二十六 逃走劇 イザナ
後ろ手に扉を閉めたイザナはすぐさま林道に向かって走り出した。道場から少し離れた場所にイザナは符を地面に設置。そのまま小屋へと向かう時の様にブラスブルック方面へと繋がる林道に向かって走り出す。
村と林道の境目。そこがナチに指示された場所。その場所にたどり着くとイザナは歩みを止めた。
ここならば、村のどこに立っていても視界に入るはずだからと彼は言っていた。事実、屋内に入ってさえいなければ、障害物が一つもないこの場所は条件が揃えば注目の的になり得る。
そして、彼は注目の的になり得るだけだった可能性を確実にする策。それを考え付き、その準備を終えている。イザナが手に持っている符がそれだ。林道に体を向け、顔だけを村に向けていると背後から突如として爆音が鳴り響く。強い力で誰かに押されたかの様な衝撃が背中を押し、イザナは少しよろめいた。
イザナは両耳を押さえ、背後に視線だけを向ける。すぐに爆音の正体が先程地面に置いた符なのだと気付く。爆音によって鳴動している符は更に音量を上げる。それに合わせてイザナも耳を覆う力を強める。
顔を歪めながら音の振動を全身に浴びていると背後で動きが見えた。家屋から飛び出してくるトリアスの人達。
足を忙しなく動かし村を駆けずり回っている。爆音に驚き、その正体を探る為に飛び出してきたのだろう。誰もあの小さな紙が村全体を覆うほどの爆音を出しているとは思うまい。事前に説明されたイザナでさえ、疑念が払拭できないのだ。
何も知らされていない村人達にとって、あの未知の能力は大きな混乱を容易に招く事が出来る。それこそがナチの目的。家屋の中から村人達を引き摺り出すことこそが彼の考えた一つ目の策。その目的は無事にクリアされた。
耳を押さえながら、イザナは口端を歪める。
爆音が鳴った少しした後に道場から一つの人影が飛び出した。勢いよく村へと飛び出し、村人達に混じって慌てふためいているように見える。
マルコだ。暗くてよく見えないがマルコだという事は何となくではあるが分かる。歩き方や挙動の癖は飽きるほどに見てきている。今更姿が完全に見えなくとも、夫の判別くらいは容易に付く。
マルコが道場から飛び出したすぐ後に甲高い音を響かせていた符は動きを止めた。鳴りを潜める爆音。静寂を取り戻していくトリアス。
イザナは耳を押さえていた手を下ろした。耳鳴りが酷い。頭も律動的な響きを持つ破砕音によって、揺れている。その影響か視線も少し揺らいでいる。
気を引き締める為に首を小刻みに降っていると、手に持っていた符が突然発光し始める。地下牢の暗く陰湿な闇を照らした美しい白光。イザナが普段使っている蝋燭や松明の灯りの数倍は眩い。それでいて、遥か遠方まで照らす事が可能だ。
イザナは今度こそ完全に林道へと体を向ける。
メリナに借りた白いワンピースが夜風ではためき、イサナに借りたブーツで地面を蹴る。それから普段は後頭部で縛っている髪は綺麗に下ろしてある。娘二人に櫛で梳いてもらったおかげか普段よりも滑らかな指通り。髪を梳く度に綺麗だと娘二人が褒めてくれたことが嬉しくて、思わず泣きそうになったのは記憶に新しい。
イザナは白い光を放つ符を強く握り締める。夫の言葉を待つ。ナチに指示された通りに。
「イサナだ!」
マルコが叫ぶ。イザナでも数回しか聞いたことが無いような大きな声を彼は張り上げる。
イザナは背後を少しだけ振り返る。丁度横顔が見える位置で顔を固定する。ハッキリと振り向いても問題は無いと全員に言われたが、そんな自信はイザナには無い。どれだけ若く見られようが年齢は誤魔化せない。
視線を動かし少しだけ視線をトリアスへと向ける。口を呆けた様に半開きにしている村人達。その群衆の中で一人だけ穏やかな笑みを浮かべている男性がいた。マルコがイザナを見て、笑顔を浮かべていた。その笑顔を見ただけでイザナの不安が、恐怖が打ち消されていく。
イザナは小さく頷くと顔を前方に向けて走り出した。
「逃げるぞ! 追え!」
マルコではない男性の声が背後から響いてくる。何とかトリアスの人々にイサナだと思わせる事が出来た様だ。
林道を進み、イザナは必死に手足を動かし、白光を前方に向け続けた。体力は問題ない。毎日の鍛錬は欠かさずに行っている。イサナもマルコも二人がかりで挑んでこようが、敵ではない。
問題があるとすればどこに向かうべきか、だ。このまま小屋に向かうべきか。街道まで突っ走るべきか。どこまで行くべきか。
