第二話
「それは、もう何といいますか、天上の世界で鳴り響くような荘厳な・・・いいえ、荘厳というような表現など似合いませんわ。一見バラバラに見える旋律が幾重にも重なりあい、交じり合い、曲として成立しているのです。まるで断片が羽目合わさって一つの絵を作り上げていくような、そんな曲でした・・・・・」
ルスティ・クローディアはその時の曲を思い出したのだろう。深い吐息をはいた。深い眠りから覚めた人間が最初に吐く呼吸のように。
「曲?それは曲だったのですか?」
「はい、曲です。今まで聞いたことがありません。私は多少音楽が好きでして、パイプオルガンも演奏させていただくことがあります。しかし、これまで接したどの曲とも異なります。ラノア教にももちろん存在しない曲です。ですが・・・・」
ルスティ・クローディアはまた吐息をはいた。
「とても心が引きこまれましたわ。演奏が終わった時も私たちは皆うまく体が動かせなかったほどです」
「それは・・・・・」
カノンはかすかに眉をひそめた。魔導具の中には強力すぎるオーラを放射し、人の精神に異常をきたしてしまうものも存在する。まだ、パイプオルガンがそうとは断定できないが、少なくともルスティ・クローディアたちの心を深く揺さぶったことは確かだった。
「一度伺って調べさせていただくことは可能ですか?」
「来ていただけますか?」
ルスティ・クローディアは喜色を浮かべた。
「集会等の最中になりだすことがあって、信徒の方々の中には驚かれる方もいらっしゃいます。演奏自体は素晴らしいのですが、できればその原因を突き止めたいのです」
** * * *
ルスティ・クローディアが帰ってから、カノンはお茶道具を下げに来たナネットに彼女の印象を尋ねた。
「とてもまじめなお嬢さんでしたねぇ。あまり悩みはありませんのではないですかね」
「私に相談に来たのに?」
「お嬢様、相談というものにもいろいろ色があるんですよ。とても深刻なものでしたら、そもそもあんな顔色をしていますか」
「・・・・・・・・」
「どちらかと言えば、興味ですかね。どうしてパイプオルガンが勝手になりだすのか突き止めたいなんて、悩みとしてはぜいたくな悩みですよ」
カノンは内心と息をはいた。ナネットばあさんは好人物だが、毒舌を発揮する時がある。今日は機嫌の悪い日だったのかもしれない。
「今日はビーフシチューですよ、リゾットを作ろうと思ったら、食料品屋から違う米が届けられたんです」
機嫌の悪い理由はここにあったようだ。
「ルスティ・クローディアという方はとても理知的な方でしたねぇ」
ナネットばあさんがお茶道具を片づけ、部屋を出て行くときにそう言った。
理知的、そうだ、理知的なのだ。甘いものに目がないことに目をつぶれば、カノンの受けた印象も総じて聡明で理知的な感じの女性だった。なのに曲のことを話すルスティ・クローディアはまるで恋をした乙女のような夢見る表情をしていた。
いったいどのような曲なのだろう。
** * * *
翌日――。
身支度を済ませたカノンは植木鉢の上でかすかな寝息を立てているフィーを起こさないように階段を下りて行った。
外に出ると、ひんやりとした朝の大気とかすかな潮風が出迎えた。まだ朝も早い事もあって外に出ている人は少ない。唯一かすかな喧騒が聞こえてくるのは、市場の方だった。
朝とれた魚、新鮮な野菜を求めて多くの人々が港に集まるのだ。
カノンは港とは逆方向、丘のラノア教会に向かって歩き出した。
「パイプオルガンなんて、僕は興味ないね」
カノンがルスティ・クローディアの待つラノア教会に歩く間に、不意にボワンという音を立てて出現した黒イルカが開口一番に言った。
「タフィ・ローズ」
「それにさ、パイプオルガンが勝手になるんなら鳴らしとけばいいんだよ。どうせいい曲なら、ずっと鳴らしておけばいいじゃないか」
「あなたには時間の概念がありませんから、そのような事が言えるのです。人間ずっと同じものを聞いていてはいくら素晴らしいものでも飽きてしまいます」
「そういうものなの?」
「そういうものです」
