第十話 過去が紡いだ現在(いま)
—―――殿の御体調が悪い。
伯廉はここ最近、そのことで頭がいっぱいだった。
彼の何よりも、誰よりも大切で、優先すべき最愛の主――烏竜の体調が、ここのところとみに悪かった。
食は細り、寝つきが悪いと言って酒量も増えた。
酒は付き合い程度で、好んでいなかったというのに。
自邸にもろくに帰っておらず、伯廉の元にも家宰から帰邸の催促がくるほどだった。
体調の悪化は心にも悪影響を与えているようで、傍にいてすぐに分かるほど纏う雰囲気もぴりついていた。
いつも穏やかな御方だったというのに……。
先日など、懐紙に血を吐いているのも見てしまったのだ。
微かに見えただけだが、あれは確実に血だった。
主は何事もなかったように振舞っていたが、伯廉は卒倒しそうなくらいの心持ちだった。
「(どうして殿ばかりが……っ)」
愛しい我が主ばかり、どうしてこんな目に遭わなければいけないのか。
主に降りかかる災厄すべて、あの伯虎雄にゆけば良いものを……。
自分が帝国中を巡ってようやっと見つけた名医の薬とて、本当に効いているのかどうなのか。
前に烏竜は効いているなどと言っていたが……。
「(殿はお優しいから、私を気遣ってくださったのかもしれない)」
伯廉は能天気にも喜んでしまった己を深く恥じた。
祖母が助けられ市井で評判の者だったとはいえ、やはりあのような者をあてにしたのは間違いだったのだろうか。
ぎりっと、唇を噛みしめる。
—―――だが、他に頼りになる者がいないのだ。
宮中の医官はどいつもこいつも、症状を和らげたり、進行を遅らせることくらいしか治療はできないと無責任にも匙を投げた。
将軍の御病気は、現在の医術ではどうにもならぬと————。
どうにもならぬのなら、どうにかなるようにしろという話だ。
それでも帝国が誇る医術の最高峰に位置する者達なのだろうか。
そもそもそんな毒にも薬にもならぬ治療など求めていない。
伯廉が望むのは、主の病が完治することなのだから。
「っはあ……」
……鬱々と考えても、何の解決にもならぬ。
今は、目の前の仕事に集中しなければ。
目の前で落ち着きなく体を揺すっている男に意識を戻す。
「清将軍」
「例の物は」
「あ、ああ……」
ここに……。
清辰淵は懐から、恐る恐るとある巾着を取り出し伯廉に手渡した。
その手がみっともなくぶるぶると震えている様に、伯廉は微かに眉間に皺を寄せた。
人目に触れぬよう、慎重にかつ、目にも止まらぬ早さで中身を確認する。
間違いなく本物だ。
「確かに」
流石、清雄辰だ。
正確な仕事をする。
渡してきたのは父親だが、帝都まで無事に届けるのにいろいろと根回しをしたのは彼だろう。
「ず、ずいぶんと、機嫌がよろしくない、ようだが……」
「……」
そういう貴方様こそ、随分と顔色がお悪いようですが。
「(怖気づくなど見苦しい)」
今更手を引くことができるとでも思っているのか。
「将軍……今更これ以上は許されないなどと、綺麗事を並べるおつもりですか」
伯廉の言葉に、びしりと体を凍りつかせる。
「我らはもう後戻りできぬところまで来ているのですよ。罪を重ねるとて、それが何だと言うのでしょう」
伯廉は諦めろという説得のつもりだったが、今の辰淵には逆効果だった。
彼は耐えきれないとばかりに、頭を抱えて発狂するように言葉を吐き出し始めた。
「やはり初めから間違っていたのだ。いかに陛下の御意思とはいえ、我らは臣下として御止めすべきだった……!」
「このまま影が始まって以来の前代未聞の……お、恐るべき大罪を見過ごせば、儂は先祖にどう顔向けすればよいというのだ‼」
「ああ……これではあの二の姫を立てた方が余程……」
「将軍‼口を慎まれよ」
「また殿のお怒りを買われたいかっ」
