第九話 嫌われ者の皇后
シンデレラストーリーの現実など、大概こんなものだろうという話。
乳母が語る過去————。
「話してもらえますか。二十年前の皇宮で、一体何があったのか」
真っすぐに見つめる季翠に、劉夫人は彼女には珍しくたじろいだ様子を見せた。
「……一体、どこから話したものでしょうか」
先ほど蒼旺のことを饒舌に話していたのとは打って変わり、口ごもり始める。
伯大将軍から事前に聞き覚悟はしていただろうが、どうにも彼女は、本心ではこの話題を話したくないようだった。
昔からそんなところはあった。
幼い頃、季翠とて己の父母を知りたいと思うことがあった。
しかし父母のことを尋ねても、乳母はいつも当たり障りのないことしか言わなかった。
何を聞いても似たような模範的な回答しか口にせず、いつしか聞くことをやめてしまった。
物心ついた時から父母はいないのが当たり前だった為、皇族とはそんなものなのだろうと思ったのだ。
しかし今思うとあれは、まるで深く触れられるのを恐れるかのようだった気もする。
黙り込む乳母に追い打ちをかけるように、季翠は口を開いた。
「皇宮では、鶯俊皇子が偽物ではないかという噂が、まことしやかに囁かれています」
夫人の細い肩が、ぴくりと反応した。
「ばあや……いえ、劉夫人」
「貴女は当時、皇后の侍女の一人だったそうですね。この噂について、何か知っているのではないですか」
夫人はとうとう俯いたまま黙り込んでしまった。
ならば仕方ない。
「私は伯大将軍から、蒼旺皇太弟が皇子と乳母子を取り替えたのだと聞きました」
「蒼旺皇太弟にも、皇位継承権はある。帝位を狙い、兄帝の子を害そうとしてもおかしくは——「そのようなこと……‼」」
劉夫人はばっと顔を上げると、季翠の言葉を遮って言い募った。
「有り得ません!蒼旺様が帝位を狙っているなどと……っ」
「蒼旺様はっ、本当に陛下のことを敬愛なさっておりました。将来、陛下をお支えする宰相になるのだと言って……!」
それなのに帝位を望むなどと……!
「(帝位を狙っているというのは否定するのに、子の取り替えはすぐに否定しないのか)」
やはり、彼女は何かしら知っているのだろう。
肩で息をする夫人の呼吸が整うのを待ち、季翠は静かに口を開いた。
老体にこれ以上負担をかけるのは忍びなかったが、致し方ない。
「――――”蒼旺は、お前の母親を嫌っていた。かく言う俺も大嫌いだ”」
「”あの女にいなくなって欲しいと思ってる人間は、この国には五万といる”」
劉夫人の目が、大きく見開かれる。
「ここに来る前、伯大将軍が私に言った言葉です」
翠様に何ということを……夫人の声は、酷く擦れていた。
沈黙が流れた後。
彼女は目を固く瞑ると、覚悟を決めたようにおもむろに語り出した。
「……ニ十年前のあの日のことは、今でも忘れることができません」
声は、深い悲しみに満ちていた。
「――――当時、帝都では二人の女人が身籠っておられました」
「一人は、翠様の母君である雨鳥后様」
母の名は、雨鳥と言うのか。
季翠はこの時、初めて母の名を知った。
「そしてもうお一人が、蒼旺様のお妃であらせられた張翠儀様でございました」
「張翠儀……」
「張副宰相の姫君です。陛下と蒼旺様の従姉妹にあたる姫君で、」
ここまでは知っている。
しかしそこまで言って、途端に劉夫人は歯切れが悪くなる。
無言で先を促す季翠に、彼女は観念したように口を開いた。
「……元々は、陛下が皇帝となられる前……后に内定していた姫君でした」
「!」
初耳だった。
つまり、皇太弟妃は本来なら父帝の婚約者だったのだ。
流石にここまでは記録にはなかったし、黄允も語らなかった。
「……陛下は、雨鳥様を皇宮にお連れになってすぐに、翠儀様との婚約を破棄なさいました。そして即位後雨鳥様を皇后に立后し、残された翠儀様は、後に蒼旺様に嫁がれたのです」
「(……道理で言いにくそうにするわけだ)」
生母の生家で尚且つ、歴代皇后を多数輩出してきた名門貴族家出身である従妹姫との婚約を破棄し、突然連れ帰ったどこの馬の骨とも分からぬ小娘を皇后に立てる。
はっきり言って、とんでもない暴挙である。
よくそんなことができたと思う。
張家の面目は、丸潰れだろうに。
それを考えると、張副宰相はよく季翠にあれほど親切にしてくれたものだと思う。
何にせよ、おいそれと口に出せるような話題ではない。
黄允が語らなかったのは正しかっただろう。
父が皇帝に即位すると共に、母は皇后に立てられた。
しかしその後、十年近くもの長い間子に恵まれることはなかった。
「子がいないのに、いきなり皇后として立てたのですか」
「……ええ、まあ」
ここからは便宜上、彼女と呼ぼう。
確か府庫で俊煕が調べていた記述では、丁度この空白の十年の間に張翠媛を除く元四夫人の妃達が、続々と後宮に入宮しているはずだ。
流石の緑龍帝も、通うことは拒否できても入内までは拒めなかったのだろう。
彼女が皇后の位を降ろされるのは、時間の問題だったのかもしれない。
かつての皇后候補第一位であった張翠儀も、この時期はまだ皇太弟に嫁していない。
本来ならもっと早くに廃后されていてもおかしくはない。
子がいなかったのなら、尚更だ。
しかし立后の経緯から考えて、それほど緑龍帝の力が強かったということだろう。
