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十一 解毒薬の完成

 小鳥が(さえず)り、朝日が窓から差し込んでいる。その眩しさにナチは目を閉じたまま顔を顰めた。眠る前は心地よいリズムで刻まれていたすり鉢の音も今では聞こえてこない。


 それはすなわち薬師の少女も仕事を終えているという証明に他ならない。きっと、終わったのだ。彼女は薬を作り終え、眠ってしまったのだろう。その証拠に聞こえてくるのは二つの呼吸音。穏やかな音。思わず頬が緩んでしまう様な心休まる音。ナチは静かに意識を再び睡魔に預けていく。


 意識が消え入る。消失していく。夢の世界に片足まで突っ込んだ時、小屋の扉が勢いよく開いた。大きな音を伴って開いた扉は最大可動域まで開かれ、壁に激突。


 その瞬間に小屋の中で眠っていた二人の男女と一匹は飛び起きた。悲鳴を上げながら。


「なな、なんだ? だれなのだ?」


「お、落ち着けエリル。強盗はナチが何とかしてくれるはずだ」


「ふ、二人共、ウェルディの薬を死守して。強盗は僕が」


 ナチはまだ眠気を宿している瞳を精一杯に開き、小屋の奥へと逃げていくエリルとイズの盾になる様に立った。そして、小屋に入ってきた侵入者へと視線を向ける。寝起きのせいか、視界に白い靄の様な物が蔓延っているがすぐにそれが目脂(めやに)だと気付き、右手で素早く目を擦る。


 右手を目に向けると同時に左手をポケットに突っ込み符を一枚取り出し、侵入者へと向ける。


「悪いけど、運が無かったね」


「運が無いのは……お兄さんだよ!」


「え? マ、マオ?」


 ナチは目脂が取れた双眸を何度も瞬かせた。何度瞬いても目の前の支子色の髪の少女は消えない。明確な怒りを込めた表情がナチの視界から消える事がない。いつもは人懐っこい明朗な色を灯す青い双眸が今は細く鋭く研ぎ澄まされ、凄腕の殺し屋の様な冷酷さを帯びて、ナチを射抜いている。


 怒っている理由には見当がついている。ついているというか、怒るだろうとそもそも思っていた。後で謝ればいいや、と思っていたのだから、見当がついていて当たり前だ。


「お兄さん。小さな女の子と一晩中、何してたのか正直に言った方がいいよ? 今なら怒らないから」


 どういう曲解をしたらそんな結論に至るのか。ナチは両の手の平をマオに向け、必死に宥めようと努める。が、マオの氷の様な冷たさを帯びた瞳は相変わらず。


「ちょっと待って。変な誤解をしてるから。僕がここに来た目的は確かにエリルなんだけど、でもやましい事は何一つないんだよ。理由は健全だから。超健全」


「それを言ってみてよ。は・や・く」


 怖い。怖すぎる。早朝に軽いマラソンをしたかのように頬から汗が垂れてくる。汗が垂れて来る理由はそんなに爽やかな理由ではないが。若い女の子は皆こんなに迫力があるのだろうか。若い女性はこんなにも殺気を視線に乗せられるのだろうか。


 もし、それが真実ならば、若い女性を百人ほど集めれば世界を救えてしまうのではないだろうか。そんな下らない思考を遮る様にマオがナチへと一歩近づいた。


「お兄さん。昨日、何してたの? ここに来る途中で木が何本も倒れてたし、地面が派手に抉れてた。あれ、お兄さんでしょ?」


「……はい」


 正確に言えば、ナチとバジリフィリスクなのだがそれを説明する余裕はナチには無い。冷笑を浮かべ、ナチを見上げてくるマオに唇を震わせていると、イズを抱えたエリルがナチの横に並び立つ。


「マオはどうしてナチがここに居るってわかったんだ? てんさいなのか?」


 エリルが言うと、先程までの冷笑が一瞬で引っ込んだ。普段の穏やかな笑みを浮かべている。マオもどれだけ怒っていようと子供には自然と優しくなるという事か。ナチは内心で穏やかな気持ちになりつつ、エリルに視線を向けているマオへ温かい視線を送る。