「そ……それは」
辰淵の顔が一瞬の内に真っ青になる。
それもそうだ。
もうかなり前の話だが、彼は烏竜の怒りを買い、あわや斬り殺される寸前までいったのだから。
当時、伯廉はまだ烏竜に仕えていなかった為仔細は知らないが、人伝の話ではその怒り様は凄まじかったのだという。
正直、烏竜が烈火の如く怒る様など今まで見たことがない伯廉には想像はつかないのだが。
「殿は近頃、御気分が優れぬのです。不用意な発言は控えられよ」
項垂れた辰淵が、ぼそぼそと不気味に何事か呟き始める。
気味が悪いと思いつつも、耳に入ったその言葉。
「……まが、……に…れば、……いものを……」
「――――は?」
*
「翠様……申し訳ございません」
劉夫人は主が乗った馬車を見送りながら、ぽつりと小さく懺悔した。
今しがた、神妙な顔をした季翠を見送ったところであった。
己の父母の過去を知り、まだ少女とも言える姫君はどう思ったのかと考えると、劉夫人は胸が痛くなった。
それに……。
……夫人は、嘘はついていないが真実をすべて話したわけではなかった。
たった一つだけ、わざと言わなかったことがあった。
彼女は確かに、蒼旺が子を取り替えたという直接的な事実は知らない。
しかし。
それに繋がる間接的な事実を、知っていた。
彼女と、彼女の夫もまた。
二十年前のあの日、大いなる運命の捻じ曲げに巻き込まれた人間の中にいたのだから。
—―――一体、今はいずこにいるのか。
「あなた……」
夫人は、しばらくの間その場で立ち尽くしていた————。
*
季翠は伯家から迎えに来た馬車で帰路についていた。
同乗するのは、迎えに来たあの老臣である。
「……」
ますます分からなくなった。
乳母に話を聞けば、すべて分かると思っていたのに。
結果は、分かったこと以上に分からないことが増えた、といったものだった。
難しい顔で黙り込む季翠に対して、老臣は機嫌が良さそうだった。
「殿がお待ちですからな、早く帰らねば」
「……帰って来なければ良いのにと思っていそうですけど」
季翠の憎まれ口に、彼はとんでもないと声を上げた。
「あれでも、お嬢様が邸に来られてから殿は随分と御機嫌がよろしいのですよ」
「まさか……」
とてもそうは見えない。
あれが機嫌が良いなど、じゃあいつもはどんなだと言うのだ。
「何せ今のところ家財を壊されておりませんのでな!」
……胸を張って言うことなのだろうか、それは。
今まで何度高い茶器や壺を壊されたことか……。
指折り数える老人に執念を感じ、季翠は若干離れるように身を引いた。
「――――まるで若がおられた時のようです」
若……。
老臣は、立派に蓄えられた鬚を撫でながらしみじみと語った。
「若は気質は穏やかで賢く、加えて武の才に恵まれておりましてな。殿はそれは溺愛されておりました」
「で、溺愛……」
あまりにも似合わない言葉で、笑えない。
あの虎雄が?
「殿の愛情表現は分かりにくいのです」
「当時から大将軍位に就かれておりましたが、一時期はほとんど帝都の本邸で御過ごしになられるほどご執心だったのです」
遠くを見つめる老臣の目は、懐かしさと寂しさを混ぜたような眼差しだった。
「幼い時分から気性の荒い御方でしたが、あの頃は随分と穏やかでおられた」
「……お二人が仲違いされてからは、すっかり元に戻られてしまいましたがな」
仲違い……。
「伯大将軍は、なぜご養子と仲違いを……?」
「わたくし目の如き使用人には……。ただお二人の間の亀裂が決定的となったのは、確か若が成人を迎えられた年だったかと」
確か烏竜は御年三十歳。
およそ十五年前か。
「(その年、何かあったのだろうか……)」
—―――それが己にも関りがあることだったとは、この時の季翠は思いもしていなかった。




