第六話 約束
馬車は雪道を進む。
かつてと違うのは、もう娘は赤子ではないことと、鷺舂もまた幼い少女ではなくなったことだろうか。
結局、あれから夫とはろくに顔を合わせることができないまま、鷺舂は娘と共に北陵を出立することとなった。
葵戰毅が入内の話を口にした次の日には、帝都から派遣されたという使者が玄武城にやって来た。
これが、なかなかの曲者だった。
入内の為の諸々の支度や荷物も、帝都で整えたら良い、後から帝都に届けさせれば良いと言い、言葉巧みに出立を急かした。
雪で街道が閉ざされては敵わないと、年が明けるのなど待ちきれないとばかりに。
その為、結局彼女達は身一つに近い状態で帝都に向かうこととなった。
本来ならこんな急ごしらえの入内など、有り得なかった。
ましてや今は冬。
帝都への道のりも、通常よりもかなり険しく時間がかかるだろう。
葵戰毅がいれば強引な使者を止めただろうが、生憎と彼は今、玄伯黎の残党にかかりきりになっていた。
先日の兵が駆けこんできた事件。
あれは亡き玄伯黎の配下を名乗る輩が、主の仇を討つと、宣戦布告をしてきたという報告だった。
それを皮切りに、北陵ではその伯黎の残党による兵舎への襲撃、食糧庫の焼き討ちなどの騒動が多発していた。
再度言うが今の季節は冬である。
それも、これから北は益々厳しい冬に襲われるという時期だ。
そんな時の貴重な備蓄への損害は、かなりの痛手であった。
また北方異民族に対しても、警戒は怠れなかった。
盟約を結んだ相手で、先の騒動で協力関係をとったとはいえ、彼らは本来味方ではない。
こちらが弱れば、その好機を決して見逃したりはしない相手だ。
その為戰毅は北を離れることができず、鷺舂だけが玉翡に付き添うこととなった。
落ち着き次第帝都に向かうと戰毅は言ったが、それもいつになることか。
また、同行者には玄家の三男が混じっていた。
何やら先に賢妃として入内している妹に、急ぎの届け物があるのだとか。
使者は良い顔をしなかったが、玄当主の強い希望で渋々同行を受け入れた。
しかし彼は、最近城によく顔を出し、玉翡を憎からず思っているようだった。
そのせいだろうか。
彼の表情は、硬かった。
玉翡の方も、気丈に常と変わらぬ様子を見せていたが、ふとした時に見せる表情は寂し気なものだった。
今は慣れぬ雪道の移動に疲れ、鷺舂の肩に頭をあずけて眠っている。
その小さな頭を撫でながら、鷺舂は遠い昔に思いを馳せていた。
思い出していた。
かつて交わした————”約束”のことを。
正直、当時の記憶は酷く朧気だった。
はっきり憶えているのは。
月が、この世のものとは思えないほど美しかったこと。
それに照らされた、笑う、同じくらい美しい男の顔。
それだけは、はっきりと憶えていた。
その時、本当に恐ろしいものは美しいのだと、彼女は知ったのだ。
あの忌まわしく、恐ろしい夜から一体幾夜過ぎ去ったのか。
そして。
「約束を果たす為の……犠牲……」
男が言った、あの言葉。
どうして忘れてしまっていたんだろう。
忘れてはいけない、とても大切な記憶のはずだったのに。
それとも自分は。
「……忘れてしまいたかったのかしら」
あの約束が果たされるというのは、嘘を、偽りを、貫き通すということだから。
あの子がまだ生きていて、あの場所にいるということは、そういうことだ。
そういうこと、だったのだ。
「私は……」
玉翡の頭を胸に抱き寄せる。
—―――この気持ちを、約束を交わした相手も、覚えたのだろうか。
*
覚悟を決めた季翠がまずやったのは、伯虎雄に話を聞くことだった。
とはいえ相手は虎雄である。
彼は聞かれたからといって、素直に口を開くような男ではない。
季翠は無視を何度も受けながら、懸命に追いかけ回す日々を過ごすこととなった。
邸にきた初日は、これでもかというほど季翠を口でこてんぱんにしたというのに。
肝心なことをあの口は喋らないのは、本当に腹が立つ。
要は気分なのだろう。
昔は彼の姿を見た瞬間逃げ回っていたというのに、今では見かけた途端逃がさないように追いかけるなど、人とは変わるものである。
それに、追いかけ回されるのに怒り狂うかと思われた男が特に何の反応も見せないのも、季翠の行動を助長する一因になっていた。
今日も今日とて、庭で優雅にも雪見酒を傾けるおっさんの所に無理矢理乱入したところである。
「……また来たのか」
「二十年前のこと、教えてください」
ここ数日、こういう会話の始め方しかしていない。
「お前の顔を見ると酒が不味くなる」
非常に簡潔で分かりやすい嫌味である。
しかし。
だからどうした、である。
生憎とこんな言葉は、最早痛くも痒くもない。
これ見よがしに大きな溜息を吐かれる。
「――――本当に知りたいのか」
「……!」
てっきりまた無視されるか、そろそろ本気で怒鳴りつけられると思っていたのに。
これを逃してはならぬと、こくりと神妙に頷く。
それを盃に口を付けながら眺めた男は、何を考えているのか。
しばらく沈黙が流れる。
「……お前の乳母」
「劉夫人は、元々あの女――――皇后の侍女だった。当時のことは、俺よりも詳しいはずだ」
皇后をあの女呼ばわりとは。
本当に不敬な男である。
しかしつまりは、乳母に話を聞けということだ。
だがばあやこと劉夫人は、西牙にいる。
どうしろと……。
その疑問に、虎雄はすぐに答えを出した。
「劉夫人も帝都に来ているはずだ。話はつけておいてやろう」
「分かったらさっさとどっかに行け。これ以上酒を不味くするなら、本気で邸から叩き出すからな」
言うだけ言うと、今度は徳利から直接酒を飲み始める。
盃を投げつけられては敵わないと、慌てて逃げる。
言質は取った。
これ以上は触らぬ虎に何とやら、だろう。
その背に、虎雄の言葉がかかる。
「――――真実を知って尚、お前は姉を愛しているなどと言えるのだろうかな」
見物だな。




