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一 レヴァル

 猛スピードで流れていく風景。新緑が彩り、道を形作る様に道の両端に生い茂る草花を踏み潰しながら、緩やかな山道の先を見る。眼前に見えるのは街だ。


 海と隣接した大きな街。


 おそらくあれがレヴァル。ウォルフ・サリのメンバーが滞在している、であろう港町だ。木々から差し込む木漏れ日には目を向けず、まだ少し遠い場所にあるレヴァルに目を向ける理由。


 それはナチ達が巨大なトカゲに追われているからだ。薄汚れた白い鱗を身に纏う、刺々しい見た目をしたトカゲに。逞しい筋肉を有した四肢を豪快に振り回しながら、辺りに飛び散らせている唾液は強い粘性を持ち、辺りの雑草を軒並み地面に叩き付ける。


 あれが服に付着するのは嫌だな、と思いながら山道をひた走る。ナチのすぐ横で盛大に息を切らし、必死の形相で山道を走るマオの目尻には涙が溜まっているのが見えた。


 爬虫類が苦手なのだろうか、などと呑気な事を考えていると、マオの肩の上で振り落とされない様に必死に掴んでいるイズがナチを見て一喝。


「しっかり前を見て走らんか。お前を囮にするぞ、馬鹿者」


「何でそんな恐ろしい事を言うのかね、この獣は。イズを餌として放り投げてもいいんだよ?」


「ちょっと二人とも意味不明な喧嘩してないで早く何とかしてよ。私トカゲ無理!」


 ほとんど泣き声の様な声でマオが言った。血走った眼は常に眼前を見つめ、秋天の様に美しい青い瞳は少しばかり淀んで見える。


「さっさと符を作って、投げろ」


「あーはいはい。分かりましたよ。投げますよ」


 投げやりに返答しながら、ナチは鋼色のコートから符を取り出す。霊力を放出し、白く変色した符にナチは属性を込める。「刃」と「破裂」。


 ナチは首を動かし、視界に白いトカゲを捉えると符を投げる。符はトカゲの顔前へと真っ直ぐに飛来し、トカゲの眼前に到達したその瞬間にナチは霊力を指先から放出。属性を具象化させる。


 刃の属性を具象化させた符を鋭い刃に変換。刃がコーティングされた符に二つ目の属性を重ねる。


 細長の符はトカゲの眼前で細かく分裂し、三百六十度全てに「破裂」。刃に変換された符はトカゲの顔面に勢いよく迫る。


 布きれ程度の小さな符でも顔面に直撃すれば、致命傷になり得る。少なくとも怯ませることは可能なはず。

 

 それにナチが込めた「刃」はトカゲの皮膚など容易に切り裂くほどの切れ味を持つ。突き刺さる符刃はトカゲの顔面を赤い鮮血で染め、トカゲは分かり易く痛みに悶えていた。呻き声の様な鳴き声を漏らし、山道から逸れていく。


 茂みを潰し、何度も木にぶつかりながら山奥へと消えていった。


 トカゲが消えたのを確認するとナチは倒れ込む様に地面に腰を下ろした。せき止めていたはずの堤防が崩れ、勢いよく水が流れ込んでくるかの様に汗が頬を伝っていく。隣に腰を下ろしたマオも同様だった。服の袖で汗を拭いながら、呼吸を整ている。


