第十九話 暗雲を呼ぶ薫り
第十九話 暗雲を呼ぶ薫り
「結局、目ぼしい情報は手に入りませんでしたね」
そうぼやくのは四狛だ。
一人一人妃たちの御機嫌伺いに行った季翠だが、終ぞ何か異変を見つけることはできなかった。
一応張翠媛にも面会の申し入れをしたが、恐らく返事は返って来ないだろう。
「単にお姫様が耐えられなくなっただけなんじゃないですか?」
四狛は、張貴妃が心理的に我慢の限界を迎えたとの見解のようだ。
それとなく季翠の宮に出入りする侍女に話を聞いたところ、張翠媛は元々、かなり皇帝に心酔していたのだそうだ。
彼女の皇帝への恋慕の話は有名で、成人してすぐ、無理を通して皇帝の徳妃の座に就いたのだとか。
つまり前回の入内は張家の意思ではなく、彼女の意思によるものだったのだ。
……しかし入宮中、皇帝が彼女に振り向くことはなく。
今回の鶯俊への入内も、何とか皇帝の目に留まろうという執念だろうと専らの噂になっていたらしい。
ちなみに、ここまでの話はすべて四狛が聞いたことだ。
流石に季翠相手にここまで明け透けに話す者はいない。
しかしだから鶯俊は、張貴妃が自分を嫌っていると言っていたのか。
彼女にとってしてみれば、鶯俊は言わば憎き恋敵の子だ。
……それを言うなら季翠もだが。
だが、いくら皇帝の目に留まるためとはいえ嫌いな相手に嫁ぐだろうか。
そこまで皇帝を想っているのなら、夫を変えるなどという不実な行いを自らするとは思えない。
耐えられずに途中で里下がりを申し出るほどなのなら、尚更。
「仮にそうだとしたら、そもそも入内の時点で辞退するのでは」
「どうでしょうね」
季翠の疑問に、四狛はやや意地悪そうに顔を歪める。
「姫様も見たでしょう。張副宰相のあのお冷たい態度」
園遊会で貴妃が中座した時のことか。
確かに季翠も、体調を崩したという孫娘を少しも気にする素振りを見せなかった彼の姿は気になった。
「貴妃の御両親はどうだか知りませんけど、少なくともおじい様は甘くはないようですよ」
つまり、祖父の命令に逆らえなかったと。
しかし大人しく妃としての役目を果たすつもりは毛頭なく、時機を見て里下がりを申し出た。
大方そんなところだろうと四狛は言う。
季翠もその予想はあり得るだろうと思ったが。
何かが引っかかる。
仮に侍女たちの噂が、当たらずも遠からずだったとする。
そうなると張貴妃は、何としても後宮に居座ろうとしたはずだ。
元々、今回の入内がなければずっと後宮に居ただろう。
そうしなかった理由はなんだ。
「(何か決定的な出来事があった……?)」
そう。
張貴妃にとって、即座に里下がりを申し出るほどの、何かが。
それに……。
彼女はどの妃よりも長く後宮に居る。
当然鶯俊のあの噂のことも、耳にしたことがあるはずだ。
彼女はその噂を聞いて、どう思ったのだろうか————。
数日後。
張貴妃が体調不良で、宿下がりするとの報が正式に発表された。
しかし一部の者はそれが一時的ではなく、このまま後宮を去るつもりだということが容易に予想できた。
*
引き続き後宮の監視を命じられた季翠は、四狛と共に当てもなく後宮内を巡回していた。
何というか、雰囲気が心なしか明るい気がする。
回廊を進んでいると、華やかな話し声が聞こえてきた。
「あれは……」
「清徳妃と玄賢妃ですね」
青と黒の一団が、回廊をいくつか挟んだ向こうにいた。
今からどちらかの宮に向かう所だろうか。
方向からして、龍青宮に行く途中のようだ。
面会の際、清徳妃はまだ妃の誰とも話したことがないと言っていたが、改めて交流を図ることにしたらしい。
徳妃の可愛らしい笑い声が、微かに聞こえてきた。
何にせよ、良いことである。
季翠はそう思いながら、一団を見送った。
*
————別日、龍青宮。
「本日は御招きありがとうございます、清徳妃」
本日の客人は、紅色が良く似合う小鳥のように愛らしい妃である。
「そんな仰々しい呼び方はおよしになって。雀のお姉さま」
同じ古くからの名家同士、麗辰と紅蕣は少なからず面識があった。
室に通された紅蕣は、すうっと見苦しくない程度に息を吸った。
「良い香りですね」
「そうなのです!」
室内では、香が焚かれていた。
「麗辰様が調香を?」
「いいえ!思黎様から頂いたのです!」
昨日のことだ。
賢妃からの使いだという侍女が、龍青宮を訪れた。
近づきの印にと、賢妃からの贈り物を届けに来たのだ。
