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七 未知への恐怖

 結局、ラミルとの戦闘の後、ナチは街をくまなく清掃させられ、風を操っていた事を見られたせいか露店の商人に荷を運ぶのを手伝わされ、最終的には酒場を手伝う事にまでなった。そんな過密スケジュールをこなした翌日の昼下がり。


 ナチはマオと共に、ナチがこの世界に初めて降り立った森を歩いていた。相変わらず生命力に溢れた木々が生え並ぶ林道。空気は街よりも澄み渡り、清浄な雰囲気に満ちている。陰鬱とした表情を浮かべている住人達もおらず、街を歩くよりも、心は自然と弾んでいく。


 清涼を孕む風が天井を覆う梢を穏やかに揺らし、それに付随する形で梢を纏う葉が一斉に踊り出す。葉と梢が織り成す大合唱が林道を駆け巡り、自然な形で瞑目しそうになる。


 ナチは天然の大自然が吐き出す新鮮な空気を胸一杯に吸い込むと、隣を歩くマオに声を掛けた。


「今日はあの兎を倒せばいいの?」


「そそ。ウサギモドキの住処の破壊」


 ウサギモドキというのか……。


 確かにその姿に相応しい姿だな、と思う。兎の様な愛らしい見た目をしているのは間違いないのだが、その身に内包した牙は明らかに兎のそれとは違う。あの異常発達した牙と下顎。あれに噛まれれば人の皮膚はおろか、肉も骨も簡単に断ち切れる。


 あれは兎の皮を破った獰猛。正しくウサギモドキという訳だ。



 ナチ達の下へ、ウサギモドキの駆除依頼が来たのが今日の朝。依頼してきたのは、ウォルケンで青果を主に取り扱う商いをしている男性だ。前日、街を清掃している時にナチに気さくに話しかけてきた明るい気性の男性。


 彼は数日後に予定している遠征の為に森を住処にしているウサギモドキを駆除してほしい、とサリスに依頼内容を告げ、可能であればその住処も破壊してきてほしい、と付け足していた。


 それもそうだ。林道に出現した数羽を駆除した所で、それを生み出している住処を根絶やしにしなければ、ウサギモドキは際限なく出現する。安全性を高めるのであれば、住処は完全に破壊するべきだ。


 その彼は当然ウォルフ・サリの中でも最も実力が高く、経験豊富なサリスに依頼を遂行する事を所望していた。サリスなら簡単だろ、と軽薄な言葉を添えながら。


 だが、サリスはその依頼を新人であるナチに回した。サリス自身に既に別の予定が入っていた事と、暇を持て余していたのがナチだけだったというのが実情だが、それでも依頼主の男性は苦い顔をしたりはしなかった。


 ラミルを倒せたのだから大丈夫だろう、と無責任な太鼓判を押され、ちょうど倉庫整理の仕事が無くなりウォルフ・サリのアジトに帰ってきたマオも同行する事となり、二人は準備や朝食などを済ませた後に森へとやって来たのだった。


「そんな難しい仕事じゃないけど、気を付けてね」


「分かった。気を付けるよ」


 林道を進むと、穏やかに吹く風に水面を揺らしている湖が見えた。それはナチとマオが昨日戦闘した場所。


 ナチが倒したウサギモドキの死体は既に消えていたが、戦闘の後はまだ判然としている。黒く焦げた土や草もナチとマオが放った攻撃によって抉れた地面。戦闘が残した爪痕はまだハッキリと残っている。


 死体が消えた理由は分からない。共食いか、それとも親切な通行人が片付けたか。深く考えた所で消えた事実は変わらないし、興味もない。これからやる事はそのウサギモドキの住処の駆除。つまり、皆殺しなのだから。


 ナチはマオの後をついて行く形で森の奥へと進んでいく。奥に進む度に緑が濃くなっていく森。乾いた空気が少しずつ湿気に淀み、伸びる雑草はナチの上背を超す程に高い。穏やかな空気に囲まれた入り口付近とは少しずつ景観が変化し、寂然とした薄暗さがナチとマオの体を包もうとしていた。


