第十六話 秋冷の別れ
第十六話 秋冷の別れ
初めて会った時。
随分と場違いな子どもが来たと、思った。
自分も同い年というのは棚に上げて。
汗だらだらで。
薄紅色の衣がそれは似合っていなくて。
もっと違う色……そう、今着ているような緑とか……黒が、似合うだろうと思った————。
*
数日前。
俊煕は張副宰相に連れられ、特別に宮中の園遊会に来ていた。
三月ほど前から一緒に行動するようになった少女は、今日はいない。
彼女は最近、学塾自体に来ていなかった。
「(……別に、僕には関係ないけどなっ)」
張副宰相に尋ねても、彼女——季姫には事情があるのだと諭されるだけだった。
俊煕は張副宰相が園遊会に出席している間、侍女や官吏たちが待機する場所に居るようにと指示をされた。
ここは、所謂裏方のような場所だろうか。
どこに行っても、誰の話を聞いても、噂話、陰口、噂話————。
正直早々に辟易した。
噂話や陰口は、情報収集に有益な手段の一つではあるが限度がある。
やれ、皇帝は最近顔を人前に晒さなくなった。
やれ、皇太弟は今日も行事を欠席か。
やれ、今日は第二皇女が出席しているぞ、とか。
「第二皇女……?」
なぜか気になった。
近くにいる文官をつかまえる。
「あの、第二皇女って……」
「ああ、丁度いい。こっちで見てみると良いよ」
親切な官吏は、皇帝や妃たちがいる会場が覗き見できる天幕の境目に、俊煕を連れて行った。
同じように垣間見ている官吏たちの間に潜り込む。
一番上座には、恐らく皇子と思われる青年が一人。
皇帝の席だろう所には、誰もいないようだ。
高官たちの席にも空席があるが、張副宰相の姿も見えた。
女人側の一番下座の席に、その少女はいた。
————翠色の被帛が、風に靡いて広がる。
緑白から新緑、更に常緑へ。
緑の階調が美しい衣に身を包み、一番上の上衣には、銀が混ざった青緑の糸で翡翠が刺繍されていた。
翠が似合うというのは、こういうことを言うのか。
薄く化粧がされた顔は、いつもの少年味を感じさせる顔立ちとは打って変わり、絶対に性別を間違えられることはないだろうと思った。
————そこには、いつもは隣にいる相方が居た。
「ほら、あれが季翠皇女殿下だよ」
「季……”すい”……」
すい……————「翠」。
身近に感じるようになっていた学友は、みどりの名をもつ者であった。
そして今、目の前にいる季姫。
やっと学塾に通ってくるようになって早数日経つが、何を考え込んでいるのか常に心ここに有らずだった。
先ほども筆から墨をぼたぼた垂らしたり、硯をひっくり返したりと、酷い有様だった。
しかし、今はそれよりも。
「なあ―――—」
*
名前を教えてくれ。
ぼおっとしていた季翠をようやく覚醒させたのは、俊煕のそんな言葉だった。
季翠は先日、数日振りに張子学塾に来ることができていた。
今日は、欠席した授業を俊煕に解説してもらっていた。
彼は当に授業範囲はすべて履修済みだが、季翠のためにわざわざ講義の内容を控えてくれていたのだ。
季翠もそんな俊煕の心遣いに応えるため、真剣に取り組むべきとは重々分かっていたが、数日前の衝撃的な出来事が頭から離れなかった。
おかげで普段しないような失敗を連発し、今は卓上にぶちまけた墨汁を拭いている。
「名前……?」
名前なら、当の昔に名乗っているはずだ。
……偽名だけど。
————まさか、ばれたのだろうか。
「貴族の娘は、名前を隠すこともあるんだろ」
お前は季姫って名乗っているけど。
「季には、四番目とか末っ子って意味もある。つまり季姫は四番目の姫、もしくは末っ子の姫って意味だろ」
一瞬ばれたのかと思ったが、なるほど、そう考えたのか。
しかし……。
「(だからと言って……)」
本当の名前など言えようはずがない。
黙り込む季翠の答えを、俊煕は待ってくれているようだった。
あの短気なこの少年がである。
しかし……。
「…………俊煕には、教えられない」
季翠なりの、最大限の誠意を持った返事だった。
本当の名前ではないことは、認める。
誤魔化したりはしない。
だがその上で、教えられないと。
しかし、季翠のこの言葉は言い方が悪かった。
彼女の言葉に、目の前の少年は深く傷ついた顔をした。
「……何だよそれ、僕には教えられないって言うのか」
あの四狛とか言う男には教えているくせに。
なぜここで四狛が出てくるのだろうか。
季翠は知る由もないが、俊煕は園遊会の会場で四狛が護衛に付いている姿を見ていたのだ。
「僕はお前にとって、信用に値しない奴って言うのか」
そんなことはない。
口も、……お世辞にも性格も良いと言えないが、彼は決して不誠実な人間ではない。
そのくらいの信頼関係は、この三月で彼らは築いてきたつもりだ。
咄嗟にそう言いかけたが、ではなぜ教えることができないのかと言われたら、説明できない。
親兄弟しか知らないとか、結婚相手にしか教えることができないとか、適当なことを言えないのが季翠という娘だった。
彼女は様子がおかしくなった——恐らく怒っているであろう俊煕に、どうすればいいのかと頭が真っ白になってしまった。
二人の間に、かつてないほどの重苦しい沈黙が流れる。
何か言わなければ、でも何を言えばいいのか。
「————季姫」
「!」
「ちょ、張老師……」
室内に入って来たのは張副宰相であった。
「お家から兄君がお呼びになられている。今日はもう帰りなさい」
家——皇宮という意味だ。
でも……。
「俊煕……」
季翠の呼びかけに、彼は無言で背を向けた。
こんな状況で帰るのは非常に心残りだったが、兄の命令であれば季翠に拒否権はない。
俊煕に気を遣いつつ、張副宰相に礼をとる。
「……張老師、では本日は失礼いたします」
「うむ。気をつけて帰りなさい」
「…………俊煕も、また」
少年から、返事は返って来なかった。
彼女は後ろ髪を引かれつつも、学塾を出た。
「(…………兄上に、名前を教えてもいいか聞いてみよう)」
兄上————そう思ったところで……。
浮んだ考えを、勢いよく頭を振って振り払う。
「(あの人は、私の兄上なんだ)」
余計なことは考えるな。
用事とは、何だろうか。
早く済ませて、名前の許可をもらって、俊煕に謝ろう。
季翠は、本気でそう思っていた。
————しかし、彼女が張子学塾に行ったのは、これが最後となった。