 このまま怒りが冷めてしまえ、と内心で懇願し続ける。


「シキが多分ここに居るだろうって、言ってたからかな。朝になってもお兄さんが帰ってこないから私、心配になって」


「そうか。そういうことか。マオはナチが好きなんだな?」


「え?」


 目を丸くし、口も丸くして、マオは間抜けな声を出した。頬が紅潮し、それはマグマが広がっていくように顔全体に広がっていく。赤面する彼女はエリルの勢いに閉口し、唇をプルプルと振動させている。顔だけでなく全身も真っ赤に染まり、蒸気でも発しそうなほどに赤くなる姿は茹蛸の様にも見えた。


 イズが額に右手を当て、ナチはただただ苦笑していた。


「べべべべ別に好きじゃないよ! な、何言ってるの!」


 盛大に唾を飛ばしながらの大声。その声にエリルの肩がビクンと上がり、イズを抱き締める強さが跳ね上がる。


「ご、ごめんな。わ、わたし……」


 後方に下がりながら、泣きべそを掻き始めたエリルにマオが慌てて追い縋る。イズも「マオ。大人気ないぞ。今のは仕方ないが……」と叱っているのか擁護しているのか分からないことを言う。


「ごめんね。私、動揺しちゃって。でもね。お兄さんの事は好きだけど、そういう好きじゃないというか」


 鼻を啜っているエリルは涙声になりつつも言葉を紡いだ。


「……そういう好き?」


「えーっと……」


「恋愛感情のことだ。エリルも大きくなれば自然と分かる様になる」


「れんあいかんじょう? パパとママのことか? パパとママはれんあいしてわたしを生んだと言っていたぞ?」


「そうだ。その感情の事だ」


 エリルはイズの言葉に感慨深く頷き、マオに「ごめんな」と謝った。


「マオはナチにれんあいかんじょうがないんだな。りかいしたぞ」


 マオが「あのね、エリル。あのね」とエリルに何かを伝えようとしているが、ナチはその言葉を遮る様に声を発した。


「……あー、薬は出来たの? エリル」


「できたぞ! カンペキだ!」


 エリルは机の上に置いてある、和紙のような三角の白い包みに入った粉薬を三つ指差した。少し黄色がかった白色。それを覗き込むと苦々しい臭いが鼻腔を刺激し、ナチは思いきり(むせ)た。


「な、何これ? 本当に薬? 僕の鼻死んだんだけど」


 臭いを嗅いだだけで咽返る薬。こんな物を口に含んだら、どうなるのかはあまり想像したくない。はたして飲み込めるのかと疑問に思いつつ、ナチは粉薬から顔を離した。


「薬にきまってるだろ。わたしは薬しかつくれない」


「飲めるのこれ? お兄さんがずっと咳してるけど」


「飲んでくれないとこまる。これを飲まないとウェルディがしんじゃう。ぜったいに飲ませるぞ、わたしは」


「大丈夫だ。お前が一生懸命作った薬を飲まぬわけがないさ」


「うん! わたしはイズのことばをしんじるぞ」


「何か、イズさんが母親モードになってる」


「何そのモード?」


 ロボットなの? と思いつつナチはイズの微かな変化に首を傾げた。イズは母親という事も関係しているのか、基本的に面倒見がいい。けれど、エリルに対して見せる優しさはナチやマオに見せる優しさとは少し違う。今までに見てきた優しさとも少し違う。


 ナチにはその優しさの正体が判然としないのだが、マオはイズの変化に納得しているかの様に頷いていた。同じ女性だからなのか。それともナチが鈍感なだけなのか。


 どちらだろうか、と悩むよりも先にマオが「薬って何?」と聞いてきたことで、ナチは脳内で展開しかけていた疑問符を取り下げた。そして、ナチは昨晩に起きたバジリフィリスクにまつわる騒動をマオに話した。イズに話した内容と同じ。異世界から来た男と、リザードの正式名称。


