第三十三話 憐れな鷺の子
幼児虐待的な描写があります。ご注意ください。あくまで創作の内の一描写です。
後々、なぜ彼女がこんな行為に至ったのかの理由は明かされます。
第三十三話 憐れな鷺の子
手を差し出す男に、鷺舂はもう生きた心地がしなかった。
いっそのこと、今ここで死んでしまいたかった。
呼吸が上手くできない。
自分は息を吸っているのか、はたまた吐いているのか。
「御安心を。姫君ももちろん、一緒にお連れしよう」
どこが、安心できるというのか。
真実を知っているというのなら、この子こそ、玉翡こそ、中央に連れて行っては駄目なことくらい分かっているだろうに。
何のためにあの人に頼み込んで、皇子妃の件を断ったと思っているのだ。
しかしそれが、彼を差し向けた人物の意向なのだろうか。
鷺舂はそこで初めて、二十年間ずっと避け続け、恐れ続けてきた相手の名を口に出した。
「……………………”陛下”が……」
口がカラカラに乾いて舌がうまく回らない。
はくはくと魚のように、口を閉じたり開いたりした。
「陛下が、私たちを中央にと、仰ったのですか……」
大影帝国皇帝。
鷺舂は、あの皇女——季翠を彼の御方と見間違えたのだ。
あまりにも、似ていたから。
彼女の問いかけに、男は片眉を上げる。
「陛下は――「伯飛様」」
音もなく男の後ろからもう一人現れる。
男と同じ、薄墨色の衣を纏っていた。
はくひ、はくひ……”伯”。
この男、伯家の出か。
帝国軍——特に近衛には、伯家に由縁を持つ者が多くいると聞いたことがあった。
「配置、完了いたしました」
「ああ。火をかけろ」
伯飛は後ろを振り返りもせずそう言い放った。
「かしこまりました」
「⁉何を」
火を放つだと⁉
この邸に。
思わず止めさせようと無意識に体が前に出たが、部下らしき男が室の外に出る前に、鋭い馬の嘶きが耳に入る。
「おっと、流石に早いな」
「伯飛様」
「…………予定変更だな」
眉間に皺を寄せる部下に対し、伯飛はさして気にもしていないようだった。
「残念だが、今日はここで失礼する」
しかし彼は、すぐには去らずに鷺舂をじっと見つめた。
その目は先ほどの怒りを宿したものではなく、武官に似つかわしくない、酷く悲し気なものだった。
「————……貴女はどうして、この邸で蹲ったままでいてくれなかったんだ」
それは、どういう――――。
問いかける間もなく、気づいた瞬間には彼らの姿は跡形もなく消えていた。
*
「鷺舂‼小翡‼」
常の「静謐」という言葉が似合う表情を崩し、葵戰毅が室に飛び込んで来た。
―———この人のこんな顔、初めて見た。
鷺舂は呆然と、場違いなことを考えていた。
この北の地での始まりは、この人の手を取ったことから始まったのだった。
本当は二十年前のあの日、すべて終わるはずだったのに……。
この人が差し伸べてくれた手を、どうして自分は取ってしまったのか。
縋ってしまったのか。
あの時、あの瞬間。
この人があの場に来たのは、運命とでも言うのか。
私は、”大罪人”だ。
帝国中を欺く、口に出すのも恐ろしいほどの罪を犯した、罪人。
————二十年前。
当時十歳だった幼い鷺舂は、馬車に揺られていた。
小枝のように細く頼りない腕の中には、生れたばかりの赤ん坊——玉翡だ。
彼女たちは、帝都から遠く離れた北の地に向かう道中だった。
正直この時のことははっきり憶えていない。
当時の彼女は兎に角、日々苦しいという感情でいっぱいだったから。
しかし北部に入り、もうすぐ黎公に対面するというところで暴漢に誑かされたことは憶えている。
今思うとあれは、北方異民族だったのだろう。
見慣れない装いに、言葉が分からず、訳も分からず恐ろしいと感じたことを憶えている。
