第二十八話 美しい人
第二十八話 美しい人
————季翠は寒風が吹く回廊を、一人駆け抜けていた。
何度か官吏や女官らしき人間とぶつかり掛けたような気がしたが、よくおぼえていない。
兎に角その人物と反対方向に、無我夢中で逃げた。
今夜にでも雪が降ると聞いていた通り、今日は空気が酷く冷えている。
息を吐く度、それが白く空気に溶けていった。
それが瞬く間に後ろに過ぎ去っていく。
走りながら、ずっと心臓が嫌な鼓動をたてていた。
走っていることによるものではないそれは、酷く気分が悪くなるものだった。
逃げるのに必死で、季翠は辺りが見慣れない景色になっていることに気づかなかった。
ここまで来れば流石に大丈夫かと、息切れしながらようやく足を止める。
喉から胸の辺りが、熱いような苦しいような感じがした。
しかし、息切れするほど走って汗すら微かに滲んできたのに、体は依然冷たいままだった。
(ここ、どこ……)
周囲を軽く見渡す。
一体どこまで逃げて来たのか、いつの間にか滅多に人が来ない皇宮の外れに迷い込んでいた。
このままでは後宮に帰れない。
しかしだからと言って、あの人物がいる来た道を戻りたくはない。
いくら人通りが少ないとは言え、誰か一人くらいいるだろうと探し始める。
そんな季翠の耳に微かにぼそぼそと話し声が聞こえたのは、偶然だったのか、必然だったのか……。
どうやら曲がり角の向こうに誰かいるようだった。
人の気配につられ、季翠もその角を曲がる。
————この時季翠は、自分のよく見える目の存在を、恨んだ。
曲がり角の向こうは、丁度建物の影になる所だった。
日没が近いというのもあって、人の顔が薄ぼんやりとしか見えないくらい暗かった。
そこに、二人の人影があった。
一人が季翠の方を、もう一人は背を向けるかたちでお互い向き合っているようだった。
手前にいる人物は男のようで、向こうにいる人影の体の大半を覆い隠してもう一人の姿ははっきり分からなかった。
ふいに季翠は気づく。
話し声にひかれてここに来たというのに、それが一切しなくなったことに。
その直後のことだった。
暗がりに、銀色に光るものが煌いたのは。
それは、男の背中から見えていた。
それが何かと認識する前に、男の体が不自然に揺らぎ、向こう側の人物の姿が露になる。
季翠の瞳孔が開く。
男の向こう側から現れたその人物は。
————その女人、は。
「……ね、……え……」
季翠が呟いたのと、男の体が地に倒れたのはほぼ同時だった。
向こう側にいたのは、懐剣を手にした、碧麗だった————。
ぬらぬらと鈍く光る刃を手に暗闇の中に佇む彼女は、美しかった。
美しかった。




