二十九 紫炎の慟哭
イサナとメリナの悲劇の逃亡劇から早三日が経とうとしていた。
三日というあまりにも短い期間だというのにイサナとメリナの逃亡劇は既に過去の出来事として村人達には記憶され、トリアスには平穏が戻ろうとしている。
いつもと変わらない日常。時間の流れ。農具を持ち、畑仕事へと向かう農夫。弓や剣を持ち、狩りへと出向く狩人。川に洗濯に向かう主婦達。
トリアスには三日前と変わらない日常が今も流れていた。
二人の人物を除いては。
マルコとイザナ。イサナとメリナの両親。二人は三日前から、家から出て来なくなった。
二人の遺体を見た瞬間にマルコもイザナも膝から崩れ落ち、言葉を失った。すぐには涙は出ず、時間差で零れた涙が娘を濡らしたのは今でも覚えている。
そして二人は何も言わなかった。ナチ達を責める事も無く、ただ悲嘆に明け暮れていた。娘を失った悲しみを言葉にならない叫びで表しただけだった。
その二人に無表情で謝っていたナチの姿は冷酷の様にも、憔悴している様にも見えた。溢れすぎる感情を受け止めきれていない様な、頭が感情を受け止め過ぎて壊れてしまった様な無表情で頭を下げ、彼は謝罪の言葉を並べ続けていた。
イザナとマルコは一晩中泣き叫んだ後に、二人は家の中に引き籠り、ナチは姿を消した。村の誰に聞いても姿を見ていないという。
イサナとメリナの死後、見事にナチもイザナもマルコもバラバラになってしまっていた。
村に取り残されたマオとイズは村を離れる事も出来ずに、ひたすらにナチの帰還を待ち続けていた。
「全く。お兄さんはどこに行ったのやら……」
道場の壁にもたれながら、マオは夜空を見上げた。右肩の上ではイズが盛大に息を漏らしている。
「行先も告げずに消えるとは、あの大馬鹿者」
「でも、お兄さん。最後にマナさんと何か話してた」
ナチはマナに何かを耳打ちしていた。それを聞いたマナは驚いたように目を見開き、口を間抜けにも半開きにしていた。何を言ったのかはマオには分からない。ナチではないのだから分かるはずもない。
でも、気にはなる。ナチはマナに何を言ったのだろうか。何を耳打ちしたのだろうか。
ナチの相棒は自分なのに。
なのに自分には何も言わずに彼は出て行ってしまった。何も相談してはくれなかった。
頼りないからだろうか。まだ弱いからだろうか。結局、世界を救う可能性を持っていなければ、自分はナチの相棒に相応しくないという事なのだろうか。
どうすればいいのか。どうすれば強くなれるのだろうか。どうすれば彼に追い付けるのだろうか。
どうすれば、ナチに認めてもらえるのだろうか。
「どうしたら、お兄さんの役に立てるんだろ……」
「どうした、急に?」
優しい響きを含ませながら、イズは言った。
「私、お兄さんの力になれてないから。いつも、お兄さんに守られてばっかりで、今回だって私は何もしてない。偉そうな事ばっかり言って、私は何もしてない」
「そうだな。今回、お前は何もしていない。我もだ」
「ハッキリ言うなあ、イズさんは」
マオが夜空を見上げながら、震えた声で紡いだ。イズはマオの耳に少しだけ顔を近付ける。小さな息遣いが聞こえてくる。
「我等が戦闘面であいつを助けられる事はそう多くはない。我等よりも遥かに高度な文明や知識、戦闘経験を積んだ男の役に立とうと思うならば、我等も同じ知識や経験を積まねばならぬ」
「……うん」
「だが、そんな時間は無い。我等は我等のペースで強くなるしかないのだ。その為には今の環境下で我等よりも強い奴を利用するしかない。つまりだ。ナチを利用しろ。あいつの側に居続けたいのなら、あいつを利用して、あいつを超えろ」
「お兄さんを利用して、お兄さんを超える?」
「そうだ。ナチが積んだ経験は相当な物だと我も思う。だが、お前もまだ若い。一つの能力を最大限まで極めれば、誰にも負けない必殺の力に変わる。ナチの様に多種多様な能力を使えずとも、お前は最強になれる」
