが、両統共に鎌倉への不信感は拭えなかった。因みに後深草の血筋は藤原基頼の邸にある持仏堂である持明院を御所とし、亀山の血筋は嵯峨の大覚寺で執務を行った為、それぞれを持明院統、大覚寺統と呼んでいる。
持明院統、大覚寺統それぞれの皇統は、政権を握るべく激しく争った。その度に鎌倉軍事政権が介入し、天皇交替のタイミングや皇太子の選定を指示した。その結果、持明院統と大覚寺統の間で政権が何度も移動する事になった。これを両統迭立が行われた証拠とする意見があるものの、必ずしも両統が天皇を交互に出しておらず、同じ皇統が連続して政権を握ることが屢あったので、厳密には「迭立」ではない。その時々において、鎌倉との駆け引きを優位に運んだ側が政権を勝ち取っていたのだが、それに有効な方法が訴訟制度の充実であった。
当時の徳政の代表格とされていたのが土地訴訟への対応である。
亀山は自身が天皇に在位していた期間と、息子の後宇多が天皇に就いている期間、政治改革を進めていった。鎌倉では安達泰盛が訴訟制度の改革に乗り出し、亀山も呼応して皇紀1945年(弘安8年)に朝廷政治の進め方を示した法令『弘安八年新制』を制定した。この新制では裁判についての条項が多数を占めており、朝廷の訴訟手続きを初めて成文化した法令として今尚高い評価が為されている。またその翌年には院評定を、国家的な事案を話し合う『徳政沙汰』と、土地訴訟を扱う『雑訴沙汰』に分けた。雑訴沙汰では訴訟の当事者を呼んでその主張を述べさせるなど、当時としては革新的な事を行っていた。この時期はまだまだ試行錯誤を繰り返している段階で、亀山は精力的に訴訟制度改革に取り組んでいた。一方の鎌倉軍事政権では、安達泰盛が皇紀1945年12月14日に平頼綱に殺害され、改革が中断された。亀山院政は安達の没後も続いたが、朝廷が変革を進めていく様子を見て警戒した鎌倉は、治天の君を後深草に替えるよう迫って院政は終焉を迎えた。
持明院統の伏見天皇は記録所の改革を行った。記録所は法律の専門家が集まり訴訟文書の審議などを行っていた機関で、天皇の親政を下支えしていた。その記録所に、訴訟当事者が口頭弁論をする「庭中」と呼ばれる法廷を設けた。大覚寺統の後宇多院政期には、院への取り次ぎ役である伝奏を訴訟処理の中枢に起用することで、より早く裁許が出せるよう改善した。両政権も徳政に取り組んでいるとアピールする為、訴訟制度の整備に心血を注いだのである。
そして皇紀1978年3月29日、大覚寺統から後醍醐天皇が践祚した。
後醍醐の即位は、元々予定されていなかった。
後醍醐の兄に後二条天皇がおり、彼らの父である後宇多は、後二条の血筋に皇位を伝えたいと考えていた。しかし、後二条の子である邦良親王は体が弱く、皇太子に据えるのは一旦見送られ、飽く迄繫ぎとして後醍醐に天皇位が渡った。その為に後宇多は、後醍醐に対して行く行くは皇位を邦良親王の系統に伝え、荘園などの財産も邦良に譲るように言い渡し、後醍醐の践祚と同時に院政を開始した。
後醍醐は翌年、庶長子・尊栄(後の北嶺宮啓良王)を自らの政権に招き、その実力を以て父帝・後宇多上皇の院政を停止して実権を握り、事実上の治天の君となった。
尊栄は幼少から優れた発明家として名高かった。
琉球(現・沖縄県)や蝦夷地(現・北海道)に布教しに行ったり、天台座主に就任するも12日で辞任したり、私設軍隊である魔縁群を率いてそれらの土地だけでなく日本各地を自領に組み込んだりするなど、異色の経歴の持ち主であった。その尊栄には政治の才能もあり、後醍醐天皇の政権運営をよく補佐して、鎌倉側に妨害されない程度の良政を行った。また日夜、父帝と共に密かに鎌倉軍事政権を滅ぼす計画や天皇を中心とした中央集権国家の建国、どのような国家体制にするかという密談を行った。密談には参加者を少しずつ増やして規模を拡大していった。
皇紀1987年(嘉暦2年)3月、倒幕計画が発覚した。この事件から始まる戦乱を「嘉暦戦争」という。
尊栄は戦乱勃発直後、後醍醐天皇の命令で還俗して啓良という名を賜った。
更には、新たに北嶺宮家(現・北嶺王家)を創設した。啓良王は、尊栄時代に設立した私設軍隊の魔縁群に加えて朝廷側勢力や、鎌倉と対立する各地の悪党や武士を味方にすると、卓越した軍事的才能で日本(現・大八洲)の非朝廷勢力の多くを滅ぼした。そして大政並びに領地及び住民を、光厳天皇と後醍醐上皇とに渡した(『大政奉還』『版籍奉還』)。
★詳細は「嘉暦戦争」を参照
大覚寺統及び持明院統の両統の合意の下、太政大臣に任じられた啓良王は、相国府開府の大命降下を受けた。