八 接触
ナチは木を揺らすほどの振動を感じ、目を覚ました。何かの足音が鳴ると同時に木が揺れる。木の枝の上に乗っているナチも大地と共鳴するかの様に小刻みに振動する。
徐々に大きくなる振動音。足音。微かに聞こえるのは呼吸音だろうか。空気が流れる音が確かに耳に届く。
ナチはポケットから符を一枚取り出し、属性を付加。「雷」。付加し終えると、息を大きく吸った。肺が満たされていく。苦しくなるまで吸った。そして一気に放出する。口から放出し、寝惚けた頭を起動させるつもりで深呼吸を数回ほど繰り返す。
足音の主がナチの真下に到着する。真下を照らす光源が存在しないせいで、何も見えない。シルエットも朧気にしか見えない。だが、それが巨大だというのは分かる。先程倒したトカゲと同程度の体格。倒したトカゲの方がやや小さいか。
ナチは木枝の上にしっかりと立ち上がると符を右手に持った。左手を木の幹に添え、体を支えながら、真下から聞こえてくる咀嚼音に顔を顰めた。骨を噛み砕く音。ぐちゃぐちゃと肉を咀嚼する音。皮膚が喰い千切られる音。三種の音が混ざり合い、不快音に変貌したころにごくりと飲み込む音が聞こえてくる。
また聞こえてくる咀嚼音。食べている。ナチが用意した餌を。
ナチは右手に持った符を、捕食している真下のシルエットに向けて投げ飛ばした。垂直に落下していく符はトカゲを捕食している何かに静かに乗った。
その瞬間に属性を具象化。符から飛び出すは雷光。雷光は周囲を青く照らし、青雷は正体不明の捕食者に向かって飛雷していく。バチチ、と青雷が放出される音が鳴り響くと共にナチは感電している捕食者を見た。口角が自然と歪む。そこには待ち望んでいた相手が感電し、体を痙攣させていた。
バジリフィリスク。
ナチはポケットから符を二枚取り出した。そこに属性を付加。「刃」と「大気」。「刃」と「大気」。それを両手に一枚ずつ手に持ち、バジリフィリスクに向けて投げ飛ばそうとした時。バジリフィリスクの大きな紫の瞳がナチを射抜いた。
青い雷光に照らされて、流星の様に煌めいている瞳がナチを真っ直ぐに捉える。ナチは蛇に睨まれた蛙の様に符を投げ飛ばそうとした腕を静止させていた。
バジリフィリスクが放つ威圧感にナチは静かに息を呑む。怯んでしまった。全ての音が掻き消えたかのような錯覚を起こし、ナチは両手を震わせる。
久し振りの感覚だ。サリスやイズと戦った時にも感じた恐怖。戦慄。体の芯から震えるほどの強者が目の前にいる。ナチは体を震わせながら、歪な笑みを浮かべた。
倒す。目の前にいる強敵を倒す。
ナチは勢い良く符を投げ飛ばし、木の枝から飛び降りた。
ベッドで眠るウェルディの頭を撫でると、シキは部屋を後にした。
観葉植物に触れるのと同時進行で通路を歩いて行き、静かに店頭へと近付いていく。すると、アナイフは珍しく睡眠に支配された様な顔をしておらず、真剣な顔で店頭の前に立っていた。腕を組み、右手の人差し指でトントンと腕を叩いている。
「珍しいですね。アナイフさんが眠そうにしてないなんて」
「いや、さっきシキの仲間の……黒と白の髪をした青年が来たんだが」
「ナチですかね。何の用だったんですか?」
シキが首を傾げていると、アナイフは「そうだそうだ、ナチ君だ」と呑気に笑い声を上げた。
「明日の朝に門の前に来てほしい、との事だ」
「明日の朝に? どうして?」
何の為にそんな伝言をアナイフに残したのだろうか。明日の朝に門の前で何かする気なのだろうか。餌は今日中に手に入らない事は伝えてある。その時の対応からも自棄を起こしたとは考えにくい。ナチがそんな伝言を残した理由が分からずにシキは腕を組んだ。自然と俯し目になっていく。
「さあな。さっき、青年が一人で街の外に出て行ったって話を客の一人が口にしていたが」
「まさか……」
明日の朝に門の前に。青年が一人で街の外に。安直に結論付けるのならば彼は一人でリザードを倒しに行ったと考えるのが自然。だが、何故一人で向かったのだろうか。マオを連れて行けない理由でもあるのだろうか。