「マオは昨日も森に来てたけど、仕事?」


 この森とウォルケンは歩いて約二時間ほど。ふらっと遊びに来るには少し遠い。馬などに乗ってくれば時間は短縮されるだろうが、少なくても一時間は掛かる。


「……昨日は、暇だったから」


 そう言った後に、マオは視線を下に向けた。どこか気を張っている様な表情を浮かべながら、地面を瞳に映し続けている。後ろで組まれた腕に少し力が入ったのが見て取れた。それはこれ以上の質問をするな、という警告にも見える。


 これ以上は聞かない方がいいか、と、ナチはそれ以上の言及は避けた。何でも聞いてよかった時代はとうに過ぎ去ったという事もあるし、探られたくない腹というのは誰しも持っているものだ。ナチにもあるし、マオにだってある。今ナチに出来ることは触れない事だけだ。


 

 人の手が入り、馬車や人が通りやすくなる様に舗装された林道から逸れ、ナチ達は木々の間を潜り所謂、獣道へと突入した。伸びる雑草を踏み潰し、湿った地面は徐々に泥濘に変化していく。それらに足を取られつつ、ナチは適度に雑草を引き千切り、葉を拾ったりしては符に変える。


 符を入れすぎて大きな膨らみを見せているコートのポケットにはおそらく百枚以上の符が入っている。これはもう癖の様なもの。ナチの符術は前提として符が存在しなければ成り立たない。符が無ければ符術は最弱であり、符を奪われた符術使いは無力。


 だからか、ナチは常に符を作る様にしている。戦闘中に符切れが起きない様に。



 それから暫く獣道を歩くとマオが突然立ち止まり、しゃがみ込んだ。靴は泥や土で茶色く塗り潰され、元の色合いを確かめる事は出来ない。マオは叢に隠れる様にして、視点を一点に注ぐ。


 ナチも彼女に倣い叢に隠れると、マオが向いている方向へと視線を向ける。視界に映る無数の灰色。後ろ足で地面を蹴り上げ、飛び跳ねる姿は正しく兎が跳躍する姿と酷似している。何も知らなければ、元気に飛び跳ね、長い耳を小刻みに動かしている姿に温柔な視線を送ったかもしれない。


 だが、ナチはもう知ってしまった。あの兎がただの兎では無い事も、人を襲おうとした事実も。もう愛らしさを感じる事は無い。真実の裏側に触れた時、人の価値観は固定される。


 目の前にあるのは、巣だ。ウサギモドキの住処。今回の依頼の目標。破壊しなくてはならない指標。


 木が四本積み重なる様に倒れており、その影になっている部分で安穏に眠っているウサギモドキの幼体。それを守護する様に倒木の外で周囲に気を巡らしている成体。幼体は全部で二十体ほど。成体は約五十といった所か。


 ナチは符をポケットから数枚取り出した。全滅させるのが目的ならば、一体ずつ殺すのは非効率。広範囲かつ致死性の高い属性と技を厳選し、住処ごと破壊するべき。だが、

 

「どうする?」


 ナチは今一人ではない。横にはマオが居る。彼女の意見も聞く必要がある。ナチの意見と彼女の判断を照らし合わせ、最も効率的な作戦を立てる必要がある。


「もちろん、特攻」


「え?」


 愚鈍な声を漏らした頃には、マオの頭上には氷の剣が既に形成を始めていた。幅広で分厚い鈍器の様な巨大な剣。数は八本。彼女の突飛な行動に、ナチは咄嗟に動く事が出来なかった。呆気に取られたまま、氷剣が住処へ向けて射出されるのを見送る。


 直進していく氷剣は倒れている木に深く突き刺さり、刺さった場所を起点に木は凍結範囲を拡大していく。計七本の氷剣は瞬く間に木を刺突し、木が完全に氷結すると、八本目に射出された氷の剣がそれを粉々に砕く。


 砕けた倒木の重量と氷の重量。その二つの重さを伴いながら落下していく氷塊に押し潰されるウサギモドキ達。鮮血が宙を舞い、透明な氷を濡らしていく。垂れる水滴と混ざり合い、地面を濡らす血水は土に吸われてすぐに見えなくなる。


 幼体は全滅。木陰に隠れていたのだからそれは言うまでもない。後は突如発生した異変に右往左往に逃げ惑っている成体の駆除。ナチとマオの居場所はまだウサギモドキ達には気付かれていない。


 ナチはポケットから符を大量に取り出し、属性を付加。「大気」。霊力を流し込めた属性を具象化させると、ナチは符を天に向かって投擲。舞い上がる符は膨大な空気を付随しながら、逃げ惑うウサギモドキを一か所に誘導させる。

