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この話を読もうとして下さり、ありがとうございます。この充足した現代に残るもの悲しさや寂しさの理由を知りたく思い、この話を描いてみようと思います。初の投稿になります。ご評価、アドバイス、お待ちしております。
2,098年、積極的安楽死が合法化された。これまでは、延命の中止といった消極的安楽死しか認められてこなかった。しかし、これからは違う。市役所で所定の手続きを踏めば早ければ1ヶ月以内に自身の生命を、自己の意思で終了できる。考えてみたら当たり前だ。命は自分の持ち物だ。持つも捨てるも、私の自由だ。ニュースの電子音が言う「自死決定に関する法律、いわゆる安楽死法が昨日、本会議にて全会一致で可決されました。」見慣れた3Dのオブジェクトは、こんなニュースを伝える時でさえ、平坦な声を崩さない。「たまには人間に喋らせろよ」小さい声で呟いてみる。
腕に着けたデバイスが鳴った。「誕生日おめでとう」母からだった。もう26になった。そろそろ結婚なんかも考えなければ。考えると言っても、デバイスに登録された自身のDNA情報から割り出された男性の中から、選ぶだけなのだが。母はよく言う「つまらない世の中になった」と。母が若かった頃には、自分の力で選んだ人恋愛してから結婚する、なんてこともあったらしい。祖母の時代に至っては、それが当たり前だったという。まどろっこしいし、古臭いと思う。今でも恋愛に身を費やす人種はいるが、大多数はデバイス任せだ。今じゃなんだってAIプログラムだ。昔は医療でさえ人の手で行われていたらしい。恐ろしいことだ。今人の手で行われる仕事と言えば、保育士や教師といった、「心」がないと務まらない仕事や、美容師や画家、音楽家や作家など感性が求められる仕事、政治家、AIをプログラミングするエンジニアなどがほとんどである。政治もAIに任せればいいのでは、という意見もあるが、日本の民主主義を確実に達成するためには、AIにばかり任せて居られないらしい。確かに、機械に支配されるのは怖い。そんな私も、作物栽培のプログラ厶を作るエンジニアの下っ端だ。家でパソコンと向き合って、たまに映像の会議をする、単調な仕事だ。今日は普段じゃ画面でしか会わない日和と映画に行く。数少ない友達のひとりだ。
外に出ると安楽死法の話で掲示板は持ち切りだった。無理もない。こんな無機質な世の中に、生きる意味を見いだせない人達が、最近の社会問題だ。そうこうしてるうちに、待ち合わせのカフェに着いた。会う時はいつもここだ。まだ日和は着いてないみたいだ。先に入ってることにした。先に入って、カフェオレを頼む。砂糖はなし。1分くらいして、カフェオレより先に日和が来た。
「ごめん、遅れちゃった」
いつもの笑顔で言う。
「全然、今来たところ」
私は言う。付き合いたてのカップルかよ、と日和が茶化して笑う。私もつられて笑った。映画の内容は、よくあるSFものだった。何が良いのか私にはさっぱりだったが、日和は中盤から泣いてばかりだった。映画はつまらなくとも、日和といるのは居心地が良かった。映画が終わって帰り道。私たちはくだらない話をした。最近入った新人の話、結婚した芸能人の話、仕事の愚痴。そして話題は安楽死に移った。
「ついにそんな時代かぁ」
他人事のように日和が呟く。
「しかも全会一致だってさ」
私が言うと日和はねー、と返事をした。途端、私は不安になった。このいつもと変わらない笑顔や仕草の裏に、何か隠しているんじゃないかと、そんな気がしてしまった。そんな私の顔を見て察したのか
「私はばばあまで生きるよ」
と言ってまた笑った。
「ごめん、顔に出てた?」
と聞くと日和は
「急に私の顔じっと見るんだもん、照れるよ」
といって、バツが悪そうな顔をした。そんな日和を見ると、私はまたやっぱり安心するのだった。