 ウェルディの余命などを事細かに説明した。


「私が寝てる間に……。ていうか、起こしてくれればよかったのに。むしろ、起こせよ」


「トリアスからレヴァルまでかなり長い道のりだったし、疲れてるかなって。ゆっくり休める環境がある時は休んだ方がいいよ」


 そう言うと、マオがナチの右頬を思い切り抓った。瞳に灯されるのは先程まで宿っていた冷気。ナチは体を強張らせながら、マオを真っ直ぐに見た。向けられる冷眼の裏側に潜む優しい感情にナチは息を呑む。


「どうしてお兄さんは自分の体を休めることを考えてないのかな? 下手したらバジリフィリスクにやられてたかもでしょうが」


「割とギリギリだったらしいぞ」


「イズ、ちょっ」


 イズの言葉を聞いて、マオの瞳が鋭さを増した。左頬を抓られ、ナチの両頬は左右に引っ張られていく。


「じゃあ今日はゆっくり休むこと。いい?」


「いや、じょうひょうひゅうひゅうもしないと」


 情報収集もしないと、と言ったつもりだったのが、マオから帰ってきた返答は理不尽な言葉。


「返事は?」


「……ふぁい」


「マオは、ナチのママみたいだな」


「こんな年上の放浪息子いらない」


 ナチの両頬から手を離し、マオは苦笑した。ナチは頬を擦って痛みを和らげようと躍起になっているがあまり効果は無い。


「さあ、レヴァルにいこう。ウェルディをたすけるのだ」


 エリルがイズをマオに預け、三つの白い包みを手に取ると扉に勢いよく近付いていった。ナチ達も彼女の背中を見て、穏やかに微笑むとその背中を追う。


 外へと出ると、晴れ晴れとした蒼穹がナチ達を出迎えてくれた。




 ナチとバジリフィリスクが戦闘した跡を再確認しつつ、ナチ達は山道を下っていた。折れた木や地面が抉れた跡。若干だが高電圧によって自然が焼け焦げたと思われる残り香が漂っている。ナチが餌として使用したトカゲの死骸も確認する事が出来た。


 ナチの背後では女子達が華々しく談笑し、ナチはその輪から一人外れ、娘と妻から煙たがられる父親の様な哀愁を漂わせつつ彼女達の前方を歩いていた。


 談笑が飛び交う帰路についているという事もあり、バジリフィリスクとの戦闘が夢だったのではないかと錯覚しそうになる。が、確かにナチは戦闘し、勝利したのだ。文字通り、ギリギリではあったが。


 よく見れば、山道にも被害が及んでおり、荒く舗装された地面に飛び散った木片や黒色に近い土が飛び散っている。時折、符の残骸も見られた。


「お前は一体どういう戦闘をしておるのやら」


 マオの肩の上で呆れたように言ったイズにマオとエリルが同意する様に頷いた。「ばかとてんさいはかみひとえ、だな」と誇らしげに言ったのを見て、ナチは苦笑するしかなかった。


 誰がそんな言葉を教えたのか、と内心で愚痴を零していると、エリルが「イズがおしえてくれた言葉がさっそく役にたったぞ」と満面の笑みで振り返った。


 お前か、とイズを恨めしそうに見るが彼女はナチに見向きもしない。マオと談笑している。代わりにマオがナチの視線に気付いたが、あからさまに視線を逸らした。まあ怒らせる様な事をしたのは僕だしな、と後で謝る事を決意しつつ、先頭を歩くエリルの横に立った。


「ナチはつよいんだな。リザードもあっさりたおしたし。わたしはつよいおとこは好きだぞ。パパみたいな」


 背後で枝が勢いよく折れる音が聞こえた気がするが、気にせずにエリルに笑顔を向ける。


「ありがとう。お父さんは強い人だったの?」


「いや、ママのほうがつよかった。パパはいつもママにしかられていたからな。ママのほうがつよい。けど、パパはつよいんだ。ママが泣いてるとだきしめてあげるから。じぶんだって泣きたいはずなのに」