 

 空気弾を放ち、突風を起こし、視認できる全てのウサギモドキを住処になっていた木に集積させると符をドーム状に展開。ラミルに放った技と同じ。住処全体をドーム状に符で囲み、結界内の空気を操作する。これで結界内から脱出する事は不可能。


 脱獄不可能の監獄を作り上げると、ナチはすぐさま霊力を放出する。


 ナチは、空気中を構成する気体、窒素、酸素、アルゴンなどを空気中から排除。空気を構成する気体を二酸化炭素のみに限定する。強引に空気から二酸化炭素以外の元素を引き剥がし、結界内から排出。作り出すのは単一の空気構成。肉体にとって猛毒でしかない死の結界。

 

 二酸化炭素濃度、百パーセントの結界内。二酸化炭素は酸素の二十倍の速度で血液中に溶け込み、頭痛、錯乱、眠気、混迷を引き起こし、ウサギモドキ達を急性の呼吸性アシドーシスに陥らせる。


 十分な換気は行われず、呼吸したとしても吸い込むのは二酸化炭素のみが構成された空気だけ。結果、二酸化炭素を体内から排出する事が出来ず、脳をはじめとする各器官が機能不全に陥り、死亡する。


 空気を固定するよりも、効率的かつ効果的に対象を殺す事が出来る。


 

 結界内のウサギモドキ達が次々に倒れていく。安らかに、寿命が底を尽きたかのような穏やかな死に様。長い耳は垂れ下がり、顔が泥濘に沈んで黒茶に染まる。


 それを無表情で眺めていると、マオがまるで恐ろしい物を見るかの様な、地獄の使者に奈落に引きずり込まれそうになっている愚者の様な顔をして、ナチを見つめていた。


「……何を……したの?」


「空気を構成する気体を二酸化炭素のみに限定して、二酸化炭素中毒を故意に起こしたんだよ。二酸化炭素百パーセントの空間内では、生物は生きていられない」


 ナチの言葉の意味が理解できないだろう、と分かった上で淡々と言った。何でもない事の様に、目の前で繰り広げられる憐憫で凄愴な光景など意にも介していない様な口ぶりで言った。


「ちょっと、待って。何を言ってるの?」


「息を吸えなくした、って感じかな」


 数分が経った後、ナチは霊力を流した。符が効力を失い、宙に浮いていた符が音も無く地面に落下していく。死体の山に降り注ぐ白符が雨のように降り注ぎ、灰色と赤を白で覆い隠していく。


 その無数の死体が転がる光景は、ウサギモドキ達が呑気に昼寝を愉楽しているかの様な光景だ、と口にしたとしても疑われる事は無かっただろう。そこに死の陰など微塵も感じられず、それは平和で穏健な日常の一ページを切り抜いたかの様な光景にも見えるのだから。


「確認しにいく?」


「一応……」


 二人は無言で巣へと近付いて行った。無数に転がっている死体の一体を右手で触れ、死亡確認を取る。心臓は動いておらず、呼吸もしていない。泥水を吸って重くなったウサギモドキを地面に無造作に捨てると、ナチは周囲を見渡した。


 間違いなく、死んでいる。幼体も成体も全て。確認するまでもなく全滅。



「……死んでる」


 マオが茫然とウサギモドキの死体に触れながら、不信の意を込めながら言った。手が震えている。漏れる吐息には深い驚愕が込められている。死を悼んでいる訳ではないだろう。元々、この生物を殺す為にナチ達はここに来ているのだ。


 ナチは気付いている。ナチを見つめる視線にある感情が宿った事を。彼女の震えに戦々兢々とした色が含まれている事を。


 ナチは知っている。何度もこんな視線を向けられてきた。力を求めて実力を底上げする度に、人に尊敬されるどころか離れて行ったから。


「帰ろう」


「……うん」


 酷く暗雲が立ち込めていくマオの悲痛な表情とは裏腹に、天を染める色彩はどこまでも澄明な青空だった。

 




 街へ帰還する間、ほとんど会話をする事も無く二人は街へと帰って来た。ナチから少し離れて歩くマオは常に俯き、道すがら何度も木に激突しそうになったり、石に躓きそうになったりしていた。


