第三十話 裏切りの烏
第三十話 裏切りの烏
蒼旺という皇子は、生来不遇な境遇にあった。
父王——死後追封され先帝と称される——が、魔が差したことがきっかけで手を出した下女が産んだ子。
彼がこの世に生を受けた時、すでに父王には后との間に皇子がいた。
後に大影帝国初代皇帝となるその皇子は、当時からその頭角を現し、すでに太子に冊立されていた。
将来有望な世継ぎがいる中誕生した卑しい皇子は、周囲からその存在を疎まれた。
それを産んだ女もまた、その悪意の中で命を落とした。
……このような背景を聞くと、兄弟仲が悪いように予想されるかもしれないが。
彼らの関係は、極めて良好であった。
兄皇子は生まれてすぐに母親を亡くし、父王にも捨て置かれた弟皇子の親代わりとなった。
弟皇子は、そんな兄皇子をこの世の誰よりも慕った。
彼の中に、兄を追い落として自分が帝位に就こうなどという考えは欠片も存在しなかった。
今に至るまでずっと、それは変わらなかった。
彼は幸せだった。
幼い少年は、将来兄帝を支える忠臣の一人になるのだと、幼心に夢見ていた。
兄の”曇り一つない”輝かしい治世を、何の疑いも持たず待ち望んでいた。
————”あの女”が現れるまで。
*
”あにさま、ごめんなさい”
嗚咽交じりのその一言を最後に、蒼旺は息絶えた。
その場に勢いよく座り込む。
……足に、力が入らなかった。
蒼旺の体から流れ出た血が、みるみる季翠の衣に吸い込まれていく。
冷たく澄んだ冬の空気の中に、血の臭いが漂う。
体が動かなかった。
頭も、働かなかった。
「————誰かいるのですか……?」
暗闇の中に、ぼんやりとした光が近づいてくる。
のろのろと季翠が顔を上げると。
灯りを手にした女官の姿が、闇の中から現れた。
季翠と目が合った彼女は、鋭い叫び声を上げた。
その悲鳴を聞き、弾かれたように逃げ出してしまったのは正しい選択だったのか。
*
血だらけのまま、夜の皇宮を駆ける。
何度も転び、至る所に汚れや青あざをこさえるが構っていられなかった。
自分が馬鹿なことをしているとは重々分かっていたが、それでも足を止めることができなかった。
「(なんで私は、)」
でも、あのままあの場にいたら、遅かれ早かれ兵によって事情聴取が行われることになる。
皇帝の弟である皇太弟が死んだのだ。
当然だ。
しかしそうなれば————。
季翠が走る度に、冷たい空気の中に透明な滴がパラパラと散らばる。
いつの間にか、外は音もなく雪がちらつき始めていた。
あれは。
(あれは、姉上だった……)
見間違いだと、何かの間違いだと必死に思おうとした。
しかし……。
————そもそも、季翠が姉を間違えようはずがなかった。
ついさっき、あまりにもよく似た別人にも気づいたのだ。
その季翠が、暗闇の中であろうと碧麗を見間違うはずがなかった。
……見間違えることが、できなかった。
「(姉上が、叔父上を……”人を、殺した”……)」
どうして、どうして。
蒼旺の影から現れた碧麗の姿が、脳裏に焼き付いて消えない。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
どこから間違っていたのだろう。
何が間違っていたのだろう。
「っこんなことになるのなら、最初から帝都になんか……っ」
堪えきれない嗚咽が漏れる。
きっと、最初から間違っていたのだ。
季翠が帝都に来ることになったあの時から。
勅命とはいえ、適当な理由をつけてあのまま西牙にいればよかったのだ。
そうすれば、何も知らずに済んだかもしれない。
無我夢中で皇宮内を駆け回り、奇跡的に後宮にある自分の宮に辿り着く。
宮は、宿直の者以外皆退勤したようでがらんとしていた。
しかし、おかげで誰にも見咎められることなく入ることができた。
バタンと大きな音を立てて自室の扉を閉めると、そのままの恰好で寝室に向かい寝台に潜り込んだ。
布団を頭から被って、すべて忘れてしまいたかった。
しかし、かたりと、無視できない物音が隣の応接用の室から聞こえてくる。
このまま外界との接触を遮断したかったが、事態を聞きつけた近衛がやって来たのかと不安が過ぎり、恐る恐る寝台を這い出る。
私室の横に設けられている応接室は、応接室とは名ばかりでほとんど客人を招いたことがなかった。
人と話すのも、専らこの私室だ。
応接室は実質、書簡や届け物の置き場と化していた。
しかし知らない者がこの宮に来れば、まず行くのは応接室だろう。
びくびくしながら扉を開けた季翠だが、しかし室内には見知らぬ者どころかよく知った人物がいた。
「————しはく……どの、」
「姫様」
突然現れたであろう季翠に、しかし彼は慌てた様子一つ見せなかった。
そこにいたのは、四狛だった。
少し前なら、彼がここにいたとしても何の疑問も持たなかっただろう。
しかし。
「なぜ、ここに……」
彼は、すでに後宮へ立ち入ることはできなくなっているのに。
それに、その手に持っているのは……。
「季翠皇女殿下」
常にない仰々しい呼び方で、彼は季翠を呼んだ。
その顔は、いつもの飄々とした姿とは全くの別人のようだった。
思わず、びくりと体を跳ねさせる。
雰囲気が、北陵で一瞬垣間見たものを思わせた。
「これが何だか、御分かりになりましたか」
「これ」とは、四狛が持っている金塊のことだ。
ふるふると首を振る。
はっきり言って、存在すら忘れていた。
「これは、貴女のような子どもが持っていていいものではないのです」
————子ども。
そういえば前にも、彼は季翠を子どもと称したことがあったと場違いなことを思い出した。
しかし、今の言い方は前とは明らかに違う意味で言っている。
「我が殿が、何よりも欲しているものです」
「……我が、殿……?」
四狛は、季翠の護衛武官のはずなのに。
その言い方ではまるで、他に主人がいるかのような————。
状況が呑み込めず、呆然とする季翠に彼は鋭い目で言い放った。
「皇宮から出て行ってください、季翠様。————さもなければ、」
不意に、四狛の腰元に目がいった。
彼は、珍しい鳥形をした黒曜石の玉佩を下げていた。
「————俺は、貴女を殺さなければならなくなる」