捕まった彼女たちは洞窟のような所に閉じ込められ、そこには他にも捕まったであろう人間が大勢いた。
その中で赤子を抱えた幼い娘は、ひどく異色を放っていただろうと思う。
皆、いつ我が身がどうなるかと怯えていた。
しかしそんな心配は長くは続かなかった。
助けが来たからだ。
突如洞窟に乱入してきた兵たち。
彼らは瞬く間に暴漢たちを捕縛していった。
―———その隊を指揮していたのが、当時まだ二十かそこらの若者だった葵戰毅だった。
しかしそんな騒ぎを関知することもなく、鷺舂は洞窟の奥で縮こまっていた。
今思うと当時の自分の精神は、すでに限界を迎えていたのだと思う。
赤ん坊と二人きり。
気づいたら、誰かに両腕を後ろから力任せに引っ張られていた。
集団の中で目立っていた少女と赤ん坊がいないことに気づいた、一緒に捕まっていた者たちの内の一人だった。
目の前には、顔を真っ赤にして、火がついたように泣き声を上げる玉翡。
玉翡の泣き声も、誰かが叫ぶ声も、ひどく遠くに聞こえた。
「その娘が赤ん坊を殺そうとしたんだ!」
娘。
赤ん坊。
殺す。
誰が?
————わたし?
自覚した途端、自分がとんでもない化物に成り下がったのだと分かった。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
「怖かったの。わたし、わたし……‼」
「犯した罪のあかしを、目の前から消してしまいたかったの……!」
確か、そんなことを言った気がする。
よく、憶えていない。
でも、泣き伏せた顔が触れた冷たい土の感触も、感じた絶望もはっきり憶えている。
この世から消えてしまいたかったし、消してしまいたかった——————。
————顔を上げなさい。
凛とした声が、上から降ってきた。
暴漢のよく分からない言葉とも、他の大人の声とも違う、初めて聞く声。
顔なんて上げれないと思ったのに、吸い寄せられるように上を向いた。
涙で滲む視界の中に映る、入口からの光をまるで後光のように背負った、綺麗な男の人。
青年の第一印象はそれだった。
————何があったのかは知りませんが、ここは危ないのです。一緒に来なさい。
そう言って彼女に手を差し出した。
淡々とした、子どもに声をかけるにしては随分と愛想の欠片もない言い方だった。
それに人形みたいな無表情。
鷺舂は、それを呆然と見つめた。
不思議と、怖いだとか冷たい人だとかは思わなかった。
そんな彼女に対し、青年は無言のまま手を差し出したままだった。
何も言わず表情もぴくりとも変えず、ずっとずっとその恰好のまま。
次第に無性に腹が立ったのを憶えている。
涼やかな顔をしているのも癪に障った。
何か言ってくれればいいのに。
そうしたらそれに反論して、いくらでも拒絶できたのに。
適当な慰めの言葉も言えないし言わないのが、葵戰毅という男だと後に知った。
それに、青年の眼差しがあまりにも真っすぐだったのだ。
だからだろうか。
…………きっと、魔が差したのだ。
涙と鼻水、泥で汚れた小さな手は、青年の固い掌に包まれた。
彼は鷺舂の手を引き、反対の腕で玉翡を抱いて、光に溢れる外に向かって歩いていった。
十歳のあの日。
絶望の中に差し伸べられた、力強い手。
幼い少女にとって、青年がどう映ったのか。
きっと彼は知らない。
*
「——殿」
「伯飛様より合図の狼煙です。「断念。合流する」とのことです」
「…………」
季翠の血糊も何とか取れ、伯黎の遺体を回収して城への帰路が準備が整った頃。
季翠は先ほどの人物が居た場所をもう一度見たが、そこにはもう、誰もいなかった。
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