ケトシー朝の興亡
初代ケトシー帝は若くして武勇煥発、戦陣を駆ること豪放なるも兵士の機微には細心、能く士気を鼓舞し、一代にして大陸を平定するに至った。ケトシーは妻を娶らなかったが、戦地で三人の子を儲けていた。内治に興味の無かったケトシーは、腹心のホジョットを宰相に据えると、暫時の閑日月を愉しんだ。が、それも束の間、やはり性分に合わなかったのか、領主に据えていた三子にそのまま国を分け与え、わずかな近衛を供に、外海の向こうへと旅立ってしまった。
内治を任されたホジョットは呪術師であった。ケトシーは知らされていなかったが、荒れ果てた戦地が順調に治められていたのも、呪術による洗脳と粛清の賜物だった。またホジョットは、ケトシー出奔の際、彼が内乱を心配しているのを知ると、ある装置の作成を提案し、ケトシーの許しと補助を得て、それを完成させていた。
曰く、「三すくみ確殺平和装置」。ケトシーは、長子のドーに、次子ラエを呪殺する装置を与えた。同じく、ラエには末子モーンを、モーンにはドーを、それぞれ呪殺する装置を与えた。こうしてケトシーは名を捨てて旅立っていったが、残された子はたまったものではなかった。
特に、ラエは気まぐれであったため、彼の装置の標的になっている末子のモーンは眠れぬ夜を過ごしていた。悶々としていた。モーンだけに。末子で、領地の広さも豊かさも、貧窮するほどではないものの他の二人には劣るモーンには、大陸の覇権への野心などはなかった。ただ平穏に領地を守っていればよかったはずの日々に、暗い陰を差すラエの装置。どうにかラエの気まぐれから一族を守る術はないものか。
ある時、そんなモーンの元を、ホジョットが訪れた。
聞けば、ホジョットはケトシー出奔の後ドーに仕えていたが、ドーは早晩ラエを呪殺すると、ラエの旗を掲げて進軍し、次の月の無い夜にモーンの居城を襲撃する心算であるという。
ホジョットはドーの暴虐に見切りをつけ、モーンを訪ねたという。
「ラエ陛下は既に亡く、その脅威は去りました。モーン陛下におかれましては、どうか御決心下さりますよう。ただ白昼にドーが呪殺されたとあっては、内治に混乱を招くでしょう。月の無い夜、軍が森に潜んだ所で決行されるのがよろしいかと」
ラエが死に、憂いは無い。自分がドーを殺すのは容易い。大義もある。抑えていた野心の手綱は全て綻び、モーンに迷いはなかった。
こうして、待ち焦がれた月の無い夜、装置は起動された。斯くしてドー、ラエ、モーンの三子は互いに呪殺され、ケトシー朝の治世は二代で幕を閉じることとなった。名を棄てて海を越えた初代ケトシーのその後は誰も知らないが、版図がホジョットの手に落ちたのは言うまでもない。