二十四 最後の夜
細かい指示をし終えたナチは娘達の部屋に入っていくイザナとマルコを見送った後、道場へと移動した。扉を開くと、月明かりだけが照らす薄暗い道場が視界に飛び込んでくる。そして、壁伝いに中央へと進むと壁にもたれ掛かりながら座り込んだ。
もたれ掛かりながら、上を見上げると窓から空模様が鮮明に見える。丸い月を常世の闇に隠そうとする雲がゆったりと風に乗って運ばれていく。
それをぼんやりと眺めながら、ナチは息を吐いた。それはこの世の不条理を嘆く嘆息にも、これから行う大仕事に対して息詰まっている様でもあった。
ナチは手に持った先程のフルムが書いたと思われる文書を握り潰しながら、それを符に変換した。薄黄色だった紙は白く変色し、水分を急激に失ったかの様に皺くちゃになっていく。何故だか普段は心地よいと思われる感触も今回ばかりは何も思う事は無い。緊張しているのか、恐怖しているのか。
それとも、ただ疲れているだけなのか。その判断を付ける事すらも面倒くさい。
変換した符に属性を付加すると、ナチは月光に照らされて白く煌めく白雲を見ながら、目を閉じた。意識が遠のいていく。ナチ達が行動を開始するのは約二時間後。深夜帯。子供はおろか大人ですら就寝する時間帯。
少しだけ眠ろう……。
全身の力を脱力していく。張り詰めていた緊張の糸を解いていく。色々な物を詰め込み過ぎて重くなりすぎている思考から重りを外していく。
睡眠の悪魔が体を、意識を支配していく。ナチから全てを奪って行こうとする。
薄れていく意識の中でナチは扉が閉まる音を聞いた。感じていた光は完全に閉ざされ、瞼の奥を完全に闇が支配する。静かな足音。それが徐々に自身へと近付いて来る。ナチは目を開ける事も警戒する事も無かった。その必要は無い。
その足音はこの世界に渡ってから、最も聞き慣れた音。最も警戒する必要が無い音。
だから、その足音を鳴らす正体がナチの隣に腰を下ろしても、ナチは特に目を見開いて驚く事も素っ頓狂な声を上げる事は無かった。ナチの左側に腰を下ろしたそれはナチの左肩にぴったり体を寄せて来る。近付けば近づくほどに嗅ぎ慣れた匂いが鼻を通る。甘い香り。心地よい香り。
符を触っているよりも、心はさざ波のように穏やかになっていく。先が見えない未来への展望。その不安が和らいでいくのを感じる。
ああ、とナチは体を左側へと傾けた。左側に居る存在にナチは体を預ける。ナチを支える様にして返ってくる力に安堵しながらナチは口角を上げた。
ああ、僕は不安だったのか……。
いつもなら落ち着くはずの符の感触に何も感じなかったのも、心に溜まっていた朧な感情も、全て不安から生み出されていたのだ。
けれど、イサナとメリナの前はおろか、イザナとマルコの前でもそんな不安を口に出す事も表情に出す事も許されない。ナチが不安を表に出せば、それは周囲に伝播していき、やがて全員が不安の洪水に飲まれてしまう。
だから、知らず知らずのうちにナチに溜まった不安がナチ自身を飲み込もうとしていたという事か。
けれども、ナチを飲み込もうとしていた不安は自分でも驚くほどにもう感じない。どうしてか。それは自分でも分かっている。隣に居る存在。それがナチに平穏をもたらしてくれている。どうしてそう思うのかは自分でも分からない。
それでも心はこんなにも落ち着いている。重かった頭も軽い。ナチは目を閉じたまま口を開いた。
「少し寝るよ。時間になったら起こしてもらっていい?」
「うん。分かった。ゆっくり寝とけ」
「少しでも体を休めておけ」
優しく響いた声に安心感を覚えると共にナチは静かな寝息を立て始めた。
