第三十一話 別離の夜は凍えるようで
第三十一話 別離の夜は凍えるようで
蝋燭の火が、微かに揺らめく。
「劉炎様」
「何だ」
副官の呼びかけに、劉炎と呼ばれた男――――大影帝国宰相は筆の手を止めず、まるで怒っているかのような不機嫌そうな返事を返した。
しかし、別に彼は怒っているわけではない。
これが通常運転である。
上司の不愛想な態度に慣れきっている若い副官は、こちらも淡々と話し出す。
「何やら皇宮内で騒ぎがあったようです」
その言葉に、ようやく手を止めて顔を上げる。
「……」
確かに、微かに人の動く騒がしい気配が遠くでしているような。
元々自分は武官であったというのに、副官に言われるまで気づかないとは耄碌したものである。
「賊でしょうか。後宮の件といい、最近皇宮はきな臭いですね」
「……今日は帰るか」
「えっ!ほんとですか⁉」
劉炎の言葉に、副官は声を弾ませて聞き返してくる。
声音には、嬉しさが隠せていなかった。
皇宮では、宰相の副官はまず自宅に帰れないと専らの評判だった。
「お主に居残りで仕事を任せてもい——「お先に失礼します‼」」
副官は止める間もなく、風のように室を出て行った。
……まったく逃げ足の速いことだ。
溜息を吐きつつも、表情を引き締める。
無性に、胸騒ぎがした。
加齢による不調か、それとも……。
「何事もなければ良いが……」
念の為に皇帝の元に行こうかと思ったが、そもそも彼の御方は本日夕刻から皇宮にはいなかったことを思い出す。
副官に続き、己も帰り支度をすることにした。
日没後から降り始めた初雪は、今は止んでいるようだった。
一瞬だけ、雲間から月が顔を出した。
垣間見えた月は美しかったが、こんな日は、どうにも胸騒ぎがしてならなかった。
*
「――――どこかに消えてください、姫様。このままだと俺は、貴女を殺さなければならなくなる」
「し、四狛、殿、何を……」
一体、何を、言っているのか。
四狛のただならぬ様子に、季翠は後退る。
遠くで、人間が大勢動いているような騒がしい気配がしている。
彼は、季翠の護衛武官で。
付き合いはまだ短いとはいえ、西牙からずっと一緒で……。
季翠は、彼を少なからず信頼していて……彼は。
四狛は、ただでさえ冷えている室内で更に冷たい音を立て、剣を引き抜いた。
「……殿は、」
彼は。
—―四狛は、そうではなかった。
「貴女に、心底いなくなってほしいと思っておられるようです」
殿とは、一体誰だ。
その殿とやらが、季翠を排除したいと望んでいると。
その為に四狛は……。
喉を震わせながら、息を吸った。
「……ずっと、」
「ずっと、騙していたんですか……私を」
まるで氷が突っ込まれたように、胸に冷たいものが広がった。
彼は最初から、その主の命で季翠の護衛武官になったのだろうか。
西牙から麟翠、そして北陵。
その間ずっと、いつか季翠を裏切る為に、殺す為に、傍についていたのだろうか。
季翠の悲痛な声に、四狛は目を逸らして伏せる。
「……四男坊ってのは、嘘じゃないですよ」
最も、今の名前の意味とは違いますけど。
「俺には、殿に拾っていただいた恩があります。その恩を、俺は返さなければならない」
でも……。
四狛は突然前触れもなく、季翠に向かってずかずかと近づいてきた。
丸腰で何もできないながら身構えたが、剣を振りかざされると思いきや何かが目の前に突き出される。
それは、季翠の偃月刀だった。
いつの間に奪っていたのか、四狛はそれを強い力で腕に押し付けてくる。
兵らしき一団の気配が、もう宮の外に迫っている物音がした。
四狛により窓を開け放たれる。
凍える様な冷たい空気が、一気に室内に入り込んできた。
「お願いですから‼どこかに消えてください‼早く‼」
季翠は彼に激しく追い立てられ、突き飛ばされる勢いで乱暴に窓から宮を追い出された。
*
しんしんと静かに雪が降る中、夜が更けていく。
地面を白く覆われ始めた皇宮内を、慌ただしく兵等が駆け回っていた。
そんな中。
白く染め上げられた皇宮の門の一つ――未の門に、馬車が一台外に出ようと近づいていた。
「――そこの馬車‼止まれ‼」
突然の怒号に、御者がびくりと体を跳ねさせる。
手綱の引き手の動揺に、止められた馬たちも嘶きを上げた。
「検問である‼」
「車内を検めさせてもらう‼」
皇宮を守る、近衛将軍直下の近衛兵達だ。
揃いの薄墨色の衣と黒色の鎧は闇夜に溶け、雪の反射と松明の光で、辛うじて姿が分かる。
「何事か、騒々しい」
「りゅっ、劉宰相……‼」
表情を厳しく引き締めていた兵達だが、馬車の窓から顔を出した劉炎を見るや否や、真っ青になる。
劉炎が今乗っている馬車は、一国の宰相が乗るにはあまりに質素なものであった。
乗れれば良いという彼に対し、同僚の副宰相は「歳なのだから乗り物には拘った方がいい」と言ってくるが、結局面倒で変えず今日に至っている。