ナチからは村人達が追い掛けてきたら、とにかくブラスブルック方面に逃げてくれとしか言われていない。決してレヴァル方面には来ないで欲しい、と。
トリアスに設置された林道はブラスブルック方面とレヴァル方面に分かれている。トリアスから見て、ブラスブルックが東、レヴァルが南に位置する街。
ナチはレヴァルに二人を逃がすと言っていた。レヴァルにはウォルフ・サリの仲間が在住し、ナチ達が次に向かう街もレヴァルだからすぐに追いつける、と。
彼は何だかんだで娘達を逃がした後の面倒も見ようというのだ。どこまでお人好しなのか。敵を迷いなく殺す非情さを見せたかと思えば、人情に溢れた優しい一面を見せたりもする。けれど、彼が冷徹で非情な面を見せる時はいつだって誰かを守ろうとした時だった。
フルムの部下がイザナに威圧的に絡んできたときも、イサナとメリナが強姦されそうになったときも、地下牢でウルサラを説き伏せた時も、彼は誰かを守ろうとしていた。今だって、知り合いでも何でもなかった村娘二人を守ろうとしている。
イザナは直角に曲がりながら、お人好しの符術使いに内心で感謝の言葉を連ねた。連ねるしか出来ない事が悔しい。
直角に曲がった瞬間に右側から大きな爆発音が聞こえた。
耳をつんざく破砕音が不意に鼓膜を刺激する。治りかけた耳鳴りが再発する。耳の痛みに顔を顰めていると直後に火柱が同じく右側で上がる。
これが、ナチが言っていたもう一つの準備。
イザナが呆然と立ち止まっていると背後から大きな声が聞こえてくる。
「イサナ! 止まれ!」
マルコの声。その声にイザナはハッとなり背後を振り返りながら、足を再び起動させる。全速力で背後から迫って来る村の人々は突発的に起きた爆発に関心を示しながらも、視線はイザナへと向け続ける。
林道をひた走る。連続して引き起こされる爆発と火柱によって生まれた衝撃が、雪崩のように林道へと押し寄せ、立ち並ぶ木々を大きくしならせる。手に持っている符は既に必要ないのではないかと思うくらいに森は上がり続ける火柱によって、煌々と照らされていた。
それから、爆発音に紛れて、イザナは村人達が放つ足音とは違う足音を聞いた。それは金属が擦れる音。カチャカチャと音を立てている。
イザナは走りながら、左右に視線を向ける。符の光を飛ばしても人影は無い。後方に居るのは村人達。イザナは符の光を前方へ、それも遠くを照らす様に腕を前に突き出した。
見えた。
銀色の鎧に身を包み、列を成して歩いて来る兵士達。兜を被り、顔が見えない兵士達の前に居るのは同じく銀色に身を包んだ一人の男性。その男性は今も断続的に引き起こされ続けている爆発と火柱を見て、苦々しい顔をしている。
その人物はイザナの知らない男性だ。後ろに居る兵士達が着用している鎧もフルムの部下が装着している鎧とはデザインが少し違う。彼等が着ている鎧は重厚な外見をしているフルムの部下が着ている鎧よりも、軽装に見える。
機能性を重視しているのだろうか。イザナはそんな事を思いつつ、視線を彷徨わせた。目の前から進んできている鎧に身を包んだ集団は、おそらくフルムが協力を要請した友好関係にある貴族だろう。このまま真っ直ぐに進めば、その貴族達と鉢合わせになる。それは危険だ。彼等がイサナの特徴をフルムから伝えられている可能性もある。
どうする……。
迷っている最中も足は動き続けている。前へ進み続けている。
距離が狭まる度にイザナの思考は酷く焦っていく。
「そこの女、止まれ!」
前方から聞こえてくるのは凛々しい男性の声。気付かれてしまった様だ。男達が身構えているのが分かる。左右の手が腰に携えた剣に移動していくのが見えた。イザナは気が付けば林道から、右側に展開する木々の隙間から暗い森の中へと足を踏み入れていた。ほとんど無意識の行動だった。
暗く、足場も悪い土壌と下草に溢れた地面を走っていく。足が取られる。何度も転びそうになる。
それでも止まる事は許されない。追って来ているのは村人達だけではなくなった。村人達の怒号に金属が擦れる音が追加される。背後も、周囲も、騒音が立ち込めている。森の中を進む度に方向感覚は消失していく。
ここはどこだ。どこに向かっている。どこにたどり着く。
そんな事は考えるな、今は足を動かし続けろと脳内に浮かび続ける自問自答を無視し続ける。
今は、ただ時間を稼げ。娘達を逃がす時間を。娘達に残された希望の種を摘み取らせるな。