イズはマオの肩から地面へと下りると、赤い双眸をマオへと向けた。夜の闇に体が同化し、赤い瞳だけが浮き彫りになっているかのようで、少し怖いがマオは真っ直ぐにイズを見る。
「お前はまだ己の非力さに絶望する時ではない。強くなりたいとうだうだ悩むよりも、体を動かせ。お前はどうせ阿呆の子なのだから」
「あーイズさん、酷い!」
「事実だろう?」
「事実じゃないし!」
マオが必死に否定するとイズが乾いた笑い声を零した。マオがしゃがみ込み、イズの体を抱き抱えると、彼女は大人しくマオの胸の内に収まった。
「おーい! オレンジ頭!」
前方から夜のトリアスに入って来るのは、松明を手に持ったウルサラだった。彼女の後ろには銀色の鎧を身に纏った兵士達が列を成して歩いている。
「ウルサラさん、どうしたんですか? そんな馬子にも衣裳みたいな格好して」
白のドレスを身に纏った彼女は黒く長い髪を後頭部で綺麗に結い、貴族とは思えない様な豪快な歩き方と笑みを浮かべながら、トリアスの街を闊歩している。
彼女がマオの前で立ち止まると、後ろで列を成していた兵士達が同時に立ち止まった。
「あんた、意外と失礼だね。いや、久しぶりの我が家へと帰ろうかと思ってね。挨拶に来たってわけさ」
ウルサラの本名はウルサラ・リリ・フォロウ。彼女はれっきとした名家のお嬢様だったのだ。
そして、メリナ捜索の応援に偶然来ていたのがフォロウ家だったというのだがどう考えても偶然とは思えなかった。
実際、偶然ではなかったのだ。
何故ウルサラがフルムに捕まっていたのかも、彼女自身の口から明らかになった。
フルムはフォロウ家を陥れようとしていた訳でも滅ぼそうとしていた訳でもなく、彼女の死体を見たフォロウ家がどう反応するのか見たかっただけだ、というのが本人の弁。
一人娘の死体をフォロウ家に見せる事で、悲しみに明け暮れる姿が見たかったんだろ、とウルサラは笑っていたがマオはとても笑顔を浮かべる気にはなれなかった。
だが、それをナチに阻止され、生きた状態でフォロウ家に発見されてしまった為に、フルムは連日フォロウ家に押し掛けられるという事態が生じていた。
とは言っても、フルム側が全く応対してくれないとの事で進展はないということらしい。
味方として駆けつけた増援が一夜にして、敵に変貌したのだから人生なにがあるか分からないな、とマオは胸に抱いたイズの頭に顔を埋める。
「あ、でもお兄さんがまだ帰ってなくて」
イズの頭から顔を離し、ウルサラを見る。
「ナチになら会ったぞ。話したわけではないけどな」
「え? どこでですか?」
ウルサラに詰め寄ると彼女はマオを押し戻しながら、口を開いた。
「まあ、落ち着け。会ったのは、ついさっきだ。フルムの屋敷周辺を難しい顔で歩いてた」
「屋敷の周りを? 何で?」
「何の用があるというのだ?」
マオとイズは顔を見合わせる。首を傾げ、屋敷がある方向へと視線を向ける。ウルサラも肩を竦め、「それは私にも分からないね」と苦笑しながら言った。
「けど、早く行ってあげた方がいいんじゃないかい?」
「え?」
「あの顔は少し危険な香りがする。なんだか、思い詰めている様な、何かとんでもない事をやらかしそうな感じだった」
「何かって?」
ウルサラが眉を下げる。貴族というよりは盗賊の親分の様な軽薄な笑みを浮かべ、ウルサラは豊満な胸の前で腕を組んだ。
「ナチだからね。盛大になにかやらかしてくれそうじゃないかい? ど派手にフルムの屋敷でも吹っ飛ばしてくれると助かるんだけどね」
何故だか嬉しそうに語るウルサラ。それをウルサラの背後で聞いていた執事の様な風貌の男性が「気になる殿方でも?」と口にし「未来の旦那候補」とウルサラが言った瞬間、男性は絶句した。
「冗談だ。ナチはこのオレンジ頭にしか興味が無いからね」
