加藤 1
ビル群が地平線の向こうまで続くかのように見えるメガロポリス、東京。
日本の首都であり、世界でも屈指の大都市でもある、23の「区」に分けられた東部エリアには今日も様々な人たちが生き交っていた。
そのビル群の区画の一角。渋谷区。若者の服飾を中心とした流行の発信地といわれる原宿を内包するこの街に一人の若者が息を切らしながら走っていた。
「クソッ!」
悪態をつきながら、たくさんの人々が行き交う雑踏の中を駆け抜ける。
「まちやがれ!!このクソガキ!」
走る若者の後方で若者と同じく、罵声を吐きながら走る男が二人。
「金返せ!!加藤!!」
柄の悪そうな風体の二人の男はどうやら、前を走る若者を追いかけているようだ。
「つかまってたまるか」
これまた、決して品行方正ではなさそうな風体の若者はつぶやきながら全力で逃げる。
この逃げる若者、加藤は必死の形相で道玄坂を抜け、原宿方面に向かってひた走る。加藤は俗にいう社会の底辺で生きていた。
両親はわからず、幼少のころより児童養護施設で育った加藤は中学校を卒業後より働き始めたが、もともと素行の悪かった彼は最初の職場から長く続かず、職を転々としていた。
20歳になるころには、借金をし始め、しまいには悪徳な高利貸しから借りるまで堕ちてしまっていた。
その借金も返せなくなり、いま加藤は窮地に立たされていた。
返せなくなったと表現したが、おそらく彼は最初から返す気など毛頭なかったのかもしれない。
センター街に入った加藤の前に高利貸したちの別の仲間が立ちふさがった。
「よお、クソガキどこへ行くんだ?大人をなめんなよ。」
立ち止まった加藤に追いかけていた男たちも追いついた。
「事務所に来いや、加藤」
立ちふさがった男二人の片割れが仁王立ちで威圧する。
「くそ、もうだめか」
加藤は退路を立たれ、渋々男たちについていく覚悟を決める。
新宿のとある雑居ビル。加藤は男たちに連行され椅子に縛り付けられていた。その顔には大きな痣ができていた。
「加藤君。借りたものはちゃんと返さなきゃならんな。」
高利貸したちの事務所の一角、大きな事務用机が並べられている中でひとつだけ独立した置き方がされている。その机に座る男。どうやらこの男が、高利貸したちの代表のようだ。
「どうやって借りた金を返してもらえるか。返済計画の話をしようか。」
このご時世なのに、机の上には灰皿がおかれていて、代表の男は煙草に火をつけて深く煙を吸う。
加藤は代表の机の前で縛り付けられた状態で椅子に座らさせられている。その周りを高利貸したちが囲う形で、尋問を受けていた。
「加藤君。君が借りた金額は20万円。うちの金利は残金に対してトイチ。借りてから3か月。君は1円も返してない。今、君が返さないとならない金額は遅延金も含め、60万。この金をどうやって返してもらえるか話し合おうじゃないか。」
加藤は眉一つ動かさない。
「おい、こいつの今の仕事は?」
代表が部下の一人に問う。
「加藤は今無職です。」
「銀行口座は?」
「1円もありません。」
「自宅の方は?」
「渋谷の笹塚の築40年のワンルームです。家賃は6万5千円。2か月ほど家賃を滞納しています。光熱費も同じく2か月滞納しています。」
「ああ、これはどうしようもねぇ。どうしようもねぇなぁ。なあ加藤君よぉ。」
「・・・。」
加藤は相変わらず、表情を変えず、代表を睨むように見ている。
「君との契約書には、返済能力が認められない場合はこちらが提供する手段にて必ず返済してもらうと書いてある。」
代表は加藤との契約書を見つめながら淡々と語るようにしゃべり続ける。
「・・・で何をするんだ?」
加藤が初めて口を開いた。
「おや?加藤君。君はこちらが提供する方法で返済するのか?自分には現時点で返済能力はありませんということか?」
加藤の額に軽く汗が浮き出る。
「お、おう。今の俺にはもうどうにもならねぇ。だから、てめえらのいうその「方法」ってので返してやる。」
代表は加藤に気づかれないようにニヤリと笑った。
「おお、そうですか。では、おい契約書を用意しろ」
部下にそう伝えると部下は書棚から書類を持ってくる。
「その契約書を読んでくれ」
部下が加藤の顔の前に書類をかざす。
「読むのは、難しいからいい。そんなことより名前を書かなくちゃいけないだろ。これ解いてくれよ。」
加藤が肩を動かして促す。
「そうですねぇ。それじゃあ書けないねぇ。」
代表が半笑いぎみに答える。
「おいそいつの首筋にナイフを突き立てながら、解いてやれ。」