「何だったの? あれ。レヴァルに来てすぐ変なことに巻き込まれるとか、お兄さん呪われてるんじゃないの?」


 既に消えたトカゲの足跡を呆然と眺めていると、隣でマオが苛立ち混じりに言った。


「分からない。イズの友達じゃないの?」


「獣は皆友達という考え方を止めろ」


 イズの怨嗟が滲む声に若干怯みつつ、ナチは素直に謝罪した。


「我もあんなトカゲは見た事が無い。あんな獣を放置して、レヴァルという街は大丈夫なのか?」


「さあ? 大丈夫だから放置してるのか、どうする事も出来ないから放置してるのか」


「気付いてないとか?」


「それはないと……思いたいね」


 そう言いながらも、マオが言った可能性も捨てきれないのが現状だった。ナチ達を見るやいなや、本能的に襲い掛かって来た白いトカゲ。


 あのトカゲは人を襲う、という事実を街の人間が知らなければ、対処する必要なしと判断されてもおかしくは無い。


 命を奪う可能性が生まれる事で、初めて人は相手を脅威として認識する。


「街を出る度に、あんなのに襲われては敵わん。ナチ、何とかしろ」


「僕が何かしなくても、きっとレヴァルの人が何とかするよ」


「面倒臭いだけじゃん」


 マオが頬を緩ませながら言った。


「街の人を頼れる時は頼ればいいんだよ。そういう時の為の戦力だって、街には駐在してるだろうし」


 とは言いつつもナチは、白いトカゲが消えていった方向を見つめた。人を見た瞬間に襲い掛かってくるトカゲを、レヴァルは何も対処していないのだろうか。


 人を見た瞬間に襲い掛かる獣。木々をいとも簡単に薙ぎ倒す膂力。


 この惨状にレヴァルに住んでいる人々が気付かないものなのだろうか。左手で右頬を掻きながら、ナチは目を凝らす。


 すると、ナチの横でマオとイズが笑いを噛み殺しているのが見えた。目尻を下げ、口角を僅かに上げ、やんちゃ坊主を見つめる様な微笑みをナチに向けている。


 ナチは体をマオ達に向けながら、怪訝そうに口を開いた。


「……なに?」


「んー素直に何とかしたいって言ってもいいんだよ?」


「そうだ。若者は素直が一番だぞ」


「いや、別に何とかしたい訳じゃないんだけど」


 何とかしたい訳じゃない。それは嘘偽りのない本心だ。けれども、こんな獰猛で人に害をなすと分かっている生物を放置している理由は気になる。


 放置しているのか。それとも対処する事が出来ないのか。


「とりあえず、街に行こう。ここに座ってても何も分からないし」


 ナチは膝に手を着きながら、重たい腰を上げる。尻に付着した砂を払い、ナチは立ち上がろうとしているマオに手を貸した。レヴァルを眼前に見据え、トカゲが踏み荒らした自然の惨状を尻目に見る。


 冷たい南風が潮風を運ぶ、大海原と隣接する街へ向かって、ナチは足を踏み出した。




 緩やかな山道を下り、三人は街の入口へと降り立った。巨大な石造りの門は豪快に開かれており、街と外を行き交う人々が多数見えた。遠くに見える水平線を眺めながら、ナチは一度深く深呼吸。


 ナチ達が立っているのは街の入り口であり、海からは遠いが新鮮な空気に混じって潮の香りを感じる事が出来る。


 港町レヴァル。ナチもマオもこの街には始めてくる為、大した情報は知らないが国内最大の貿易港だという事はマルコから聞いていた。人も物も多く行き交い、多くの船がこの街に流れ着いてはまた出港する。物資を国内に運ぶ重要な要衝、といった所か。


 政治とは全くの無縁だったナチはこの街がどれほど重要な拠点なのかは曖昧にしか分かっていないが、それ程気にはしていなかった。ナチは政治家ではないし、この国に革命をもたらしたい訳でもない。政治や世界の情勢は人並みに知っておけば問題はない。


「大きな街だな。行き交う人々にも活気がある。潮臭いのは我は好かんが」


 検問を終え、街に入る許可が下りたナチとマオは石造りの門を潜り、街へと入った。敷石が隙間なく敷かれた地面を歩きながら、打ち合わせも無しに港に向かって歩いて行く。


「ウォルケンやブラスブルックとは比べ物にならないね。多くの人が行き交う港町だからっていうのもあるだろうけど」


 次々と擦れ違う人々にナチは目を向けた。港町という事もあり、世界中の人間がここに立ち寄るのだろう。往来を行き交う人々の服装が仮装染みていたり、ナチやマオ達とは着ている服の形状や材質が少しばかり異なる集団も居る。


 街や世界を渡れば文明の発達度合いによって服装や身に着ける装飾品も変わる。また国独自の文化が異なる以上は見た目の変化は必然だ。けれども、マオはその変化に馴染みがないのか首を左右に忙しなく動かし、行き交う人々を観察していた。


