第八話
ひそやかな海風がカノンの髪を撫でていく。まだ蒼く暗い空の港町に日が上るのはもうそろそろの頃だ。
カノンはそっと眠っているファムを抱く手を動かして小さな頭の髪を撫でた。ほんの短い間だったけれど、この子と過ごすことができたことは、なんだか妹ができたようなそんな気にさせられた。
今日は、ファミュレット・クロステル・ドナウディアがシリルとシャルローゼの部下たちと共にひそやかに旅立つ日だった。
カノンはお礼をとクロードとシャルローゼに何度も言われたのを断ったが、「せめて見送りに行かせてください」と言い、こうしてドナウディア家専用港の隅に立っている。そこに停泊している一隻の船はシリルがここにやってきたときに使用したアルテシオンの船だった。
カノンはよく寝息を立てて眠っているファムの温かみを感じながら、その体をシャルローゼに返した。
「この子もあなたに会えて良かったと思っていると思いますわ」
シャルローゼがファムを受け取りながら言った。そしてぎゅっと娘を抱きしめると、そっとシリルに渡した。風邪をひかないようにと暖かな布でくるまれている。クロード、シャルローゼ、オニキス、そしてカノン以外に見送り人はいない。寂しい出発だとカノンは思った。
「どうしてこんなことになったのでしょう」
「ストレ・シリル、後はお願いしますわ」
カノンの独り言と、シャルローゼの言葉が重なったが、皆がカノンを見た。シャルローゼからファムを受け取ったシリルがカノンを見た。
「どうして、か。君はやはり気になるのかな?」
「違います。理由ではなくて・・・・いえ、何でもありません」
「この子の事を気の毒に思っているのかな」
シリルの視線がカノンに注がれる。
「それは・・・・・」
「気にしなくともよいですわ。わたくしたちも同じ気持ち・・・いえ、それ以上です。けれど、ここにいてはこの子を守れないのですわ」
シャルローゼが何とも言えない顔で眠っている娘を見つめた。そしてカノンの視線に気が付くと、今度は苦笑を浮かべた。
「わたくしたちは何と欲張りなのでしょうと思うときがあります」
「欲張り、ですか?」
「ドナウディア家の存続、そしてこの子を守ること。その両方を成したいと思っているのですから」
「・・・・・・・・」
「でも、貴女に一言申し上げておきますわ。ドナウディア家には私たちに仕えることで糧を得ている幾百という人間がいることを」
「・・・・・・・・」
「そしてわたくしたちはブロアの街の経営についてそれなりに心血を注いできたつもりです。幾千の民の事を考えなくてはならないことをわたくしたちは幾度となく祖先から教えを叩き込まれてきたのですわ」
「・・・・・・・・」
「領主とは好き勝手にできる存在だと貴女は思っておったかな?」
クロードの言葉にカノンははっと顔を上げた。
「ストレ・カノンの顔はそう言っておりますな。儂と初めて出会った時から硬い表情が雄弁にそう言っておった」
「そ、それは――」
あの時のことを見抜かれていたのか、とカノンは恥ずかしい思いだった。仕事のこととなると口が回るが、それ以外の事はどうしても表情が先に出てしまう。
「ははは、もうよい。気にはしておらぬ。それにこうして貴女は儂らを助けてくれたからの」
クロードは快活に笑った。
「貴女がどのような出自なのか、どのような理由があってここにおられるのか、それを敢えて聞くまい。じゃが、ストレ・カノン、人に幾千幾万の相があるように、貴族も領主もまた様々な人種がいるのだという事を一言申し上げておく」
「・・・・・・・」
「カノン、君はまだ若い。これからいろいろ学ぶことがある。それは知識や術だけではなく、人そのものについてもだ」
シリルが微笑みながら言い、ふと、眩しそうに一点を見つめた。海のかなたから日が昇り始めている。
「卿、そろそろお時間です」
オニキスがクロードに言った。
「そうか。・・・・ストレ・シリル、どうかこの子を頼みますぞ」
クロードが頭を下げた。シャルローゼも同様だった。高飛車なシャルローゼ。その評判があてにならない事をカノンはあらためて知った。けれど、この噂、一体誰が流したのだろう。