その贈り物というのが、紅蕣が口にした今焚いている香である。
「玄賢妃から……」
最近、ようやく麗辰はかねてからの希望だった他の妃たちとの交流をすることができていた。
正直貴妃がいなくなってくれて、ほっとした。
彼女は見るからに気位が高そうで、麗辰は一目見た時から苦手意識を持っていた。
何がそんなに不満なのか、いつ見かけても不機嫌そうで怖かった。
しかし徳妃である彼女が、位が上である張貴妃をまるきり無視して避ける訳にもいかない。
必然、彼女は張貴妃に遠慮して他の妃にも近づくことができなかったのだ。
だか、そんなことももう気にしなくて良くなった。
「羨ましい……とてもいい香りですね。でも、私は賢妃とまだお話もしたことがないので頂きたいなんてお願いできませんね」
紅蕣の言葉に、麗辰はとても気分が良くなった。
第一皇女の従者として立派に勤めていた紅蕣に羨ましがられるというのは、彼女に優越感を感じさせた。
「良ければ少しお分けしましょうか?」
「え……」
麗辰の提案に、紅蕣は微かに眉を顰める。
姫様、と。
侍女頭のばあやからも、咎めるように小声で呼ばれた。
当然だ。
人から貰った贈り物を、更に別の誰かに贈るなど。
「たくさん頂きましたもの。思黎様だって、お姉さまに気に入っていただけたら嬉しく思うはずですわ」
それに、紅蕣と思黎が関わる良いきっかけになるだろう。
実にいい考えだ。
名案だと言わんばかりの麗辰に対し、紅蕣は不安そうだ。
「勝手に頂いたなんてお聞きになったら、御気を悪くされないでしょうか」
「お二人が直接お話する機会がくるまで、秘密にしておけば大丈夫ですわ」
わたくし、口は堅いのですよ。
大袈裟に胸を張ってみせた麗辰に、紅蕣はそれでは……と優雅に口元を袖で隠して愛らしく笑う。
「誰か、お姉さまに包んで差し上げて」
侍女に命じ、早速準備させる。
その後、彼女たちは談笑を楽しんだ。
*
次の日。
定期報告の為、季翠は四狛と共に外廷にいる鶯俊の元に向かっていた。
その道中。
季翠たちが歩いている回廊の先にある突き当たり、左右に分かれた突き当たりで何やら人だかりができていた。
皆が通るのに道を塞いで、何とも迷惑な。
しかし近づくにつれ、ただの人だかりではないことが分かった。
取り巻きを連れた人物が二人、対峙していた。
片方は最近見慣れてきた、烏竜近衛将軍だ。
相手の方は————。
「皇太弟殿下と烏竜将軍ではないか」
季翠たちと同じく回廊を通りかかったであろう、官吏が言った。
あれが。
蒼旺、つまり季翠の叔父だ。
園遊会を欠席していたため、初めてその姿を見る。
何というか、随分と窶れた風貌の男である。
父帝よりもかなり年下と聞いていたが、正直見えない。
体調不良で行事を欠席したくらいだ、あまり体が丈夫ではないのだろうか。
母親が違うからか、弟と言っても兄である皇帝にも、姪である季翠とも似ていなかった。
緑の強い浅葱色————。
季翠は思わず顔を顰めた。
今は正直、見たくない色だ。
しかし、何を話しているのだろうか。
離れているため、姿はともかく会話の内容までは聞き取れない。
その代わり、官吏たちの囁き声は良く聞こえる。
「いやはや、何とも恐ろしい取り合わせですな」
「烏竜将軍は碧麗皇女殿下の夫君候補筆頭。蒼旺殿下は気が気ではないのでは?」
「では、やはり真なのか。将軍が皇配の座を狙っているというのは……」
皇配?
皇女の夫は、そんな呼び方はしない。
「まさか……”女帝”など、有り得ぬ話だ」
それならまだ、出自の怪しい皇子や皇太弟の方がましだ。
女帝————‼
宮中では、姉を皇帝にしようと考えている者がいるのか。
本来皇女に皇位継承権はない。
その夫と子にも、継承権が与えられることはない。
それが、現行の帝国法が定める揺るぎ無い事実だ。
それを覆そうと言うのだろうか。
「……我々もそろそろ、どこにつくか考えた方がよろしいですな」
一人の官吏が意味深に言った。
どこに、誰につくか。
……季翠も、考えなければならない時が、くるのだろうか。
「————季翠皇女殿下‼」
回廊に呼び声が響く。
話をしていた官吏たちは、季翠がいることに気づき真っ青になる。
呼びかけに振り返ると、後宮にいる数少ない宦官の一人が大慌てでこちらに駆けてきていた。
「一大事にございます‼すぐに後宮にお戻りください‼」