「っ!?」
加藤は目を見開く。
「だめですよ。逃げようたってそうはいかない。いけないことだもんねぇ。なあ加藤」
代表の顔は笑顔だが、その目は冷え切った鉄のように冷たい。
「逃げるかよ。俺は覚悟決めてんだ。」
加藤は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
加藤の拘束は解かれ、代表の机まで近づき書類にサインをする。
「これでいいんだろ。とっとと煮るなり焼くなり好きにしやがれ!」
加藤は軽く声を荒げる。
「お前ら、「お客さん」を「博士」のところまで運んでやれ。」
代表が命令すると、部下たちが加藤の両手を背面で縛り、両足を縛り、目隠しをする。
「念の為、口もふさいどけ。途中で叫ばれるとうるせえだろ。」
加藤の口にガムテープが張られる。
「あとは頼む。」
代表は一言だけ告げると、部下たちは加藤を運び出していった。
埼玉県秩父群。小鹿野町。群馬県との県境に面した、山々が連なるこの町に一台のバンが入ってきた。白一色にフロント以外はスモークガラスが張られていて正面以外からは車内を確認することができない。
見た目にはどこかの作業車のように見える、この車の後部の荷台に加藤は乗せられていた。
加藤は眠っていたらしく、起きた時には、車がかなりの坂道をゆっくりと上っている感覚だけが体に伝わった。
(どこまで来たのだろうか。)
加藤はそんなことを考えつつ、拘束された状態で何もできず、ただじっとしているしかなかった。
やがて、車のうねるような動きが止まり、乗車席側の扉が開く音が聞こえた。どうやら目的地に着いた
ようだ。
「おい、ついたぞ。」
荷台のハッチが開かれ、加藤は車から降ろされた。
加藤は引っ張られながら、無理やり歩かされる。
途中、扉が開くような音が聞こえた。
「仲嶋さん、連れてきたぜ」
作業員に扮した高利貸しの一人が誰かに話しかけているようだ。
「待って居ったぞ。さあさあこっちにそいつをよこせ。」
しゃがれた男の声が聞こえた。
「待て、先に「アレ」はどこだ。」
「ちゃんとここにあるぞ。」
加藤は前方のほうでなにやら固い物質同士が静かにぶつかるような音を聞こえ、その後にカチャカチャと同じ方向より音が続いた。
「中身はちゃんとあるな。」
「今回は少し色を付けておいたぞ。こっちも持って行ってくれ。」
先ほど同じ静かな固い音がする。
「おう、太っ腹だな。先生。」
「「クスリ」の方はいつも通り、あんたらの上のほうへの品物だぞ。もうひとつの金の方はあんたらにだ。」
どうやら加藤を買ったのはこのしゃがれた声の男のようだ。
「ああ、また捌けたら、あんたの取り分を別のやつが持ってくると思うぜ。」
「これからも、よろしく頼むぞ。実験体の方もな。」
今度はカチャカチャという音が二回くりかえした。
「とりあえず奥の部屋までそいつを運んでくれるか?」
しゃがれた声の主が言うと、加藤はまた歩かされた。
何も見えない状態で加藤は周りに人がいる気配だけを感じながら、引っ張られながら進む。靴の先の感覚からは到底どういう場所を歩いているのかわからず、この時点になって初めて加藤の中には少しずつ不満の感情をふくらまし始めた。
(さっき、「実験体」とかいったな。俺は何をされるんだ?)
虚勢心だけでここまでやってきた加藤は恐怖が心の中を少しずつ、ふくらみながらほかの感情がつぶされていくように感じた。
「そこに寝かせてくれ。」
加藤は腕の拘束をほどかれた。その時、加藤は腕を振り回した。しかし、誰かに捕まれその運動が止まる。
「おっと、逃げようとしても無駄だ。」
加藤の腕は後ろから前で再び結ばれる。そのままベッドのような感触の場所に寝かされる。
「横のベルトでそいつをベッドに拘束しておいてくれ。」
しゃがれた声の命令とともに加藤の体が胸のあたりと腰のあたりと足首の上あたりを何かでベッドに押し付けるように平たいもので締め付けられる。
加藤は車に乗せられた時より、身動きが取れなくなってしまった。
「目隠しは取ってやるか」
しゃがれた声とともに加藤の顔に手がかけられる。
視界が急に白くまぶしくなる。長時間目を隠されていたため、尚更まぶしかった。視界が安定するのに数秒はかかった。
「ようこそ。」
しゃがれた声の主の顔が加藤の目の前に現れる。
「申し訳ないが、この窮屈な状況で待っていてくれ。」
しゃがれた声の主、仲嶋は見た目には60代だろうか。その顔の皺と声の質が加藤にそう思わせた。