第二十九話 懺悔
第二十九話 懺悔
ずりずりと、背中で曲がり角の壁を擦りながらへたり込む。
震える両手で口を押さえる。
そうしなければ、何かが出てきてしまいそうだった。
今のは、何だ。
曲がり角の向こうに誰か二人いて、それで。
向こうにいた一人が、手前にいた一人を……。
それが、姉上で————。
(違う‼)
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
違う……‼
(見間違いに決まってる……っ)
自分は、本当に疲れているんだ。
そうに違いない。
季翠は、きっと正気じゃないのだ。
だから、変な幻覚を見たのだ。
へたり込んだまま、目をぎゅっと瞑る。
口から離した手を左右の耳に強く押し当てる。
暫く目を瞑って、耳も塞ごう。
そうしたら次に目を開けたら、何事もなかったことになっているはずだから。
だから……。
どれくらい経ったのだろうか。
少しのようにも、随分長い間そうしていたような気もする。
恐る恐る目を開けると、日没寸前で、辺りはもう暗闇に包まれかけていた。
物音は、特に何もしない。
このまま、向こう側を見ずにその場を離れたかった。
しかし。
————見間違いだと言うのなら、どうして自分は咄嗟に隠れたのだろうか。
(怖い)
(でも……もし、この先に何もなかったら、本当に幻覚を見たことになる)
そう。
確認するのも怖いが、確認して何もなかったら、本当に何もなかったことが証明される。
季翠は、ただ疲れておかしなものを見ただけだということになる。
そうしたら、何事もなかったように後宮に戻って、姉に会いに行けばいいのだ。
大丈夫。
きっと何もない。
少し見て、すぐに帰ろう。
(姉上があんな事をするはずがないんだから)
碧麗はきっと、室を温かくして、温かいお茶を淹れて、季翠を待ってくれているはずだ。
決死の思いで体を奮い立たせた。
心臓を撥ねさせながら、曲がり角の向こうを覗き込む。
(……誰もいない)
ああ。
よかった。
よかった。
やっぱり見間違えだったんだ。
「早く、姉上のところに帰らな————」
どうして気づいてしまったんだろう。
このよく見える目が、すべての元凶だろうか。
一見ただの暗闇の中に、黒い水溜りのようなものが、あった。
それは、向こうに点々と続いていた。
何度目を擦っても、それはなくならない。
ただの光の反射でそんな風に見えるのだと、踵を返せばよかったのに。
どうして季翠は、この時その跡を追ってしまったのか。
吸い寄せられるように影に足を踏み入れる。
はっはっと、まるで犬のような息遣いに自然となる。
心臓が、どくどくと永遠に鳴り続けていた。
ピチャリと、ぬるとしたものを靴で踏む。
水溜りは、だんだんとその面積を広くしているようだった。
「あ……」
本当に、微かな声が出た。
声というか、吐息に近かった。
それなのに、壁に手を突きながら体を引きずっていた男は気づいたようで、ばっとこちらを振り返った。
季翠は、振り返った男の顔を認識し、絶句した。
しかし男の方は。
「————”あにさま”」
季翠を見た途端。
まるで甘えるような、安堵した声でそう言ったのだ。
「え……」
あにさま……?
何を言っているのか理解できず立ちすくむと、男は無理にこちらを向き、駆け寄ろうとさえしてきた。
しかしそんな深手で動けるわけもなく、壁から手を離した瞬間無様に音を立てて倒れる。
「あにさま、いたいのです、助けてください、あにさま……」
血塗れで床に転がりながら、必死に季翠に手を伸ばしてくる。
男が近づいてくるにつれ、血臭が濃くなっていった。
「っひ……」
その血塗れの手が裾を掴んだ時、思わず悲鳴を上げたのは無理もなかった。
「あにさま、あにさま……」
譫言のように、ずっとそう呟き続けている。
その間にも、彼の体からは命が流れ出ていた。
今際の際に人は本性が出ると聞くが、これがそうなのだろうか。
あにさまあにさまと、幼子のように兄を求める男の姿に、季翠は恐怖を通り越し、憐憫の感情を感じ始めていた。
「あにさま、”ごめんなさい”……」
————その男は、皇太弟・蒼旺だった。