「そんな事はないですよ……。女として見られてないというか」
マオが照れる訳でも、恥ずかしがる訳でもなく淡々と言うと、ウルサラが呆れたように鼻息を盛大に漏らす。
「あんたも大概だねえ」
「大概なのだ、お互いにな」
「大変だね、あんたも」
「そうでもないさ」
イズとウルサラが意気投合し始めた理由が良く分からずに、マオは呆然とその場に立ち尽くした。何が大概で何が大変なのだろうか。
「とにかく。これ以上私達だけでフルムを問い詰めても事態は進展しないからね。一旦、我が家に帰らせてもらうとするよ」
「うん。また会えるといいね」
「ああ、また会えると思う……ぞ……」
マオの前方、ウルサラの背後が突如としてアネモネを想起させる紫色に染まった。ウルサラも彼女の後ろで列を成して待機している従者と兵士達も、一斉に背後へと振り返る。ゆっくりと天に昇った紫炎を見上げた。
空に昇る紫色の炎。揺らめく焔は空を紫一色に染め上げ、埋め尽くさんばかりの勢いで大地から噴出されていく。木々を燃やし、灰燼へと変え、大気中を漂う紫煙は紫炎と混ざり合う事で、より一層紫の色合いを強くしていく。
マオとイズは瞬きすらせずに天を支配しようとしている紫色の焔に意識を向ける。あの紫炎が発生している場所はフルムの屋敷がある場所。あの場所はナチが最も憎んでいる怨敵が根城にしている悪の根源。
「お兄さん……」
確証は無い。彼があそこに居る証拠も持ってはいない。けれど、ナチがまた無茶をしているという確信はあった。意識が途切れる事に躊躇いを持たず、無茶な符術を繰り返す彼の無表情が脳裏を掠める。
「あれを起こしているのが、ナチだっていうのかい?」
「多分……」
「なら、早く行ってやんな。あんたにナチが必要なように、あいつにもあんたが必要なんだよ」
ウルサラがマオの両肩を掴みながら、唾を飛ばした。紫色に光る紺色の双眸が真っ直ぐにマオを射抜く。
「……うん。行ってくる!」
「我は待っていよう。ゆっくり話してくるがよい」
イズがウルサラの肩に飛び乗りながら、空に昇った紫炎を見つめた。
「ほら、早く行ってやりな」
「う、うん!」
紫炎に向かって、そこに居るはずのナチに向かってマオは走り出した。
「全く世話が掛かるお嬢さん達だね」
「まあ、そう言ってくれるな。あの子はまだ子供なのだ。それにナチは誰よりも責任を感じておるようだからな」
火山の噴火の様に勢いよく天に昇った紫炎を見つめながら、イズは最後に見た彼の表情を思い浮かべる。何かに憑りつかれたかの様に遠い何かを見つめる彼の瞳。木のうろの様に感情が込められていない、空洞な瞳。
ナチは誰よりも責任を感じ誰よりも自分を責めている。自ら複雑化し手に負えなくなった自責と二人の死が生み出した衝撃が、ナチの精神から正常な判断力を奪ってしまっている様にイズには見えた。
「あれは弱音や苦痛を基本的に誰にも言わぬ。全てを一人で解決しようとして、一人で背負うとする。ナチの悪い癖だ」
「確かにそんな感じするね。あんたらのとこの大将は。きっと、色々知りすぎてるんだろうよ。あの若さであんな冷たい目ができる奴を私は初めて見た。正直、粗相するかと思うくらいには怖かったよ」
からから、と乾いた笑いを漏らすウルサラはイズの頭を撫でた。豪快に笑いながら、優しく。
「醜い悪意に触れて私も少しは理解したよ。悪意に慣れ過ぎた人間が行き付く先は多分、二つだ。悪意に染まるか、悪意を滅ぼす為に何もかもを滅ぼすか、だ。悪意は消えない。金や力では一生消せない。フルムが死んでもフルムの代わりがすぐに表れる。
なら、どうすればいいか。私は地下牢にぶち込まれて、思ったよ。ああ、命なんて全部消えちまえばいいのにって」
「ナチも言っておったよ。人が争いの種を植えるから、争いの花が咲くと。だから、争いを無くす唯一の手段は人が滅びることだとな。世界はこんなにも醜さで溢れているとも」