 その表情の理由。


 自身の想像を超える速度で押し付けられる死を目の当たりにして、理解できない単語、術、結果を見せつけられて、マオの脳は容量を超えてしまった。内包できる感情の情報量を超えてしまった。


 だから、壊れかけた受信機の様に新しい情報を受信できない。余計な情報を仕入れることができない。受信機を破壊したナチを直視できない。その理由は簡単だ。怖いから。自分の知らない力を行使し、知らない現象を引き起こし、大量に死を生み出した。それが怖い。

 

 その事実を理解できない事が、ナチが起こした死のプロセスが、その空白の過程に答えを示せない事が怖いのだ。


 簡単に簡潔に言えば、ナチが怖いのだ。マオは。


 火や風を発生する能力をマオはおそらく見た事がある。だから、ナチが火を起こしたり、風を起こしたりする現象に関しては、今の様な恐怖を抱く事も無かった。こんなに分かり易く狼狽はしていなかった。


 だが、ナチが起こしたのは不可視の空気構成の変化。視覚する事が出来ない空気構成を変化させ、低範囲ではあるがウサギモドキの命を大量に奪った。原因が分からないまま生物は大量に死に、理解できない言葉を喋るナチ。


 もしナチがマオの立場でも恐怖を抱く。きっと、マオと距離を取る。考えない様にする為に。自身の思考で自傷してしまわない為に。


 未知には常に恐怖が付きまとう。これは仕方が無い事だ。


 この未知に対する恐怖を無くすには、マオが自分の意思で未知を解明していくしかない。未知と向き合い、調べ、それを定着させる。そうする事で未知への恐怖は解消されるはずだ。


 だが、それもマオがナチに対して歩み寄る気があれば、の話だが。



 ナチは苦笑を漏らすと今もショート寸前の頭を揺らし、難しい顔で俯いているマオを見た。彼女に掛ける言葉が見つからず、ナチは口を開き掛けて、結局閉じる。今のマオにナチの声は悪い意味で響く。


 今は何も言わないのが無難か、とナチは嘆息し、街中を流れる河の上に作られた橋を渡る為に一歩踏み出そうとした。その時だ。突如として目の前に現れた男にナチは目を見開き、緊急制止した。


 それに気付かずに歩き続けているマオの右腕を引っ張り、自身の下へと勢いよく引き寄せる。小さな声がマオの口から漏れると共に、ナチの腕の中に収まっていく。マオから運搬される甘い匂いに、倒錯的な危機感を覚えるとナチは彼女を体から離した。


 間一髪、衝突を避けられたマオがナチを見る。顔を上げ、ナチを見て若干の怯えを見せた後に目の前で下卑た笑みを浮かべている男に視線を向けた。


 眼前にいるのは一人の男性。強い癖毛が頭皮の上で渦巻いている短い黒髪。筋肉隆々の肉体美を主張したいのか、タイトな白色のシャツとズボンを身に着けている。


 股間が締め付けられ苦しそうにしているが、ナチは静かに視線を男性の顔へと移した。


 丸い顔に丸い鼻。一重瞼から覗く瞳は淀んだ黒。そして、鱈子の様に太い唇が印象的なまだ若い男性だった。


「よう、マオ。今日も掃除代行サービスでもしてきたのか?」


 馬鹿にする様な口調に、見下された様な視線も追加されて紡がれた言葉に、マオは無反応。無視をした訳ではないだろう。ただ森での出来事が原因で動きを鈍くしている頭が目の前の現状をすぐに受け止めきれなかっただけだろう。しかし、それが癇に障ったのか男性はマオの腕を掴んだ。


「おい、無視すんじゃねえよ。サリスに守ってもらってるくせによお」


「ちょっ」」


 マオが強引に男性の腕を振り払おうとするが、中々振り解けない。力が強いのか、マオの腕力が弱いのか。頭に血が昇った男性はナチの事などすっかり忘れている様だった。男の視界から消失したナチは、悠然と男の背後へと回っていく。


「痛い。離して!」


「なら、謝れよ。俺の事無視してごめんなさいって謝れよ」


「いや!」


 マオは咄嗟に握り拳程度の氷を精製し、男性の顔に氷をぶつけた。氷が顔面に直撃した衝撃で、男性は反射的にマオの腕から手を離し、自身の顔に手を当てた。よろよろと後退しながら、苦悶の表情を浮かべる。