「そっか。エリルのパパとママは優しい人なんだね」


「うん、そうだ。やさしいひとだ!」


 笑顔で言う彼女を見て、ナチも自然と微笑を浮かべる。イズが優しくなってしまうのも分かる気がする。この少女は感情に素直だ。良い意味でも悪い意味でも。


 また、彼女が言っている言葉は全て本心や真実。だから、心地が良い。それにこの笑顔を見ていると優しくしたくなる。撫で回したくなる。


「ナチのパパとママはどうなんだ?」


「僕の両親か……そうだなあ」


 ナチは秋風に揺れる木枝に目を向けつつ、記憶の引き出しを開けた。引き出しのかなり奥。遥か昔の記憶。もうほとんど覚えていない両親の記憶を追想し、脳内に朧気に浮かび上がらせる。


「僕の両親は弱い人だったかな……。自分の事だけで精一杯で、いつも人の顔色ばかり窺ってた。いつも愛想笑いばかり浮かべてたかな」


「……ナチはパパとママのこと、きらいだったのか?」


 ナチは愁色を匂わせる無表情から一瞬で破顔した。けれど、何も言わなかった。いや、言えなかった。分からなかったから。両親に対してどういう感情を抱いているのか。


 数百年の時を監獄で過ごし、両親は恐らく寿命で死んでしまった。それについては素直に悲しいと思う。けれど、死に目に会えなかったことに不思議と後悔はない。両親との別離が長期に亘り過ぎて距離感が遠くなってしまったのか。それともナチが両親に対して、特別親愛を抱いていなかったのか。


 その解答欄は空白のままだ。書くべき文字がナチには分からない。


 僕は両親をどう思っていたのか……。


「パパとママに会いたいとはおもわないのか?」


「父さんと母さんに?」


 ここは嘘でも会いたいと言っておくのが無難な答え。だが、ナチは言葉に詰まる。分かり易いくらいに言葉に詰まった。純粋な子供の疑問にナチは閉口せざるを得なかった。


「そうだ。パパとママに会いたくないのか?」


 会いたいのか、僕は……。


 ナチは何時まで経っても払拭できない疑問に辟易しつつ、右手をポケットに手を突っ込む。符に触れた。柔らかく擦り合わせる。それでもエリルの問いに答えを見い出せることが出来ない。


「どうだろう。分かんないや」


「分からないのか? わたしは会いたいぞ。わたしが死んで、パパとママに会ったときにいっぱいほめてほしいから、わたしはわたしの薬でいろんな人を助けつづけるんだ」


 なんと強固な意志。眩い程に真っ直ぐな言葉。ナチは尊敬と憧憬の眼差しをエリルに向けながら、彼女の頭を撫でた。


 今の会話でエリルの両親が亡くなっている事は分かった。両親を失って、たった一人で生きていく事を強制された人生。それでも、彼女は真っ直ぐに歩いている。真っ直ぐに前を見ている。亡くなった両親に褒めてもらえるように努力し続けている。両親にも、自分にも、恥じない努力を続けている。


 旅を始めたばかりの時はナチも持ち合わせていた無垢な感情。様々な経験を経て、希薄になってしまった純粋な感情。その感情が薄くなってしまった今では素直にエリルが羨ましい。


 この輝きを、純粋さを失わないでほしい。様々な経験をして、大人になったとしても、この真っ直ぐに努力をし続ける姿勢だけは失わないでほしい。ナチはその期待を込めて、彼女の頭を撫で繰り回した。嬉しそうに表情を緩めているエリルを見て、ナチも表情を緩める。


「僕も応援するよ、エリルの人助けを」


「そうか。なら、ナチはずっとわたしのあいぼうだな!」


「ちょっ、ちょっと。お兄さんは私の相棒だから」


「むう、そうか。ならば、しかたがないな」


 何を言っているんだか、と思っていると背後で「大人気ないぞ、マオ……」「つい……」と小声の会話が、()()れに紛れて聞こえてくる。


 ウェルディを助ける為の解毒薬も作れた。レヴァルに脅威をもたらしていたバジリフィリスクも倒す事が出来た。これでサリスの情報収集に専念する事が出来る。


 ナチが視線を下げると、いつの間にかエリルがマオの横に立ち、イズを抱き抱えていた。三人とも嬉しそうに笑っている。ナチは笑いを噛み殺しつつ、平和だな、と空に広がる広漠たる異郷の青を見て、そう思った。

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