イザナは符の光を背後へと一瞬だけ向ける。白い光に照らされて浮かび上がる大量の人影。それが引く事の無い波の様に迫ってくる。あの波に飲まれたら終わりだ、と本能がイザナに訴えかける。イザナは呼吸を激しく乱しながら、恐怖で震える足を何とか動かした。
枝が折れる音がする。草を踏み潰した音が聞こえてくる。爆発の衝撃で大きな葉擦れが鳴っている。こんなにも逼迫した状況だというのに何故か耳は鮮明にそれらの音を拾う。極限に追い込まれつつある精神が、イザナに何とか冷静を生み出そうと聴覚を鋭敏化させているのか。
「捜索に向かわせている兵達をさっさと呼び戻せ! 敵襲だ!」
だからか、イザナはそんな声を確かに拾った。男性の声。その後にも複数の男性の声が断続的に聞こえてくる。
その後にまた爆発音が鳴り響く。イザナは耳を手で覆った。耳を覆わなければ、耳鳴りに悩まされる事になったかもしれない。
イザナは瞬時に気付く。
先程までは耳を塞ぐ必要が無かった爆発音を、なぜ今回は耳を塞がなければならなかったのか。爆心地に近付いているのだ。近付いてしまったというべきか。イザナが走っている斜め右。そこに赤い炎が立ち込めている。
焦げた臭い。爆発で揺れる地面。それを明確に感じられるくらいにはイザナはフルムの屋敷に近付いていた。竜が天を昇る様に空に向かって伸びる火柱がフルムの屋敷を朧気に照らしているのが見える。
それから、横目に見ていたフルムの屋敷から目を逸らした時だ。またも前方から人影が無数に出現した。しかも、それは走っている。何かを追っている様にも見えた。
イザナも走りながら前方に光を向けた。白い光が前方の光景を詳らかに調べる。走っているのは一人の女性と銀装の兵士達。後ろの兵士達にはすぐに見当が付いた。
フルムの部下だ。見慣れた鎧のデザイン。色。腰に携えた武器にはウィルディスティン家の紋章が刻まれている。トリアスに住む人物ならば一目で彼等がフルムの部下だと分かる。
そして、その前を走っている人物もイザナは知っていた。会ったのは一度だけ。会話はほとんどしていない。それでも出会った時の印象が強すぎたせいか、容姿や声、特に服装に関しては脳裏に深く刻まれている。
前方から裸で逃げ惑っている女性。ウルサラの事をイザナはまだ鮮明に記憶している。
イザナが持っている光の存在に気付いたウルサラは一瞬だけ眩しそうに目を細めた後、真っ直ぐにイザナに突っ込んでくる。
「逃げるよ! ここで捕まる訳には行かないんだろ?」
大声で叫ぶウルサラはイザナから見て左側を指差した。イザナは頷き、左側へと方向転換。走りながら、ウルサラと並走する。彼女と合流した事で追っ手も倍増したが構わない。時間さえ稼げれば問題ない。
おそらく母として二人にしてやれる事はこれが最後。次に会う時までにこの地が変わっている保証もない。変えられる保証もない。
「どうして、あなたが?」
ウルサラが後方を振り返った。二種類の兵士達、トリアスの人々が雪崩の様に押し寄せて来る光景にウルサラは苦笑。すぐに視線を前方に戻していた。
「ナチに頼まれたのさ。爆発が起きたら牢が壊れるようになっているから、その隙に逃げろって。それから、捕まらない程度にフルムの捜索を攪乱させてくれってね」
ウルサラは「後であの地下牢に行ってみるといい。眩しいくらいに白く光ってるからさ」と呆れた様な笑い声を出しながら言った。
「そんなことを……。ですが、ただ逃げ回っているだけで攪乱できるものなのですか?」
「出来るさ。部下全員に地下牢の真実を言っているとは思わないが、取り込めそうな奴は取り込んでいるはずさ」
裸のウルサラが手足を動かす度に大きな乳房が盛大に揺れ、目のやり場に困りながらイザナはウルサラの言葉を待った。
「あんな地下牢は隠し通せる物じゃないからね。必ず協力者が必要になる。そこで用意するのが、肩書がある奴。過去に罪を犯した奴。子供や恋人が、家族が居る奴。ここら辺は簡単に取り込める。つまり、取り込もうと思えば誰だって取り込めるって訳さ」
「はい」
「だから、後ろから追って来ている奴等の何人が私の事を知っているのかは分からないが、知っている奴等からすれば私が地上に出ていることは緊急事態。主人の信用が失われようとしている大ピンチって訳さ。それに」
ウルサラが口角を不敵に歪めイザナを見る。上から下までじっくりと見る。
