二十五 始まる逃走劇
「お兄さん、起きて」
マオの声がすると共に体を揺すられる。ナチはすぐに目を覚ました。瞼が上がっていく。視界が徐々に開かれていく。どれだけの時間を眠っていたのだろうかと寝惚けた頭に問いかけながら、ナチは瞼を完全に上げた。
視界に映る、無数の足。左に顔を向ければ、息が当たる距離にマオの横顔が見えた。少し赤くなっている様に見えるのは気のせいだろうか。それからナチは視線を前方に移した。目の前には部屋に居たはずのイサナ達が四人とも揃っており、全員が笑顔を浮かべながらナチを見ている。
「眠れた?」
「……うん」
ぼんやりとマオに返すと、前方からくすくすと笑い声が聞こえてくる。
「早く目を覚ませ、時間だ」
床に座りながら、ナチを見上げているイズが厳しい声音で言った。その声でナチの意識は急速に覚醒していく。目を瞬かせながら、状況を再確認。これから実行する事を再認識。準備は万端。睡眠を取った事で頭も体も問題はない。
マオの肩から頭を離し、ナチは膝に手を着くと息を吐きながら、立ち上がった。
それから、床に腰を下ろしているマオへと手を伸ばす。笑顔でその手を掴んだマオに礼を言いながら、彼女を立ち上がらせると体をイサナ達へと向ける。
四人一人一人と視線を合わせていく。
ナチは落ちている符をイザナに渡す。そして、ポケットに入っている符を一枚取り出しすぐに属性を込める。「音」と「破裂」。属性を込めたそれもイザナに渡す。
「前にも説明した通り、村のどこでもいいので地面に放り投げてください」
符を受け取りながら、イザナは頷く。やや表情に力が入った彼女は二枚の符を手に持つと、一度深呼吸。そして、イサナとメリナへと体を向ける。
「頑張るのよ」
イサナ、メリナの順番に抱擁を交わすとイザナは扉へと近付いてく。そして、静かに扉を開けると彼女は外へと足を踏み出した。後ろ手に扉を閉め、すぐにイサナが家から遠退いていく足音が聞こえてくる。すぐにナチ達も扉へと近付いていく。
壁に張り付きながら、ナチはイズへと視線を向ける。彼女の言葉が発せられるのを待つ。イズの長い耳がアンテナの様に立ち、ピクンと小刻みに動いた。それから、イズがナチを鋭く射抜く。
「問題ない。やれ」
ナチは霊力を流し、村のどこかに落ちているはずの符に込めた属性を具象化。近い場所でパンッと破裂音が鳴った後に防犯ブザーの様な甲高い音が鳴り響き、あまりの音量の大きさにナチ達は耳を塞いだ。
ナチは霊力を放出し更に音量を上げる。音量を上げながら、ナチは扉を僅かに開き村の状況を確認。すぐさま音に反応し、家から跳び出てくるトリアスの人々。皆一様に視線を彷徨わせ、耳を塞いでいる。あっという間に薄暗い夜のトリアスに人が溢れ出す。
家を飛び出した村人達は爆音の原因を突き止めようと、村中を屍人の様に歩いていた。声を上げて何かを言おうとしているが意思の疎通は全くできていない様だ。謎の爆音に村人達の表情が歪んでいく。元々、余裕が無かった表情に焦りが生まれていく。眼球の動きが顕著になっていく。
ナチはマルコを見て、首を縦に振った。扉を離れながら、ナチは音量を僅かに下げると共に扉を開ける。
扉が開いた瞬間にマルコが外へと飛び出した。マルコが彷徨う人達に紛れ、パニックになったフリをしているのを見て、ナチは「音」を込めた符を停止させた。
耳を塞ぎたくなるほどの大音量が鳴り止んでいき、村人達は耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろした。首を忙しなく動かし周囲を警戒している。
「何だったんだ、一体……?」
「誰かが攻めて来たんじゃないのか……?」
得体の知れない音が突発的に流れたことで、村人達は周囲に対しての警戒が過剰になった。それこそ、夜風が吹いた音にさえ反応してしまう程に。
