第六話
だ探索していないところはある。塔の上に向かってひたすら上る階段がまだ続いていた事を思い出していた。ひたすら上に上に行くと、ガラリと光景が変わる。塔の最上階は小さな部屋になっていた。天井と床以外は四方に柱があるほかは吹き抜けである。
ひと隅には小さなベッド、そしてその近くには小さな本棚。
真ん中には小さなテーブルとイス。
隅には小さなハープのような楽器が置かれている。
それだけだった。
ついてきた黒イルカは物珍しそうにあたりを見まわし、エフェリーツェは真ん中にあるテーブルの上の花瓶を眺めた。
花のような物が活けてあるが灰色になって生気を失っている。
カノンは吹き抜けの壁に足を踏み出した。足は空を切ったので、ガラス張りになっているというのでもない。文字通り壁がない。
「部屋?これが部屋?」
エフェリーツェが小声で疑問をつぶやく。もっともだとカノンも思った。こんなところに住めといわれても住める自信がない。
どこか物悲しい。カノンはそう感じた。試しに書棚から抜き取った本をめくってみたが、意味不明な文字らしい文様の羅列でしかなかった。
「読めますか?」
「無理」
エフェリーツェに本を差し出したが、彼女は一蹴した。
「何故なら異世界言語だから。自己学習しようにもきっかけがないとできない」
「そうですか・・・・でも」
カノンはそっと本を撫でた。すると、本がかすかに共鳴するように微光を放った。
「私には感じます。たまらない感じ、何かが・・・・これは、悲しみ。絶望、見捨てられた絶望・・・・いいえ、そんなものでは表現できないほどの深い深い悲しみ――」
いつのまにか、カノンは闇の中にいた。そこには絶えずすすり泣きや嘆きの声が広がっていた。耳をふさぎたくなるほどの。けれど、一点光があった。それが何なのかわからなかったけれど、光は確かにそこにあった。
カノンははっとなった。エフェリーツェが腕に手をかけていた。
「あまり流されないで。ただでさえここは異世界。感情を読み取ろうと深部に入ることはあなたがあなたに戻ってこれないことを意味するから」
「ええ・・・ですが、私、何かを見つけたような気がします」
「何かって何さ」
黒イルカが近寄ってきた。カノンは二人に手短に今起こったことを話した。エフェリーツェがそっとカノンから本を取り上げてじっと見つめた。真剣な顔だ。
「本の中に渦巻く感情、か。・・・・もしかしたら」
「何ですか?」
「あの黒い影の正体・・・この部屋の主なのかもしれない。ここには在りし日の思いが残留しているのかも」
「すると――」
「そう、ここに手掛かりがあるかも。あの呪われた黒い影を解放してあげる何かが」
エフェリーツェはじっと本を見つめていたが、やがて首を振った。
「私では駄目か。オーラらしいものは感じるけれど、そこにたどる道は途切れてしまっている。最初に接触したあなたと繋がってしまっているのかもしれない。やれやれ」
エフェリーツェはすいっと進み出ると、カノンにポンと本を返すふりをしてそれを弄んだ。
「どうする?感情を読み取るにはもっともっと深いところまではいらないといけない。戻ってこれないかもしれない。危険が伴うけれど?」
カノンはエフェリーツェが弄ぶ本をじっと見ていた。本には何の反応もない。けれど、声なき声は聞こえる。「助けて」と。恐怖はある。けれど、ここにじっとしていても何もできない。何よりも助けを求める声に応えたい。
「行きます」
エフェリーツェはカノンに本を差し出した。
「そこのイルチャンコ」
「は?!え!?僕の事?」
「主としっかり絆を結びなさいな。あなたが外と主とをつなぎとめる枷となる。私もそれに力を貸す。でも大切なのは二人の絆。そこのところよろしく」
「う、うん・・・・・」
黒イルカがヒレをカノンの背中につける。意識を集中し、カノンはもう一度本に意識を集中した。
不意にエフェリーツェは虚空に目を向けた。何かを感じ取ったかのようだ。
「こんなときに・・・・」
「何か言いましたか?」
「私が悪かった。あなたは気にしないでいい。こちらは任せて、あなたは集中して」
エフェリーツェに尋ねる暇もなく、カノンは本の中に意識を溶け込ませていった。
** * * *
嘆き、嘆き、嘆き。
カノンは轟くような引き裂くような嘆きの声の中にいた。押しつぶされそうな状況下にあっても背中に感じる糸の存在があった。
だからこそ、降りて行ける。深淵に。渦巻く感情を乗り越えて、壁を貫いて、本当の真実を探し当てるため。でも、それよりも何よりも、助けの手を差し伸べたい。
深淵には様々な感情があった。けれど、カノンが下りて行くにつれ、一つの感情が繰り返しエコーのように木霊する。
なぜ、なぜ、なぜ。
なぜ、なぜ、なぜ、私を置いてあなたはいってしまったの?
