第三十五話 只人となる
今回のタイトルの意味は、この作品の完結間近に分かります。
第三十五話 只人となる
「っ…………‼」
言ってしまった。
とうとう口にしてしまった。
いや、遂に言うことができたと、思うべきなのだろうか。
口元を抑える。
表情は、どうしても顔を上げられなくて見れなかった。
永遠にも思える静寂が流れる。
「…………玖狼」
彼は静かに副官の名を呼んだ。
声音からは、相変わらず感情が読み取れない。
しかし玖狼は主君の言葉無き願いを読み取ったようで、意識が戻った者たちを連れて室を出て行った。
目覚めなかった叔黎は、両足を持たれて兵たちに引きずられて行った。
玉翡も心配そうな表情を浮かべながら、侍女に連れられて室を退出する。
人払いがされた室内には、戰毅と鷺舂の二人だけ。
「なぜ、そんなことを」
静かな問いかけだった。
「…………私は、貴方の隣に立てるような人間ではないのです…………」
今更過ぎる告白だった。
もっとずっと早く、それこそ婚姻などしてしまう前に言えばよかったのに。
どうして自分は。
ずっと、罪悪感を感じながら生きてきた。
あの子たちに、戰華に、この国に、そしてこの人に。
それなのに自分は、罪人であるくせに、この人と一緒に居ると辛いと思うくせに、傍から離れられないでいた。
何という矛盾だろうか。
戰毅は何も言わない。
(この人が、悪人だったら良かったのに…………)
そう思ってしまい、即座にその考えを打ち消す。
なんて、醜いのだろうか。
長い長い沈黙の後、ようやく戰毅が口を開く。
「…………私のせいですか」
「私が至らないから、貴女は離縁などと、言うのですか……」
思いもよらない言葉だった。
どうしてそうなるのだろう。
すべて私が悪いのに。
この人の落ち度なんて何一つないのに。
泣きそうだった。
この人のこういうところが、昔から憎たらしくて仕方ない。
この人の清さが、正しさが、慈悲深さが、優しさが、憎らしくて、どうしようもなく――――。
この想いを、言葉にしたくなかった。
「お許しください……!」
床に蹲るようにして、土下座した。
戰毅は何も言わない。
あの時と一緒だ。
見えないがきっと、何も言わず、ずっと最初と同じ格好でいるのだろう。
でも、今回は結末が違う。
鷺舂は床に伏せた顔を、上げなかった。
―———床についた震える両手が、強引に引き上げられる。
思わず決心を忘れて顔を上げた鷺舂の目に映ったのは、差し出した手で彼女の手を掬い上げる、葵戰毅の姿だった。
二十年前のあの日。
戰毅が差し出した手を、鷺舂は取った。
今度は、戰毅が自らの手で先に、彼女の手を取った。
彼女が選んだのではない。
彼が、選んだのだ。
「私は貴女を救ったことを、後悔などしません」
貴女の過去に何があったのか知らないし、これから何が起こるかも自分には検討もつかないが。
男は続けた。
「もう一度、最初からやり直しましょう。どうやら我々には、いろいろと足りないものがあったようです」
初めて、笑うのを見た。
―———後悔しないと、男は言った。
しかし後に彼は、この時のことを深く……深く後悔することとなる。
それは、彼の生涯で唯一の後悔となった。
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