「さすがにナチ君は一人で街の外には行かないんじゃないか? ウェルディとも会っているんだろう?」
ゆっくりとシキは頷いた。ナチはウェルディとも会っている。リザードの危険性についても伝えてある。さすがに一人では街の外に出ないと思いたい。が、ナチはエジに言っていた。
僕の世界で困っている人が居るのなら助けたい、と。ナチはウェルディの余命を知っている。肉が手に入らなかったと知った今、ナチが一人で街の外に向かう可能性は十二分にある。
「だといいんですけどね。でも、俺の家族が連れてきた仲間だから、無茶しそうな感じは否めないです」
アナイフがからからと笑いながら椅子に座る。足を組み、カウンターに肘を置く。
「シキの仲間でもある訳だ。なら、無茶するかもな」
悪戯心満載の笑みを浮かべながら、アナイフは白い歯を覗かせた。犬歯の様な八重歯がちらりと見え、それがさらに子供っぽさを演出する。その笑顔を見て、シキはウェルディの余命をアナイフに伝えるのを止めた。伝えるのに何か重大な問題がある訳ではない。怖くなったのだ。この笑顔を壊すのが怖い。
娘の余命を口にすれば、きっと彼の笑顔は消える。
シキだって本当は怖い。もう時間は無いのだ。ウェルディの顔を見る時間も声を聞く時間も、もう花をここに持ってくる事さえなくなる。それを思うだけで自然と表情に険が帯びる。顎に力が入る。
何も出来ない。何もしてやれない。愛する人が困っていて、泣いているのに安全な街の中で他人の力を頼りにする事しか出来ない。シキにも強い力が備わっていれば、この結果は変わったのだろうか。今頃、ウェルディと共に手を繋いで砂浜にでも駆け出していたりするのだろうか。
すぐにそんな妄想を捨てる。こんな夢物語をいくら脳内に並べた所で虚しくなるだけ。自分の無力感に苛まれるだけだ。結局、ウェルディを助けるのは自分ではないという現実に心が壊れる前に、シキは目の前の現実に逃避する。
「シキ?」
怪訝そうな表情をシキに向けているアナイフに笑顔を作るとシキは扉を指差しながら、扉へと近付いていく。
「少し、確認してきます」
アナイフに別れを告げるとシキは足早に宿屋を出た。すぐに路地を下っていき、花屋へ向かう。歩く度に表情が死んでいくのが分かる。顎に力が入り、奥歯を噛み締める。砕けそうな勢いで噛み込み、砕ける予兆の様な音が耳に響き始める。
どうして俺じゃないんだろうか。
ウェルディを助けるのがどうして俺じゃないのか。こんなにも助けたいと望んでいるのに。
誰よりも助けたいと、生きて欲しいと願っている自信だってあるのに。
どうして、ウェルディを救う役目が俺じゃないんだ。
どうして、ナチなんだろうか。エジもエリルも彼を頼る。
それに彼はリザードを撃退する事が出来る。それだけの力をナチは持っている。サリスと共に暮らしていた頃にも感じた空気、雰囲気。強者が隠そうとして、隠しきれていないオーラがナチにもある。
きっと、朝に門の前に来いというのはそういう事なのだろう。きっと、彼は善意の塊の様な笑顔を浮かべて、ウェルディを助けてしまう。救ってしまう。
悪意の伴っていない善意は、時に悪意よりも悪質だ。
これ以上惨めにさせないでくれ。頼むから。
「やあやあ。お困りかな、青少年」
呑気な口調が夜のレヴァルに軽快に響く。心臓が驚きで破裂せんばかりに跳ね上がり、目を見開きながら、シキは前方へと視線を向けた。声がする方向へと。
花屋の前に居る人物。全身黒い服。レヴァルの人間が誰も着ていない様な服を着て、黒く硬そうな手提げ鞄を持っている男性。黒い髪に黒い瞳。端正な顔立ちの男性だった。
そして、すぐに気付いた。この男性はシキに謎の言葉が綴られた手紙を渡してきた人物だと。
支子色の花を一輪手に取り、香りを楽しんでいる様子は貴族の戯れの様でもある。そんな男性がまるでシキの帰りを待ちわびていたかの様に花屋の前に佇んでいる。