 その隙にマオが男から距離を取る為に後方へと大きく下がる。下がったマオと視線が重なる。彼女の宝石の様に美しい青の瞳が男が見せる憤怒の感情によって淀んでいく。


「こんの野郎……」


「もうやめた方が良いよ?」


 ナチは悠然と静謐に男性の背後に回ると、右手で頭を持ち、左手で頤に手を添えた。そして、右に頭を少し傾かせる。このまま腕に力を入れれば、男性の首を折れる。頸椎は砕かれ、死は唐突に訪れる。もう、この戦闘に置いての圧倒的な優位性は獲得した。


 あとは本人の意思を確認した後に決断を下すだけだ。生きるか、死ぬか。



「どうする? 降参する?」


「誰だ、お前?」


「こっちのセリフだよ。情緒不安定なの?」



 ナチは腕に力を入れる。右に傾く顔。ナチと男性にしか聞こえない音。それは頸椎が軋む音。死の予兆が二人の耳を静々と通り抜ける。脳が明確な死の予兆を認識するまで三秒、二秒、一秒。


「どうする? 死ぬ?」


「……悪かった」


「謝るのは僕じゃないだろ?」


 男性は困惑した表情を浮かべているマオに対して視線を送る。団子のように丸い鼻から荒々しい吐息が漏れ、一重瞼の瞳が一本線の様にきつく細められる。


「…………悪かった」


 ナチは男性の耳に寄せ、マオには聞こえない様に小さく引き絞ったで言った。


「次は無いからね?」


 ナチは男性から腕を離し、背中を押す。強く推したわけでは無かったが、体勢を大きく崩した男性は一度ナチを振り返った。その顔はすっかりと青褪め、先程までの威勢は失われている。逃げる様にマオの脇をすり抜け、路地を駆け抜けていく男性の股間からは水滴が垂れ続けていた。


 未だに困惑したまま立ち尽くしているマオへと視線を向けると、ナチは彼女の顔の前で小さく柏手を打った。小さく響く乾いた音色にマオは跳ね馬の様に肩を跳ね上げ、粛々と視線をナチに向ける。


「帰ろっか」


 俯いてしまうマオの視界に入り込む様にナチは膝を折る。無理矢理に視線を合わせると揺れる瞳を向けるマオに微笑みかける。


「帰ろう?」


 それでも反応が無いマオを見て、ナチは息を吐いた。どうするべきか、と思考を巡らせながらナチは折った膝を戻すと、俯いているマオの手を強引に掴み、早足で橋を渡った。



「ちょっと、お兄さん」


 腕を振り解こうとするマオを軽くいなし、ナチは橋を渡り切った。そして、酒場に向かって歩き続ける。このままじっと俯いていても現状は変わらない。言葉を交わさなければ歩み合える事も無い。分かり合う事など永遠に不可能だ。だから、


「マオは僕が怖くなったんでしょ?」


 ナチから歩み寄ればいい。せっかく、出会ったのだから。この無限に存在する異世界の中で偶然にも巡り会えたのだから。


「え?」


「理解できない力を見て、怖くなった。違う?」


 沈黙が生まれる。ナチはマオの言葉を待った。背後を振り返る事なくナチは歩みを進めた。


 そして、永遠よりも短く一瞬よりは長い沈黙が続いた後、背後から弱々しい声で言葉は紡がれた。


「……だって、あんな力見た事ない。あんな戦い方……見た事ないし」


 ナチは往来のど真ん中で立ち止まった。マオの手を離し、体をマオへと向けると、ナチは真っ直ぐにマオの瞳を見た。


「知らない力は怖い。それは当たり前なんだよ」


「……当たり前?」


 ナチは頷くと、符を取り出して属性を付加「火」。すぐに属性を具象化させ、符に火を灯す。燃え上がる焔は酸素を取り込み猛々しく燃え上がると、一瞬で塵となって消えていった。


「僕も当たり前に符術を使ってはいるけど、最初は怖かったよ。原理も仕組みも何もかも意味不明だった最初はやっぱり怖かった。けど、最初は理解出来なかったこの力も、理解して少しずつ使える様になってから、怖くなくなったんだ。徐々に徐々に怖くなくなって、今は無くてはならない存在に変わった。だから」