「あんたも見た所、娘の変装してんだろ? なら、私達が逃げ続けるだけであいつらは追ってくる」
今更ながら娘の変装をしている事に、羞恥心が込み上げてくる。全身を娘の衣服や靴で身に包む三十代後半の女性というのは客観的に見て大丈夫だろうか、と不安になると同時に顔が羞恥で熱くなり始める。
「大丈夫、似合ってるよ」
「嬉しくないです」
「せっかく褒めてやったっていうのに。強情だねえ」
「ウルサラさんは馬鹿な事言っていないで、早く足を動かしてください」
イタズラ小僧の様な笑みを浮かべていたウルサラの表情は何かが乗り移ったのかと思う程に引き締まる。
「前を見ろ」
「え?」
前で蠢く黒い影。白光が反射して浮かび上がるのは銀色の鎧。手には剣。頭には兜。
「私達を殺すつもりなのかねえ?」
「戦えますか?」
「お? あんた意外と好戦的だねえ。愚問だ。これでも私は貴族。剣術は昔から学んでいる」
「え?」
イザナは目を丸くしながら隣で好戦的な笑みを浮かべている女性を見た。確かに美しい造形をした容姿。引き締まった体をしているが、まさか貴族とは思っていなかった。ナチ達もこの事実を知っていたのだろうか。知っていて利用したのだろうか。
「まずは武器を奪う事だな」
「殺しては駄目ですよ。突破口を開くだけです」
「分かってるよ!」
ウルサラは接近してきた男の剣を体を右に回転させながら避け、左手で男の右手を強打。剣の柄から離れていく男の右手。ウルサラは右手で男の左手を掴むと、左手で男の胸に鎧越しに掌底を打つ。男の手から剣が離れ、男は音を立てながら尻餅を着く。ウルサラはすぐに剣を拾うとイザナへと投げ飛ばし、次の兵へと向かう。
「ありがとうございます!」
イザナは前方から飛来してくる剣の柄を流れる様に掴む。イザナには少しばかり太く長い刃渡り。その分、重量もある。だが、今は緊急事態。それは振るいながら修正していくしかない。イザナは剣を器用に回転させると逆手に持ち替えた。
息を吐く。全身の神経を研ぎ澄ます。この一刀に集中を重ねる。娘達に迫る不穏な闇は私が斬り捨てる。私が活路を開いてみせる。
そして、自身に向かって振り落とされた剣の腹を逆手で持ち替えた剣で弾き飛ばす。振るった瞬間に剣が風を切る音が森を駆け、剣と剣が衝突した甲高い音が追加される。巻き起こった刃風は突風を巻き起こし、枝葉を盛大に揺らす。
これがイザナの能力。剣に空気の層を纏わせる事で切れ味を上昇させ、剣速を跳ね上げ、敵に突風を浴びせる事で天災に見舞われた弱者の様に頭を垂らす能力。《暗雲祓う風刃》効果範囲は剣限定。けれど、何も問題はない。その限定的な効果範囲がイザナの足枷になることは無い。
イザナは剣士。剣を操り、剣に命を捧げた者の名称。暗雲断ち切る、終焉の風刃を操る者。それがイザナだ。
イザナは振り抜いた剣を素早く戻す。目の前には半ばから折れた男の長剣が見えた。兜の向こうで何かを叫んでいる声を聞いた。だが、それらには耳を傾けない。
イザナはもう一度、剣を横に振った。狙うは男の指。符光に照らされて白く光る柄頭で男の指を折る。どの指が折れたのかは分からない。だが、鈍い音が鳴った。骨が折れる音が鳴った。それだけで事態を知るには十分だ。
相対していた男は折れた剣を手から零し、その場でうずくまった。激しい息遣いが聞こえてくる。
その音を聞きながら、イザナは男の脇ををすり抜ける。目の前には大量の銀色の兵士。それでもイザナは前に進み続ける。後方にも人は大勢いる。退路は既に閉ざされた。後は悪足掻きをするだけだ。少しでも娘達が逃げる時間を稼ぐために。
イザナは剣に風を纏わせる。空気を掻き集め、景観が滲むほどに膨大な空気を纏わせる。眼前の敵が急激な空気量低下により、息苦しそうに悶えている。それでいい。殺す必要はない。夜明けまで眠っていてもらうだけなのだから。
「行きますよ、ウルサラさん」
剣を順手に掴み、イザナは目に覇気を灯す。イザナの背にぴったりと合わせる様にして、自分達を囲む群衆を見たウルサラも同様だ。瞳には貴族とは思えない程の妖艶な光を纏わせている。
「派手にやってやろうじゃないか! 行くよ!」
戦意を漲らせる二人の女剣士。それは剣を構え、狂気に近い熱量を瞳に宿し、剣鬼の様に屠るべき敵をその瞳に捉える。
助けてみせる。娘を、命を助けてくれた恩人を。例え。この場で命を散らす事になっても。
「お嬢様! おやめください!」




