第二十六話 薄墨色
第二十六話 薄墨色
「や、やっと出られた……‼」
ぜえぜえと優男に似つかわしくない息切れを盛大にしながら、玄叔黎は地下通路から虫のように這い出た。
辿り着いた場所はこれまた埃っぽい所で、すぐさま外に飛び出る。
とにかく新鮮な空気が吸いたかった。
朝日が長時間暗がりにいた目に染みる。
まさかの、通路に入ってから半日以上経っていたようだ。
ここに来るまで、実に長い道程だった。
叔黎はほろりと涙が出そうな気分だった。
甘やかされて育った三男坊には、なかなかの苦行であった。
少しの間感傷に浸った後、辺りを見渡す。
どこかの邸の庭の片隅、と言ったところだろうか。
遠目に見える邸宅と庭の雰囲気は、小ぢんまりとしているがなかなか趣味の良さそうな感じだ。
質素倹約、悪く言えば武骨で風流を解さなさそうな葵将軍の持ち物にしては、随分粋な邸だった。
高確率で、ここに夫人たちがいる予感がした。
ちらりと後ろを見遣る。
這い出てきた通路の出口がある納屋。
出口もまた入り口と同様、開いたままだった。
誰かは知らないが、先を越されていたら面倒だ。
とりあえず様子見だと、叔黎は直感の赴くまま邸への道を進んだ。
*
四狛に不寝番を任せ、季翠たちはようやく浅いとはいえ眠りにつくことができた。
しかし全員深い眠りにつくことはできず、結局一晩中誰かしらは目を覚ましている状態で夜を明かすこととなった。
「……お兄様は、御無事なのでしょうか」
季翠も従姉が心配だった。
玉翡たちの安全を確保できたら、一度様子を見に戻ろうか。
四狛に相談しようと季翠が顔を向けると。
扉の裏に、影が見える。
―———侵入者。
脳裏にその言葉が浮かんだ瞬間。
ダアンッ‼と何かが叩きつけられるような音が響く。
侍女たちが悲鳴を上げる。
四狛が扉を開け放ち、その人物を凄まじい勢いで室に引きずり込んで、床に取り押さえたのだ。
あまりにも速い動きであった。
しかし季翠は、その時の四狛の表情にこそ目を奪われた。
その瞬間の彼の目は、出会ってから季翠が初めて見るほど鋭く、酷く冷たい色を宿していた。
思わず、ぞくりと背中に悪寒が走るのを感じた。
「っし、四狛殿……」
「……さて、姫様、この若君どうしましょうかね?」
恐る恐る呼びかける声でこちらに目を向けた彼は、いつもと同じような軽い口調と飄々とした顔をしている。
先ほどとの落差が、嫌に不気味だった。
季翠は咄嗟に答えることができず、床に縫い留められている侵入者に目を向けた。
「玄叔黎殿————」
だった、はずだ。確か。
「……先日ぶりですね。”皇女殿下”、葵姫」
場違いなほど爽やかな笑顔だ。
そして、やはり季翠の素性を承知していたらしい。
叔黎は酷い姿をしていた。
埃まみれ、傷まみれ、ご丁寧に蜘蛛の巣も張り付けている。
どうやら、季翠たちを追ってあの地下通路を通って来たらしい。
しかしそれにしても、自分たち以上に酷い有様だ、一体どこをどう通って来たのだろうか。
しかしそんな状態で、尚且つ床に取り押さえつけられているというぼろぼろの姿でも、様になっているのは伊達に優男ではないということか。
ここまでくるといっそ感心する。
微妙な顔をする季翠から目線を外し、叔黎は目ざとく初めて会う女人を見つけたのか、床からその人物ににこやかに話しかける。
「お初にお目にかかります、葵夫人。玄家が三男、叔黎と申します」
その状態で挨拶するのか。
玄叔黎に夫人は呆然としている。
「…………御父上に、似ておられる」
叔黎に返されたそれは、独り言のようだった。
「父を御存知で?」
「……ええ。随分と、良くしていただいておりました……」
曖昧な言い方だった。
それきり、彼女は黙り込んでしまう。
思わず季翠は叔黎と顔を見合わせる。
それよりもだ。
季翠は叔黎に向ける目をきつくする。
「……兄に言われてきたのですか」
夫人と玉翡を捕らえるために。
季翠の問いかけに、侍女たちが叔黎から夫人と玉翡を遠ざけるように彼女らの周囲を囲む。
ひとまず叔黎を拘束して、室の隅に座らせる。
「玄伯黎に何を言われてきたのですか」
「…………夫人と葵姫の身柄を保護するように、と」
季翠の尋問に、叔黎は少し沈黙した後答える。
季翠は目を細める。
保護とは、何とも恩着せがましい言い方だ。
「保護は結構。見ての通り、私と四狛殿がいますので」
「みたいですね」
はははと、気の抜けた笑いを見せる。
演技なのか素なのか。
問い詰めたところで正直に話すのか。
しかし既に味方にこの場所を知らせていたらと思うと、早く何とかしなければと焦燥感が募る。
どうしたものか。
ここを離れるべきか、叔黎を人質にして待機するか。
それとも……。
「————殺しますか?」
「!四狛殿……?」
殺す?