 マオも理解すれば恐怖は克服できる、とそう言おうとした時、マオは首を傾げていた。何言ってんのお前、と言わんばかりに瞳は鋭く、薄い唇は「は?」と言いたげな形で静止している。理解されていないのか、ただ馬鹿にされているだけなのか。


 どちらにしても、今の言葉では伝わっていないという事は判明している。


 ナチは必死に考える。マオでも理解出来そうな言葉を模索した結果。



「結局、知らない力っていうのは怖い物なんだよね」


「話のスケール下がったけど」


「だって、しょうがないじゃん。マオ馬鹿だし」



 ナチは小声で聞こえない様に配慮する事も無く、申し訳無さそうにする訳でもなく、笑顔で言った。当然だが、マオの瞳に怒気が混じる。混じった所ではない。沸々と煮える窯の蓋を開けてしまったかのように、怒りが際限なく溢れ出してくる。


 マオはナチに一歩近づくと、吐息が当たる距離にまでナチに顔を近付けた。


「今なんて?」


 声と共に伝わってくる感情は無論、怒り。だが、ナチはそれを見て更に口角を上げた。煽る様に、嘲る様に笑う。


「何でもないです」


「お兄さん、怒らないから言ってみなよ」


 目尻も口端も引くつかせながら冷笑を浮かべているマオを見て、ナチはもう一度同じ言葉を口にする。ハッキリと馬鹿にするような口調で。


「マオが、馬鹿、なんだから、しょうがないじゃん」


 その言葉にマオから紫電一閃、笑みが消える。瞳には明確な怒りを灯し、眉間には彫ったのかと錯覚しそうな程に深い皺が浮かんでいる。


「お兄さんが頭良いアピールするからでしょ?」


「してないよ。普通に言ってるだけだよ。ていうか、マオだってウサギモドキ殺してたよね? 僕だけ怖いって思われるのおかしくない?」


「おかしくないよ。二酸化なんとか百パーセントとか言ってるお兄さんの方が、よっぽどおかしいよ。おかしさ百パーセントだよ」


「二酸化炭素だよ! それとパーセントの意味分かってないでしょ!」


「分かってないよ! 悪いか?」


「悪いよ!」


 往来で大声を上げているナチとマオを誰もが凝視していた。


「ラミルもあっさり倒しちゃうし」


「マオが倒してほしいって言ったんでしょ?」


「言ったけどさあ。そんなにあっさり倒す?」


「向かって来たんだから倒すよ、そりゃ」


「ただの戦闘大好きおじさんだよ、それ」


「おじさんっていうの止めて」



 ナチは耳を塞いだ。若者が紡ぐ最も失礼な単語から逃げる様にナチは耳を塞いだ。おじさん、ハゲ、デブ、最も聞きたくない単語だ。


「だって、お兄さん二十歳越えてるんでしょ? もうおじさんだよ」


「やめて」


「ほら、白髪も生えてるし」


「良くない。嘘は良くない」



 と言いつつ、ナチは宿屋の丸窓を鏡代わりにして、毛髪を確認した。黒色をベースに白が混じっている長い髪。しかも、白髪の量がかなり多く、黒よりも色の割合が多い。白の監獄に入る前は確かに真黒な髪をしていたのに。


 何故こんな事に……。


 ナチが叫びの如く、頬に手を当てていると背後から勝ち誇った様な笑みを浮かべているマオが丸窓に映る。妖しく光る彼女の瞳にナチが戦慄いていると、マオがナチの肩を優しく叩いた。その優しさすらも心を蝕み始めそうだ。


「ほら、おじさん初期症状が出てるでしょ?」


「初期症状じゃないから。そんなのないから」


「認めなよ。おじさん?」


「やめて、戻して。お兄さんと呼んで」


「じゃあ、私に謝って?」


 マオは腕を組むと、体を震わせているナチに土下座しろ、とでも言いたげな高圧的な笑みを見せる。ナチは歯噛みしながらも、腰を丸める。


「すみませんでした。バカリアさん」


「マオリアですけど? おじさん?」



 もう一度どうぞ、とマオの声が頭の上から聞こえてくる。奥歯を噛み締める。なぜ、年下の少女に往来のど真ん中で謝っているのだろうか。


「スミマセンデシタ、マオリアサン」


「心がこもってないけど、まあいいや。もう帰ろ、お兄さん」


「……はい」


 先を行くマオの顔はすっかり元通りの人懐っこい顔になっていた。

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