兵達は馬車の外装から、こんな高官が出てくるとは思っていなかったのだろう。
先程までの威勢は何処へやら、焦りと動揺が隠せていない。
劉炎はちらりと、近衛兵達の腰元を見遣る。
「(鳥形の玉佩……”烏隊”か)」
近衛の中でも精鋭揃いと聞いていたが、自分の如き老官の眼光に怯むとは情けないことだ。
「私は邸に戻るところだが、何用か」
「も、申し訳ありません……‼」
不機嫌そうだがただの通常運転である劉炎の言葉に、兵は怯えて平伏する勢いで礼を取る。
「一体何事だ」
「……箝口令が敷かれております故……」
「答えられぬと申すか」
「も、申し訳ございません……‼」
縮こまる兵達に片手を振る。
「よい。皆勤めに励むよう「宰相閣下」」
そのまま馬車を進ませようとした劉炎を、しかし一人の兵が引き留めた。
「御内密にお願いいたしますが、皇宮内で賊により、皇太弟殿下の御身がその手に掛けられました。我らはその下手人を捜索しております」
「どうか御協力いただきますよう、お願い申し上げます」
周りの兵等が劉炎に臆している中、その兵は果敢にも一団の中から進み出てくる。
ほお。
物怖じせず己に口をきくとは、大したものだ。
なかなか見どころのある者である。
しかし。
「(……蒼旺が殺されたか)」
なるほど。
そういうことか。
劉炎が武官から文官に転身した当時、まだ少年だった皇子だ。
そしてかつて、到底許されぬ”罪”を犯した人物でもある。
因果応報、と言えばそれまでだが……。
その訃報に、何も感じぬほど劉炎は冷たい人間ではなかった。
とはいえ、生憎素直に馬車内を調べられるわけにはいかぬ。
「私が下手人を匿っているかもしれぬと、そう申すか」
「い、いえ!そのような意味では……」
「ではその下手人とやらがどのような容貌の者か、答えよ。それを聞かねば、こちらもはっきりと答えられぬ」
「そ、それは……」
口ごもる兵達。
そうだろう。
安易に言えるはずがない。
恐らく彼らが探す”下手人”とやらが、皇太弟を殺した可能性は低いだろう。
察するに、その場を目撃してしまったか何かで、罪を擦りつけられたと言ったところか。
丁度いい目撃証言でもあったのかもしれない。
—―――そしてそれを都合が良いと思った者が、纏めて排除しようとしている。
「(どさくさに紛れて、消すつもりか)」
本来なら相手が相手だ。
女官や官吏の一証言如きで、即座に犯人扱いなどできようはずがない。
だから本格的な調査が行われる前に、さっさと始末してしまいたいのだろう。
兵達の装いは、下手人を生きたまま捕らえる気など毛頭ないことは確かだった。
「怪しげな者を、馬車内に匿ったりはせぬ」
……そう。
怪しげな者、は。
*
季翠は、狭い馬車の隅で縮こまっていた。
窓が閉められると、先ほどから留め置かれていた馬車が再度動き出す。
車輪が雪を踏みしめる音が聞こえ始める。
腕組みをし厳しい顔を更に厳めしくしている馬車の主に、恐々と問う。
「なぜ……」
なぜ、助けてくれたのか。
宮を追い出された季翠は、兵の目を搔い潜りながら、本当に何とか後宮から外廷に出た。
後宮内には近衛兵が入り込んできており、彼らの目を掻い潜るのは至難の業であったが。
幸い、皇宮に来てすぐに姉に教えられた抜け道を駆使したのと、黒い衣が闇夜に紛れたのが助けとなった。
しかし、真っ直ぐ季翠の元に兵が来たということは、あの女官が話したのだろう。
季翠はさしづめ、皇太弟殺害の容疑者といったところか。
……いや、先ほどのやり取りから察するに、もう犯人であると断定されているのかもしれない。
「(……でも、むしろそれで良かったのかもしれない)」
あの場から逃げ出した季翠が、何よりも懸念したのは。
真犯人である碧麗のことだったからだ。
しかし。
……その案じた姉の所には、行けなかった。
かと言って鶯俊の所に行くわけにもいかず、途方に暮れていたところをこの御仁と鉢合わせしたのだ。
季翠の問い掛けに、目の前の御仁――劉宰相は深く溜息を吐いた。
呼気が、白く色づいた。
「————帝国の二人しかいない正統な血筋の者を、死なせるわけにはいかぬ」
彼は少なくとも、季翠を近衛に突き出すつもりはないようだった。
しかし成り行きで馬車に押し込まれたが、一体自分は何処に連れて行かれるのだろうか。
「……どこに、向かっているのですか……?」
「近衛に目を付けられたのなら、この帝国で安全なところは一つしかない」
その一言を最後に、宰相は黙り込んだ。
季翠も、それ以上口を開かなかった。
体は、もうすっかり冷え切っていた。
手足の先がじんじんと痛いような、不快な感覚がずっとしている。
馬車は車輪の跡を残しながら、すっかり雪化粧が施された麟翠の道を進んでいく。
「(寒いのは嫌いだ……)」
無性に、西の温かな気候が恋しくなった。