「話はこうです。————ここに、玄家の若様など、”来なかった”」
四狛は剣を抜きながら叔黎に歩み寄る。
季翠たちに背を向け、表情は伺い知れない。
侍女たちが怯え、四狛からバッと蜘蛛の子を散らすように離れる。
あまりの極論に、季翠を含め誰も止められない中。
「————どうかお待ちになってください」
玉翡が、調度品に掴まりながら四狛の方に歩いて行こうとしていた。
季翠は咄嗟に彼女を支えるために駆け寄る。
「三の若様は、今の時点で何か罪を犯されているのでしょうか……?そうでないのなら、無用な殺生はお控え願いたいのです」
前から思っていたが、彼女は控えめそうに見えてはっきり物を言う人だと思う。
四狛は無言で剣を収めた。
ひとまず命の危機が去ったことに、叔黎が安堵の息を吐く。
そうこうしている内に、もう日もだいぶ高くなったようだった。
俄かに外が騒がしくなる。
まさか叔黎を追って玄家の追手が来たのか。
四狛が人質に取るため、叔黎の首に切っ先を突きつける。
「奥方様‼姫様‼」
室の中に、兵が数人雪崩れ込んでくる。
「!奥様、玄武城の者です!」
四狛と季翠が臨戦態勢に入る前に、侍女の一人が兵の顔を見て涙混じりの安堵の声を上げる。
「御無事で何よりでございます!将軍も、さぞかし御安心なさることでしょう!」
「御苦労でした。……殿は御無事なのですか」
躊躇いがちに夫人が問う。
「はっ!御報告申し上げます‼」
兵たちは膝まづいて拱手し、高らかに宣言する。
「明け方、葵将軍率いる北方異民族の長の一団は、逆賊・玄伯黎の一味を玄武城より排除することに成功なさいました。玄伯黎は今だ逃亡中ですが、若も合流なさり、現在行方を追っております」
「兄上が……?」
叔黎は今度こそ間抜けに見える顔で、ぽかんとしている。
なんと、もう戻って来たのか。
しかも半日で分捕り返すとは。
「将軍より、奥方様と姫様には引き続きこちらの別邸でお待ちくださいとのことです」
言うやいなや、兵たちはきびきびと動く。
入り口の警備、邸内の見回り、叔黎の見張り、夫人と玉翡の警護。
季翠は一人の兵を捕まえる。
「あの、従姉上は無事ですか」
「はっ‼蒼鈴姫は御無事でございます。皇女殿下におかれましては、奥方と姫をお守りくださったこと将軍は深く感謝の意を示されております」
「従姉上は今どこに?玄武城ですか?」
そのままここを出ていこうとする季翠を、慌てて引き止めてくる。
「お待ちください‼今街に出られるのは危険です!」
「玄伯黎の残党が少数ですが、街に逃げております。兵が見回りをしておりますが、玄家邸には民衆が押し寄せているという報告も……」
その言葉に叔黎がばっと顔を上げる。
「玄家の邸に?」
「どこからか、伯黎と異民族の癒着が漏れたようです」
怒り狂った民が、玄家に押しかけていると。
「……れ、い……」
「————四狛殿、ひとまず従姉上の所に「皇女‼」‼」
いきなり暴れ出した叔黎を、玄武城の兵が慌てて押さえつける。
「大人しくしろ‼」
「妹が‼思黎が危ない‼」
「‼」
「邸に行かせてほしい‼あそこには女子どもしかいないんだ‼」
「馬鹿なことを言うな‼貴殿を逃がすわけがなかろう‼」
兵の言うことは最もだった。
「っ……まだ何人か異民族の男たちも残っているはずだ‼」
それには兵たちも躊躇する。
しかし彼らの役目は、城主夫人と姫を守ること。
玄武城側も、城内の後始末と伯黎の行方、街の治安維持に手一杯だろう。
戸惑った顔を向け合う兵に、叔黎は痺れを切らして叫ぶ。
「っなら‼皇女‼」
「貴女が行ってくれ‼貴女の庇護があれば、誰にも手出しはできないだろう⁉」