 ナチの袖を引っ張り「お兄さん。何か、ヘンテコな格好してる人が居る」とピエロに似た仮装をしている筋肉質の男性を指差しながら、マオは目を何度も瞬いた。


 赤いアフロに黄色をベースに赤と紫のラインが入った仮装。顔には赤い鼻が印象的な口角が上がりまくった仮面を身に着け、手には白の手袋を付けている。


 ナチもイズもそれに微笑を浮かべながら「ピエロだね」「ピエロという仮装だ」と説明。


「ピエロって何する人なの? 」


 ナチとイズは顔を見合わせながら、首を傾げた。ナチは顎に手を添え、イズは右手で右耳を掻く。


「玉の上に乗って転ぶんだっけ?」


「ロープの上を渡るのではなかったか?」


 マオの顔から途端に好奇心と輝きが失われていく。


「何それ? つまんなそう」


 ナチもイズも顔を掻きながら、苦笑を浮かべる。ナチもイズもピエロを面白いと思った事が無いのだ。ピエロの面白さを二人が知らないのに、興味を引く説明など出来るはずがない。


 大きな赤い玉に乗り出した筋肉質なピエロを見つめながら、必死にピエロの良さを説明しているイズを尻目にナチは腕を組んだ。


 右肘を擦りながら、ナチは呆然とピエロや街並みに視線を向ける。


 ピエロを見る為に立ち止まる主婦や子供。肩に木箱を背負いながら、港に向かって走り去っていく船乗り。次の街へ向かう為に荷馬車に荷を乗せている旅商人。海鳥が空を駆け泣き声を街に落とし、その声を聞きながら人々はせっせと仕事をこなす。


 風に運ばれてきては鼻を掠める潮の香りにも慣れてきた頃だ。


 ナチは流れて行く群衆の中に少しばかり気になる人影を見た。知っている人物ではない。顔も名前も、もちろん年齢も知らない若い男性。ナチが気になったのは男性の格好だ。


 黒のダブルスーツ。見るからに上等な生地で仕立てられ、保温性と通気性に優れていそうな高機能かつ野心を感じさせるような背広。スーツに合わせたのか黒の革靴にスーツの下には白いシャツを着込み、黒に近い紺色のネクタイを結んだ細身の男性。黒い髪に黒い瞳。


 港に向かって歩いて行くその男性はスーツの襟を正すと背後へと振り返った。真っ直ぐにナチを見る。視界が重なる。気のせいか、と思いナチが視線を一度だけ右に動かした後に視線を男性へと戻してみるが、彼はナチを見続けている。


 真っ直ぐにナチを見て、騎士が主に頭を垂れる様に頭を下げる。それから、頭を上げた彼は爽やかな笑みを浮かべると、家屋と家屋の隙間に向かって消えていった。


 ナチはスーツの男を目で追う。彼が見えなくなるまで追い続けた。組んでいた腕が無気力に垂れ下がり、瞬きを忘れるほどに男性に対して熱心に視線を注ぐ。脳が遅れて起動する。思考が脳を駆け巡る速度が鈍い。すぐ側でピエロ談義をしている二人の会話が、酷く遠くに聞こえる。


 あのダブルスーツ。あれはこの世界の服飾技術では作れない。生地も技術も機材も、何もかもがこの世界の技術より高度な文明で作られた代物だ。シロメリアとネルが仕立ててくれたこのコートも一級品と言っても差し支えない代物だろう。けれど、このコートでさえあのスーツと比べると見劣りする。


 縫製技術も、生地も。あのスーツは全てが超一級品だ。


 ナチがこの世界に居る以上は他の世界の住人が居たとしてもおかしくはない。世界が置かれている状況が危機的状況でなければ、何も疑問に思わなかったかもしれない。


 残された世界は二つ。この超能力の世界と、ナチも知らない世界。そして、世界樹。


 もう一つの世界にも世界を救う為に動いている人物が居るのか。それとも元々この世界に迷い込んでいた世界渡りの旅人なのか。仮説を立てればきりがないが、確かめたい。


 もし彼が異世界人で世界が置かれている危機的状況に気付いていれば、世界を救う旅に同行し、協力してくれる可能性もある。急いで追い掛ければ、まだ追い付けるだろうか。


 ナチがスーツを着た男性が消えていった方向に足を踏み出そうとした時だ。赤い大玉に乗っていたピエロが盛大に地面に転げ落ちる。その瞬間どっと笑いが起き、ナチの前を子供が通過していく。


 ナチは子供に激突する事無く立ち止まり、静かに子供達が通過し終わるのを待った。


 子供達を目で追うと彼等は目を輝かせながらピエロに次の手品を催促している。「他にも何かやって」「もう一回、玉乗り!」と筋肉質なピエロを囲いながら、彼等は無邪気な笑顔を浮かべながら言う。