きっと、ナチはそれを体現したのだろう。人を滅ぼし、悪意も争いも全てを消滅させたのだろう。けれど彼は人を滅ぼして、生命を滅ぼして、ようやく気付いたのだ。全てを滅ぼすという事は負の感情だけでなく、正の感情も消えるという事に。
醜い感情を完全に消滅させるという事は笑顔も幸せも滅ぼす事に他ならない事を、馬鹿な子供は滅ぼした後に初めて気付いたのだろう。
「随分な極論だね。けど、真理だ。私は人を滅ぼしたいとまでは思わないが、貴族の家に生まれたからね。今まで多くの人間と関わってきた。だから、ナチが言う事も全く分からないわけじゃない」
ウルサラは愁いを込めた表情で立ち昇り続ける紫炎を見つめた。彼女の黒く美しい髪が紫色に染まり、妖艶に煌めいている。それが彼女の整った容姿と愁容によって哀愁すら感じさせ、ウルサラをより一層優美に彩っていく。
「優しすぎるんだ。強くはないくせに優しすぎるから後で泣く破目になるんだよ、あんたの所の大将は」
「返す言葉も無いな」
ナチは戦闘面だけで言えば比類なき力を誇っていると言っていい。異世界で蓄えた知識や技術を効率的に運用し、合理的に符術に組み合わせていると思う。
けれど、精神面ではやや脆いと思わざるを得ない状況にイズは数回遭遇した。彼は強敵に出会えば畏怖するし、大切な他人を失えば簡単に傷付く。時には落涙もする。敵には容赦がないナチではあるが、彼の精神は決して卓越しているとは言い難い。
彼の精神は現実離れしている実力とは裏腹に、年相応の耐久度しかない。それでも同年代の青年と比べれば遥かに成熟しており頑丈ではあるのだが、高い実力に精神が追い付いていないというのが現状だ。
それにナチは気付いているだろうか。
「まあ、あんたがいればあの優しすぎコンビは安泰だろうさ。私も出来る事ならあんた達の旅について行きたいが」
ウルサラの言葉に後ろの従者と兵士達がどよめく。ウルサラをおろおろと心配そうに見つめる従者が「ウルサラ様……」と泣きそうな声で呟いたのを見て、ウルサラもイズも苦笑する。
「これ以上はこいつらが持ちそうにないからねえ」
「愛されておるな」
「まあね。愛され過ぎて困っているくらいさ」
イズはふふ、と笑いながら、立ち昇り続ける紫炎を見つめ続けた。
いつか、ナチがマオに対して何も言わない理由。相談しない理由を質問した時があった。それをイズは冗談めかして誤魔化したが、その理由については不明瞭ではあるが見当がついていた。
それは彼が無意識にマオを危険から遠ざけようとしているからだ。安全地帯に無意識に誘導しようとしているから。マオの手に負える程度の相手なら、ナチがリカバリー出来る程度の相手なら、ナチもマオを頼りにするが、それ以上の相手となると彼はマオに対して何も言おうとしなくなる。
ブラスブルックからトリアスに向かう道中でもそうだ。彼は迫る盗賊や野盗がマオの手に負えないと分かると、無意識に彼一人で全てを片付ける癖が既に付いていた。それをマオは気付いている。助けられたという事実をマオは理解している。
ナチだけが気付いていないのだ。無意識にマオを危険から遠ざけている事に彼だけが気付いていない。
それでも、彼がマオを手元に置く理由。それは決してマオが世界を救う因子を持っているからだけではないだろう。マオにとってのナチが大きくなっていくように、ナチにとってのマオも大きな存在になっている。
きっと、そういう事なのだろう。
本人達だけが気付いていないその真実に気付くとき、世界はどうなっているのか。
祝福か、終焉か。それとも新たな可能性を二人が導き出しているのか。
「若いというのは素晴らしいな……」
「あんたも頑張んなよ、お婆ちゃん」
「そんな歳ではない!」
慟哭の様に天に昇る紫炎。それは誰の慟哭か。
生者か、故人か。
イズには知る由も無かった。