その光景を見聞きしながら、ナチは霊力を放出。イザナに手渡していたもう一枚の符を起動させる。
起動させた瞬間に天に向かって伸びる白光。その光はトリアスに降り注ぎ、まるで夜の終わりを告げているかのように、村を白く染め上げる。
蝋燭や松明よりも眩い白光に村人達の視線は釘付けになる。上空を見上げていた村人達は徐々に視線を下げ、やがて光を放っている一人の少女に視線を固定する。
白いワンピースに茶色いベストを羽織り、細く長い脚にはブーツを履いている。普段は首の後ろで縛っている長く綺麗な青髪は解かれ、夜風に揺れて翻っている。はずだ。
それを見た村人達は呆然と口を半開きにした。目を見開き、静止している。声を発する者はおらず、地面に立ち尽くす彫像の様な村人達が増殖していく。
「イサナだ!」
マルコが怒号の様に大きな声を上げる。温厚なマルコからは想像もできない様な大声。その声を聞いた村人達は電気が走ったかの様に体をビクンと震わせた。
「逃げるぞ! 追え!」
マルコではない男性が叫ぶ。その声が起爆剤となり、村の男達は村の外へと駆け出していく。だが、村を出て行ったのは男達だけ。女衆は依然として村に残っている。
それは想定済みだ。
捜索に向かうのは男達だけだろうな、という事は。
だから、動かざるを得ないもう一つの準備をナチ達は朝から準備していた。
ナチは霊力を放出し、フルムの屋敷周辺に設置した全ての符を具象化。爆発。空気を轟かす爆音が村にまで届く。残っていた女衆が金切り音の様な悲鳴を漏らすと同時に次の属性が姿を現す。
その後に巻き上がるは紅蓮の火柱。赤く燃ゆる焔は陽光の様に橙色の光を村に注ぎ始める。鮮明に映し出される女衆の表情に浮かんだのは驚愕。
絶句している様子の女衆はすぐに鼻を押さえた。
ナチはすぐに三つ目の属性を操作し、焦げた臭いをトリアスに急速に運搬。その臭いに敏感に反応した女衆はすぐにその火柱がどこで上がっているのか気付き始める。
「あそこって、フルムさんの屋敷の近くじゃないの?」
動揺しているのか酷く震えた声が聞こえてくる。
「え、ええ。でも、男達は全員イサナを追って」
「何言ってんのよ! フルムさんにはお世話になってんだから、こういう時に助けに行かなくてどうすんの」
「そ、そうね。行きましょう」
「皆、行くわよ!」
肉付きの良い中年の女性を先頭に村に残っていた女達は次々に村を離れて行く。そして、すぐに声は聞こえなくなり、耳に届くのは繰り返される爆発音のみになった。
ナチが今朝からフルムの屋敷周辺に散りばめた符は「音」と「火」。そして「大気」の属性が付加された符。「火」と「大気」によって大爆発を起こし、「音」によって轟音を周囲に拡散すると共に増大。そして、「大気」によって焦げた臭いを周囲へ撒き散らす。
この三つの属性によって、村人達だけでなく森に展開されたフルムの部下達も異常を察知するはず。
通常よりも警備が手薄になっているはずの屋敷に、部下達は戻って行く可能性が高い。また、もし捜索に参加するはずの貴族が既に来ていたとすれば、森に展開している部下達は屋敷に帰還せざるを得なくなる。
どちらにしてもフルムが展開していた包囲は崩れるはずだ。
そして、村人達がイサナに扮したイザナを追い掛け回せば回すほど、フルムの部下達もそれに気付きやすくなる。気付いてしまえば彼等は選択を迫られる。
イサナを追うのか。屋敷に戻るのか。その二択を。
そして、その二択はどちらもフェイク。偽物を掴ませている間に本物を逃がす。
ナチはイサナとメリナを見る。真っ直ぐに見返してくる瞳には確固たる決意が灯されている様にも見えた。
「行こう」
全員が頷き、四人と一匹は外へと勢いよく飛び出した。