 ピエロは文句を言うことなく再び大玉に乗りながら、お手玉を投げる。それを見て子供達は大喜び。少し遅れて大人たちも歓声を送る。ナチも拍手を送りながら、足は前へ踏み出していた。男が消えていった家屋と家屋の間を覗き見る。


 覗き見ながら、ナチは首を傾げる。


 家屋と家屋の間。その先にあったのは、行き止まり。抜ける道も無く、あるのは積み重ねられた木箱だけ。


 どこに消えたのだろうか。それともただの見間違いだったのか。ナチは右側から聞こえてくるピエロに向けて次々に沸き起こる歓声を聞きながら、目を細めた。


「お兄さん、どうしたの? そんなに難しい顔しちゃって」


 マオが視線をピエロに向けたまま言った。ナチも視線を家屋と家屋の間に向けたまま口を開く。


「いや……少し気になる人を見掛けたんだけど、見失っちゃって」


 ナチは頬を掻き、苦笑しながらピエロを見た。常に口角がお椀型に上がった面。口元にはダイヤ、目尻には星のペイントが施された面はまだ傷一つ付いていなかった。新米のピエロなのだろうか。それにしては風格があるな、と思いながら、ナチは宙を舞い上がったお手玉を目で追った。


「じゃあそろそろ行こうかね」


 マオは目を輝かせながら右手でピエロを指差し、左手でナチの袖を引っ張った。それが何を催促しているのか分からない程ナチも鈍感ではない。


 ナチは頷きながら、マオの手を引いてピエロに数歩近付いた。


「あー今回だけだよ」


 力強く手を握り返されナチとマオは笑顔で顔を見合わせる。


「りょーかいしましたです」


「お前はマオに甘いな」


 呆れ声を発しながら、イズは鼻を鳴らす。ピエロが足下の酒瓶を掴むとお手玉と酒瓶を交互に宙へと投げ飛ばす。酒瓶が落ちないかとヒヤヒヤしながら、ナチはイズへと視線を傾ける。


「甘い……かな? そんな事ないでしょ?」


「甘い。が、まあ気持ちは分からないでもない」


 苦笑しながら、さらに宙に追加された酒瓶へと熱い視線を送る。


「別に甘いつもりは無いんだけど」


「お前は無自覚なのか? 激甘だぞ?」


「そう、なの……? んな馬鹿な……」


 ナチが苦笑を強めたのと同時にピエロがその場で大きく跳躍。赤い大玉から飛び跳ね、宙を舞った酒瓶とお手玉を掴み取る。


 それを見つめていた群衆が盛大に拍手を鳴らす。ナチもそれに遅れて手を叩きながら、ピエロに夢中でナチ達の話など聞いてすらいないマオの横顔を見る。


 甘いのだろうか、自分は。そんなつもりは一切ないのだが。


 年齢差的にもマオを妹の様に思う時は度々あった。今も、初めて見るピエロに対して無邪気な子供の様な視線を向けているマオに対して、父性愛の様な物は抱いている。


 けれども、対応が甘くなっているとは露にも思っていなかった。それを引き締めようとは思わないが激甘になってしまわない様に気を引き締めなくては。


 いや、もう激甘なのかと目尻を下げながら「今日からは厳しくしようかな」と(うそぶ)いた。


 そう言うとイズが大きな耳を揺らす。


「お前には難しそうだな」


「そんな事無いって。僕も色んな経験を積んできてるからね。飴と鞭の使い分けくらいは余裕だよ」


 イズが大きな耳を二回ほど縦に揺らす。それはやってみろ、とナチを挑発している様でもあり、お前には無理だ、と否定されている様でもあった。


 ナチは勝ち誇った様にイズを見る。見ているがいい、と口角を歪ませる。


「マオ。そろそろ探しに」


「今は無理」


「はい」


 ナチはすぐにピエロの次の演目に目を向けた。マオの右肩で嘆息している黒い獣が見えたが、ナチは何も言わずに、宙を舞った酒瓶を見つめる。


「お前は結局、飴しか与えられぬという事か……」


「まあ色んな経験を積んできてるからね。飴を与えるのは得意なんだよ」


「もうやめておけ……」


 ナチは目尻に涙を溜めながら、ピエロに称賛の拍手を送った。

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