部屋の扉が開くと同時にイサナとメリナは目尻に溜まった涙を拭った。息も整える。それから二人は扉へと顔を向けた。そこには穏やかな笑みを浮かべる両親の姿があった。二人は扉を閉めるとベッドに座っている自分達の下へと歩き始める。
イザナがイサナの左側に。マルコがメリナの右側に腰を下ろし、肩を寄せた。母の体温が肩越しに伝わってくる。彼女の震えも伝わってくる。
それからマルコの口からついさっきまでナチ達と話していた内容をイサナとメリナに伝えた。
トリアスの人々が寝静まった後に行動を開始する事。作戦の都合上、二人には同行できない事。これが長い別れになる事をマルコは伝えた。
イサナとメリナは黙ってマルコが話し終わるのを聞いていた。彼の声が震えている事には触れずに彼が何度も手を握り直しているのを見つめながら、聞いた。
そして、全てを言い終わると時が止まったと思う程の静寂が部屋に下りた。物音すらしない。風が窓を揺らす事も無い。誰かの呼吸音すら耳には届いてこなかった。
目の前に置かれた蝋燭の火だけが静かに動きを見せ、時折左右に揺れている。蝋が垂れ、燭台に落ちていく。ゆっくりと蝋燭の火に照らされながら。
「……何だか不思議な感じだよ」
蝋が燭台に落ちて少ししてからマルコが口を開いた。
「これからもずっと、お前達とイザナと、四人で暮らしていくものだとばかり思っていたのにそれももうすぐ終わってしまうんだと思うと、何だか悪い夢を見ている気分だ」
マルコの瞳に映った蝋燭の火は、酷く揺れていた。
「……ええ」
メリナが俯き、白いワンピースの袖を握り締める。
「もう、こうして肩を並べる事も、一緒に食事をする事も無くなってしまうんだな、と思うと何だか不思議な感じがするんだ」
また蝋が垂れ始める。橙色に煌めいて、また悠然と垂れる。
「これは夢であってくれないかって何度も思うんだ。明日の朝になれば誰も二人を探している人は居なくて、朝からまた四人で畑仕事をして、仕事が終わったらイサナに剣を教えて、夜には四人でイザナが作ったご飯を食べて、また朝を待つ。そんな日常が朝になれば帰って来るんじゃないかって何度も思うんだ」
マルコが組んでいる両手が小さく震えているのに気付いた時には彼の瞳に映る蝋燭の火は、滲んでいた。そして、瞳に映る蝋燭は次々に蝋を垂らしていく。
垂れた蝋は頬を伝い、組んでいる両手に落下していく。
「けれど、朝になれば皆がお前達を探し出す。一つの悪意によって、大勢の善意がお前達を捕まえようとする。そうなったら、お前達は捕まってしまう。あの黒い牢獄に閉じ込められてしまう」
マルコは指で手の甲を強く擦る。爪が食い込み、皮膚を切り裂かんばかりに力を込めている。
二人も見たのだ。あの牢獄に入れられた者の凄惨な末路を。逃れられない死の運命を。
「私達は、それを許す事は出来ない。たとえ離れ離れになっとしても私達はお前達に生きていてほしいと思う」
「生きてさえいれば、また再会できる。私もお父さんも、ここで二人を待つわ。ここでもう一度四人で暮らせるように、お母さん達がこの村を変えてみせるわ」
「……出来ないよ、そんなこと」
「イザナとマルコも一緒に逃げましょう? この村に居たら二人にも危険が」
イザナとマルコは穏やかな笑みを浮かべながら、首を横に振った。
「二人がこの村から離れる事を選んだように、私とイザナはこの村に残る事を選ぶ。私達はこの思い出が詰まったトリアスで、生を全うしたいんだ」
イサナには二人がその決断をする事は分かっていた。二人の思い出話は何度も聞いてきたから。両親の両親の話も、恋をした時の気恥ずかしさも、子供を授かった時の喜びも、子育ての大変さも、何度も聞いてきた。
イサナ達以上に二人は、この村に思い出と愛着を持っているのだ。