滅茶苦茶だ。
異民族の残党が玄家邸に残っている。
確かに気掛かりだが、季翠が手を出すべきことなのだろうか。
それよりも蒼鈴や、今だ音沙汰のない鶯俊の動向が気になる。
それに……。
「(彼らはどうせ罪に問われる)」
こんな事態を引き起こしたのだ。
葵戰毅がどう此度の始末をつけるつもりなのかは知らないが、玄伯黎の仕出かしたことを考えれば、問答無用で彼ら一族を連座で問うてもいいくらいだ。
叔黎たちがどれほど関与しているかは知らないが、大なり小なり何らかの処罰が下るだろう。
玄武城側は現に人死にがあり、奴隷狩りで多くの民が被害に遭っている。
玄叔黎は家族を守りたいのだろうが、だからと言って季翠が彼の妹を助けに行く義理はない。
押し黙る季翠に、叔黎が絶望の顔をする。
叔黎の焦ったような歯ぎしりが微かに響く中、救いの手が差し出される。
「私からもお願いいたします」
「季翠様、三の若様の願い、どうかお聞き入れくださいませんでしょうか」
「玉翡殿?何を……」
先ほどといい、なぜ叔黎を庇うのか。
「三の若様も、妹君も、玄家の他の方々も、罰を受けるにしても処遇を決めるのは玄武将軍のはず。私刑を許すのは、争いの種になります」
「それは……」
そうかもしれないが、自業自得だ。
納得いかない顔をする季翠に、玉翡は不意に微笑む。
「——先日の街歩き、私、とても楽しかったのです」
「お母様もお兄様も心配症で、今まで城の外に出たことなどありませんでしたから」
叔黎と思黎のおかげで、随分と楽しかった。
もしかしたら彼らも兄に命令され、仕方なく従うしかなかったのかもしれない、情状酌量の余地がないか父に嘆願したい。
そう玉翡は訴える。
それが理由だと。
随分とお優しいことだと思った。
街歩き。
たかがそれだけの関係だ。
道端ですれ違ったのに、毛が生えた程度。
しかもそもそも彼らは、下心があって接触を図って来た。
どうして。
季翠には、理解できなかった。
どうして、たいして関りのない人間をそこまで思いやれるのか。
彼らの立場や気持ちに、理解を示そうとするのか。
分からない。
―———他人を理解しようとすればするほど、見えてくるのは汚いところばかりだというのに。
*
結局、皇女は「娘」の願いを聞き入れ、護衛武官と共に玄家の邸へと向かって行った。
変なところで人が良い姫だと思う。
しかし正直葵夫人は、あれ以上”あの顔”と顔を合わせることがないことに、人知れずほっとしていた。
気が抜けたのか、椅子にぐったりと座り込んでしまう。
侍女たちが慌てて世話を焼くためバタバタし始める。
心配そうな顔を向けてくる玉翡に、安心させるように微笑む。
見えていないだろうが、雰囲気で安心させようと思ってのことだった。
兵たちはというと、玄叔黎を別室に移動させようとしていた。
ふいに、ごとんと何か大きな物が床に落ちたような音が聞こえた。
何事かと、顔を向けた彼女の目に映ったのは。
薄墨色。
文字通り、墨に水を垂らして薄めたような色。
黒を薄めた色。
かつて、幼い頃に何度も目にした色。
視界の隅をちらついていた色。
————”皇帝”直下の、近衛の色。
ひゅっと喉が鳴った。
「お初にお目にかかる」
その色を纏った男は、夫人に向けて言った。
——————皇后陛下の侍女殿。
十四年振りに帝都に呼び戻されたというあの皇女。
そして何の因果か、巡り合わせたようにこの地にやって来た彼女。
過去が動き出したのは、彼女の再来が引き起こしたものなのだろうか。
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