カノンの疑問をよそに、皆に軽く頭を下げた後、シリルはファムを抱きながら船に乗船した。シャルローゼの部下たちも続く。シリルが器用に片手を上にあげると、風が吹き出し、船の帆を膨らませた。帆の色は真ん中に金色の文様が描かれた純白のものだった。
錨を上げた中型帆船は、ぎっと身を揺らしたかと思うと港をゆっくりと出て行く。
カノンは海風に吹かれながらいつまでも船を見送っていた。皆の言葉を胸に反芻し、その意味を繰り返し考えながら。
** * * *
レオルディア皇国アーガイル家居間。
上質の白を基調とした家具がそろわれており、床に敷かれている絨毯も純白の極北グリズリーの毛皮だった。極北グリズリーはギルド討伐対象のランクAに該当する。純白の毛皮の持ち主となるとランクS級とも言われる。
その居間には来客が座っていた。アーガイル伯爵夫人。アッシュブラウンの髪はやや色あせているものの豊かであり、それをシニョンに結いあげている。鋭い灰色の瞳は訪問者を見つめていた。
「あの子が当家を出て行ってからの行方は存じ上げません」
「まぁ奥様、いつまでもそうおっしゃらずに。行先くらいはご存じのはずでしょう?」
粘っこい口調で先ほどから同じようなことを繰り返しているのは、黒のフード、黒コートを纏った人間だった。フードで覆われているので顔かたちはわからない。
「お帰り下さいまし」
アーガイル伯爵夫人は立ち上がった。これ以上話すことなどないというように顔を背ける。横顔はしわもなく、まだ若々しかった。
「私をこの屋敷に招き入れた瞬間から、アーガイル伯爵家は我々とつながりを否応なしに持つことになるのですよ」
「私は招き入れたつもりはありません。あなたが勝手に入ってきたのです」
目の前の人物が突如自分の前に現れた時の光景を思い返しながら、伯爵夫人は苦々しげに言った。
「防備や警備にはそれなりの出資と人手が伴うもの。アーガイル伯爵家と言えば上級貴族。そして、レオルディア皇国の各中枢において、一族が要職についていると聞きます。であれば、少しは身辺に気を使われる自覚を持たれた方がよろしいかと――」
伯爵夫人の手が鋭く振られた。たちまち黒コートが燃え上がり、紅蓮の火柱が部屋に立ち昇った。しかしそれもすぐにしぼむように消え去ってしまう。
「その程度で私を追い払おうなどと、甘い考えはお持ちにならぬことです」
黒コートの人間はそう言い放ったが、奇妙だというように体を動かした。
「一つだけあなたに関心を持つとすれば、あなたの祭文術は並大抵ではないという事です」
いつの間にか黒コートの人間の周囲には黒い禍々しい球体が取り巻き、そして、黒い渦が湧き上がっていた。同時に精霊らしき影が複数隊出現する。
「ですから、あれはあくまでも前座だと思っていただいて構いませんわ」
伯爵夫人が左手を無造作に振ると、一斉にスズメバチのように黒い球体が黒コートの人間が腰かけていたソファーもろとも包み込み、同時に展開していた精霊の影たちも球体の中に飛び込んでいく。
閃光が一つ、二つと瞬くと、黒コートの人間もソファーも部屋から消えていた。床には真四角な黒い穴が開いていた。どこまでも深淵に続くように底は見えない。
「高い家具でしたのに」
伯爵夫人は吐息を吐くと、今度は右手を優雅に一振りした。床に空いていた穴が消えていく。
「あの者の言う事は正しい部分もありましたわ。警備の人間とその質をもう少し高めませんと。それに――」
伯爵夫人は部屋を見まわした。幸い家人はすべて出払っており、使用人のほかには伯爵夫人一人だけだった。豪奢な調度品の中に細密画がはめ込まれた3つ折りの卓上立てがある。それをそっと取り上げると、家族の細密画がはめ込まれた面を見る。
その中のある一つを伯爵夫人はそっと指先で撫でた。
「カノン・・・あなたは今どこにいるというの?」
むなしい問いかけが、広い居間に溶けて消えた。
第一話 完
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