そしておよそ十年後、ようやっと彼女は子宝に恵まれ、男女の双子を産む。
それにより何とか皇后としての地位を確立したというわけだ。
「(ここで皇子が生まれていなければ、皇后は廃位されていた可能性があった……)」
季翠の頭に、先ほどの虎雄の言葉が思い出された。
いなくなって欲しい―———当時それを望んでいた人間は、どれほどいたのだろうか。
そして皇子が産まれたことを、どれほどの人間が苦々しく思ったのか。
自然と、言葉がついて出た。
「嫌われ者の皇后……」
「翠様」
何と言うことを言うのだと、季翠の呟きに夫人が非難の声を上げた。
北部の街の露店で見た恋愛小説が、脳裏を過った。
現実は恋物語のように、幸せなものとは限らないということなのだろうか。
「実際、そうだったのではありませんか」
「……何も、蒼旺様に限った話ではありません」
それはつまり蒼旺に限らず、皆が、そう思っていたと。
劉夫人は、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「雨鳥様御自身がどうこう……というよりも、」
「陛下は……それまで本当に非の打ち所がない、絶対的な王者でいらっしゃいましたので、皆すぐには受け入れることができなかったのです」
「特に蒼旺様は……雨鳥様が来られた当時はまだ少年という年齢で、陛下をとても慕っておられましたので……」
彼は兄が突然連れ帰った娘を、まるで悪鬼に対するかの如く嫌悪したのだと。
季翠は先ほど夫人に発破をかけた言葉の通り、蒼旺が子を取り替えた理由を、最初は帝位狙いだと考えていた。
しかし話を聞く限り、どうやら本当は違う理由なのかもしれない。
「(……彼は、大切な兄に傷をつけられたと思ったのかもしれない)」
忠誠心の厚い者ほど、受け入れられないと思うのかもしれない。
一点の染みが、許せない大きな穢れに見えてしまったのかもしれない。
「雨鳥様よりも数日先に、翠儀様は産気づかれました。そして無事に御子を御産みになられましたが、そのまま……」
「亡くなった」
「……元々御体の弱い方でした。加えて、翠儀様は陛下と同い年でいらっしゃいましたので、通常の初産を迎える者達よりも、年齢が少し……」
夫人はそこで言葉を控えたが、張翠儀の出産が然程優先されなかったであろうことは、容易に想像がついた。
「(本来の皇后の位に就くことさえできていれば、翠儀の出産には万全の体制が敷かれたのかもしれない)」
だがそうはならなかった。
兄の汚点。
妻の……本来なら義姉となるはずだった姫の死の遠因。
それにより、皇太弟は子の取り替えを行うに至ったのだろうか。
産んだ皇子の正統性さえなくなれば、憎い女を排除できると————。
「翠儀妃が産んだ子は?」
「男児お一人だったと、聞いておりますが」
「……そうですか」
皇宮で会っているだろうに、なぜそんなことを聞くのかと夫人は不思議そうだった。
「(単純な記載漏れだったのだろうか……)」
「――――翠様は先ほど、蒼旺様が子を取り替えられたのではないかと、仰られましたが……」
「確かに、蒼旺様は雨鳥様のことを嫌っておいでした。しかしだからと言って、蒼旺様がそのようなことをなさったなどと、断言できるものでしょうか」
確かに、それだけでは決めつけることはできない。
しかし。
「……では、処刑された乳母は?」
季翠の問いに、劉夫人は今度こそ絶句した。
何故それを。
そんな顔だった。
「知らないと、言わないでください。少なくとも彼女のことについては、貴女は知っているはずだ」
同じ侍女仲間だった人間のことだ、知らないはずがない。
夫人の表情に、怯えが混じる。
やはり彼女は何かしら知っているのだ。
「わたくしは、本当に何も知らないのです……」
「わたくしが、わたくしが知っているのは……」
「――――乳母が……彼女が、処刑される前日、酷く狼狽していた、ということ、だけでございます」
狼狽……。
「彼女に何があったのですか」
「分かりません。しかしその後すぐに……」
—―――処刑された。
「(どういうことだ……?)」
では、虎雄たちが言っていることは間違いなのだろうか。
やはり乳母の方が、子を取り替えた……?
—―――待て。
そもそも、いつの間にか前提が狂ってはいやしないか。
話では、「乳母子と皇子が取り替えられた」だった。
しかし季翠が知っている現状は、皇子の方が皇太弟の子とされ、そして乳母子が皇子となっている。
では本物の皇太弟の子は、一体どこに行ったというのだ。
そもそも誰が誰の子、なのだ。
せめてこれだけは確認しなければ。
「……乳母子が、いたはずですよね。その子も、共に処刑されたのですか」
劉夫人は首を横に振る。
「乳母子は、姉と共に皇宮を去りました」
「……………………姉?」
「ええ。乳母には、皇子殿下方の乳兄弟である子に加え、上にその子の姉である娘がおりました」
「乳母子の、名前と性別は……」
「性別は男の子でございました、名前までは……。ですが、その姉の名でしたら憶えております」
「その、姉の名は、」
矢継ぎ早に尋ねる季翠に、夫人も必死に記憶を辿っているようだった。
確か……。
「――――――――”鷺舂”、と言ったはずですが」




