第三十三話 忌み子はどちらだったのか
どうして僕は、生まれてきたんだろう。
この薄墨色しかない世界で、僕はずっと生きていかなければならないのだろうか――――。
*
「――――陛下」
季翠が飛び出した宮に、新たに訪ねてきた者がいた。
来訪者は、薄墨色の衣を纏った一人の近衛兵。
年齢は四狛達よりもはるかに年嵩で、近衛の中では古参に位置する者だった。
「万事、整えてございます」
「ありがとう」
兵の衣の裾は、微かに血で汚れていた。
「お前のような有能な兵に、くだらぬ些末事を頼んでしまったな。すまない」
「わたくしめ如き末兵に、なんとお優しい御言葉を」
主君の労いの言葉に彼は努めて感情を抑えた声で答えたが、語尾が震えていた。
「良いのでございます。わたくしは陛下の御為でしたら、何でも喜んでお引き受けいたします。伯の大殿も、きっと同じお気持ちでございましょう」
「……そうか」
緑龍は穏やかに頷くと。
「さて、お前はもうここを離れよ」
――――俺はもう逝く。
「では、わたくしも」
「いや、いい」
緑龍は愛妻に顔を向けた。
「死出の供は、一人で十分だ」
それに対し兵はしばし沈黙した後、俯いた。
「…………御意」
雨鳥の方はというと、彼からさり気なく目を逸らした。
「代わりと言っては何だが、一つ頼まれてくれると嬉しい」
「は……」
主君からの最後の命を、一言も聞き漏らすまいと彼は全意識を傾けた。
*
烏竜は無言で抜身の剣を持って、季翠にゆっくりと近づいてきていた。
それをぼんやりと見上げる。
まるで薄い膜越しの出来事を見ているような、夢でも見ているかのように。
それが己に向かって振り上げられようとしているのも、どこか他人事だった。
「――――姫様‼‼‼」
「っ……‼」
間一髪のところで、体を転がして刃から逃れる。
少しの動作でもかなりの距離が稼げたのは、床が滑りやすくなっていた為だった。
先程ぬるついていると思ったのは気のせいではなく、油のようなものが撒かれており、それが円滑剤となった。
突然無理に動かしたことで体は悲鳴を上げたが、おかげで少し頭がはっきりしてきた。
それと同時に、死の存在を身近に感じることとなったが。
ひやりとした脂汗が反射的に滲む。
思わぬ第三者の登場に、烏竜の方も気を取られたようだった。
「四狛……?」
「逃げてください‼まともに太刀打ちできる相手ではありません‼」
先程季翠を覚醒させた声の主は、四狛であった。
近衛兵でも平時は離宮には近づけないと言っていたのに……。
彼はこちらに駆けながら声を張り上げた。
「殿は人斬りの天才です————‼」
そう叫んだ四狛は最後により一層足を速め、踏み込んで跳躍すると、勢いよく季翠と烏竜の間に飛び込んできた。
彼は季翠を背にして、烏竜に対峙した。
すぐさま鍔迫り合いになる二人。
季翠はそれを注視しながらも、何とか立ち上がり、烏竜の向こう側に飛ばされた偃月刀を手元に戻そうとじりじりと動いた。
「……どういうつもりですか、四狛」
「っ殿……‼」
「なぜ私の邪魔をするのですか。その姫に情が芽生えたとでも?」
ぶつかり合う金属同士が、激しい音を立てる。
彼らの足元にも油が撒かれているようで、お互いに非常にやりにくそうであった。
しかし。
烏竜の目が、苛立ちで見開かれる。
「拾われた恩を、忘れたと見える……‼」
彼の足が、四狛の腹にもろに入る。
背丈は烏竜の方が高いが、体格自体は四狛の方が骨太でがっしりしている。
しかしその細身の体のどこにそんな力があるのか、勢いよく吹き飛ばされる四狛の体。
彼の体は、凄まじい音を立てて壁に叩きつけられた。
「ッぐ、ぅ……ッがは……ッ‼‼」
「貴方には失望しました」
呻く四狛に近づくと、烏竜は剣を四狛の腰辺りで不自然に一閃した。
ぷつりと、微かに音が鳴った。
そのすぐ後、コトンと、蹲る四狛のそばで何か硬いものが落ちた。
それは近衛の――烏隊の証である玉佩が、床に落ちた音であった。
固く結び付けてあったはずの糸が、綺麗に切断されている。
忠誠と所属の証である玉佩を外される。
これは事実上の――――追放と処刑を意味した。
「今まで御苦労でした、礼を言います」
烏竜の行動には、何の容赦もなかった。
言葉だけは優しく、無情にも四狛に向かって剣が振り上げられる。
――――耳奥まで響く甲高い金属音が一音。
烏竜が振り返る。
音の発生源は、季翠の偃月刀の刃が彼の剣に受け止められた音だった。
後ろ手に受けているにもかかわらず、少しでも気を抜けば弾き返されそうな力を感じた。
震える腕で偃月刀を向けながら、季翠は叫んだ。
「ッどうして……‼」
「どうして貴方は、私をそんなにも憎悪されるのですかッ‼
一体私が、貴方に何をしたというのですか……‼‼」
悲痛な叫び声が響く。
季翠の疑問は当然のものだった。
どうして自分が、ほとんど初対面にも近いこの男に執拗に命を狙われなければならないのか。
一体季翠が、彼に何をしたというのか。
烏竜はしばし黙って季翠を見つめ返した後、ふっと、微かに笑いを零した。
「……確かに、そうですね」
「貴女からしてみれば、私が貴女を憎む理由など関係ないのかもしれません」
関係、ない……?
では尚更なぜ。
「――――だからです」
「貴女達は、ただ存在しているだけで、私の運命を狂わせていく。
平気な顔で、自分には関係ないという顔で、私を巻き込み、私が必死になって守ろうとしているものを簡単に壊していき、それに気づきもしない」
烏竜が息を吸い込む。
「貴女も、貴女の母親も、私は大嫌いだ……‼‼」
烏竜の言っていることは、季翠には意味の分からない支離滅裂なものにしか聞こえなかった。
ただただ、彼の苦しそうな……今にも泣き出しそうな顔だけが脳裏に焼き付いた。
憎しみ、というよりも。
「――――貴女には、ここで消えてもらいます」
動けなかった。
「悪く思わないでください」
動けなかった。
「大丈夫。きっと貴女は天国に逝けるでしょう」
何の躊躇いもなく、袈裟懸けに振りきられた剣。
次の瞬間。
パッと、水が噴き出すみたいに自分の体から赤い色が周囲に飛び散ったのが、血色の雫がいくつか視界の中に映り込んだことで自覚した。
痛みを覚える間もなく、季翠の意識はそこで途絶えた。




