第一話
ラノア教。
命名神ラノアを信仰する宗教。
シャンパーニュ大陸においては大多数の人間が信仰している宗教。その理由は、一言で言えばあまり堅苦しくないから、というものである。
名に対して慈愛と崇敬の念を持ちつづけることを説き、制約があることと言えば、自らの名前を名乗るときにはすべてフルネームで名乗ること、くらいだろうか。
そんなラノア教はシャンパーニュ大陸各地に教区を持っており、ブロアの街にも、聖ラノア教会がある。教夫あるいは教婦と呼ばれる人が教会を管理し、典礼を行い、定期的に教会や野外で人々に説法を行っている。
「パイプオルガンを直してほしい、ですか?」
カノンは魔法屋シュトライトにやってきた教婦を見つめる。
クローディア・オーギュスタンテ。
まだ20をいくつか越えたであろう程度の若さに反して理知的な茶色の瞳と灰色の髪を持つ静かな物腰の若い女性である。背中に羽が生えており、天翼族であることがわかった。
「それは、調律師の方々の方が御詳しいのでは?」
「古くからの魔導具なのです」
ルスティ・クローディアは慈愛に満ちた鐘の音を思わせる澄んだ声の持ち主だった。
「人が念を込めればその者が思った曲を鳴らしてくださるのです」
「それは――」
カノンは続く言葉を飲み込んだ。単純に「すごい」と言う言葉では片付けられないレベルの話だ。魔導具が持つ特性の一つに、自立性が挙げられる。高度な魔導具ほど複雑な動きをすることができる。究極的には一人の人間ですら魔導具として生み出すことができるとも言われているが、それは理論上の話だった。
当然、高度な魔導具はめったにその存在を聞くことも見ることもできない。
人の思念を読み取り、それを演奏することができる魔導具というものはカノンも初めて聞く。
人が弾きならすことももちろんできますが、という言葉をはさんだ後、ルスティ・クローディアは顔を曇らせた。
「ですが、ここ最近誰もいない教会の中で、パイプオルガンが勝手に演奏されているのです。同じ曲を、ずっと」
「同じ曲、ですか」
「はい。その曲は聞いたこともない曲でして、信者の方々も聞き覚えのないものだそうです」
ちょうどそこへ、ナネットがお茶菓子とお茶道具を運んできたので、カノンはいつものように言った。
「少し、座ってお話をしませんか?」
ナネットがお茶菓子を手際よくテーブルに並べていく。ルスティ・クローディアは並べられたお茶菓子を珍しそうに見つめる。よく見ると背中の羽がパタパタと動いている。カノンの視線に気が付いたルスティ・クローディアは顔を赤らめた。
「ごめんなさい。あまりにも美味しそうなものでしたので、つい」
「いいえ、ありがとうございます」
カノンは微笑んだ。作った菓子のことをほめてもらうのは嬉しい。今目の前にあるのは涼し気な青色のガラスに入った白い滑らかな質感を持つお菓子はフレーユと呼ばれている。器はお菓子ごと魔法で冷やし、さらに器には冷たさを持続させる魔法もかけられている。
口にすると滑らかな喉ごしと冷たさを感じることができ、ほのかな柑橘系の酸味が口の中に広がる。今日のような暑さを感じる日には食べたくなるお菓子だ。
一口匙ですくって口に入れ、のど越しを楽しむかのように飲み込んだルスティ・クローディアは顔をほころばせた。
「あぁ・・・・」
それからは無言で食べ進めていく。背中の羽が絶えず動いている。カノンの視線に気が付くと、ルスティ・クローディアは顔を赤らめた。
「あの・・・・」
「よろしければこちらもどうぞ」
カノンは自分のフレーユも差し出す。
「いえ、それは――」
「召し上がってください。私としては美味しく召し上がってくださることが何よりの喜びです」
「では――」
いただきますのまえに、早くも匙がフレーユを掬い取っていた。
どうやらルスティ・クローディアは結構な甘党らしい。
カノンはそんな彼女にさりげなく茶を注いだ。さっぱりとした後味の青い海を連想させる色をした青冷茶である。
「これはブルーハーツと呼ばれるハーブを煮だしたお茶です。体温を下げてくれます。寝苦しい暑い夜の就寝前に飲むと良いです」
「御詳しいのですね」
ルスティ・クローディアは両手を組んで、ご馳走様でした、と心がこもった面持ちで言った。
二人は青冷茶の入ったカップに口を付ける。ルスティ・クローディアはようやくここに来た目的を思い出したらしく、顔を赤らめた。
「申し訳ありません。つい夢中になってしまって」
「いいえ、構いません。それで、パイプオルガンの演奏は、いつ、どのようにされるのですか?」
「では、始めから順を追って話すことにします」
ルスティ・クローディアはカップをソーサーに置き、居住まいをただして話し出した。
** * * *
その日は集会の日だった。
ラノア教会はブロアの街を見下ろす小高い丘の中腹にある。
ルスティ・クローディアは信徒たちと共に教典を朗読し、ついで讃美歌をパイプオルガンで演奏するように念を送った。自動的に演奏されるこのパイプオルガンを目当てに遠方からやってくる人々もいるほどだ。
昼前に人々が帰ると、ルスティ・クローディアは他の教婦補たちと共に教会中の後片付けや掃除を始めた。ステンドグラスやよく使いこまれた長椅子を丁寧に拭き終わると、ちょうど昼の鐘が鳴り響いた。
「そろそろお昼にしましょうか」
教婦補のうち二人は、床をモップで水拭きし、一人は入り口の扉を拭き、最後の一人はパイプオルガン近くのステンドグラスを拭いていた。
ルスティ・クローディアの声に4人が仕事の手を止めたその時だった。
何の前触れもなくパイプオルガンが「ド」の音を鳴り響かせたのだ。
ルスティ・クローディアたちの動きが止まった。
「今、パイプオルガンを触りましたか?」
ルスティ・クローディアがステンドグラスを拭いていた教婦補に尋ねた。尋ねながらも内心違うと思っていた。近くとはいっても距離が多少ある。掃除中に触れて鳴ったとは思えない。
「いいえ」
「では、誰かが念を送ったのでしょうか?・・・・・いえ、違うようですね」
ルスティ・クローディアは教婦補たちの表情からそれも違うと感じた。
その時――。
またしても音が鳴った。今度は「ファ」、そして「ド」だ。そして次々と他の音階が鳴らされていく。何の前触れもなく音が次々となっていく。それは子供が遊びでいじっているというよりも、まるで演奏者が本番前に音の調律を確かめているようだった。
ルスティ・クローディアたちはそれをなすすべもなく見守っていた。
不意に音が止んだ。空気までも止まってしまったかのように一切のものが動きを止めている。
「故障かしら」
ルスティ・クローディアの一言が時を動かした。教婦補たちはルスティ・クローディアのもとに早足でやってきた。
「これは・・・調律師にお願いして見てもらわなくてはならないと思いますが、ルスティ・クローディア」
教婦補の一人が口を開いた。
「演奏者もおらず、念を送った形跡が見られないのに、どうして音がなるのでしょうか。故障としか思えません」
「外を見てきてもらえますか?もしかすると、どなたかが教会の外にいらっしゃるのかもしれません」
「はい。ルスティ・クローディア」
教婦補のうち二人が教会の外に出ていった。ルスティ・クローディアは残った二人と共に教会の中を探そうとした、その時――。
パイプオルガンが鳴りだした。