シキは辺りを見回した。周りにはシキ以外に青少年は居ない。この男性はシキに声を掛けたのだろうか。訝しむ様に黒髪の男性を見ていると男性は笑顔でシキに支子色の花弁を向けた。
「君だよ、きーみ。困り顔で歩いている青少年君。どうしたのかな? お兄さんに話してごらんよ。きっと、助けになれると思うなー」
垂れ目気味の瞳がシキへと向けられる。その瞳がもたらす柔和な雰囲気のせいか、シキの中の警戒心が少しだけ和らいでいく。
「いや、ほとんど初対面の人に話すようなことじゃないんで」
「まあまあ。なら、当ててみようか」
男性は白い手袋をした右手の人差し指で薄い下唇をなぞる。その仕草がとても艶めかしいものに思えて、シキは思わず背筋を伸ばした。真剣な表情。視線。それはかなりの短時間ではあったが、シキの体感時間ではとても長く感じられた。
指が唇から離れる。上がっていく口角と僅かに見開かれる瞼。唇に触れていた人差し指がシキに向けられる。
「君は無力感に苛まれている。俺はどうしてこんなに弱いんだ。もっと、俺にも力があれば、気になるあの子を守れるのに。そんな所じゃないかい?」
シキが目を大きく見開き、連続で瞬きすると男性が優しく微笑んだ。
「どうして……分かったんですか?」
『あーだって、君分かりやすいし。馬鹿じゃん? バーナム効果って知ってる?』
「え?」
シキの知らない言葉で紡がれ、思わず首を傾げると男性は小さく咳払い。
「私もね。君と同じ悩みを抱えていた時代があったんだよ。なんで、こんなに弱いんだろうって。目の前で好きな子が死んでしまった事もある。その時の悲しさといったら……」
「分かります。その気持ち」
『私が殺したんだよねー、その子。毒の実験台で。好きな子ってイジメたくなるじゃん? 思ったよー。何でこいつこんなに弱いんだろって』
「え?」
またシキが知らない言葉で紡がれる。男性は小さく咳払い。
「もし強くなりたいのなら、私が良い薬を持っているよ。副作用も無く君の理想の力が手に入る。少し痛いのが難点だけど」
シキは首を横に振った。初対面の男性から処方される薬というのはさすがに怖い。副作用が無いというのも、どこまで信じていいものか。
「すみません。さすがにそれは」
男性は口元を手で覆い、小さな声で何かを呟いた。
『勘の良いガキだな。これは進化促進剤『エヴォリン』。副作用もあるし、お前の理想の力なんか手に入らねえよ、ばーかばーかかーば』
「え?」
男性は大きく咳払い。
「そっか。残念だ。でも、この薬はすぐに使う様な薬ではないから、必要があれば言っておくれよ。朝に港で待ってる」
男性は港の方に向かって歩いて行き、右手の親指を立てると右側に広げた。他人の為にこんなにも親身に接する事が出来る。格好良い人だ、と思う。シキはその後ろ姿に見惚れながら、彼が呟いたであろう言葉に耳を傾けた。
『この『エヴォリン』はそこら辺のトカゲにでも打とーっと』
相変わらず何を言っているのか分からなかったが、男性が見えなくなるまで見送るとシキは花屋へと入った。花屋に入ると、珍しく目を覚ましているエジと寝惚けた様子のマオの姿があった。半開きの目を擦り、立ったまま眠ってしまいそうな程にその場でふらついているマオ。
それに苦笑しながら、シキはマオの肩を叩いた。
「どうした?」
「…………お兄さんは?」
寝ぼけた声。普段よりも低い声で紡ぎ、マオは店内中を見渡す。どこにもナチが居ない事を確認するとシキに半開きの目を向けてくる。眠気と憂苦が入り混じる焦点が合っていない視線に懐かしい感情を抱くと同時にシキは慈顔を彼女に向けた。
「……どこ?」
「散歩に行くって。そのうち戻って来るんじゃないか?」
「……本当に?」
半開きの目に懐疑的な感情が伴う事によって花の顔が見事に台無しになっている。その事には触れずシキはマオを階段に促した。
「今日はもう寝とけ。帰ってきたら、教えてやるから」
マオの背中を押し、階段へと向かわせる。その時に首筋に虫さされのような痕が見えたが、すぐに彼女の髪に隠れて見えなくなってしまった。