イサナだってトリアスで過ごした記憶はすぐに思い出せる。歩けるようになったばかりの頃にメリナと両親と四人で手を繋いで歩いたことも、怖い夢を見てメリナと二人で両親のベッドに潜り込んだことも。
その時に優しく抱きしめてくれた温かさも、二人の匂いを嗅いで安心した事も全て、色褪せていない記憶として今も残っている。
それでもイサナは生きたいと思った。思い出を手放してでも、イサナは生きたいと願った。メリナの手を取って、彼女を守る剣として、彼女の側に居続ける事をイサナは選んだのだ。
七日前に逃げたあの日から。いや、剣を取ったあの日からずっと。イサナはメリナの側に居続ける事を望んでいる。
「お父さん、お母さん」
二人がイサナを見る。真剣な眼差しでイサナの言葉を待っていた。
告げよう。これが最後になるかもしれないというのならイサナの想いを。決意を。この二人には告げよう。
「私はメリナと一緒に生を全うしたい。これからもずっと。メリナと共に在り続けたい。私はメリナを愛しているから。だから、私はメリナを守る為に村を出るよ」
イサナは両親に負けないくらいの真剣な眼差しを三人に向けた。メリナは顔を真っ赤に紅潮させ、俯き、両親は驚く事も無く、笑った。穏やかに目尻を下げ、口角を上げた。
「驚かない、の?」
「イザナがね。相談してきた事があったんだ。女性が女性に恋をする物語についてどう思うか、と。だから、何となく分かっていたんだよ。ああ、イザナはイサナとメリナの事を言っているんだな、と」
イサナは瞬きながらイザナを見た。目が合うと、イザナは苦笑しながら右耳に髪を乗せ、視線を蝋燭の火に向ける。
「……我が娘ながら分かりやすかったわよ。二人ともね」
「……え?」
イザナからメリナへと視線を移す。すると、メリナは耳まで真っ赤にさせながら視線を彷徨わせ、イサナと目が合うと真っ赤な顔のままイザナを睨んだ。
「イザナあ……」
「私のせいなの?」
「自分の口で、想いを伝えたかったの!」
メリナが少し声を荒げるとマルコが声を上げて笑った。メリナの肩に優しく手を乗せると、彼はイザナを目尻を緩ませながら見た。
「それはイザナが悪いな」
笑うマルコにイザナが鋭い視線を送ると、彼は黙った。黙って蝋燭の火へと視線を移した。彼の瞳に映る蝋燭の火は酷く揺れている様にも見える。
「メリナ……」
メリナはイサナから目を逸らすと膝に置いた自身の手に逃げる様に視線を向けた。唇を引き絞り、視線が揺れている。そして、僅かな沈黙の後にメリナは顔を勢いよく上げた。その後にイサナの瞳に吸い込まれるように視線を合わせる。
引き絞られていた唇が動きだす。薄い桜色の唇が可愛らしく開いていく。
「…………やっぱり後で言う」
「「「え?」」」
メリナを除く全員がメリナへと驚愕の視線を向けた。そして、マルコがイザナと何やら視線を合わせながら扉を指差している。
「ごめんなさい、メリナ。私達がお邪魔よね」
そう言って立ち上がろうとするイザナとマルコをメリナが必死に呼び止める。「今は一緒に居て、お願い」と甘えられた声で出されては二人も抵抗は出来はしない。
二人は大人しくベッドに戻っていく。
「これが最後だから。今は四人一緒に」
三人が同時にハッと目を見開く。幸せな日常がこれから起こる一大事を忘却の彼方へと追いやろうとしてしまう。甘い幻想へと吸い寄せられるように現実から目を逸らそうとしてしまう。
イサナは左手でメリナの手を掴み、右手でイザナの手を掴んだ。メリナも左手でマルコの手を掴む。
そして、手を強く握り締め合いながら全員で笑顔を浮かべた。
ずっと、こんな風に居続けられたらいいのに。
優しい両親が居て、愛しい人が居て。
笑顔が溢れたこの世界にずっと居られたらいいのに。