ひいやりとした朝の大気と潮風は街の郊外に出て、丘を登っていく間に消えていった。代わりに暖かな日差しとかすかな熱気をはらんだ風が出迎える。昨日の陽気といい、夏はすぐそこまで来ているようだ。
ラノア教会は丘の中腹にある。さほど高いところにあるわけではないのだが、どういうわけか雲がすぐ近くまで降りてきて周りを取り巻いているのが見えた。カノンはその光景を暫く立ったまま見つめていた。
「まるで天空にあるお城みたい」
「天空城?あれはもっとずっと高いところにあるお城だよ」
「えっ?」
タフィ・ローズが何でもないように言ったので、カノンは驚いた。
「カノンもヴィトゲンシュティンの帝国第一大学総合魔力学科に在籍してたんでしょ?」
「はい」
ウィトゲンシュティンとは極北にある吹雪帝国ヴィトゲンシュティンのことである。そこにある帝国第一大学では広く魔法・魔導を学ぶことができ、多くの学生が集まってくる。今年17歳になるカノンは僅か10代前半でこの大学に数年留学したことがあった。
「大学の歴史書でなかった?天空にある城の話」
「いいえ。歴史にはあまり興味がなくてその歴史書とやらは読んでいません」
「読んだ方がいいよ~」
黒イルカは宙返りした。そして眩しそうに空を見上げた。
「天空にある城を制したものは世界を制することができるといわれているからね~。天空にある城に行きつくには一つだけ方法があって、それについて書かれている方法が天空伝承って言うらしいんだけれど、世界中の国々が天空伝承を求めて争いまくってるらしいからね~」
「何だってそんなことを急に言い出すんですか?私はただ景色が綺麗だと言っているに過ぎなかったのに」
「あれ、カノン急に機嫌が悪くなった?」
「いいえ、何でもありません」
カノンは短い吐息を吐くと、タフィ・ローズの返答も待たずに歩き出した。
** * * *
カノンが教会にたどり着いて案内を乞うと、教婦補と思われる女性が戸口に出て応対し、彼女を奥に案内した。入り口を入るとすぐに左右に長椅子が並べられた聖堂になっており、中央に教典らしいものが置かれた祭壇があった。豪奢ではないが、よく手入れされている様子がわかる。その祭壇の右奥に巨大なパイプオルガンが佇んでいた。
「ルスティ・クローディアをお呼びいたしますので、しばらくお待ちください」
「ありがとうございます」
疲れているのだろうか、眼にクマがあり、どこか虚ろだった。丁寧に一礼するカノンを残し、教婦補の女性は奥にある戸口から姿を消した。しんと静まり返った教会からは音はしない。何とはなしに周りを見まわすと、当番表らしき札が目についた。それによればルスティ・クローディアを除けば、今日教会にいるのはこの女性一人だけらしい。
カノンはしばらく佇んでいたが、やがて歩を進め、パイプオルガンの近くまでやってきた。
「・・・・・・・・」
パイプオルガンはひっそりと佇んでいる。相当に使い込まれたようでくたびれているが、それでいて手入れはしっかりされているようだった。どこにも壊れた様子はない。試みにオーラを出して探ってみたが、カノンは当惑したように内心首を傾げた。
「魔力は感じない・・・・」
ルスティ・クローディアはパイプオルガンを魔導具と言っていた。それなのに魔導具にあるはずのオーラがこのパイプオルガンからは感じ取れないのだ。
「・・・・・・」
パイプオルガンのパイプは教会の高い天井に届かんばかりの高さだった。流線形にすらりと伸びたパイプが鈍い銀色に光っている。
そのパイプオルガンの下には両開きの扉が付いている。カノンは無意識に扉に手をかけて開け、しばらく佇んだのち、そしてまた元通りに静かに閉じた。
「ストレ・カノン」
カノンが振り向くと、ルスティ・クローディアが戸口から姿を現したところだった。
「ルスティ・クローディア。申し訳ありません。少し見せていただいておりました」
「構いません。よくご覧になってください」
「いえ、それが、その・・・・」
「何か?」
言葉を濁すカノンを見て、ルスティ・クローディアはやや不思議そうな表情をする。
「このパイプオルガン、本当に魔導具なのですか?」
ルスティ・クローディアはしばらくカノンを見つめた。