なぜ、私を一人ぼっちにしてしまったの?
なぜ、なぜ、なぜ。
ある者は消滅し、ある者は石像のようにとどまり、ある者は、私のように姿を変え、嘆きや憎悪の霊となってあてどもなくさまよう。
「カノン!!気をしっかり持って!!今ちょうど来ているよ!!」
タフィ・ローズの声にカノンは、はっとなった。何もない漆黒の空間に向かって呼びかける。
「それはあなた自身の事ですね?」
答えは、ない。一層の空間のゆがみと渦が加わっただけだった。
「私は、あなたを助けたい。そのためにここまで来ました。あなたの声を聴いたのです。助けてと繰り返し訴えかけるあなたの声を」
カノンは胸の前で手を合わせるようにして訴えた。
「私にはこの世界の歩みはわかりません。どのような創り手がこの世界の始まりをつくり、どのような思いでこの世界を歩ませようとしていたのか、そして何故その歩みをやめさせたのか私にはわかりません」
『ステタ・・・・ステタ・・・・アノヒトハ・・・・ワタシヲステタ・・・・・!!ワタシタチヲステタ・・・・・!!』
悲痛な叫び声が聞こえた。それがどんなにつらいことか、カノンは胸が締め付けられそうだった。実際渦の中かからいくつもの触手のような物が出現し、カノンを縛っていく。そこからあらゆる感情が流れ込んできた。カノンは知った。この世界にとどまることを余儀なくされた人々の境遇、あらゆる気持ちを。それが否応なく流れ込んでくる。
「私も知っています・・・・!!」
苦しさの中でカノンは叫んだ。
「私の世界にもいました・・・・!!一人は元の世界とのつながりを絶たれました。一人は元の世界から追い出され、自分の記憶すら、世界の記憶すらほとんど持ち合わせていない人を・・・・!」
ジュンとヘルメル・メルヘレの事を思い出しながら、カノンは言葉を続ける。ジュンは元の世界とのつながりを突然絶たれ、体一つでこの世界にやってきた。そして、ヘルメル・メルヘレはほとんど常識すらも持っていなかったが、二人とも同じものを持っていた。だからこそジュンもヘルメル・メルヘレは今この瞬間もこの世界で生きていくことができている。
「生きたい・・・・!!楽しみたい・・・・!!今を!!!それだけでいいんです!!!自分が誰に創られ、何故この世界に産まれたのか・・・・!!確かにそれは重要です。そして創り手に対するあなたの想いも痛いほどわかる・・・・!!でも、そこに縛られていてはあなた自身を殺してしまいます!!」
「・・・・・・・・」
「探してはどうですか?新しい生き方を・・・・!!でなければ、創り手を探しても・・・・良いではないですか・・・・・!?」
『サガス・・・・?イキカタ・・・・?サガス?創り手を・・・・?』
声のエコーが弱まり、いぶかしげな色が加わった。同時にカノンを縛っていた触手が離れていく。
「ここにとどまっていることはあなた自身の可能性を、あなた方の可能性を殺してしまうことになる・・・・・!!だから・・・・!!」
カノンは胸に渦巻く気持ちを押し殺した。頬に涙が流れて止まらない。それでも精一杯の
微笑を浮かべて、
「私たちの世界に来ませんか?私の部屋でお茶にしませんか?」
どこからともなく現れた一筋の光が闇を貫いた。同時にそこからあらゆる方向に光が降り注ぎ、闇を消し飛ばしていく。青い空が出現し、眼下に様々な花が咲き乱れ、カノンは光あふれる虚空の中にいた。
「カノン、カノン!!」
黒イルカの声が聞こえる。眼を閉じたカノンはタフィ・ローズとのつながりを感じつつ、上昇していった。




